猿の世界にとりっぷ!(中)
高揚する気分のまま、木で出来た道をさくさく歩く。
猿の集落は木の上にある。2mはある枝が道代わりで、離れている枝には木で出来たつり橋が架かっている。
猿の一族は基本的に地上を歩かない。それは古よりの慣わしらしいが、地球と同じなら敵対種族から逃れるためだろう。
地上十数mの位置にあるこの道は当たり前に舗装はされてなく、バランスを崩したらまっさかさまで人間の私は一巻の終わりだ。
つくづく高所恐怖症でなくてよかったと思う。
「アイリー、どこいくのじゃ?」
「タイガさんのところです。ヨウゲン様用に面白い絵本を見つけてくださったんですよ」
「おいらよう?」
「はい。きっと面白いですよ」
腕に巻きつく小猿さんの頭を撫でながら告げる。
きゅるんとした大きな瞳は愛くるしく、小首を傾げた仕草は微笑まずにいられない。
その姿は昔は流行った抱っこちゃん人形に似ている。
二の腕から手首まで伸びる尻尾の先がふりふりと動き、片手で握れる小さな頭を思わずなで繰り回した。
きぃきぃと嬉しげに声を漏らしたヨウゲン様は、あのガイホウ様の弟とは思えないくらい愛くるしい。
自分より大きい猿は苦手だが、子猿さんは大好きだ。
特にお世話を仰せつかっているヨウゲン様に関しては、休みの日ですら連れ回すほど可愛がっている。
何しろヨウゲン様は甘えたい盛りで常に傍に居たがるのだ。私を母親代わりに思っているのだろう。
向こうの世界で見た小猿は大抵母親にぺったりだった。母親がいないヨウゲン様は、私にその分甘えているのだ。
腕にしがみ付いていたヨウゲン様が、するりと肩までのぼり頬を摺り寄せた。
ぬいぐるみのように柔らかな手触りはずっと触れていたいほど。
ヨウゲン様の毛並みの手入れも私の仕事の一つで抜かりはない。伊達に毎日特性のブラシで梳っているわけじゃないのだ。
「おいらえほんはすきだ!おもしろいしべんきょうになる!」
「まぁ!さすが私のヨウゲン様!お勉強を嫌がらないなんて素敵です」
「ほんと?じゃあ、おいらががんばったらアイリはおいらのおよめさんになってくれる?」
「ふふふふ。ヨウゲン様が勤勉で優しく一途に成長されたら考えますね」
「ん、おいらがんばる!」
肩の上できーきーと喜ぶ小猿は可愛い。
そう言えば昔シンバルを持ってかっしゃんかっしゃんやる猿の玩具をお母様にもらって大切にしていたが、あれは何処にやったのだろう。
考えている内に目的地にたどり着き、木に嵌められたドアをノックする。
「はいはい~?」
「タイガさん、愛理です」
「アイリさんですか~。ドアは開いてますよ~」
「はい。失礼します」
ドアを開ければ木を刳り抜いた部屋の真ん中に、にこにこした笑顔のタイガさんが居た。
こげ茶色の髪をゆるく三つ網にしたタイガさんは、穏やかな眼差しでこちらを見ていた。
ガイホウ様のように体格もよくないし見栄えもしない方だが、そのこげ茶の瞳に宿る穏やかさこそ私は好んだ。
ハーレムを持っても何の違和感もない猿の一族にありながら、彼は一夫一婦を主とするテナガザルだ。
そこら辺の価値観も含めて私はタイガさんの傍に居るのが好きだった。
何しろ他の猿の男どもは顔を見ると挨拶代わりに口説くような阿呆ばかりだ。
あの天使のような子猿ちゃんたちのなれ果てがあれだと思うと絶望する。
袖にしても袖にしても全く懲りない姿は本当に腹が立つ。
何が腹が立つって、隣に恋人と思しき女性を連れながらもこちらを口説く態度が許せない。
一度ガイホウ様に訴えたら、『口説かれるのはいい女の証だろ?何がそんなに腹が立つんだ、お嬢ちゃん?』と心底不思議そうに言われた。
猿の一族にとって強く魅力的な男のハーレムに入るのは、ごく一部の例外を除き一般的には名誉なことらしい。
私からしたら『ふざけるな!』の一言だ。
魅力的な男に侍るのが女の幸せって何様だ。
複数の女が一人の男に仕えて当然なんて考え方は、私には受け入れられない。
別の女を口説かれて平気な恋人が何処にいる。
しかしながらそれは私の常識で、猿の皆さんは色々と納得済みらしい。
重婚も罪にならないので私の方がここでは異端だ。
異端だと理解しても納得は出来ないので、余計にタイガさんの居る場所へ通うのかもしれない。
「お招きいただいてありがとうございます。これ、つまらないものですけどどうぞ」
「おやぁ?また差し入れですか~?」
「はい。マフィンです。ナッツをいただいたので、それを使いました。お口に合うといいんですけど」
「それすごいうまかったぞ!あにじゃもムハムハじゃった!」
「へぇ、ガイホウ君も。お気に入りなら僕がもらってもいいんですか~?」
「勿論です!元々私、タイガさんのために作ったんですから」
「おやおや~、それは嬉しいですねぇ。こんなに若くて可愛い人に手作り品を差し入れてもらうの、僕初めてです~」
ほにゃっと笑ったタイガさんは可愛い。
本性のテナガザルの姿も可愛かったが、彼の気質そのものがとても可愛い。
タイガさんは人で言うと大体35歳くらいらしい。
確かに少しばかり年は離れているが、恋にそんなの関係ない。
優しくて勤勉で穏やかで頑張り屋。タイガさんは私の理想だ。
