18
頭上に広がる空には星がいくつか輝き始めていた。
空気が澄み切っているからか、地上から10数メートル離れただけなのに、手を伸ばせば触れられそうなほど近く見える。
視線を少しだけ下に向ければ、黄昏に染まる山や田んぼが目にとまった。
赤く輝く水面のまぶしさに息をのむ。
波の音と虫の音が気まぐれな風に乗って耳に届き、干からびかけの心に潤いを与えてくれた。
空、星、沈みゆく太陽……。
夕暮れが包み込む異界の景色は、人が作り出したとは思えないほど泰然としていて、寂しさに似た懐かしさを自然とこの胸に溢れさせた。
「くしゅっ!」
夕暮れの屋上は肌寒く、腕の中の少女が小さなくしゃみして身を震わせた。
半袖短パンの体操服だから仕方が無い。
無言で抱きしめる力を強めると、二つの大きな瞳が気恥ずかしげにこちらを見上げた。
じっと、ただじっと目が合う。
鼓動が微かに速度を増した。
体温が混ざる感覚は、確かに恥ずかしさもあったが、言葉に出来ない安心感を生じさせる。
彼女も同じものを感じていてくれているだろうかという疑問と期待は、しかし言葉には出せない。
ただ両腕に優しさを込めた。
ふと唇でも交わしてみようかと思った。
彼女は驚くだろうか怒るだろうか、あるいはもしかすると――。
「繰り返す! 無駄な抵抗は止めて人質を放しなさい!」
俺は自らの唇をペロリと舌で舐めた。
それを見た蛍が、眉間にぐいとしわを寄せて顔を背けた。
別に俺が気持ち悪いとか、そういう事ではない。
これからまたうるさくなるから、そうしただけ。
そうですよね?
俺は不安で唇を震わせながら、地上からの説得を再開した交渉人をにらみつけた。
特殊車両の上に立つ警備員にありとあらゆるストレスを声に乗せて吐き出した。
「放すわけないだろ! オメェみたいな年増ならともかく、ぴちぴちのティーンエイジャーだぞ! 肌もすべすべで汗もいい匂いだ! 身体だって柔らかいだけじゃない! 程よく筋肉がついていてぐっとくる! お前と違ってな! 落ち着いて考えればそれくらい解るだろう? 解るだろ!?」
「解るか、このクソ野郎! 落ち着くのは貴様だ!」
「解らないだと? だったら小学校からやり直せ! 理科の授業かなにかで習っただろうが!」
「お前はどんな小学校に通ってたんだ! いいから降りてこいって!」
「うるさいな、更年期障害か? それよりほら、頼んでおいたピザとビールはまだかよ。おなかすいたんですけど!」
「性欲の次は食欲!? ふざけんなよ! あああああ、先輩私いやですよもう! あいつ頭おかしい! 私もおなかすいたし! ご飯ご飯ご飯!」
延々と繰り返してきたこのやりとりに、若い警備員の忍耐も限界に来ているらしかった。
奇声上げて拡声器を叩きつけたところで、慌てた仲間の何人かが車の上から引きずり下ろした。
相手を馬鹿にして苛立たせる事が得意な俺と交渉を試みたのがまずかった。
五分ほどの会話で性的嗜好を俺に見抜かれた時点でヤツに勝ち目はなかったのだ。
喚きながら視界から消えていくその姿に黙祷を捧げる。
不慣れなお役目、お疲れ様でした。
「……まさかこれで終わりって事は無いよね?」
俺が叫び終えて再び顔をこちらに戻してくれた蛍が、地上の様子を見ながら呆れたようにそう言った。
「交渉って説得するまで止めたりしないよね?」
「いや、そういうものでもない。交渉ってのは結局サブに過ぎないからな。メインは突入で、すぐに打ち切られる事もある。まあ、今のやりとりは交渉ってよりもただの付き合いみたいなもんだけど」
「それって形式的なやりとりって事?」
「そうだ。こっちはガチで交渉する気はないし、向こうもそれを把握してる。ただほら、観客が見てるだろ?」
俺は校舎から離れたところに建つ寮をアゴで示した。
窓から顔を出した生徒達が飲み物やスナックを片手にこちらを見ている。
頑張れーと声援が飛んでいるが、その相手は警備員ではなくて立てこもり犯の俺というのがやるせない。
「今のネゴシエーターも本職じゃないってのはさすがに解るだろ? 連中は俺が時間稼ぎをしてると考え、狙いを推測しつつも突入の合図を待っているはずだ。もう準備はとっくに出来ているだろうから。お、別の交渉担当が出てきたな。準備に手間取ってる風を装ってるのか、どこかに仕掛けをしてるのか……」
再開された交渉という名の漫才に興じていると、その隙間を縫って蛍が小声で尋ねてきた。
「……本当に戦わなくていいの?」
「だから、戦わないんじゃなくて戦えないんだって。やり合ったら負けるもん」
俺がふてくされたようにそう返すと、蛍は理解できないといった顔をした。
「あなたって強いのよね?」
「いや、弱い。結構に弱い。ここの生徒にもあっさり負けると思う」
「……武闘派警備員に勝ったのに?」
