12
俺は構えた指を下ろし、地面に転がった警備員に素早く近づいた。
その頭部に手を触れ、魔法を使って意識レベルを探る。
大丈夫、やられた振りじゃない、本当に意識を失っている。
頼香と同様の処置を施し、手脚を縛る。流れるように乳も揉む。ほう、天然もののBか。
「何納得した顔してんのよ、この変態!」
蛍が放ったヤクザキックに俺は思わず地面を転がる。
身体についた土を落としながら、愛想笑いを浮かべて俺は言った。
「なーに。経験上、奇襲が得意な女は乳が小さいもんでね。はは、でも安心してくれ。俺の予想だと将来的にお前は奇襲は不得意になると思うぞ」
「お世辞のつもり? ねえ、お世辞のつもりなのそれ?」
「人は自らが欲するものを真実とする。決めるのは俺じゃない、お前だよ」
「どうやら前頭葉辺りに問題を抱えているようだわ」
「痛い、痛いって。叩いても治らないから、止めてよ、ねえ。ホントは女が一番ものを隠しやすい場所だから調べただけだって!」
俺と蛍がいちゃいちゃしてると、人質役を演じていた相沢が疲れた声で呟いた。
「……あたしはもう用済みよね? 行っていい?」
「おう、もういいぞ。いやあ、ご苦労様だった。迫真の人質っぷりだったよ。これが終わったら何かプレゼントするよ。馬が好きみたいだから、ロデオマシーンなんてどうだろう。知人が売ってる特殊なやつでね、奥様方に大評判なんだなこれが。椅子にちょっとしたモノがついていてね――いや、サイズは選べるから大したモノにも出来るんだけどさ、どういうわけかたまに独身男性からも注文があって驚いてるって――」
「いらない」
「そっか」
きっぱりと断って愛馬の待つ馬房へと足早に歩き去るその背を見送り、俺は蛍を振り返って肩をすくめた。
「お前はどうだ?」
「私は馬よりは牛がいいわね」
「お、以外にノリがいいね。ちなみにその心は?」
「中に入れたい人がいるの。下から火であぶると良い声で鳴くらしいから」
「ハッハー! ファラリスの雄牛かー! まいったなモウ! 牛だけにね、モウ!」
「……」
「……」
「満足した?」
「ああ。付き合ってくれてありがとう」
馬鹿な息子を見る母親のような顔の蛍から目をそらし、俺は足下に転がる警備員を見つめた。
結果からみれば、上手くいったと言えるだろう。
学園長様お抱えの警備員である、すんなりこちらの言う事を聞いてくれるとは思っていなかった。
十中八九、人質奪還を狙ってくるはずで、警備員の中でも五本の指に入るという頼香がやられたと知っていれば、奇襲の類いを選択すると予想していた。
戦場となる厩舎を占領しているのはこちらだが、それでも地の利はあちらにある事は解りきっていた。
まず間違いなく奇襲は成功する。
そう考えた俺は、その時身につけていた頼香の戦闘服を素早く脱ぎ去った。
突然何の断りもなくパンツ一丁になった俺に対し、相沢は顔を白くし、蛍は額に青筋を浮かべた。
鋭く股間を襲った蛍の蹴りを慌てて回避した俺は、自分の不躾さに遅れて思い至り、それぞれの手で乳首を隠しながら、作戦を説明した。
これからやってくる頼香の相棒はここには三人しかいないと思い込んでいる。
それを利用して倒す。
頼香に作業服を着せて俺役に、体格的に一番合っている蛍が戦闘服を着て頼香役に、相沢はそのまま人質役に、そして俺は蛍の服を着て馬の腹の下に潜む……のは蛍に全力で拒否られたため、再びボクサー一枚で指定の位置にて待機。
そうしてやって来た警備員に頼香を襲わせる。
偽物であることに気づいた警備員に戦闘服を着ているのが本物の標的、すなわち服を交換したと思わせる。
案の定立ち上がる戦闘服の人物に気を取られたところを、俺が狙い撃つ――。
