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鎌吹雪はごく普通の女だった。
少なくとも彼女自身はそう思っていた。
知能テストでも身体テストでも人格テストでも、警備部の中ではごく平均的な評価をされている。
ともあれ、平均値というのは感覚的には低くなるため、強者揃いの警備員達の中では彼女は大した事がないと思われていた。
しかし新人として頼香が入ってきた時、吹雪の評価は一変する事となった。
凄まじい実力とそれと同等かそれ以上の自尊心を持つ、どうしようもない暴れん坊。
警備部では必ず相棒を持たなければならなかったが、誰も頼香のバディとして機能する事が出来ず、また、なりたいと思う者は皆無だった。
もちろん吹雪もごめんだった。
開発者のミスでブレーキペダルの代わりにもう一つアクセルペダルを付けたヴェイロンのスーパースポーツのようなものだ。
あいつと組みたいやつは自殺志願者に違いない。そう思っていた。
しかし、警備部のトップであり、鎌という名を持つ者達の長である鎌冬実は、吹雪を頼香と組ませることにした。
それはちょうど頼香の元バディの一人が病院から脱走し、頼香を本気で殺しかけた次の日のことだった。
パンチ一発で再び病院に送り返した頼香と共に部長室に呼び出された吹雪は、己の人生の終わりが来たのだと悟った。誰もがそう思った。
だが、意外なことに、二人は上手くいった。
これまで組まされた相手とは違い、吹雪は比べものにならないほど弱く、また彼女を力で押さえつけようとしたり(まあ、その気があっても出来るはずもなかったが)、不必要に媚びへつらったりもしなかった。
その一方で許せないと思うことははっきりと口にし、結果喧嘩になったこともある。
これは吹雪が「どうせ死ぬなら好きなようにやってやる」と覚悟を決めた(自暴自棄になった)ためだったが、これが功を奏したらしい。
弱いくせにキャンキャン吠えてくる吹雪に対して頼香は混乱し、段々興味を覚え、最後には懐いた。
戦闘訓練においても、吹雪の献身的なサポートを受けるうちに、この方が自分の力を遺憾なく発揮できるということに気づいたため、二人はコンビとして成立した。
一週間で死ぬだろうという周囲の予想に反し、二ヶ月ほど経った頃には頼香は吹雪の後ろをついて回っていた。
それ以降、吹雪は猛獣トレーナーと呼ばれることになった。
馬鹿で粗暴でガキな妹分。
それが頼香に対する吹雪の現在の見方だった。
何度言い聞かせても単独行動が多く、バディとしては非常に苦労させられるが、その実力と性格からあえて首に繋ぐリードを長く設定することで、吹雪は頼香をコントロールしていた。
信頼故の選択である。問題はなかった。
あの猛獣を短時間で倒せる人間はこの島には部長の冬実しかいない。
――はずだった。
同僚の目をかいくぐりながら、全速力で厩舎に向かう吹雪は、きつく歯を食いしばった。
油断していた。
そう言うほかない。
この学園に入るためのおきまりの通過儀礼――実戦型教員採用試験の一つに過ぎないと、そう考えていた。
戦闘魔法に長けた教師であれば魔法決闘、格闘技を教える教師であれば腕利きの警備員との一騎打ち……その人間に求められるものに応じたテストを学園創設以来、ずっとやってきた。
最終採用を勝ち取った教師達は、全力を尽くした末、誰もが解るように実力を示した。
だが、いつだって学園側、特に警備部に取っては、余裕を持って対処できるイベントであった。
仮に教師候補がどこぞの組織に雇われた殺し屋であり、隙を見つけて化けの皮を脱ぎ、ターゲットに襲いかかったとしても、十秒あれば制圧できる自信が彼女たちにはあった。
常に優位に立っているから出来るテストだった。
確かに、今回は異例だった。
何の事情も知らずに入界した教師候補を、可能な限り早く無力化する。
もちろん島の防衛システムは使わないとか、武器の使用はなしだとか、様々な制約はある。
だが、どう考えてもこれはやり過ぎに見えたし、あっという間にその教師候補は不合格になると思えた。
何しろ相手は日本に数多ある諜報機関の中で最高とされる組織である〝調査室〟の元職員とは言え、最低限の武装も情報も持っていない。
渡された資料には肝心の工作活動については何も記されていなかったものの、能力値は出ていた。
魔力値、魔法操作能力レベル、身体能力値、知能指数。
どれをとっても大した事がなかった。
魔法操作能力と知能指数はごまかしがありそうだったが、魔力値と身体能力値はごまかしがきかない。中近接戦闘のエキスパート揃いの警備員達の敵ではない。誰もがそう判断した。
しかし、実際はどうだ?
