08
学園が存在する九霄島は、大雑把に言えば角の取れた菱形をしている。
中央付近を流れる川は島を南北に分断しており、生活圏を分ける目安にもなっている。
簡単に言うと川から上半分が学園関係の領域で、下半分が島民の領域だ。
学園は北部の中央に位置している。
学園から見て北東には学生寮、北西には教員寮がある。
校舎の正門から北へ真っ直ぐに続く道がちょっとした通学路であり、生徒も教員も朝夕はこの道を通るわけだ。
通学路を進み続ければ学園長邸があるため、神志女羅沙も歩くのかもしれない。
まあ俺は一度も見たことがないのだが。
「灰尾先生ごきげんよう」
「ごきげんよう、灰尾先生」
礼儀正しい生徒達に挨拶をされながら、俺は夕焼けに染まる通学路をゆっくりと歩いて行く。
いつもは早朝出勤の夜間帰宅な身であるため、ちょっと新鮮。
しかしごきげんようか。
今まで俺にかけられたことが無い上品な言葉である。
ゴキブリ野郎とは良く言われたもんだから、ちょっと脳ミソが混乱してしまう。
「灰尾先生、ゴッキー!」
「はい、ごきげんよう……いや、ゴッキーはさすがにねーだろ。訓練校時代の俺のあだ名と同じじゃねーか」
教師として言葉遣いはちゃんと注意した方がいいと、挨拶してきた生徒に顔を向けた瞬間だった。
目の前を白い何かが横切り、地面に落ちた。
反射的に防御姿勢を取ろうとした俺だったが、男としての本能が攻撃態勢を取れと命令を下した。
通学路のタイルの上に転がったそれは、女性用の下着だったのだ。
安物でないことが一目でわかる、清楚だが高級なレースショーツ。
完璧に洗濯されているが、繊維の状態から数ヶ月は着用されてきたことを元工作員の俺は一目で見抜いた。
これが新品であれば問題は無かった。
いや、女子校の通学路に下着が落ちているというのは確かに問題があるかもしれない。
しかし俺は教師である。
ポケットに片手を突っ込み、ふっと笑ってもう片方の手で颯爽と拾い上げ「困った落とし物があったものだな」などと紳士の余裕を見せれば良い。
しかし、誰かが履いたものならどうだ?
当然持ち主がいるわけだ。俺が拾い上げ、落とし主を探すというのは可哀想である。
俺にも人の心はある。
名乗り出るのも、探し続けられるのも地獄という状況を生み出したくはないのだ。
だが、落とし物を前にこのまま教師が通り過ぎるのもまずい。
下着に気づいた俺に気づいた生徒達もいるだろう。
俺は何らかのリアクションを主体的に行わなければならないのだ。
――近くの生徒を呼び止めて下着を拾うよう指示する。
いや、どうだろう。
しっかりとしたセクハラではないか。
大体どんな顔で言えば良い。
微笑みでもキモいし、無表情でも怖い。
悲しそうな顔をしても共感は呼べないだろう。
クソ、どうすればいい。
魔法で思考を加速させているから三秒ほどしか経ってないが、そろそろ答えを出さないと時間切れだ。
よし、決めた。
困った時の陽動作戦だ。
音や光で周囲の気を引いている間に下着を回収、逃走、落とし物係に提出……。
「わーい、先生大好きー!」
俺が魔法を切り替えようとした時、軽い衝撃が腰の辺りに生じた。
視線を送らずとも身体の感覚でわかる、誰かにタックルされたのだ。
考える間もなくロックを外し相手を投げ飛ばす。
だが、一連の流れの最中に別方向から衝撃が走った。
狙われたのは腕――ではなく、脇に抱えたバッグ。
「奪取に成功! 逃げるぞヤロー共!」
俺のバッグを奪った生徒が、凄まじい勢いで走って行く後ろ姿。
その後に続く二人の生徒。片方の手には先ほどの白パンツが握られている。
「――くそ、パンツこそが陽動だったのか!」
強奪者達の後を追って走り出すと、周囲からは失笑とため息が飛んだ。
「今のは例のあれかしら? 新学期の全校集会でおっしゃってた提案の……」
「敗北させられたら願い事を何でも叶える……無茶なお話ですね」
「本気にする子もいますからね。灰尾先生も大変ですが、身から出た錆ですわ」
「育ちの悪い子達がはしゃぐのは不愉快です。先生はあちら側なのだから良いんでしょうけど」
お嬢様達の白けた視線。
