15
同性愛者ってのはいつの時代、どんな場所にもいるもんだ。
しかし例えオープンな環境であっても、自分がそうであると言い出すのはあまりないだろう。
差別がなかったとしても、無意識に躊躇ってしまうのだと、以前ベトナムの公衆便所で隣の便器に立つ男にそう語りかけられたことがある。
どうしてだと問い返せば、だって君は今私を警戒してるだろうと答えてきた。
仮に君が身構えていなくても、私は君が身構えるに違いないと考えてしまう。
これは同性愛者がマジョリティにならないとなくならない感覚なのかもしれない。
そう言ってそいつはジッパーを閉めた。
俺は別に同性愛者を差別はしない。
ワインが好きか日本酒が好きか程度の違いにしか感じない。
敵意を持ってなければそれでいいのだ。
こちらにその気がないのに強引に迫ってくるやつには実力行使に出るが、それは男も女も同じである。
だから、一晩いくらだいと財布を出してきたベトナムのその男には一発くれてやった。
まあ、ケツを蹴り飛ばされて逆に歓喜の声を上げるその姿からして、そいつは同性愛者である前に変態であったのだろう。
もう一発蹴って喜ばせるのもしゃくだったので、その場にホーチミンしてやった。
さて、ここはベトナムの臭くて汚い便所ではない。
一人の強力な魔法使いが生み出した世界にある、小綺麗でいい匂いのする女子校である。
そこで見た初めての同性愛者は、階段の踊り場で相手を壁に押しつけ、数メートル離れていてもべちゃべちゃと音のする熱烈なキスをかましていた。
差別主義者でない俺は、今現在の相棒に理解を示して見せた。
「ま、フツーのコーケーだよね」
しかし、相棒の方は激しい動揺に襲われていたらしい。
階上から聞こえてきたエロい音とあえぎ声に足を止め、ぎょっと目を見開いていた傍らの彼女は、ぶんぶんと頭を振って強烈に否定した。
「誤解だから! あんまりないから!」
小声で怒鳴るという器用さを発揮して顔を赤くしている。
盛り上がってきたのか、シャツに手を潜り込ませ体をまさぐり始めたお二人を見ながら、俺は肩をすくめた。
「大丈夫だって、別に気にしないから。おお、いよいよスカートの中を攻めるか。ビールねえかなあ」
「酒の肴にしようとするな! 通れないし、ちょっと注意してくる」
夕飯時に家族と見ていたテレビで、ガチガチのセックスシーンが出てきた時のような気まずさなんだろうか。
顔を歪に強ばらせた蛍は、チャンネルを変えるような勢いで階段の陰から飛び出していこうとした。
食い入るように階上の光景を眺めていた俺は、慌ててその腕をつかんだ。
「あ、おい。待てって」
「何よ! 続きが見たいったって、そうはいかないからね!」
「違うって。いや、違わなくもないけど、今のお前の格好で出て行ったらまずいだろ?」
俺がそう言うと、蛍ははっとした顔をした。
警備員服にポメラニアン。
突っ込まれた時に果たしてなんと返すつもりなのか。
というかこの小型犬、校舎内に潜入するための陽動という役割をいかれた生徒どもに奪われたが、ここから先何かの役に立つのだろうか。
今のところ蛍の精神安定剤にしかなっていない。
「そ、それじゃ大声出して追い払いましょう!」
「無粋なやつ……」
「だまんなさい!」
あとちょっとなのになあと、傷ついた顔をする俺をよそに、蛍は大声を張り上げた。
「たーいへんだー! 校舎に変質者が入ってきたかもしーれなーいぞー! にげろー!」
動揺を収められなかったらしい。
裏返った声で棒読みという、わざとらしさを通り越したそれは全く発言の内容が入ってこない、最悪の代物だった。
階上の二人と目が合わぬよう身を引いた俺は、なんともはやと頬をかいた。
ただまあ情事の最中に他人の気配がしたというのは、それだけで十分なのである。
おそらく壁に押しつけられていた方の発したものだろう、はっと息をのむ音が聞こえ、慌てた足音がぱたぱたと遠ざかっていった。
しかし足音は一人分。
もう一人は服装を正しただけでその場に留まっているらしい。
大したタマだ。いや、大したタマナシだ。
「その声、蛍ちゃん?」
「ぎ」
知り合いだったらしい。
しかも、それに今気づいたらしい。
蛍は妙なうめき声を発して硬直した。
逆にまずい事になったのだろうか。
ここは階段の途中である、身を隠すスペースはない。
警備員服を身につけた蛍と俺。
ガキは騙せたが、女を愛する女を騙す事は不可能だろう。
つまりだ、話を整理するとこうなる。
このままレズビアンが近づいてくるような事があれば、おそらく俺はその身体をベルトできつくふん縛って、男の良さというのを教えなければならないという義務が必然的に生じるのだ。
困った。
そんな事はしたくないんだが。でも、義務なら仕方ない。
「やっぱり蛍ちゃんよね?」
足音が階段を降りてくる。
仕方ないか……。
「はいそうです蛍です!」
なに?
