21
「あ、お帰り。無事みたいだけど、なんかヌルヌルしてない?」
「言ってやるなよ蛍。テンションが上がった男からはそういうもんが滲み出るんだからさ」
ほっとした顔の蛍とニヤニヤ笑うノア。
人間的な熱を持った二人の瞳を見て、俺はこっそりと息を吐いた。
一緒に吐き出した負の情動が、背後の階段から転げ落ちていってくれる事を祈り、努めて下品な笑みを浮かべた。
「先走りで悪かったな。期待外れもいいとこだったぜ、あいつら俺を最後までイかせてはくれなかったよ」
努力は実を結んだらしい。
ノアは指で卑猥な仕草をし、蛍は馬鹿馬鹿しそうにため息をついた。
オーケイ。
俺はちゃんとしたクソ野郎だ。
「さ、お待ちかねの時間だ。急がないとあの女、一人で始めちまうぞ」
俺の一言に緩んでいた二人の少女は顔を引き締めた。
いや、引き攣ったと言うべきか。まあ当然と言えば当然だ、何しろこれから〝ぶっ飛ぶ〟事をするんだから。
俺は生命線が入ったバッグを拾い上げた。
「行くぞ」
二人を促し屋上に続く扉の前に立つ。
狙撃を警戒して腰を落とした姿勢でドアを少しだけ開いた。
侵入先を見つけた風が、隙間から甲高い音を立てて滑り込んでくる。
一呼吸間を開けてちらりと外を覗いてみると、完全に夜が幅をきかせていた。
しかし校舎内と違って真っ暗ではない。
架空の星と月が控えめに地上を照らしている。
屋上に人影はなかった。
隠身系の魔法を使ってる可能性もあったが、これは魔力感知によって排除できた。
近隣の建物の配置から狙撃を回避できるセーフルートは把握していて、先ほど下の連中を煽りに出た時に通ったが、同じルートを辿るのは危険かもしれない。
初手から屈曲狙撃を使って、死角を縫って攻撃を仕掛けてくる可能性もある。
あちらは俺達がここにいて屋上に出る機会をうかがっている事を、まず間違いなく、魔法か機材を用いて把握しているはずだからだ。
一方、遮蔽物のない場所でこちらが魔法を放つ余裕はない。
詠唱不要魔法はこの場で役には立たず、詠唱魔法は一節読み上げる前に狙撃されてしまう。
となれば道具便り。
理科室にあった材料で作った即席閃光弾は目くらましにはなるが、長くは持たないし光量も小さい。
その短い時間でポイントまでたどり着く必要がある。
当然、一切の無駄は許されない。
しかもそのポイントはゴールではなくスタート地点、本番はそこからだ。
俺はともかく、この二重の困難にただのティーンエイジャーである同行者達がいっぱいいっぱいになるのも仕方が無い。
後ろを振り返り、目を見開いてドアの外を睨む二人の少女に声をかける。
「手はず通り、落ち着いて。あと、口は閉じてろよ、舌を噛むとまずいからな」
口を半開きにしていた二人は慌てて閉じた。
「今じゃないっての……」
時計をちらり。
予定の時間まで後二分ちょっと、もう三十秒くらいで勝負に出なければならないのだが。
このままだとまず間違いなく失敗するぞと俺は頭をかき、おもむろに二人の頭に手を伸ばした。
モテない勘違い男がやりたがる伝家の宝刀『頭を撫でる』でもやられると思ったのだろう、嫌そうな顔で身を引こうとしたその隙に、俺は素早く両手で二人の脇腹をまさぐった。
右で蛍、左でノア。
手癖が悪い事で評判のヤックのくすぐり攻撃に、男の前で屁をこく事を忌避する年頃の女達が耐えられるはずもなかった。
心の状態などお構いなしに、身体の敏感な部位をくすぐられたせいで小脳はあっさり混乱、二人の大きな笑い声が反響した。
外にも聞こえただろうが、どうせ気づかれているから構わない。
さあてどさくさに紛れてもっと過激な場所でも――
「グフッ!」
顔面と下腹部に強い衝撃が走った。
痛みで涙を流しながら目を向けると、鬼の形相が二つあった。
阿吽像をリスペクトした少女達は取りあえず、緊張がほぐれたようだった。
我が身を犠牲にして善行をなした己を慰める。痛いよう。
ってかさ、ノアの膝蹴りはともかく、蛍ちゃんはどうして肘の一番固いところで顔の急所を狙えるわけ? 君もひょっとして特殊な訓練を受けてる……?