さらに猿の一族でありながら私と極めて近い価値観を持っていて下さる。
笑顔にめろんとなっていると、不意に後ろから体が引かれた。
目をまん丸に見開いているといきなり視界が高くなる。
「おやぁ、ガイホウ君じゃないですか~。遊びにいらしたんですか~?」
「・・・俺がこんなとこに遊びに来るわけないだろうが。遊びならもっと面白げのある場所に行く」
「ならさっさと消え失せて下さい。手早く失せて下さい。色々な意味でお呼びじゃありません」
「つれねえなぁ、お嬢ちゃんは。俺が女を追いかけるなんて滅多にねえんだぜ?」
「左様ですか。もし一億万が一私がガイホウ様に憧れていたなら喜ぶでしょうけど、押し付けがましいだけですね」
「・・・本気でつれねぇ」
「あははっ、ガイホウ君がそこまで袖にされてるのを見るのは~初めてですね~」
「・・・タイガさんでしたら歓迎です。優しくしてくださいましね」
「え!?」
ガイホウ様の腕に腰掛けた状態で手を広げれば、金魚のように口をパクパクとさせたタイガ様は顔を真っ赤にして目を見開く。
私より随分年上のはずなのにそんな仕草はとても可愛い。
きゅん、と胸の奥が高鳴り思わず微笑が零れる。
腰を持っていた手を移動させると、ガイホウ様は私を腕に座らせた。
がっしりとした腕は私一人支えても全く揺るがないが、セクハラに腹が立ち爪を立てる。
『痛ぇ』と眉を寄せながらも、聞こえよがしにため息を吐き出した。
「お嬢ちゃん趣味が悪いな。タイガの何処がいいんだ」
「優しくて穏やかで働き者で女侍らさないで可愛いところです」
「三十路越えた男が可愛い?気色悪いの間違いだろ。そいつがその年まで独り身なのは魅力ねえから女が寄って来ないのが原因だ。大体、力がある男が女を囲うのは猿の中では普通だぜ?」
「ですがタイガさんは違います。ねぇ、タイガさん?女は一人で十分ですよね」
「・・・その、僕はそもそもガイホウ君みたいにもてませんし~、それ以前ですけど。でも好いた相手は一人で十分ですね~」
「ほら見てください。いいですか、ヨウゲン様。真に女を惚れさせたければ、タイガさんみたいに一途な男でなければ駄目ですよ」
「いちずならアイリがよめにくるのか?」
「ええ、そうです。私は大勢の中の一人より私だけを見てくださる方がいいですもの」
「そうかー!ならおいらあにじゃみたいにならない」
「・・・人の弟にどんな教育施してんだよ、お嬢ちゃん。他所じゃどうか知らねえがな、猿の中じゃハーレムは異端でも何でもねぇ。むしろ強い男の証みたいなもんだ」
「それでも例外はいらっしゃいます。ね、タイガさん」
「え?まぁ、確かに僕みたいな者もおりますけれども~。長のガイホウ君と比べるのも・・・。そもそも僕みたいな弱小者と違い、ガイホウ君は育ちが違いますから~」
「タイガ」
静かな怒気を孕んだ声にタイガさんがびくりと身を竦ませる。
私の腕に巻きついていたヨウゲン様も身を縮めるようにして力を篭め、硬く目を瞑った。
腕に抱いていた私を降ろすと、無言でタイガさんに近寄る。
そして胸倉を掴み上げると顔を近づけた。
そうするとタイガさんとガイホウ様の身長差は20cm以上あるので、タイガさんは爪先立ちになる。
怒りのあまりかガイホウ様のお尻から尻尾が現れ、ばしんばしんと床を打った。
「ヨウゲンの前で余計な口を利くな。これの傷はまだ癒えていねえんだ。俺だけの問題なら許すが、分を弁えろ。昔なじみであろうと容赦はしない」
「・・・すみませんでした」
「気分が悪い。屋敷に帰る」
唐突な怒りに唖然としている私の前を横切り、ガイホウ様はそのまま出て行った。
一体何が彼の逆鱗に触ったのか判らないが尋常な様子でないのは判る。
私が何を言っても何をしても怒らなかったガイホウ様の初めての怒りは十分に恐ろしく、私が直接怒りをぶつけられたのでもないのに震えが治まらない。
同じように怯えているヨウゲン様を抱きしめると、私の腕の中で彼は意識を失うよう眠りについた。
「アイリさん、ガイホウ様を追いかけてください」
「え?」
「僕の失言です。彼が忘れていないのを知っていたのに。ヨウゲン君も傷を負っているのを知っているのに」
「タイガさん?」
「お願いです、アイリさん」
「でも、今から追いかけても追いつかないでしょうし・・・それに、私が向かっても」
「いえ、あなたがいいんです。彼の行く場所は判ってます。場所を教えますから、お願いです」
焦りのためかいつもより早口になったタイガさんは、必死な眼差しで私を見詰めた。
幾度も言葉を重ねられ、逃げ場を失い俯く。
私だって判っている。
今のガイホウ様がとても揺れやすい状態であろうことは。
いつだって余裕を持ち笑っているガイホウ様。
その彼のあからさまな動揺は初めてで、心から戸惑っている。
瞳は傷ついた色を宿していた。
唇は強張り引きつっていた。
私を抱いた腕は初めて加減を間違った。
呼吸は荒くその雰囲気は荒れていた。
まるで───そう、まるであの日の自分みたいだった。
父親に捨てられたことを知り、受け入れられない傷に涙を堪えた。
癒せぬ傷を抱え、そのくせ傷は深いものではないと強がり奥深くに眠らせた、あの日の私がそこに居た。