蛍は選挙の立候補者のように声を張ると、すっと身を乗り出して階段を降りてくる者と向き合った。
なるほど、俺の身代わりに自分が犠牲になることにしたのか。
ありがたいが、己の格好をどう言い訳して切り抜けるつもりなんだか。
お手並み拝見と、俺はベルトから手を放して腕組みをした。
「ご、ごきげんよう、和歌森先輩……」
「ごきげんよう? ふふ、今日はまた珍しい挨拶をするのね。それに、珍しい格好もしてるみたいだけど」
耳にまとわりついてくるような甘い声。
知り合いのレズはもっとさばさばしてるから、ひょっとするとバイなのかもしれない。
若干テンションが下がる。
「これは、その、警備の手伝いをしてるっていうか……」
な、何だこいつ。
言い訳考えてなかったのかよ。
くそ、そんなの通るかよ。
ちょっと暇だったからコスプレしてみたって言う方がまだマシだ。
こうなったらあれだ、女に興味があるとか言って仲良く女子トイレで百合の花でも咲かせてくれ。
「ふうん、そうなの。あなたならまあ、そういう事も頼まれても不思議じゃないわよね」
「う、うん。なんて言うか、仕方なく……」
「あなたも大変ねえ」
あれ?
何で今ので通るんだ?
蛍はあの女に借りでも作ってんのか。
それともあっちが今貸しを作ったのか。
駄目だ。
情報が少なすぎて納得がいく理由を推測できない。
「その可愛いわんちゃんは?」
「ん、あー、逃げ出してるのを途中で見つけたから、ついでに」
「そう。警備の手伝いっていうのは連絡が来てた変態さん関係? 校舎に逃げ込んだってさっき言ってたみたいだけど」
「……うん。例のアレだから危害を加えるような事はしないと思うけど、巻き込まれる危ないかもしれないから、どこか安全な場所に避難しててください。その、変質者を捕まえようとしてる人たちと間違われるかもしれないし」
「さっきの騒ぎはまたあの子達ね。解ったわ。警備の人に睨まれるのも嫌だし、あなたに迷惑かけるのも可哀想だしね」
苛ついている俺をよそに、両者はあっさり合意に至ったらしい。
蛍がほっと息を吐く様を女はクスッと笑った。
「何となくだけど、私は別の階段から降りた方が良さそうね?」
蛍が再びぎくりと身じろぎした。
しかし無言で肯定するようなその態度を責める気持ちにはならない。
あまりにも唐突で核心を突いた質問である。
この状況で落ち着いた返しが出来る女子なんて滅多にいないし、そんなヤツは信用するのが難しい。
何より女の今の言葉、合理的推測によるものではなく、ただの勘の類いであるらしかった。
こちらに気づいている気配はない。
その意識は蛍にだけ向けられている。
目の前の少女の雰囲気から漠然とそう判断したのだろう。
蛍が立ち直るよりも早く女はまた小さく笑い、
「さっきのアレ、美景には内緒にしてね。それではごきげんよう」
ゆったりとした余裕のある言葉で別れを告げると、こちらが潜む階段から離れていった。
物わかりの良すぎる行動に俺はとっ捕まえるか後をつけるかしたいところだったが、止めざるを得なかった。
そもそも答えが知りたければそんなことをせず、蛍に聞けば良いのだ。
――なぜやつは納得した?
だが、その問いを発する事もまた出来ない。
なぜなら彼女は俺に何かを隠しているからだ。
蛍は教師候補という事実を契約書で確認しただけで、見ず知らずの胡散臭いクソ野郎であるこの俺に、ここまで協力してくれている。
メリットなんてあるとは思えないから、これはボランティアのようなものだ。
そんな彼女が隠しているもの。
それは極めて個人的で、可能な限り他人に知られたくないものなのだ。
問えば答えるか?