俺がぶち上げた取引は、学園長を保証人にした正式な契約である。
育ちが良い生徒達は趣味が悪いお遊びだと気にもとめなかった。
だが一部の生徒達――新学期前に俺を追い回したような連中はノリノリで、暇さえあれば襲いかかってくる。
俺を調査し、敗北の定義を推測し、計画を立てて検証しろと念を押したのにだ。
連中はただただ暴力に訴えるか、このように俺の物を奪って負けを認めさせようとするのだった。
三人組はそこそこの健脚で逃走を続けたが、人型のゴキブリになるべく鍛え続けられた俺を振り切れるはずもない。
やがて体力が尽き、学園外れの人気の無い場所で足を止めた。
少女の一人は肩で息をしながら周囲を見回し、俺に鞄を放り投げてきた。
「……今日の、評価は、何点っすか?」
「簡単に対処できない存在を使ってターゲットを硬直させ、スリーマンセルで息の合った襲撃を仕掛ける――なかなか良かったぞ。六十点だ!」
俺はニコニコと拍手したが、汗まみれの娘達はお気に召さなかったらしい。
「えぇ、フツーに低くないですかぁ」
「ガチのパンツまで投げたのに!」
「うるせーな。俺はもっと安っぽくて、でも大事に履かれてるようなパンツの方が好きなんだよ」
「六十点ってパンツの点数なんすね……了解っす。次回の参考にします」
少女達はため息をつけるほどには呼吸が落ち着いたらしい。
そのうちの一人が腕組みをして、俺を見つめた。
「――それで、わざわざこんな無駄な芝居までさせて呼び出した理由はなんすか?」
「無駄じゃないっての。お前達が先に俺に仕掛けることによって、俺をガチで狙ってる連中が二の足を踏むことになるんだからな。それに俺達が一緒にいることのカモフラージュにもなるし、お前達がチームでプランを考える訓練にもなるだろ」
「オーケイ、ボス。それじゃ、この有意義な芝居をさせてまで呼び出した理由はなんすか? いつもみたいに掲示板での暗号連絡で済ませなかった理由は?」
「ジャーマン。ボスじゃなくてルースターと呼べと言っただろ」
俺はため息をつき、少女達を見回して口を開いた。
「九霄学園非正規クラブ〝パラペット〟の出番ってやつさ」
◇◆◇◆◇
――灰尾八雲を敗北させられたら、願い事を一つ叶える。
俺がそんなぶっ飛んだ提案をした理由は何か。
全校集会で語った、日常がいつ非日常になるかわからない緊張感をゲームとして体験するというのはもちろん表向きの理由。
裏の理由、すなわち本当の狙いは諜報機関の設立である。
九霄学園はもとより、九霄という世界は神志女が神として君臨している。
この世界の一員となった俺は、教師として様々な情報を手に入れられるし、正当な理由をもって正当な手続きを踏めば非公開情報にも触れられる。
教師としてのんびり過ごすならそれでも良いだろう。
しかし、俺の目的は工作員だった俺をハメた凄腕精神魔導師の情報を手に入れることにある。
神志女は自分が知りうるものをいずれ開示してくれるだろう。
しかし情報は与えられるものではなく、自分で手に入れるものである。
親鳥が咀嚼した餌を口移しで飲み込んでいても、自分が目指す場所には飛んでいけないのだ。
戦うにしても取引するにしても敗北を認めるにしても、自分が命運を託すに足る情報無くしては不可能。
個人で得られる情報には限界があるため、どうしたって組織が必要になる。
神志女羅沙やその関係者が管理する組織ではなく、俺の管理する組織が。
最初のテーマにして最大のテーマは人材の確保だった。
警備や教員、島民はどう転んでも協力関係にはなれないので、必然的にターゲットは生徒になる。
だが、超一流の金持ちや権力者の娘である少女達が学園長を敵に回し、うさんくさい男に協力するだろうか。
彼女たちのほとんどは、協力どころか追い出したいというのが本音に違いない。
しかし、どんな場所にもイレギュラーは存在するものだ。
かといって一人一人観察して捜し出すのは大変なので、あちらから来て貰った方が良い。
そこで始めたのが件のゲーム。
時間とエネルギーを持て余し、面白半分で俺に挑戦する変人達。その中から素養のありそうな人間にオファーを出した。
――俺と一緒にスパイクラブを作らないか?