警備員最強の一人である頼香が倒された。
例の男は人質を取って頼香を倒したと言ったが、それはまず間違いなく嘘だ。
吹雪は頼香の事を良く知っている。
あの馬鹿は人質程度で無力化できるほどマトモじゃない。
ちょっとくらい怪我させてもいいとか何とかほざき、敵に突っ込んでいくだろう。
その場合、倒されるのは人質というお荷物を持った敵の方だ。
だからおそらく、人質はあくまで隙を作るために使ったのだ。
しかし、一瞬の隙だけで倒せる女ではない。とすると……あの面倒くさがりの頼香が妙に厩舎の見回りに時間をかけたことに何かあるかも知れない。
もう一度と言って見回りに行ったことを考えると、馬鹿なりに何らかのトラップのようなものを設置した可能性がある。
どういう展開になったかは解らないが、そのトラップを逆に利用されて弱体化されたとかすれば、隙を作れば倒せる……かもしれない。
吹雪は走りながら頭を振った。
考えるべきは現状とこれからのことだ。
頼香は殺されたか、眠らされるかしただろう。
男の方はどうだ。
通信の声はしっかりしていたが、苦痛を隠しているような感じもあった。
頼香が一撃入れた可能性もある。その場合、人質が逃げ出せない程度の怪我をしている。
だが、ひょっとすると全てがフェイクかもしれない。
戦闘どころか、こちらの思惑を一瞬で見抜かれた。完全に手玉に取られている。
厩舎に呼び寄せておいて、自分はどこかにとんずらしていることだって十分にあり得る。考えれば考えるほど、思考の深みにはまっていく。しかし、足を止めるわけにはいかなかった。
「これが教師になる人間だとは笑わせる……」
憎々しげに吹雪がそう呟いた時、厩舎の姿が見えてきた。
平凡な警備員とは言え、吹雪の能力はどこぞの軍隊の精鋭と比べても遜色ない。
息は乱さず、また心も乱れていなかった。
足の速度を落としていき、適切なポイントで立ち止まる。
すなわちある程度のことが起きても対処可能な距離である。
目視と気配で周囲を探るが、狙撃手はいないようだ。魔法を使えば厩舎の中の様子もざっと把握できるものの、敵が探査察知の魔法を使っていれば、こちらの位置や魔法使いとしての力量を把握される恐れもある。頭が回る相手だ、情報は可能な限り与えたくない。圧倒的に不利なこの状況、敵を上回るには奇襲以外の道はなかった。
吹雪は息を吐いて覚悟を決めると、ありったけの戦闘補助魔法を自分にかけ、素早く、しかし音を立てずに厩舎の側面へと近づいていった。魔法を使わない観察を開始する。
まず、見える範囲の全ての窓は閉まっていた。
中に立て籠もっているなら当然の判断だ。
間違いなく厩舎全ての窓が閉まっているだろう。
中をうかがうには魔法を使うしかない。だが、先の理由でそれは無理だ。五感と脳みそに頼るほかない。
音を殺し、厩舎の唯一の入り口の方へ向かう。
柄付き鏡をポケットから取り出し、観察する。
不審なものはなし。
だが罠をしかけている可能性が一番高いのはここだ。近づくべきではない。
さて、どうしようか。
強化した聴覚はたくさんの呼吸音を拾っている。
動物たちの音がうるさいが、訓練を受けた吹雪の耳は人間のものを正確に聞き取っていた。
数は三つ。
一つは緊張気味でいくらか早く、一つは眠っているように微弱で、一つは少々息苦しそうだった。
普通に考えれば緊張しているのは人質、微弱なのは頼香、息苦しそうなのが敵ということになる。
となるとやはり、敵は手傷を負っているようだ。
人質を連れて逃亡せず、わざわざ自分をここに呼び寄せたのはそのせいか。
怪我をして満足に動けないから、猪突猛進の馬鹿とは違う、人質の効果がある警備員を使って状況を打破しようというところだろう。
ならば敵の戦闘能力はかなり落ちており、人質頼りと見ていい。
敵は探査魔法を使っていない。
呼吸に目立った変化もないから、こちらがすぐそこに来ていることは把握できていない。
奇襲して人質を切り離せば倒せる。