じっと動かないその背中を見ながら考えてみる。
答えるかもしれないが、そのときは多分、彼女との間にある奇妙で曖昧なつながりに何らかのくさびが打ち込まれる事になるだろう。そんな気がする。
ならばそう、彼女本人からもそれ以外からも聞き出すべきではない。
少なくとも俺はもう、諜報員でも工作員でもないのだから。
もし蛍の隠し事が俺に致命的な一撃を与える事になったとしても、この変わり者のお人好しを傷つけるよりはマシと思える。
「上手くいったな。やるじゃないか」
「……うん。まあ、ね」
歯切れが悪い。
賢いやつだから、考えてるのだろう。
先ほどの言い訳で相手を騙せた理由を。
事実を話すべきか、嘘をつくべきか、ごまかすべきか。
俺に後者二つが通じるとは思わないから、選択肢は一つだ。
黙っているという選択肢は彼女の中にはないのだろう。
その背中が決意に強ばる。
蛍が細く息を吸う音が聞こえた。
「私さ――」
「俺はな」
声をかぶせると、驚いた顔がこちらを振り返った。
思い詰めた顔でもしていたのだろうか。それを消せればいいと思う。
「俺は他人を信用しない。どれだけ信頼に足る情報を集めようが、長年付き合おうが、誰も信用しない。だが、一時的な信頼は出来る」
そういう風に訓練された。
信用すれば死ぬ。
信頼しないと生き残れない。
矛盾に満ちたその二つを取り込み、ある程度バランスを保てたのが灰尾八雲というケースだ。
だから本当は、こんな時、こんな相手にかけられる言葉など持っていない。
でもまあ、どこまでやれるかと聞いた俺に、あんたが止めろと言うまでよと言い切った人間に、伝えておきたい事もある。
「俺は君を信頼している。それだけじゃ足りないか?」
わざわざ自分の全てを相手に教える必要はない。
むしろそうしないと駄目だと思うのは、かえって相手を侮辱する事になる。
そんな意味だったはず。
「いいえ、十分だわ」
瞬き一つで再びその瞳に強い光が戻ったから、多分ちゃんと伝わったのだろう。
先に進もうとうなずき合い、止まっていた歩みを再開した。
『あたし、あなたを信頼してる。それだけでわたし達、十分じゃない?』
誰かの声がふと記憶の彼方から聞こえた気がした。
多分それは、俺が今の俺になる前の、別の誰かだった時の記憶だった。
封印された箱の中身を俺は知らない。
あの女はそれを開いてみせると言ったが、どうだろう。その時俺は俺でいられるのだろうか。
多分、普通に人を信用していただろうそいつ。
今の俺と相容れないなら、きっとどちらかが消える事になるだろう。
そして消えるのは多分、不自然に生み出され植え付けられた俺の方だろうな。
隣を歩く蛍の横顔を盗み見る。
大人びてはいるが、子供の顔だった。
子供であるからこそ、彼女はやがて大人になる事が出来る。
だが俺はどうだ?
十二歳のガキの記憶に様々なロックをかけて、元の人格をベースに最適化されたのが俺という人間だ。
今の俺は二十二歳とも言えるし、十歳とも言える。
どちらであれ、人生という経験を積み上げていく基礎がないのだから、積み木のように縦にではなく、ドミノのように横に並べていくしかない。
見える景色も感じるものも変わらず、だからこそ執着しない。
自分という人間を空しく感じないのだ。
「ねえ、ホントに監視カメラは大丈夫なの?」
「ああ。校舎外のヤツは生きてたが、中のヤツは死んでるみたいだからな。多分、誰かが校舎内で何か良からぬ事をするためにコントロールを奪ったんだろう。どうせ、ろくでもない生徒の一人じゃないか?」
「ああ……うん。オッケー、間違いなくあいつね」
「また知り合いかよ……」
新しい生活の確保。
精神魔道師の情報。
神志女の脅威。
俺がここにやってきた理由は様々あるが、一番のところは時期が来たと思ったからだ。
指示通りに並べたドミノの列を、倒してしまいたくなった。
全部が倒れきって何もなくなった時、ほんの少しでも空しさを感じる事が出来たのなら、それが灰尾八雲の確認になる。俺の勝ちになるのだ。
「他の生徒をたきつけたり賞金を出したり、情報をばらまいたりしてイベント化したのもあいつだわ。きっと校舎内のシステムを使って色々やってるはず。今頃はきっと、前みたいに警備の情報担当者達とネット上で殴り合ってるんじゃないかな」
「イベント好きなお騒がせタイプなのか?」
「まあそんなとこ。でも理由の半分はこの騒動で警備を混乱させて外界とのルートを構築をする事にあるんじゃないかな。外と繋がりたいってしょっちゅう喚いてるし」
「休みなんだから外に出ればいいじゃないか」
「無理よ。出たら捕まるもの」
「なにやったんだよ。警察沙汰か? それとも企業? 組織?」
「全部」
「……ろくなもんじゃねえな」
全くろくなもんじゃない。
俺が鼻を鳴らして笑うと、蛍もつられて笑った。