可能な限りの誘導は行ったが、予想シチュエーションは複数あった。
計画根幹にある人物入れ替えのフェイクは変わらないが、様々なパターンの一つが成功したというわけだ。
勝率はせいぜい三割くらいだったから、運が味方した結果だと言えよう。
暴力的な女神のおかげかも知れない。
まあ、二人の少女がもっと上手く動いてくれれば確実に敵を倒せたのだが。
ともあれ無傷で状況を突破できた事を喜び、次の行動に移ろう。
「さて、蛍。こいつを持て」
俺は今し方倒した警備員から回収した携帯端末を蛍に手渡した。
「それで? 電源入れるの?」
蛍は端末の赤いボタンを見ながら言った。
「いや、それはこいつを起こしてからだ」
「え? 起こしちゃうの? その方が危険になるんじゃ……ああ、そうか。交渉して情報を引き出すのね」
「……お前と付き合う男は大変だな。浮気するとすぐ見破られそうだ。まあ、そうだよ。こいつは最初の脳筋と違って厄介な相手だが、話も通じるからな」
「それじゃあ私は人質の振りをすればいいの?」
「いや、こいつは勘が良い。多分こいつは俺が自分の立場を理解している事を理解してるだろう。生徒を傷つけるって脅しても、ポーズだって見抜かれると思う。しかし、お前が俺の側にいるってだけで、警備員であるこいつは結構プレッシャーを感じるはずだ。尋問術の一種でな、現状や未来を解りにくくする事で尋問慣れした人間を揺さぶるんだ」
「そうなの? 良く解らないわ」
「やられた人間にしか実感できないもんさ。暴力や言葉で痛めつけられるよりも、ある意味きついんだ。あの覚悟がほどけていくような感じは……まあいいさ。とにかく起こそう。ああそれと、その端末はこの女から見えないように後ろに隠しておけよ」
俺は蛍が不思議そうな顔をしつつも言われた通りにするのを見届け、転がる女の額に手を当てた。
魔法を使って急速に意識レベルを覚醒に近づけていく。
その道のプロなら半覚醒状態にして優位に尋問できるが、俺には無理だ。
とにかく他人の精神を扱うのは難しい。
よって警備員の吹雪とやらは瞼を開けると、すぐにはっきりした視線で俺を捉えた。
「……どうせならパンツも脱いだらどうだ、この色男」
「悪いがここしばらくアンダーヘアーの処理をしていないんだ。またの機会にしてくれ。ピン札を忘れるなよ」
「それじゃあ今から島の銀行でいくらか下ろしてくるから手脚をほどいてくれない?」
「事が済んだらな。俺だって女を縛るのは趣味じゃないんだ。早く自由にしてやりたい。しかしそれはお前次第だ、解るだろ?」
「どうかしらね。昔っから男を満足させた事も男に満足させられた事もないのよ。不安だわ」
吹雪の余裕に満ちた振る舞いに、やっぱりなと俺は思いつつ頭をかいた。
面倒な状況だった。
学園長から面と向かって伝えられてはいないが、原則として俺は学園側が許容できない行動を取ってはならず、吹雪は俺がその原則を知っている事を知っている。
これが厄介だった。
原則を知らなければ、最終的に俺は不合格になって学園長から何らかの罰を与えられたかもしれないが、好き放題出来て今よりも簡単に状況を打破できた。
しかし知ってしまったが故に行動を制限されている。
そして行動を制限されている事を吹雪に感づかれている事が何よりまずい。
警備員に対して最も簡単に言う事を聞かせる方法の一つである、「さもなくば学園の生徒を傷つけるぞ」という脅しがきかないからだ。
それが出来ない事を知っている事を把握されている。
身体の自由を奪って相手より上位に立ったものの、効果的な脅しはかけられない。
吹雪にしてみれば尋問に黙りを決め込んでいればいいのだ。
