猿の世界にとりっぷ!(後)
大きな木の枝で出来た道を走り抜ける。
すれ違う猿の皆さんが挨拶してくれるのに返事をしつつ、時には伸ばされる手をかわして走る。
息が切れる。喉が渇く。心臓がどくどくと脈打ち、汗がにじみ出た。
こんなに必死に走ったのはいつ以来だろうか。
『おとうさん、おいてかないでっ』
瞼をきつく閉じ奥歯をかみ締める。
嫌な記憶がちらつき、それを振り切るためにスピードを上げた。
猿の一族は基本的に木の上で生活する。
それなのに私がタイガさんから教えてもらった場所は、木の上から遥か下の地上だった。
木から降りる道など補正されていない。冗談抜きで命がけで木から降りたおかげで、私の数少ない私服のスカートはぼろぼろだ。
上がる息を整えて久しぶりの地上を歩く。
木々の間から差し込む木漏れ日が地表を照らし、原生林ゆえの手入れされていない美しさがある。
影ばかりではなく程よく差し込む光は優しい温もりを感じた。
「───ガイホウ様」
その人は、一人で大きな体を丸めるようにしてそこにいた。
小さな背中だった。
普段あれほど大きく見える人なのに、余裕を持った猿の長なのに、いつもの覇気をまるで感じさせない背中だった。
私が後ろにいることくらい気づいてるだろうに、振り返りもせずじっとしている。
彼の前に何かあるのかと覗き込んだが、何一つ特別なものは見当たらない。
木々の間に少し空けた場所があるだけで、私には何も特別なものは見つけれなかった。
一つため息を吐き、慌てて息を吸い込む。
お母様からの教えの一つ。
ため息を吐きそうになった時は、息を吸い込んで深呼吸に変える。
ため息一つで幸せが逃げるなら、その分の幸せを取り込めるように。
私の知るガイホウ様はふてぶてしくて図々しくて厚かましくて腹立たしい男前だ。
猿の長はもてて当然と笑う、激しく嫌味ったらしい自信満々の猿なのだ。
「私、猿なんて嫌いでした」
「───知ってるよ。タイガを好きって言うのも口先だけだろ。お嬢ちゃんはいつだって俺たちに対して一歩引いてる。嫌いじゃないが好きじゃない。いつだってそうだ。観察するように見定めて俺たちとの距離を測っていた」
「そうです。私は猿が嫌いだったんです」
猿は嫌いだ。
調子よくて浮気性で残酷だ。
お母様は猿を見るたびに悲しそうだった。
『俺が帰ってくるまで、こいつで我慢してろよ』
そう言ったお父さんは、大きな猿のぬいぐるみをくれた。
生まれて初めてのプレゼントは、さよならの宣告だった。
綺麗で賢く優しく強いお母様が好きになったのは、猿みたいなお父さんだった。
お父さんは猿みたいな顔をして陽気でひょうきんでどこか憎めないとこがあって、親友の奥さんが未亡人になったからと自分の妻と子供を捨てて行ってしまう人だった。
帰ってくるって約束したのに、五年経っても帰ってきてくれなかった。
毎日猿のぬいぐるみを抱いて寝た。
お父さんとそっくりのぬいぐるみは私が大好きなものだったけれど、年を取るにつれて憎しみの対象になった。
動物園に行くたびに猿を見たいと強請ったけれど、お母様のお顔が曇るのを見てられなくて、いつしか『猿』そのものを避けるようになっていた。
この世界に落ちた日のことを思い出す。
あの日は久しぶりに猿を見ていた。
私とお母様を捨てたお父さんからの連絡があって、待ち合わせた動物園。
お母様が最初に向かったのは『猿』がいるところで、やっぱり待ち続けていたお母様を私は少しだけ怨んだ。
この世界に落ちたのはその天罰だと思ったのに。
ぬるま湯に浸かっているようだ。
許したくない、好きになりたくない、心に入れたくないと拒絶するのに、彼らは私に土足で上がりこんだ。
小さくて可愛いヨウゲン様はまだ庇護を必要とする子供で、愛さずにいられない。
優しくて暖かいタイガさんの傍はとても居心地がよくて、本当は理由無しに傍に居られたらそれでよかった。
そしてガイホウ様。
女誑しで酒好きで鬱陶しいどうしようもない人だけれど、私が泣いている時や悲しみにくれた時は何も言わずに傍に居てくれた。
───まるで、お父さんにもらった猿のぬいぐるみのように。
「お嬢ちゃんは罪作りだなぁ。その気もないのにタイガに侍るなんて」
「侍っていませんよ。可愛らしいと思ったのも好ましいと思っているのも本当です」
「でも猿は嫌いだろ」
「ですから、嫌いだったと申しているのです。きちんと聞いてください」
嫌いでいるのも馬鹿らしい。
ぐいぐいと押し込んでくるくせに、肝心なところで引くなんて情けないにもほどがある。
私はガイホウ様のことなど何も知らない。
別に知りたくないし、知ろうとも思わない。
けれどこの上なく落ち込んでいるのを見ても、放置しておこうと思うほど冷徹にはなれない。
認めがたいが、私もお母様と同類なのだ。