「パラペット……やっぱ闇の組織にしては格好良くない名前っすね」
通学路で俺の鞄を奪おうとした三人組の中で、一番背の高い少女が鼻を鳴らした。
コードネームはジャーマン。
俺が最初に引き入れた人間であり、組織の中で最も落ち着いた人間でもある。
先ほど鞄を奪う役割を担っていた司令塔。
年頃の少女にしては乾いた瞳を見つめ、俺はニヤリと笑った。
「格好いい名前だとすぐに口に出したくなるだろ。日常会話であまり使わないけど、他人が耳にしてもあんまり注意を引かない言葉がいいんだよ」
「ふーん。あたしはてっきり、実家や学園にパラサイトしてるペットみたいなポンコツって意味なんだと思ったんすけど。犬とか猫の名前つけられてるし」
「ええ、そうだったんですかぁ? シーちゃんショックですぅ」
ジャーマンの自虐的なセリフにわざとらしく嘆いたのはちょっと垂れ目の少女。
コードネームはシーズー。
天然女子ぶってるが、目の奥に好戦的な光を宿すヤベーやつ。
さっきのタックルはセリフとは裏腹に殺気がこもっていた。
「いやいや、悪い意味は無いっての。パラペットってのは前にも言ったけど屋上とかベランダにある、ちょっとした段差みたいなやつ。落下防止とか色々役割ある大事なやつなんだよ。それにCIAのパラミリタリーを引っかけた、実はちょっとプロっぽい名前にしたつもりなんだけどなぁ」
「男子中学生のセンスだよね。ま、女子受けの良い可愛い名前つけられても気持ち悪いけど」
適当に笑い飛ばしたのはギャルっぽい少女。
コードネームはラブ。
気さくだが大雑把で、ノリと勢いで行動する。
先ほどの役割は下着を投げる役割だったらしい。
「名前は別としてだ。今日は君たちにちょっとした情報収集ミッションを与える」
俺は咳払いを一つしてボスとして構成員に呼びかけたが、三人のツラはしけたものだった。
「与える、か。なんか上から目線っすね」
「私ぃ、俺様タイプの男の人は嫌いですぅ」
「めんどいのは嫌だな、あたし」
まあ仕方ない。
組織に引き入れたとはいえ、連中はスーパーの店員が差し出した試食品を受け取った程度の感覚だ。
自分に得がなかったり、面白くなければ応じない。
「価値の高い情報を手に入れられた者には褒美もあるぞ。どうだ?」
「この学園の生徒はみんな、先生よりはるかに金持ちっすよ。褒美と言われてもモチベ上がると思うんすか?」
「わかってないな。俺の褒美は金で買えないものだぜ? ちなみに今回の褒美はガチのスパイが使う盗聴魔法の伝授なんだが……まあいいか、犬チームが駄目なら猫チームに当たってみるわ。今日はわざわざ呼び出して悪かったな。それじゃゴキゲンヨウ」
わざとらしく肩をすくめ踵を返すと、ジャーマンが焦った様子で俺を呼び止めた。
「ま、待ってください。ガチってことは、他の先生や警備にもバレないんすか?」
「技術次第だな。だがちゃんと使えばセンサーも回避できるし、防犯魔法もすり抜けられる」
「……自分が近くにいないと駄目なタイプですかぁ? それとも盗聴器みたいに設置できたり?」
シーズーが怪しく目を光らせる。
隣のラブも少し興味が出てきたようで、顔が引き締まっている。
「魔法素材を使えば設置盗聴も可能だ。作成するのも設置するのもノウハウがいるがな。好条件下なら一週間近くの音が回収できる」
三人は無言で顔を見合わせた。
返答を聞かずとも聞く気になったのはわかったので、俺はミッションについて話し始めた。
「君たちも知っての通り、もうすぐクラスレクリエーションが行われる。しかしその全容については教員も知らされていない。だが、学園全体で行われる大規模かつ長期間のイベントだ、完全に情報は遮断することは出来ない。そこで君たちには――」
少女達は俺の指示を聞き終えると、思案顔で解散した。
価値のある情報を手に入れられなくてもいい。
完全な空振りに終わっても良いのだ。
このミッションは、いずれ指示する更に難しいミッションのための訓練だ。
自分で考え行動し、成果を得る。
彼女たちにはこの機会にしっかり悩んで考えて欲しい。
俺もそうやって一人前の工作員になったのだから。
……まあ彼女たちは別に将来スパイになんてならなくてもいいし、かくいう俺もなぜか教師に転職しているのだが。
俺はその後、パラペットの他の二チームにも似て非なる指示を出し、夜八時過ぎに帰宅した。
幼い犬や猫たちが頭をひねっている間、雄鶏が休むなんてことはない。
夜。それは俺の時間。
隠された情報を嗅ぎ回るのに最も相応しい時間だった。
「まずは酒場でいっぱいやるかね」
俺は私服に着替えて職員寮を出ると、島の中央にある歓楽街へと歩き始めた。