警備員に対しての原則がどれほどか解らないが、おそらく「交戦は可。しかし殺害は不可」といった程度だろう。
情報を吐かない事に腹を立てた俺が拷問を始めたとしても、「警備員を殺す事は出来ないだろうと考えているはずだ」と思えば、心に余裕が生まれる。
先ほど送った目撃情報が敵に送らされたものだと程なく気づいた仲間が、助けに来てくれるまで持ちこたえれば良い。
尋問拷問の鉄則である〝終わらないと思わせる〟が崩れてしまう。
そうなれば意味はない。
尋問にせよ拷問にせよ、情報を引き出せなければ時間を失うのは俺の方。
拘束している側が拘束されている側に現在進行形で追い詰められているわけだった。
「情報提供はなし、か。まあ、あんたにはあのバトルマニアの馬鹿女の人質になってもらうって手もあるんだけどな。あんたがあいつの事可愛がってるって聞いたぜ?」
俺はそう言ってちらりと蛍を見た。
無論、雰囲気から適当にカマをかけただけで、そんな話聞いていない。
しかし賢い少女は疑問や驚きなどは一切顔に出さず、二回ほど間を開けて瞬きをするにとどめた。
吹雪は蛍を見て一際苦い顔をし、それでも苦笑いに変えて首を横に振った。
「確かに命を預け合うバディではあるが、こっちもあっちもプロだ。あたしはあんたが誰も殺せないって知ってるが、例え殺されても何も喋らない。馬鹿女もだ。解るか、調査室のコソ泥。お前に出来るのは今すぐ逃げる事だけだ」
「逃げる事だけ、ねえ。それにどれだけの技術と経験がいると思ってんだか。敵対地域への単独潜入をやった事ないヒトは気楽でいいねえ……まあ、挑発だの時間稼ぎだのに付き合う義理はない。新しいカードを引けないってんなら、手持ちで勝負するしかないさ」
俺は吹雪から逸らした視線を蛍に向けた。
そして吹雪にも聞こえる声で問いかけた。
「なあ蛍。お前は俺に協力すると言ったが、どこまでやれるんだ?」
すると協力者でありながら、一番の不確定要素は表情を変えず、ただ瞳の光を強くした。
「あなたがビビって止めろと言うまでよ」
実に恐ろしい女だった。
これは中々の女傑になるぞと俺は若干肝を冷やし、オーライマムと頷いた。
そして成り行きを注意深く伺っていた吹雪に向き直り、声を張った。
「それじゃ蛍。頼香から取り上げたその端末の電源を入れろ」
「オッケー」
蛍は軽い調子でそう答え、後ろに隠していた〝吹雪の〟携帯端末を胸の前に持ってきていじくり始めた。
瞬間、俺は五感の全てと魔力感知を総動員して吹雪を観察した。
動揺がパッと火を噴き、しかしすぐさま理性によって消化された。
顔のほとんどの部位に変化なし。
ただ目元の筋肉が僅かに緊張した。
瞳孔が一瞬収縮し、元の大きさに戻った。
喉が動き、そして口が開いた。
「――待って」
吹雪の制止に蛍が手を止め、俺を見た。
だが俺は手を挙げ「続けろ」と少女に命じた。
視線は吹雪から逸らさない。
そして俺の視界の真ん中に横たわる女は叫んだ。
「待てと言ってる!」
「続けろ蛍」
「お前、正気か!? 解っててやってるんだろ。ルールを無視する気か!」
「何の事だ? 俺は生徒を傷つけない。俺は、傷つけない。ルールは破らない」
吹雪を見つめたまま瞬き一つせず、静かに言葉を繰り返す。
すると吹雪は犬歯を剥き出しにして俺を睨み付けた。
「クソ野郎め! 蛍さん。今すぐに手を止めて」
どれが電源ボタンか解らない蛍は闇雲に端末をつつき回しながら、うーんと首を傾げた。
「でも頼まれちゃったし。私、頼まれると弱いんですよねー」
「こんなクソ野郎の頼み事なんて聞く必要ない! それは下手に触ると危ないの!」
「嘘だろお? 俺を騙すつもりでそう言ってるんじゃないのかあ?」
