04
ガタンという音に我に返る。
俺が座っていた椅子が後ろに倒れた音だ。
無意識に立ち上がっていた事に、遅れて気づく。
汗は今や全身を冷たくぬらしていた。
俺は信じられない言葉を口にした女を呆然と見つめた。
「……どうしてその名を知っている」
「もちろん調べたからですよ。失礼ですが座った方がよろしいのでは? 顔が真っ白ですよ」
そのいけしゃあしゃあとした物言いに、咄嗟に怒鳴り散らしたい気分に駆られたが、全精神力を持って自制し、近寄ってきたボーイを追い払うと、自分で椅子を起こして腰を下ろした。
その動作でだいぶ落ち着いた。
俺は呼吸法を用いて冷静さを取り戻しながら、頭を働かせた。
――何を焦っている。
この女が相当な情報力を持っているという事は既に理解していたはずだ。
国家的な情報操作がされ、社会的になかった事にされたあの事も、把握されていても不思議はない。
こいつは俺が俺の事を知っている以上に、俺の事を知っている。
それはきっと間違ってない。
その前提で行動すべきだ。
俺はビールをあおった。
チリソース混じりの唾の臭いがした。
女を見つめ、口を開く。
「あんたと俺の力関係は理解した。本題に移ろう。が、その前に自己紹介をしてもらえないか? あんたは俺の事を俺以上に知ってるらしいが、俺に解るのはあんたが美人だって事と、イイ身体してるって事と、そしてヴァージンじゃないって事だけだからな」
「ふふふ。最初の二つはともかく、最後の推測は正解です。夫は亡くなりましたが、子どもは三人います。どうして解りました? 見た目で解る事ではないと思いますが。またカンですか?」
「身体の動かし方で何となくさ。それで、あんたは何者なんだ?」
女は納得いかない顔をしながらも、こくりと頷いた。
「それでは遅ればせながら、自己紹介をさせていただきます。私は九霄学園の学園長をしています、神志女羅沙です。どうぞよろしくお願いします、灰尾さん」
「かみしめ……まさかとは思うが、あの神志女か?」
「はい。ご想像の神志女でございます。何しろ一つしかない名ですので」
俺は顔を強ばらせ、にこやかに微笑む女を凝視した。
――神志女。
女のいうとおり、その名の心当たりは一つしかない。
だが詳しくは知らない。
まともな資料など存在しないし、一般人はまず耳にした事がない名前だ。
だが、それは現存するどの貴族よりも古い家柄だと言われている。
一説では日本人が稲作を始めた頃には既に祭司として力を振るっていたという。
表舞台に立つ事はなく、しかしどの為政者の背後にも必ず存在していた、謎の多い名前。
歴史に造詣の深い者、あるいは俺のように職業柄無数の情報に触れる者だけがその名をどこかで目にする。
だが、実態と呼べるものは見当たらず、ほとんど神話のたぐいとして認識されてきた。
だからにわかに信じられる話ではなかった。
しかし、目の前の女が嘘をつかないだろう事はこれまでの対話で理解していたから、俺は驚愕を飲み込み、再び頭を切り換える事にした。
……もう何でも来やがれってんだ。
「それで、その神志女さんが俺に何のご用だって?」
「ですから、私の経営する学園の先生になっていただきたいのです。魔法専門の、詳しく言えば魔法戦闘の教師に」
「聞き間違いじゃなかったか……」
俺は自慢じゃないが耳もいいし記憶力もそこそこだ。
だからもちろん、公園でこの女――神志女羅沙が先ほどそのような事を口にしていた事は把握していた。
だが、自分の経歴を考えた時、学校の教師という存在はあまりにもかけ離れていたから、いまいち理解できなかったのだ。
俺は頭をがしがしとかきながら、神志女に尋ねた。
「あんたの事だから知ってるとは思うが、俺は教員免許なんて持ってないぞ?」
「存じております。しかし、当学園では資格というものはあまり重要視していません。免許がなくともその道の師となる方は重用いたしますし、逆にどれほど立派な資格をお持ちでも足りぬと判じれば採用いたしません。ですのでお気になさらず」
「いや、気にするとかそういう事じゃなくてだな……俺は教師とかそういうのには向いていないと思うわけで」
「失礼ですが、それを判断するのはあなたではなく、世間でもなく、この私です。私があなたを子ども達の師に招きたいと思った。それで十分です。問題は、あなたのお気持ちです。ですが、それを聞く前に待遇についてお話しいたしましょう」
神志女はワインで喉を潤すと、その赤みの増した唇を開いた。
「まずは給与ですが、あなたがこれまで働いておられた職場の三倍出します。教師になれば、学園の近くの教員寮に入っていただく事になります。といっても4LDKですので、あなたが住んでいたマンションよりも広いですし清潔です。家具家電も一通り揃っていますので、新たに購入する必要もありません。ネットワークも完備しています。教員領内にも食堂はありますが、学園敷地内には多くの飲食店、娯楽施設等があり、全て利用は無料です。早い話、日常生活にかかる費用はゼロという事です。ですので収入で言えば三倍ではなく十倍近くなるでしょう。これがまあ、一般的な利点です」
俺は無意識に喉を鳴らした。
待遇が良すぎる。
なんだその楽園は。
もしかしてアフリカの貧困地区か何かか?