ボーナスはわたしのものだ。新しいオモチャが買える。
状況が思った以上に余裕があると知って、吹雪は目によこしまな色を浮かべた。
が、頭に思い浮かべたカタログを瞬き一つで消し去ると、まるでヤモリのように、音もなく厩舎の壁を上り始めた。
掌と足の裏に微少の魔力を集め、吸盤のように操作するこの魔法。割と難しく高度な部類に入ったが、攻撃力のある魔法を苦手としつつもサブスキルを豊富に持ち、高いレベルでこなす吹雪には造作もなかった。
娑婆に出たら最高にハンサムなハリウッドスターに夜這いを仕掛け、尻の穴が喘ぎ声を発するまで弄んだ挙げ句、きっちり既成事実を作ってやる事が彼女のお気に入りの妄想の一つだった。その難易度に比べればなるほどこの程度、造作もない。
変なスイッチが入ってしまったが、吹雪はこういう時が一番手強かった。
厩舎の屋根のてっぺんに楽々と辿り着いた吹雪は、素早く周囲を確認しそれを見つけた。
屋根の一部が変色し歪んでいる。
一ヶ月ほど前、厩舎に雨漏りが見つかったと知らせが来たと、管理部の友人が言っていた。そしてまた、忙しくて修理は何ヶ月か先になるだろうとも。
件の敵から厩舎へ来いと言われた時、吹雪は咄嗟にその事実を思い出した。
別に、敵が厩舎を籠城場所に選んだのが幸運だったわけじゃない。
警備員達はそれぞれ、有事の際に自分達が有利に立つために役立ちそうな情報を集めている。
山なら山の、校舎なら校舎の、岬なら岬の、様々な情報を持っている。
警備員が拷問を受けて機密を吐いたり、ハッキングされた時の事を考えて、これらのネタはそれぞれが独断で集め、同僚であっても共有はしない。
つまり、この屋根の雨漏り部分を頼香は知らない可能性が極めて高いという事だ。
上手く使えばこちらが上手に立つ事が出来る。
情報を多く持つ者が勝つ。戦闘力で他者よりも劣る吹雪は、それを良く知っていた。
音がしないように慎重に屋根材を手で探ると、雨漏りの原因である穴を指先に発見した。先ほどの妄想のせいでハリウッドスターのソレを連想し、無言でにやける。のぞき込めるほどの大きさまで穴を広げ、顔を近づけた。
吹雪は笑みを深めた。ほぼ理想通り、厩舎内部の様子が一望できた。
窓は全て閉めてあり、中は非常に暗かったが、入り口と壁面上部に開けられた通気口から差す日光が、闇をいくらか散らしている。この程度の光があれば呪文を必要としないレベルの視覚強化魔法でも十分内部の様子が判別できる。
入り口と反対側、厩舎最奥の壁に背を預けて座り混む、島民用の作業服を着た人物。
そしてその作業服に羽交い締めにされている赤い髪の少女。
二人から少し離れた先、通路にうつぶせで倒れている警備員の制服を着た人物。
そして無害な動物たち。
薄闇の中得られる情報はそれくらいだった。しかしそれで十分だった。
――予想通り。
人質を抱えた敵は負傷している。
帽子を被っているから表情は読めないが、作業服の一部には赤黒い染みが見えた。
頼香はやはりただでは倒されなかったのだ。
その結果立ち上がる力もなく、あの少女を抱えて入り口から一番遠いところに座った。
しかし相手は男であるのに教師にすると学園長が決断したほどの人物である、何の仕掛けもせずにこちらを待ったりはしないだろう。
肉体を負傷したなら頼るのは魔法だ。
あの男が一流であれば痛みを無視して魔法を使う事が出来る。
入り口に現れた者に攻撃魔法を放つ――いや、それは三流以下だ。
もっと確実性の高い手段を選ぶに違いない。
そう、罠だ。
思わず注意を向け、スイッチを押してしまうようなものにトラップ魔法を仕掛けるのではないか。例えばそう、通路の真ん中でこれみよがしに転がっている頼香とか……。気にはなるが近づかない方がいい。
奇襲による速攻がベストか。
人質を取っているという事は咄嗟に動けないという事。壁を背負っているという事は回避が難しいという事。敵の優位性を裏返す。
屋根の一部を破壊して落下、反撃や防御をされる前に敵を攻撃して無力化するとしよう。