「豚はすっこんでろ! 蛍さん!」
「豚かあ。可愛いし食べられるし割と強い。俺もえらくなったもんだな。訓練校時代は鳥の糞に混ざったサクランボの種と言われてたけどな……ああ、蛍。俺が思うに電源を入れるには赤い大きいやつと角っこの灰色のを同時に押せばいいんじゃないかな? 握った時にちょうど親指と人差し指がかかるだろ?」
「あ、ホントだ」
その途端、吹雪が顔色を変えた。
「だ、駄目! 押しちゃ駄目――」
蛍は気にせず端末を適切なポジションで握り、右手の親指を赤いボタンにかけた。
そして灰色のボタンにも指が伸びかけたその時、吹雪が再び叫んだ。
しかしそれは前のものとは違い、敗北感と祈りのような響きが確かに混ざっていた。
「解った! 教えるから止めて。電源を入れたければ赤いボタンを押してから、灰色を一秒だけ押す。そしてすぐに離す。赤いボタンの親指は最後に離す。それで問題なく電源が入る――はず」
蛍はそれを聞いてようやく手を止め俺を見た。
「……らしいけど?」
「おう、助かったぜ」
俺は大きく頷くと、吹雪から見えない位置に持っていた〝頼香の〟端末を取り出し、言われた通りに電源を入れた。
「――貴様」
全てを悟ったらしい吹雪がぎりっと歯を食いしばる音を聞きながら、俺は蛍にニヤリと笑いかけた。
「お前のおかげだ。ほら、上手くいったぜ」
俺は青白く光る端末のディスプレイを蛍に見せた。
そこには先ほどまで使用されていただろう情報が映し出された。
「あ、これって……」
「ふうん。写真は調査室のデータベースのものか。この時は麻薬組織に潜入してたから見た目が悪くて嫌なんだけどなあ」
「なんか色々書いてあるわ……あ、恋人欄まで……」
「こらこら、国の機密情報だぞ。これ以上見たけりゃ要職に就け」
興味津々な顔で画面を覗き込む蛍から端末を遠ざけ、俺は吹雪に向き直った。
稚拙で単純な嘘にまんまと翻弄されたキレ者の警備員は、完全にキレた顔で俺を見上げていた。
怒りに身を震わせているのが芝居じゃないのは明白だった。
これ以上起きていられると逆に危険になる。
俺は「それじゃお疲れっす」と気さくに声をかけ、その頭に手を触れて意識を再び昏睡状態に落とした。
ぐたっと横たわった吹雪を少し罰が悪そうに眺めていた蛍は、俺に視線を向けると眉根を寄せた。
「今のやりとりってそんなに重要だったの?」
「重要じゃなきゃやらないさ。と言うよりも、重要なのは情報なんだ。俺やこの女のような現場の人間が何者かと敵対した時、一番欲しがるのがこういった情報端末で、一番相手に渡してはいけないのがこの端末なんだ」
「情報が敵に渡るから?」
「そう。通信機器であれば相手の行動をもコントロール出来る可能性もある。だから奪われないようにするか、奪われても情報を引き出されないようにする。究極のケースで言えば軍隊なんかの場合、肉体に直接埋め込んだりする」
「……グロいわー」
「網膜に直接エロ画像やエロ動画が映し出されるってんで、本人達には好評だったらしいけどな。まあ、それは法律やら倫理やら無視できる場所だけで可能な処置であって、普通の場合は無理だ。となると相手に奪われても情報を引き出せないようにするって方になるわけだが、さあどうする?」
蛍は顎に手を当て数秒考えた後、口を開いた。
「まずは普通に鍵でしょ。物理的なものや暗号のようなもの。指紋とか血液……」
「そうそう。普通はそれでいい。しかし物騒な現場ではそうはいかない。鍵を差したり暗号を打ち込んだりしてる間に危機に陥るかも知れない。生体認証も本人の身体や死体があればおしまいだ。って事で、組み合わせでどうにかしようって事になった」