「先に状況を作れたからな。まあそもそも、あっちには俺を殺せないという前提条件があるってのが一番だ。戦闘力ってのは武器によるからな。縛り無し、マトモにやったら勝率はゼロだよ」
「で、でも腕のいいスパイなんでしょ?」
「そりゃあここの武闘派警備員を相手取って打ち負かす工作員もいるにはいるさ。ほんの一握りだけど。だいたい、そういう力業は必要な資質じゃない。俺達の役割は情報を集める事なんだから」
「信頼させてどうこうとか、そういう感じ?」
「そうそう。通信技術が発達したこんなご時世でも、欲しい情報は人間が持ってるんだ。それを引き出すためにあの手この手。引き出した情報が正しいのか、どういう意味を持つのかの一次的な分析。そういう技術が必要なんだよ」
「それをあなたは持ってるわけね」
「まあ、ある程度。だが一番俺が評価されたのは……」
大きなあくびを一つ。
人間の体温を感じているとどうしても眠くなっていけない。
奥歯を噛んで気を引き締め直していると、その眠気の正体が「評価されたのは?」と先を促してきた。
肩をすくめてにやりと笑う。
「協力者の作成さ」
蛍は意外に思ったらしく最初は目をぱちぱちとさせたが、やがて皮肉を感じたのだろう、苦笑いを浮かべてどこか困った顔をした。
頼みもしないのに彼女の方から協力を申し出てきた訳だから、そんな顔をするのも仕方が無い。
改めて変わり者だと思いつつも、その苦笑いこそが、これまで見てきた中で一番魅力的な表情だと感じた自分にも驚いた。
……精神的に不安定になってるんだろう。早くけりをつけたい。
「あっちも一段落したみたいだし、そろそろだろう。一端中に戻ろう」
薄闇の中で目配せをする地上の警備員達の姿を見てそう告げると、協力者はほっとした顔で頷いた。
屋内に戻ると、階段の途中に腰を下ろしたノアが頭を抱えていた。
絶望でもしてるのかと思ったが、こちらに気づいて振り返ったその顔には微笑みがあった。
「何人か吹っ飛ばしてやったぜ」
狂気の類いである。
ハッカーである彼女が言うところのその意味は、突入部隊のサイバー担当を行動不能にしたという事だ。
爆弾か何かで体を木っ端微塵にした訳じゃない。
自己申告なのでどこまで信用できるかは不明だが、腕は悪くないのである程度の損害は与えられたのだろう。
ただ消耗も激しく、ノアは疲れ切った顔をしていて、目をこらせば鼻血を拭った後も確認できた。
負荷がかかりすぎたせいだろう。
伊達や酔狂ではここまでやれないから、ある種の病気と言える。
「連中の侵攻具合は?」
「46秒前に校舎に突入してきた。アンタのばらまいたオモチャはそこそこ関心を引いてるが、対応は早い。最短ルートをきっちり突破してきている――今、第2ポイントを通過した。このまま行けば後5分くらいでケツに指を突っ込まれるだろうな」
「……そうか。それじゃ尻の穴を洗っておかないとな」
ハッカーが空間に表示した校内の立体映像を見つめ、尻をポリポリとかく。
突入部隊を示す赤い点がこちらに向けてスムーズに進んできていた。確かに早い。
ノアのシークレットルームを出てからは時間との勝負だった。
そう、何しろ時間がなかった。
今度は人質を演じてもらう必要があったため、蛍に誰かが忘れて帰った体操服に着替えてさせたのが手始め。
ブルマでもエロいスパッツでもない事に強い憤りを覚えながら様々な教室をかけずり回り、使えそうなものを探して色々とこしらえてみた。
だが、理科室やら薬品庫はこじ開けられたものの、最も優先度の高かった魔法具保管庫に手出しが出来なかったのが大痛手。
結局トラップは子供だましの性能にとどまり、見た目と設置場所でごまかすので精一杯だった。
あちらはプロだから効果的な足止めは不可能。
ある程度時間稼ぎが出来ればという淡い期待も、現在進行形で裏切られている。
腕時計を見ると6時13分。
予定よりもまだ12分近く早い。
こうなったら自分で時間を稼ぐしかない。
時計のバイブタイマーをセットして胸ポケットに放り込む。
「大雨になりそうだから、ちょっと田んぼの様子を見てくる。お前ら二人はいつでもいけるように準備してろ。おい、合図したらちゃんとやれよ」
「おう! 心配しないでイってこい! 間に合わなかったら先に逃げるからな」
ノアは機嫌良く中指を立ててきたが、蛍は心配そうな顔で俺を見てきた。
本当にいいやつだなこいつ。
「警備相手だからってあんまりセクハラすると、後がきついわよ」
「え、そういう心配なんだ……」
思ってたのと違って若干ショックを受けたが、信頼の現れと都合良く解釈する事に成功し、俺は一人とぼとぼと階段を降りていった。
ああ、ショック。
更新が遅れ(以下略
新人賞に応募したり砕けたりしていました。
ネタを作りながらの執筆ですので、先の事はあまり期待しないでください……。
取りあえず書きためていた分を予約掲載しておきますので、お暇なときにどうぞ!