「ほら、時間よ。準備しなさい」
「へい」
一瞬で立場が逆転したが、あまり違和感はなかった。
俺は忠犬のごとく指示に従い、バッグを肩に担いだ。
事前の役割分担の通りに、ノアが小声でカウント始める。
5、4、3、2、1、
「ゼロ! ゴーゴーゴー!」
最初に飛び出したのは蛍だ。
健脚を飛ばし、屋上を迷い無く走って行く。
一秒ほど遅れて俺とノアがドアから飛び出した。
二人三脚のようにぴたりと併走して蛍の後を追う。
屋上に足を踏み出して二歩、背筋がぞくりと震えた。
狙撃手が神がかった反応速度で三つの人影から当たり――俺を見つけると同時、射線上に捉えたのだ。
しかし俺は中腰、隣を走るノアが壁になったため引き金を引けなかったらしい。
狙い通り、しかし安心など出来ない。
ここから観測手が猛威を振るい始める。
俺はバッグに手を突っ込み、その中にあった円筒状の物を握りしめた。
「蛍!」
名前を呼ばれた少女が振り返りもせず、素早くポケットに手を突っ込むのを見ながら、俺はタイミングを合わせてバッグから取り出したそいつを宙に放った。
数メートルほど遠くまで飛ぶはずだったその銀色の物体はしかし、俺の手から離れて数十センチのところで鈍い音を立てて弾けた。
狙撃だ。
中身が飛び散り、俺とノアに降りかかる。
マグネシウム、アルミニウム、着火剤――そんな物騒な代物は入っていない。
飛び散ったのはそう、大量に摂取すれば糖尿病にはなるかもしれない液体。
甘いオレンジジュースの匂いが鼻孔をついたその瞬間、斜め前方でかっと光が生じた。
蛍が放った閃光弾が作動したのだ。
まばゆい白い光の中、中腰を止めて走る速度を上げる。
大丈夫、こちらの視界は上手い具合に確保できてる。
ちゃんといいところに投げられた蛍ちゃんには花丸をくれてやる。
しかしああ、狙撃手の顔が見たい。
オレンジジュースをぶち抜いて、閃光弾を起爆させてしまったスナイパーってのは、どんな気持ちになるんだろうか。
きっと馬鹿面にも花丸がついてるに違いない。
薄笑いを浮かべた瞬間、怒りの一発がいやらしく歪んだ左の頰を削っていった。
火傷したような痛みと、血が滴るぬるりとした感触に思わず真顔に戻る。
観測手が視界確保のパターンを変更して俺を補足したのか、狙撃手が勘を働かせたのか。
どちらにせよ無茶をする。
非殺傷弾だろうが、可愛い生徒達に当たったらどうするんだこの野郎。
人間の風上にもおけない。
義憤に駆られた俺は、走るスピードが上がってハアハア言ってるノアを抱え上げた。
何この子軽ゥい。
脅威の体重に感嘆するのも束の間、閃光弾の効果が切れて暗闇が戻ってきた。
俺特有の感覚が、絶好のタイミングを見逃さずに襲いかかってくる魔力の塊を捉えた。
これまでの狙撃は火器が飛ばした普通の弾丸だったため感知も反応も出来なかった。
それが出来るようになったという事は、観測手が弾丸に魔法を使って何らかの効果を付与したという事。
しかしその内容までは解らない。
知るためにはそう、人間を風上におく必要があるのだ。
足を急停止。
「うわぁぁ!」
弧を描いて迫り来る魔弾に向けてノアを構える。
直撃コース。
しかし着弾する瞬間、弾丸はプスンと軽い音を立てて弾けた。
誘導プラス対象判別、いや手動区別か。
少女には怪我一つないが、相手が俺なら一体どうなっていたか。
「何すんだこの!」
正確な状況は把握できていないが、何となく自分がどんな扱いをされているのか解ったのだろう。
ノアが抗議の声を上げた。
ストップアンドゴー。
次々と飛来する魔弾をその身体を使って無力化しながら、俺は胸を張って答えた。
「お前を盾にする事で人道ってのを教えてやってるんだよ! あの鬼畜共にな!」
