猿の世界にとりっぷ!(前)
拝啓 お母様。
私が世界の誰よりも尊敬する美しくて賢くて強いお母様。
お元気に過ごしていらっしゃるでしょうか。
風邪など召されずに健やかにお過ごしでしょうか。
何でもお一人でなされようとするお母様が、私は心配でなりません。
呑んだくれで仕事もせずいつも家で寝ている挙句に浮気しまくりな親父が愛人と蒸発してから、細腕一つで私を育ててくださったお母様。
いつだって心の一番大事な部分にはお母様がいてくださいます。
大好きな大好きなお母様。それなのに今の私は大好きなお母様の手助けをして差し上げることが出来ません。
突然目の前から居なくなった親不孝な娘にお母様はどれほど心を痛められるでしょうか。
想像するだけで胸が張り裂けてしまいそうです。
ですがどうか心配なさらないで下さい。
貴女が育ててくださった娘は、何処の地でも強く生きていきます。
どうかどうか笑って過ごしてください。
『大丈夫。人生なるようになるよ』
その一言を胸に、私は生きてまいります。
遠い異世界の空の下から、私は貴女を思い続けます。
どうか、親不孝な娘など早く忘れて幸せになってください。
貴女が最大の誇りだと言って下さった娘、愛理より
「・・・お?お嬢ちゃんじゃねぇか。こんなところで何してんだ?」
折角の仕事休みに最愛の人への手紙を書いていた私は、どこか気だるさを含むバリトンの声に顔を引きつらせる。
ちなみにこんなところとは広大な屋敷の中にある台所のさらに片隅にある隙間の中だ。
手紙を書いているなんて誰にも見られたくなくて、小さな体を生かして入り込んだのに、よりにもよってこの人に見つかるとは。
悔しさに唇をかみ締めながら、ゆるりと顔を後ろに向ける。
そこには少し焼けた肌に濃い金色の髪と同色の瞳を持つ、がっちりとした体格の精悍な顔つきの男が立っていた。
少し太めの眉は訝しげに上げられ瞳は無駄に好奇心がちらついている。
無精ひげが残る顎に手を当てると、優に2メートルは超える体を折り曲げ私を覗き込んだ。
この男の名前はガイホウ様。一応私の上司に当たる人だ。
男臭さ爆裂の美丈夫だが、ありがたくも私の好みから外れている。
自分より60cm近く小さい私にまで手を出そうとする、色を好むセクハラ野郎だ。
しかしながら一応(ここ強調)私のご主人様でもある。
この世界は私が住んでいる世界とは全く違う。
詳しいことは右から左へ聞き流してしまったのであれだが、どうやら空から人間が異世界トリップで降ってくることがある世界らしい。
基本的に住んでいるのは獣人と呼ばれる獣の姿と人型の姿を有する彼らで、空から降ってくる人間族は落人と呼ばれるらしい。
ありがたい事に落人はこの世界で保護されるらしく、何らかの仕事をえるまでは上位種に保護してもらえる。
ちなみに私が落ちたのはガイホウ様が治められる猿たちが住む森の中にある集落だった。
あの日、尊敬し敬愛するお母様と一緒に遊びに行った動物園。
何と生まれたばかりの子猿に触れるというイベントがあり、お母様が行きたいと言うので私も付いていった。
きゅるんとした瞳にテシテシ動く長い尻尾。
お乳を上げられるとのことで奇声を上げて喜ぶお母様に手近の子猿を持たせ、私はと視線をめぐらせたとき、私は一匹の子猿を見つけた。
私を誘うように尻尾を振りながら子猿は木が生えている方へ歩いるし、飼育係の人はお母様に付きっきりで気付いていないしで慌てて彼だか彼女だかを追いかけている途中───私は何らかの穴に落ちた。
そこから先は長い長い。
ある程度まではずっと罵詈雑言、怨み辛みを延々と吐き出し続けていた私だが、段々と飽きてきた上に何だか酔いそうになったので目を瞑った。
船の上で酔う人間は耳から得る情報と視覚的な情報が脳で一致しないために起こる現象だという。
なら目を瞑れば少しはマシになるんじゃないかと思った私は、半分人生を投げていた。
何故ならどう考えてもあんな長距離を落下すれば、落ちた瞬間即死だろうと想像はつく。
東京タワーから落ちてももっと早く地上に着くわ!と突っ込みを入れたいくらいの長時間を私は延々と落ち続けていた。