「でも、上手く使えば私達の力になるかもしれないよ? 居場所には心当たりがあるから行ってみる? 厄介者だけど情報系なら世界で五本の指に入る魔法使いだって言ってたし。本人談だけどさ」
私達、か。
「そうだな。後で礼でも言いに行くか。そいつが頑張ってるおかげで自由に動けてるんだし。だが今は腹ごしらえだ。スターゲイジーパイが食べたい」
「聞いた事無いわね。ファンシーな名前だけど美味しいの?」
「ああ、見た目も味もサイコなんだ」
「最高ねえ。調理室にある材料で作れるのかしら……っとあれがそうよ」
蛍が指さした先には調理室と記されたプレートが見えた。
中から甘い匂いと笑い声が半開きのドアからこぼれてきている。
同時に足を止めた俺達は顔を見合わせた。
「「誰かいる」」
俺は足音を消して先行し、ゆっくりと調理室に近づき、壁に張り付くと耳を澄ませた。
「ほら見て! 可愛いでしょ!」
「うわあ、ツキノワグマだ! 可愛い!」
「え? これシロクマだよ?」
「え? でも首のところに白い三日月があるよ?」
「これは口だよ口! 笑ってんの!」
「ああそっか! でもシロクマだったらチョコレートクッキーで作っちゃ駄目だよ! これじゃクロクマじゃん!」
「それもそっか! よし、ホワイトチョコレートで塗ろう!」
「美味しそう! あ、でもさっきのシロサイでホワイトチョコは使い来ちゃったよ。どうする梢ちゃん?」
「シロサイかあ。絶滅危惧種だからって作り過ぎちゃったか。残ってるのは……ストロベリーか、よしこれでいこう!」
「ええ? クマさんピンクになっちゃうよ?」
「いいこと恵麻。フラミンゴだって元々は白いの。食べ物のせいでピンクになってるわけ。ってことは、クマさんだって食べ物次第で色も変わって当然でしょ」
「へえ! 梢ちゃん凄い! あったまいいね!」
「頭良かったら毎回赤点取ってないっての! それにしても何だか楽しいわね! やっぱり久美子先生からもらったコンニャクとかいう調味料のせいかしら? 飲むと美味しくなるとか言ってたけど」
「コンニャクじゃないよ、ちょっと待って……えっとね、瓶のラベルにはカマスとか書いてあるよ」
「カマス? カマスってお魚だよね。変なの! あはははは!」
「あははははは!」
……何だこれは。
女子生徒が中に二人いるらしいが、異様なハイテンションだ。
コンニャク……コニャックか?
となるとカマスってのはカミュの事か?
すっかりできあがってるらしいが、どうしたものか。
正直このアリスのお茶会みたいな狂った空間をどうこうする度胸がない。
腹ごしらえは諦めてずらかった方がよさそうだな――
「ワン!」
ぎょっと振り向くと、蛍が慌てて犬の口元を抑えていた。
ポメラニアンはこれまでと違った様子で興奮していた。
そうか人間だけじゃなく、こいつも腹が減っていたのか。
菓子の匂いで我慢できなくなったらしい。
まずったな、馬小屋から食い物でももって来とくんだった。
後悔と淡い願望が頭をよぎる。
しかし。
「あれ、今ワンって言わなかった?」
「あたしじゃないよ? アルマジロ、プテラノドン、クリオネ、シロサイ、ラフレシア、そして黒いシロクマ。作ったクッキーの中にも犬はいない!」
「そうね。それに今の声、廊下から聞こえた気がする」
「きっと美味しい匂いにつられてどこかからワンちゃんが来たんだね!」
「それじゃごちそうしないとね!」
「うん!」
ふらふらとした足音が近づいてくる。
相手は酔っ払った生徒だから、片付けるのは難しくない。
しかし、こんなに馬鹿な子供達を小突くのもあんまり気乗りがしない。
一か八か、シラフじゃないのを利用して、それこそ子供だましでもやってみるか。
ま、駄目なら小突こう。うん。
俺は結論を下すと、犬の扱いに苦労している蛍に向けて、口を動かした。
そ、い、つ、を、か、せ。
蛍は何をするつもりだという顔をしながらも、暴れるポメラニアンを手渡してきた。
俺はそいつを抱き上げながら、調理室の扉へと近づいていった。
そっと少しだけドアを開き、俺の手が中から見えないよう気をつけながらポメラニアンの顔をそこからのぞかせた。
「あ、犬だ!」
「やっぱりいたんだ!」
大喜びした酔っ払いが歓喜の声を上げる。
駆け寄ってこようとした二人を制するタイミングで、俺は裏声を発した。
「やあ、僕は万次郎! こんにちは!」
酔っ払い共がはたっと立ち止まる。
沈黙が一秒、二秒、三秒。
ああ、さすがに無理があったか。馬鹿にしすぎたな、俺が悪かっ、
「うわあああ! 犬が喋ったあああ!」
「すごおおおい! 夢みたいいいいい!」
……。
そうか。そうか。
そこまでアレか。
うん、じゃあお兄さん、純真な子供達にファンタジーな夢を見せてあげようね。
背中に突き刺さる蛍の視線を感じながら、俺は重い口を開いた。