「鬼畜だぁ? そりゃお前だろうがああああ!」
「ノーサー! 自分は鳥の糞に混じったサクランボの種であります!」
「い、いや、そこまで言ってないけど……そもそもお前、語れるほど人道を知ってるのかよ」
「知ってるよ。知ってる。知ってるさ。もちろんな。言葉じゃ上手く言い表せないけど、心で感じてる。人道、今凄く感じちゃってる。胸が熱い」
「明らかに知らねーよなお前! うぎゃ!」
人道の盾が振り回した裏拳が、いい具合に俺の顎を打ち抜いた。
脳が揺れて膝が一瞬かくんと落ちた時、頭のすぐ上を弾丸が通り抜けていった。
冷や汗を流して膝に力を込め、走行を再開する。
人道とはおそらく、掲げると困難もあるが、より大きな問題を回避する事が出来るものなのだろう。
いやあ、勉強になったなあ。
「う、吐きそう……」
「落ち着け。それは想像妊娠だ! じゃなきゃ神の子って話になるぞ!」
「ほんと、こんなクズに協力するんじゃなかった……」
ノアがようやく真理にたどり着いたが時既に遅し。
ポイントオブノーリターンだ。
動く盾である蛍と動かす盾であるノアのおかげさま。
何とか狙撃の雨をかいくぐり、ポイント――目標である屋上の隅に行き着いた。
先に到着していた蛍にバッグを放り投げ、自分は地面に伏せる。
へたり込むノアの息づかいを聞きながら高難易度の魔法に取りかかった。
時間はかけられない。
通常なら狙えないこの位置でも、補足したら数秒で屈折狙撃がくる。
だってのに、ああもうこの三流魔道師! 早くしろ早く!
のろのろと式を構築する自分に嫌気がさす。焦りが汗となって額から噴き出した瞬間、頭のてっぺんが痺れるような感覚に襲われた。
まずい、致命的なやつが来る。
訓練兵という話だが、それにしちゃ動きがいい。
魔法にかかりきり、このままじゃ為す術なく直撃する――
「まだ!? 急いで!」
魔法を放棄して回避を試みようとした瞬間、背中に柔らかいものが覆い被さってきた。
覚えのある体温と匂い。蛍だ。
すぐ近くで聞こえたプスンという例の音。
目の前をひしゃげた弾丸が悔しげに転がっていった。
魔法が付与されたとはいえ、誘導弾は速度が落ちるだけで何か特別な光を放つ訳ではない。
この闇では不可視に近いそれを、背中の少女が察知した可能性は限りなくゼロ。
指示もしていない。
本人がその場で判断し、行動しただけ。
勘がいいのか、タイミングがいいのか。
どうでもいいが、そう、こいつの力を借りられた俺はついてる。
いつまでも女の下で寝てる場合じゃない。
危機感とは異なるもので背筋を振るわせながら、蛍を押しのけ飛び起きた。
『青、黄、白、赤、青、青!』
校舎から見て北東――スナイパー達が潜む学生寮の屋上。
その直線上の空間が、音もなくぐにゃりと歪む。
空間制御だ。
最上級は神志女のように異界を作り出す事だって出来るが、俺が必死こいて出来るのはせいぜい、光やら音やら何やらを色々ごちゃ混ぜにして空間内の把握を不可能にする程度。
基本的には無害な代物だが、副次効果として周囲の魔力波阻害も生じるため、こちら側を観測するためには大きく空間を迂回しなければならない。
そうすれば精度は悪化するし、情報も遅延する。
持ち場から動きにくい人間からすれば面倒な魔法だ。
ただし、起動に時間がかかる上に座標指定をする間は自分の身動きが取れないというバックアップありきの代物でもある。
継続時間も十数秒間なので使いどころは限られていた。
「はい!」
蛍がバッグから取り出したロープの束を受け取り、二メートルほどの屋上の柵を乗り越える。
金持ち学校らしく、しっかりした柵にロープ(用務員作業室より拝借)の一端を手早く固定した。