奇跡でも起こらない限り、どう考えても無理でしょう。
ならせめて、周りを見たくないと望んだのは、恐怖を堪えるためだったに違いない。
しかし神様は奇跡を起こしてくださった。
瞼の裏が明るくなった瞬間、風の音が変わる。
これはついに覚悟する時が来たな、と体に力を込めて衝撃に備えると、想いも寄らない事態が起こった。
「っ!!?」
これは確実に腕が抜けたな、と確信に至る強い衝撃と共に、右腕が嫌な感じに傾く。
あまりの痛みに声も上げれず、舌を咬まない様に必死に歯を食いしばった。
ぶわっと冷や汗が滲み出て一気に体温が下がる。
涙を滲ませながら、それでも漸く開いた視線の先には、超巨大なモンキーがいた。
日本語で言うと超巨大猿。
ひくりと喉の奥が引きつった。
「・・・・・・」
「・・・・・・」
太陽を浴びて反射する美しい毛並みとか、深い色をした瞳とか、堂々とした立ち振る舞いとか、そんなの全く関係ない。
痛みに絶叫するどころか、驚きすぎて一瞬涙も吹っ飛んだ。
ゴリラ並にでかい猿に腕を引っ張られ、私はどうしようもなくて途方にくれる。
とりあえず悲鳴を上げたくとも痛みに声が出せないし、泣き喚きたいのにしぶとい理性がそれを赦さない。
仕方なしに妥協案として普段は滅多に動かさない表情筋をフル稼働させると、へらり、と小さく笑ってみせる。
驚いたように目を見開いた超巨大猿の姿を最後に、私の意識はブラックアウトした。
後に私の上司になるガイホウ様は、意識を失ったままの私をそのまま保護して屋敷に連れ帰ってくださった。
そして手厚く看護していただき、勿論心から感謝している。
だが、私はこう思わずにいられない。
何故、別の種族のところに落ちていかなかったのか、と。
一度拝見した虎族の長様はそれはもう格好いい。格好いい上に優しく紳士で、そこに住む同胞のりんちゃんもすこぶる可愛い。
育てられているちいさきものは愛らしく、私も混ぜていただきたい。
そこが駄目なら凛とした狼族のお方の所でも、野性的な豹族のお方のところでも、優しげな羊族のお方のところでも、ジェントルメンな犬族のお方のところでも、お会いしたことがない他の種族のどのお方のところでもいい。
とにかく、この猿族と書いて好色族と読むセクハラ野郎、否、ガイホウ様の傍から離れた場所で暮らしたい。
当たり前だが私はガイホウ様に感謝している。
助けていただいたご恩は忘れないし、一生をかけて返したいと願っている。
当たり前に差し伸べられた手に涙を流したこともある。
しかし、だ。
私は好色野郎のハーレムの一員になる気はこれっぽっちもないし、私の理想から正反対の生き物に手篭めにされる気はない。
ガイホウ様はいいところも沢山お持ちだが、私にとっては最早マイナス面の蓄積が多くなりすぎた。
まず第一に、彼は怠惰だ。
猿の種族は森に集められた各国の図書を大木の中に作った図書館で管理する役割を持つ。
つまり司書さんのようなものだが、集められた情報を選り分けしたり欲しがる相手に郵送したりと仕事はあるくせにガイホウ様は仕事をしない。
働かない男が嫌いな私からすると、お前は日曜日の親父かと言いたくなる位にのんべんだらりんとソファの上、もしくはベッドの上でのったりのったり過ごす。
そして第二に、彼は酒を好む。
アルコールには目がなく、飲み始めれば一本では終わらない。それどころかいい感じに酔っ払うと一樽だろうと消費する。顔を赤らめ酒臭い息を吐きながら絡む姿は最悪だ。
さらに第三に、彼は色を好む。
そういう種族なのかもしれないが、基本的に彼に仕えるメイドはほとんどがお手つきだ。例外は私くらいで、その私にすら彼は言い寄る。働き者で美人のメイドさんたちは割り切っているらしいが、私は割り切れない。
彼はとてもいい人だが、被ってしまうのだ、私の父に。
私の最愛のお母様を苦労させ、そして勝手に私達を捨てて蒸発した父に。
あんな屑とガイホウ様を一緒にするのは甚だ申し訳ないが、それでもふとした瞬間に考えてしまうのは、お母様の言葉が原因かもしれない。