どうしようもなく駄目で馬鹿な男を放っておけない悪癖を持っているに違いない。
知りたくなかった真実だが、見過ごせないから仕方ない。
普段厚かましい男が見せる弱い部分に折れてしまうなんて、我ながらどうしようもない。
「絆されてしまうのは嫌だったんですけどね」
「お嬢ちゃん?」
「情けない格好しないで下さい。貴方は猿の長でしょう。いつもの余裕たっぷりで厚かましくて腹立たしくて図々しくてどうしようもない女誑しで」
「・・・改めて聞くと俺って凄く酷いんじゃねぇか?」
「でも、阿呆みたいに懐が広くて優しくて強いのが自慢でしょうが」
「お嬢ちゃん・・・」
こちらを向いたままの背中に覆いかぶさりきゅっと首に抱きつく。
身長差が甚だしくある私たちの場合、そうしてもまるでおんぶしてもらっているようになった。
びくり、と大げさなくらいに体が揺れ、顔がこちらを振り向いた。
切れ長の瞳をまん丸にしたガイホウ様は、いつもよりずっと幼く見えて、なんとなく可愛いと感じてしまう。
「ガイホウ様、実は口で言う以上に私に惚れてますね」
「───っ」
確信を篭めて告げれば、余裕を崩さなかった彼が、初めて無防備なまでに真っ赤に顔を染め上げた。
息を詰め、短く刈られた金色の髪をくしゃくしゃにかき混ぜる。
そわそわと視線をあちらこちらに逸らし、ぐうっと喉を鳴らして肩を落とした。
「・・・俺の」
「?」
「俺の背中を無条件で触れるのはお嬢ちゃんだけだ」
「それが?何が言いたいか判りませんけど」
「っ、だから、・・・好きだっつってんだよ、チクショウ!!」
顔を真っ赤にしたまま、普段の余裕をかなぐり捨てたガイホウ様は悔しそうに空に向かって吼えた。
余裕のない態度に私は思わず笑ってしまう。
あのふてぶてしい態度を保てないくらいに、ガイホウ様は私にベタ惚れらしい。
背中に齧り付いたままの状態で大声で笑う私に、情けなく眉を下げた後つられた様に彼も微笑む。
眉を下げたままの笑顔は普段ほど格好いいものじゃないが、それでもとても好ましかった。
「また、笑ったな」
「え?」
「覚えてるか、お嬢ちゃん。俺に向けて笑うのは、これで二度目だ」
金色の瞳を細め嬉しげに告げるガイホウ様は、酷く満たされたような表情をしている。
母親を見つけた迷子みたいな顔で、首に回ったままの腕に手を添えた。
まるで大切な宝物のように扱われ酷く動揺してしまう。
腕を外そうにもしっかりと抱え込まれていて、動かすことすら出来なかった。
「───言っておきますが」
「ん?」
「猿が嫌いじゃないからといって、ガイホウ様を好きかと問われれば『否』ですから」
「・・・本当につれねえなぁ、お嬢ちゃんは」
くくくっと笑ったガイホウ様は、それでもとても嬉しそうだった。
拝啓
遠い空の下にいるであろう、お母様。
お元気ですか?幸せに過ごしていらっしゃいますか?
あの日、お父さんとの待ち合わせの日、いなくなった私をお許しください。
私はもうお父さんを怨んでいません。
お母様を悲しませたお父さんを憎んでいません。
私とお母様ではなく、別の人たちを選んだお父さんを怨んでいません。
本当は知っていました。
お父さんは浮気したんじゃなくて、亡き親友への義理から彼らの面倒を見ると決めたって。
本当は気づいていました。
お母様がそんなお父さんを今でも愛していて、ずっとずっと待っていたって。
遠い空の下にいらっしゃる私の大好きなお母様。
どうか幸せになってください。
あの日の約束の場所に来るはずのお父さんと、二人で幸せに暮らしてください。
私はお母様の教えを始めて破ります。
彼は魅力的で強くて格好良くて女侍らせて当然と思っていて普段はだらけきっている駄目男ですが、私がいないと駄目なようです。
私は彼のことを何も知りません。彼も何も語ろうとしません。
でもそれでいいんだと思います。
何も知らない私こそ、彼は必要としているのでしょう。
お母様の元に帰ろうと思っていたのですが、私は彼を捨てていけません。
『大丈夫。人生なるようになるよ』
この精神を受け継いで、私は強く生きてまいります。
大丈夫。口説き魔で複数の女と付き合うような阿呆は選ぶ気はさらさらありません。
私は彼を置いていく気はないですが、彼を選ぶかといえばそれは別問題です。
こつこつと働く優しくて一途なだんな様を必ずゲットするとお約束します。
どうか、大切なお母様との約束を破る親不孝な娘は忘れてください。
どうか、お父さんと幸せになってください。
私はお父さんに貰った宝物と同じ、お猿さんたちに囲まれて暮らしています。
私も絶対にこの地で幸せを掴むと誓います。
だからどうか、笑顔で人生を歩いてください。
───遠い遠い空の下から。貴女が最大の誇りと言って下さった、娘の愛理より