自分の非力な攻撃魔法でも、防御魔法を使われなければ倒せる。
落下ポイントは正面は駄目だ。
人質の少女は敵の左手により拘束されている。そのため若干ポジションが左に寄っており、対して右手にはわずかにスペースがある。そちら側に落ちれば人質には当たらない。
最後は攻撃魔法の選別。
殺傷力は低め、出来るだけ高速で限定的な魔法がいい。
となればやはり〝風弾〟か。
圧縮した空気を弾丸上に加工して放つという単純で簡単な魔法。
学園の中等部の生徒ですら使える類いのものではあるが、高技能者が使うと分厚い鉄板に大穴を開けるほど、かなり凶悪な代物となる。
弾に可燃性の気体を使用して火を加えると着弾の際に爆発してかなりの威力を発するため、戦場では割とポピュラーな魔法だ。
もちろん、高技能者しかそんな事は出来ない。
一般人はせいぜいがスカートめくりがはかどる程度。
戦闘魔法訓練を受けた者でも、ヘヴィー級ボクサーのパンチ程度の威力しか出せない。
吹雪はどうかというと、何とかミドル級といったところだった。
威力はともあれコントロールはいいのよ――と自己弁護しつつ、吹雪は屋根を移動して例のポイントに到着すると、両掌を屋根材に触れさせた。
屋根破壊は風弾と合わせて、空気系の魔法を使う。
〝鎌鼬〟がいい。
まずは空気の刃で身体が通るだけの屋根材を切り取らなければならない。
彼女は魔法複合起動も並列起動も出来ない。
刃の魔法が切れると同時に落下しながら風弾の魔法を起動、右手人差し指の先に生成した風弾を作業服の男に狙いを付け発射、着地。敵の無力化を確認。人質を救出……。
考えすぎると良くない。
大体の流れを確認した吹雪は、音もなく大きく深呼吸をすると、行動を開始した。
鎌鼬起動。
吹雪の周りの屋根材が甲高い悲鳴を上げ、一瞬で円形に切り落とされる。
吹雪を束の間無重力が遅う。
ヘソの下辺りからお腹の中身が全て浮き上がるような感覚にある種の快感を覚えながら、吹雪は屋根材と共に落下していった。
時間にすれば一秒ちょっと。
だが既に一メートル以上落下していた吹雪に時間はなかった。
鎌鼬が終了し、魔法制御領域がクリーンになったのと同時、間髪を入れず風弾を起動。
生成まで二秒ほど。
また数メートル落下、もう地面の方が近い。
ここに来て驚いた顔で天井を見上げた人質の少女と目が合う。
吹雪は気にせず、少女の背後の男に向けて風弾を放った。
――着弾。
胸元に風弾を受けた男は後ろの壁に叩きつけられ、首をのけぞらせた。
帽子が飛び、その表情が露わになる。
驚きか、怒りか、後悔か。
果たして訓練された工作員はどんな感情を浮かべるのかと目をこらす。
だが、動揺したのは吹雪の方だった。
「!?」
それは頼香の顔だった。
記憶の中のそれと目の前のそれが一致した瞬間、彼女はようやく地面に着地した。
足の裏から脳天へ、強化した身体を衝撃が走り抜けていく。
しかし身体が着地の衝撃を完全に吸収してしまう前に、吹雪は左斜め前方へ前転した。
回転の中で体を入れ替え、背後へと振り向く形になる流れの中でもう一度風弾を指先に作る。
回転が終わり安定する視界。
見えたのは通路の真ん中で立ち上がる、警備員の制服を着た誰かの姿だった。
やはり、そうか。
敵は自分が着ていた作業服を頼香に、頼香が着ていた制服を自分に着せたのだ。
そしてこちらが頼香を敵と思い込んで行動した瞬間に、背後から急襲する。
単純極まりない作戦だ。
普通なら成功しない。
人質の生徒と負傷した仲間がいる事の焦りが、しかしそれを成功させた。いや、成功させかけたのだ。
頼香が与えたダメージのせいだろう、まるで素人のような動きでのろのろと立ち上がるそいつを内心で嘲笑い、完成した風弾の狙いを定めた吹雪は己の勝利を確信した――確信したまま、衝撃に横から頭を打ち抜かれ、一瞬で昏倒した。
地面に転がった吹雪を見つめ、ようやく立ち上がった警備員の制服を着た〝少女〟は、ため息をついた。