『いい、愛理。どれだけ魅力的でも強くても格好よくても止めなさい。顔がいいからって女侍らせて当然と思う男もアウトよ。普段からこつこつ働く男がいいわ。紐は駄目よ、紐は。どうせなら利益のために尽くしてくれるホストのような男にしなさい。ホストくらいに己の技術を高めてお金と引き換えに心地よくしてくれる一流の男なら考えてもいいわ。あなたは私に似て顔はいいから変な輩には十分気をつけるのよ』
子供の頃から動物園に連れて行ってもらうたびに聞かされた言葉。
猿を見るお母様の瞳は愛しげで、そのくせ悲しみに満ちていた。
子供心に誓ったのだ。お母様の言いつけを守ろうと。
おかげさまで私は文武両道に育った。
小さく華奢な体つきに、掌から僅かにはみ出るサイズの胸。白い肌と癖の入った茶色の髪。顔は小さく反して瞳は大きい。
よくお人形さんみたいだと称された私は異性の目に止まりやすい。
しかし利用される気は欠片もなく、弄ばれるなど真っ平御免だ。
自分とお母様を護るために近所の道場で頼み込み、無料で教えを請うた日が懐かしい。
とにかく、私からすれば好みじゃない男もいいところのガイホウ様は、何が楽しいのか何かと私に構ってくる。
今だってにやにやと笑みを浮かべて、警戒心も露にした私の首根っこを捕まえるとひょいと持ち上げるとぐっと顔を近づけてきた。
絶対的な体力差故になされる行為は苛立つが、抵抗すれば喜ぶだけと学んだのでぐっと我慢する。
長だけあってガイホウ様は強い。手合わせを申し込んだらそれこそ赤子の手を捻るようにやられた。
悔しさを胸に抱き、両腕にお母様へと書きとめた手紙を抱きしめ睨めば、喉を鳴らしそうな顔で目を細めた。
「何だ?随分と反抗的な目をするじゃねぇか、お嬢ちゃん。機嫌でも悪いのか?」
「・・・この体勢で機嫌がいい人間が何処にいるのですか」
「駄目か?俺の弟や妹はこうして首根っこ捕まえて移動するんだがなぁ」
「私は貴方の弟でも妹でもありません。手を離してください。それに今日は私はお休みを頂いてます。ヨウゲン様と一緒にお出かけするんです」
ツンと顎を逸らして訴えた私の言葉に、ふぅん?と愉しげな声を出したガイホウ様の表情は決して笑っていない。
ヨウゲン様とはガイホウ様の弟で、私が面倒を任されている転化前の子供だ。
お母様の教育で炊事洗濯家事掃除、ついでに併せて勉学運動と全てをきっちりと修めてきた私は、現在ヨウゲン様御付きのメイドになっている。
去年まではメイド見習いだったのだが、一年で仕事を全て覚え、ついでに空いた時間に勉強などもしっかりして知識を蓄えたところ、メイド頭に移動を命じられたのだ。
それまで数多くのセクハラをガイホウ様から受けていた私のその瞬間の喜びったらない。
一年間地道に努力を続けたのも彼の御付きから逃れるためで、涙涙で毎日訴えた甲斐があったものだ。
ヨウゲン様はまだ子供でいらっしゃるので、この兄上のような色欲魔人にはなられていない。
それなら私の教育次第では彼は一夫一婦制を踏襲できるのではないか、というのが最近の私の目標だ。
ヨウゲン様を腕に抱きながら睨み付けていると、人差し指一本で私の顎を持ち上げたガイホウ様は、にいと随分と漢くさい顔で笑った。
性質の悪い笑みに、背筋を怖気が走る。
肉食動物に狙われた獲物は、きっとこんな気持ちになるに違いない。
僅かに身を震わせれば、発達しすぎた犬歯を剥き出しにしてガイホウ様は顔を近づけた。
唇が触れるのではないか、と思えるほどすれすれまで近づくと、うっそりと口を開く。
「なぁ、お嬢ちゃん」
「・・・何ですか」
「どれだけ抵抗したって無駄だ。俺はお嬢ちゃんを気に入ってるんだ。手放す気はないぜ?」
「関係ありませんね。それに私は好きな殿方がおります故、ガイホウ様はお呼びじゃありません」
「好き、ねぇ。俺以上に魅力的な男がここに居たっけか?」
「ええ、居ますね。私にとってはあなた以上に魅力的な方。お静かで女関係も派手じゃなくお優しく穏やかで働き者のタイガ様が」
胸を張って告げれば、ガイホウ様の瞳がまん丸になった。
手の力が緩んだのを気に、一気に体を伸ばして手から逃れる。
唖然としたままのガイホウ様にスカートの端を持って礼をすると、私はさっさとその場を後にした。