「組み合わせ? それってさっきのボタンの順番とか押す長さとか?」
「ああ。すぐに起動できなければならないから手間が多いのは駄目だ。直感的に素早く出来て、第三者が通常予想しない手順。そして手順を間違えればロックがかかったり情報が消去されたり、間違えた者自体を攻撃したりする。この端末の場合はおそらく最後のだな。いくら戦闘員が使用すると言ったって重すぎるし大きすぎる。正式な手順を踏まなかった者を攻撃する機構とそのエネルギーを溜めておくバッテリーが内蔵されているんだろう」
「それで自分じゃ触らなかったのね」
冷ややかな目で蛍がこちらを見る。
俺はまあ待てと掌を見せた。
「問題なのは手順だ。全ての組織の端末を同じ手順にしておく馬鹿はいない。そこで持ち主それぞれが設定できるようにする。これは多彩だ。ロックや攻撃と言った通常パターンの他に、疑似起動をして相手を騙したり、ここにいるぞと各所に位置情報を伝達したりもする。相手に間違った手順を踏ませて絶体絶命の状況から生還した者もいるくらいだ。こいつは宝箱にしてミミックなんだ」
「それじゃ正しく起動させるなんて不可能じゃない」
「そうだ。ラボに持ってって技術者が解析しても駄目な場合もある。しかしそういった小手先で築いた砦を簡単に破壊する方法がある」
「もしかしてそれって……人質?」
「正解。お前の最愛の者がどうなってもいいのか――人類の歴史と共に誕生した最悪の脅しだ。国家、思想、主義主張。愛に壊せないものなどないからな」
俺がそう言うと何か思うところがあるのか、蛍は地面に視線を落とし、何呼吸か置いてから再び俺を見た。
「私が人質として機能したのは解った。でも、どうしてわざわざ頼香さんの端末だと嘘をついたの?」
「俺が君に危害を加えられないからさ。吹雪はそれを知っていた。よって先ほどの愛云々は半分くらいしか通用しない」
「半分? んー、まだ良く解らないわ」
「つまり、だ。俺が君に端末の電源を入れさせる。当然失敗すれば大変だと知っている吹雪は焦る。そこでこう言う。『解った。正しい手順を教えるから止めろ』と。だよな?」
「ええ」
「でもその場合、吹雪は正しい手順を教える必要はない。この携帯端末を敵に奪われたからエマージェンシーメールを仲間に送ったところで、俺にはどうしようもない。だって君を傷つけられないんだから」
「ああそうか。取引にならないのか」
「その通り。しかしそれは自分の端末だから出来る芸当だ。他人のならそんな事は出来ない。助けてメールどころか、電源を入れる方法すら解らない。しかし戦闘狂いのバディなら?」
「あー、そうね……頼香さんはこういうのには弱いかもね。面倒だから最初の設定のままでいいって言う……」
「あるいは、相棒に丸投げする。そうでなくとも面倒見の良い姉貴分が殴り合いしか能のない妹の事をしっかり把握している可能性はある。で、だ。馬鹿だ馬鹿だと言っていたが、ここからは賭が入る。頼香の端末に設定してあるのは電源起動の手順だけ。ずぼらな女は他の手順を覚えない――」
「救助要請の手順があって、それを吹雪さんが知っていれば端末が違っても同じ事だしね」
「君が端末をいじくり回した時、吹雪はすぐには制止せず、間を置いた。よって他の手順がない確立は格段に高くなった。ボタンを一つ一つ押しても害はないし、電源も入らない。長く押すか同時にいくつか押すか、見えないところに何かあるのか」
「でもあなた、赤と灰色を同時に押せって言ったでしょう。結果としては正解に近かったじゃない。どうして知ってたの?」