工作員にあるまじき失態、顔に疑念がありありと出ていたらしく、神志女は解っているという風に頷いた。
「もちろん、学園における生活水準は極めて高いと自負しております。これは私を初めとする神志女一族が学園経営に全力を傾けているからであり、と同時に、学園の入学者の大多数は有力貴族の者だったり一流企業経営者の子どもだったりするためです。学園の予算は大きな都市のそれに匹敵します。ですのでご心配はいりません」
なるほど。
聞いた事がない校名だと思ったら、そういう事か。
つまり、それは学校というよりは、様々な人間に身を狙われる重要人物達を一定期間保護するシェルターであり、生徒やその親の人脈作りの場なのだ。
普通なら気後れするだろうが、経営者はあの神志女。
歴史の裏側を知る貴族達はその名に惹かれて子どもを入学させるし、その名を知らぬ者達は貴族達に惹かれて入学させる。
おそらく、いや間違いなく、この学校の存在はかなりのレベルで隠されている。
俺が知らないのがその証拠だ。
関係者しか知らない秘密の園、そこの主が現れたわけだ。
さて、するとどうなる?
秘密を知ってしまった俺は、仮にこの申し出を断ったとして、無事に帰る事が果たして出来るのか――?
憂鬱になる俺をよそに、神志女はすっと右の人差し指を立てた。
「そしてもう一つの利点。これがおそらくあなたにとって一番大きな〝良い話〟になると思います」
「へえ、何だ? さっきの俺の過去がどうこうとかいう話だったら的外れだぞ? 昔の事はもうどうでもいいんだからな」
「ご安心ください。過去の話ではありません。むしろ現在、未来の話です」
「と言うと?」
「私がそれなりの情報収集能力を持っているという事はご理解いただけたかと思います。私はそう、もしあなたが望むのならば、この情報力をあなたにお貸しする用意があります」
「おいおい。確かにあんたのそれは凄いが、俺は別に今更知りたい事なんて――」
「あの精神魔導師の情報。欲しくありませんか?」
表情が消える。
無意識に止まった呼吸を無理矢理こじ開け、声を発した。
「し――知ってるのか。あの女の事を」
俺の抉るような視線を、神志女は微笑んで軽くいなすと、気取った仕草で肩をすくめた。
「さて、どうでしょう?」
ぎりっと歯を食いしばる。
この女、心得てやがる。
「……知らないんだな、何も」
俺の軽い揺さぶりに、神志女はくすりと笑う。
「判断はご自由に。しかし一言言っておきますと、あなたが望むのであれば、あなたは私の持つ情報力を駆使してあの魔導師について調べる事が出来る。調査室よりも、国のどの機関よりも早く詳しく――さあ、ちょうど料理も来た事ですし、私の申し出を食材と一緒に咀嚼なさってください」
神志女はナイフとフォークを手に取り、罪人を慈しむ聖母のように俺に笑いかけた。