金属杭(同上)を取り付けたもう一端を握りしめ、歪んだ空間の向こうにあるはずの投擲ポイントを見やった時、蛍とノアがバタバタと柵を越えてきた。
フェンスに指を食い込ませ、遙か下界に沈む真っ暗な地上を見つめて膠着状態。
時間が無いのにいつまでそうしてるつもりだ。
「ガールズ、レディ!」
調査室では定番の親父ギャグを飛ばす。
同僚達は股間を触りながら「ボーイズ、メン!」と答えてへらへら笑ったものだが、二人の少女はびくっと顔を上げて俺に近寄ってきた。
まずは背中にノアがおんぶの要領で抱きつき、次いで蛍が正面から首にぶら下がり足で挟み込む。
嫐。
前から後ろから女に挟まれているため見た目こそエロいが、二人分の体重が上半身にかかっているため中々に辛い。
俺は苦しさのあまり鼻息を荒くして喘いだ。
「なあ、そろそろイっていい?」
「「死ね」」
前後から突き込まれたアイアイサー。
ちょっと癖になりそうな感覚は袋に仕舞う事にして、股間ではなく金属杭を握った右腕にパトスを漲らせた。
強化魔法でガチガチになったそれを窮屈な姿勢のまま振り上げ、目標に向けて投擲。
肩だけで投げたそれは本来なら二メートルほどしか飛ばない。
だが、痛みと軽度の機能障害を伴うほどの強化魔法を施した身体で放てば、それは矢のように宙を突き進んでいく。
魔法で歪んだ空間に突入すれば、もう何も見えない。
記憶を頼りに投げてはみたが、果たして上手くいくだろうか。
焦りが舌を乾かせる。
姿の見えぬ金属杭は、俺から放たれた思いを具現化したようだった。
勝手に声が漏れた。
「頑張れ!」
応援など意味はないと言う者は多い。
しかし、果たしてそうだろうか?
俺はそう思わない。
思いは力になり、言葉に乗って届く。
例え観測できずとも証明できずとも、人はそう信じるべきだ。
信じてきたからこそ、人は生きてこられたんだ。
俺は信じた。
「っ!」
握ったロープがピンと張り、ガツンとした手応えを与えてきた。
俺は静かに頷いた。
ぐにゃりと歪んだ空間の向こう、目標である学生寮屋上――給水タンクの壁に金属杭は突き刺さったのだ。
ここからは見えないが間違いない。
俺の思いは絶対に届いた。
観測も証明も出来ないけど、そう確信する。
なぜなら給水タンクが俺を受け入れてくれたに違いないからだ。
出会ってそれほど間もないし、言葉も交わしてないけど、初めて見た時から好きだった。
好みのタンクしてた。
あっちだってそう、まんざらでもなかった。
俺が見てる時は済ました顔してみせても、ちょっと視線を逸らせばその白い肌を赤く染めていた。
蛍と共に屋上に出た時、タンクが身体をほてらせたのを俺は見逃さなかった。
夕日のせいだなんて君はとぼけるだろうけど、俺は騙されない。
君はそう、蛍にも嫉妬していたんだね。
ああ俺はなんて罪深い男なんだ。
心だけでなく、物理的にも君を傷つけてしまった。
でも解ってくれ。
こうするしかなかったんだ。
――俺は今から、君に会いに行くよ。
そのためには急がなければならなかった。
心ない連中が、いつこの繋がりを絶つか解らない。
涙を蛍の頭でこっそりと拭い、一息ついて魔力を活性化させた。
命綱を握りしめ、力の限り叫ぶ。
「さあ皆さん力んで! HE HE WHOOOO!」
屋上の縁を蹴飛ばし、宙に躍り出る。
浮遊感、少女達の声にならない悲鳴、ロープを握った手にかかる人間三人分の重さ。
一瞬、コミカルなBGMと共に地面に落下していく自分たちの姿が脳裏をよぎる。
だが、防災用多目的ロープは十分な強度を誇り、強化された俺の腕もまたフックとしての務めを果たした。
外側は機能強化、内側は摩擦低下を施した両手は何百回と繰り返した訓練の時と同様、プーリーの代わりとして機能し、ロープの傾斜に従って景気よく滑り出した。