「大抵の道具がそうであるように、利便性を考えればほとんどのメーカーが似たデザインのボタン配置になるんだ。ゲームのコントローラーなんかのようにな。そして販売時の最初の起動設定もまた、親指と人差し指の同時長押し三秒間ってのが多い。だからみんなないとは思いつつも思わず試してみたくなる。でもまずないから試さない。裏を返せば似た手順にしておけば正解されにくいし、罠も張りやすい。俺は赤と灰色の同時押しが正解だと思って言ったんじゃなくて、むしろ罠だと思って言ったんだ。罠であれば学園の生徒である君が引っかかる前に止めるはずだと」
「でもあなたが生徒に危害を加えないと吹雪さんは知ってたんでしょ? どうせ本気じゃないと思って止めない可能性も十分高かったんじゃ?」
「そうだ。そして事実、ぎりぎりまで吹雪が止めなかったら俺が止めていた。でもあの女は俺と君が直前に交わした会話を思い出して、俺が本気だと思い込んだ」
「会話? あ、ああ――どこまれやれるかってやつ」
ようやく合点がいった顔をして蛍は頷いた。
俺はそうそうと息を吐いた。
「賭の一つだな。幸い君が肯定的な事を間髪入れずに返したから、余計に真実味が増したわけさ。さらに言えば君が持ってるのが頼香の端末って事が吹雪から冷静さをより奪った。自分が設定した後、気まぐれに設定を変えたかも知れない。敵の言いなりになった君は手を止めない。焦りが加速する。落ち着いて考えれば、端末が二つある事を思い出し、正しい状況を把握出来たかも知れない。ただあの女はどれだけ腕っ節が強くても、君達学園の生徒を守ることを目的とした警備員だ。だから降参した」
「なるほどね……」
俺は主役となった件の端末を見下ろし、指先でトントンと背面を叩いた。
蛍には言わなかったが、この端末に備え付けられている非所有者攻撃機構は、せいぜい気を失わせる程度のものである事に間違いない。
どれほど優秀な機体であっても誤作動が起きないとは言い切れない。
その時端末の防衛機能が致死性のものであれば、持ち主が死亡する。
結果、所有者を守るために威力は抑えられている。
だから本当は俺も吹雪も、蛍が地雷を踏んでも大して気にしなくて良かったのだ。
死にはしないのだから。
俺は正直止めない可能性の方を高く見積もっていた。
でも、吹雪は止めた。
優先度を考えれば端末の方が上だと踏んでいたが、違ったらしい。
情報を抜かれても問題なく俺を捕縛出来ると判断したのか、あるいは俺の優先度の付け方が間違っているのか……。
「それにしても灰尾さん、あなた今私の事を〝お前〟じゃなくて〝君〟って呼んでたけど、私に何か罪悪感でもあるの?」
水面下で行われていた何を犠牲にするかという駆け引きを知らないはずの蛍は、ストライクゾーン低めぎりぎりに決まるストレートを放り込んできた。
俺はバットをぴくりとも動かさず見送り肩をすくめた。
「俺は本来礼儀正しい男なんだよ。説明する時は無意識に素が出ちゃうんだな」
「なにそれ、わざとガラを悪くしてるって事? ないない。教えられて出来る雰囲気じゃないって。本職よ本職」
「ホント失礼な女だな、お前は」
「ああでも、聞いた事にはちゃんと答えてくれるし、下品だけど本当にいやらしくもないから、もしかしたら本当に礼儀正しくて優しい人なのかも知れないね。だってあなたの目、こうして見ると結構澄んでるし。あはは」
そう言って蛍はどこか俺を励ますように笑った。
冗談を言うならもっと下品な例えを入れないと駄目だろと俺は首を横に振った。
そしてふと思った。
先ほどの状況。警備員が端末を優先し、ボタンを押すのを止めなかったとしたら。無邪気に笑う目の前の少女を、俺は本当に止めただろうか。
――きっと、止めなかったよな。
卑怯にも俺は自問に自問で返した。