婚約破棄された私を拾ってくれた、完璧な公爵様。ただ一つ——夜毎に地下から響く『何かを砕く音』の正体だけが、わからない
雪の降る夜に捨てられるというのは、思っていたよりもずっと、静かなことだった。
「地味で、辛気くさくて、一緒にいても面白くもない」
義妹の甲高い笑い声も。
わたしの婚約者だったはずのユリウス様の、心底うんざりしたような溜息も。
門が閉まってしまえば、もう何も聞こえない。
聞こえるのは、雪が降り積もる、あの綿を置くような、ひそやかな音だけ。
わたし――リアナ・ホルトは、たった一枚の薄い外套のまま、白く染まっていく街道の端に膝をついていた。
指の感覚は、とっくになかった。
不思議と、涙も出なかった。
(ああ、わたし、このまま消えてしまうのね)
そう思ったとき、それは少しだけ、ほっとするようなことでもあった。
もう、誰にも要らないと言われずに済むのだから。
――だから、そのひとが目の前に膝をついたとき、わたしは自分が幻を見ているのだと思った。
雪明かりの中に、まるで月の光を集めて紡いだような、白金の髪。
こちらを覗き込む菫色の瞳が、泣きそうに揺れていた。
「……見つけた」
低くて、やわらかい声だった。
「こんなに冷たくなるまで。……君は、いったいどれだけ待たされたんだい」
問いの意味も分からないまま、わたしはただ、その瞳から目を離せずにいた。
そのひとは、汚れた雪の上に膝をついたことなど気にも留めず、凍えたわたしの手を、そっと両手で包んだ。
「もう大丈夫。もう、誰も君を放り出したりしない」
包まれた指先から、じんわりと熱が広がっていく。
それがあまりに温かくて、わたしはそこで初めて、ぽろりと涙をこぼしてしまった。
* * *
そのひとは、レオンハルト・エインズワース公爵様、というのだと、あとから知った。
国で一番美しく、一番心の優しい貴族だと、誰もが口を揃えて言う。
そんな雲の上のお方が、どうして雪の街道でわたしなんかを拾ったのか。
理由を尋ねる前に、わたしは温かいお風呂に入れられ、羽根のように軽い寝間着を着せられ、暖炉の燃える部屋のふかふかの寝台に寝かされていた。
「熱があるね。……可哀想に。こんなになるまで」
レオンハルト様は寝台の傍らに腰かけて、濡らした布でわたしの額を拭ってくれた。
公爵ともあろうお方が、使用人のするようなことを、まるで宝物を扱うみたいに、丁寧に。
「あの、レオンハルト様。わたし、こんなに良くしていただく理由が……」
「理由?」
彼はくすりと笑って、わたしの手の甲に、そっと唇を落とした。
古い痣の残る、みっともない手の甲に。
「君がここにいてくれる。それ以上の理由が、この世にあるのかな」
――どうしよう。
心臓が、うるさいくらいに鳴っている。
こんなにまっすぐな優しさを向けられたのは、生まれて初めてだった。
「今夜はもう、何も考えなくていい。怖いことも、冷たいことも、全部おしまいだ」
彼の指が、わたしの髪を梳く。
「君を傷つけたものは、これから僕が、ひとつ残らず片付けてあげるからね」
そのときの彼の声が、ほんの少しだけ、いつもと違う色をしていたことに、わたしは気づかなかった。
まぶたが、どうしようもなく重かったから。
「……おやすみ、僕のお姫様」
やわらかな闇に、意識が沈んでいく。
暖炉の薪が、ぱちりと爆ぜた。
その音に混じって――ずっと下のほう、この屋敷のどこか地下から、微かな音が聞こえた気がした。
ゴリ、……ゴリ。
何か硬いものを、根気よく、すり潰しているような。
(……なんの音だろう)
けれど、それを確かめるには、わたしはあまりに疲れすぎていて。
きっと、屋敷が古いせいだ。
そう思うことにして、わたしは生まれて初めての、温かい眠りに落ちていった。
――その音が毎晩聞こえるようになるのだと、まだ知らないまま。
* * *
公爵家での日々は、砂糖菓子の中に住んでいるみたいだった。
朝、目を覚ますと、寝台のすぐ横にレオンハルト様がいる。
「おはよう、僕のお姫様。よく眠れたかい」
その一言だけで、わたしの一日は、もう十分すぎるほど満たされてしまう。
朝食には、わたしの好きなものばかりが並んだ。
昼には、庭を散歩しながら、他愛のない話をした。
夜には、暖炉の前でわたしの髪を梳きながら、彼は古い物語を読み聞かせてくれた。
誂えられたドレスには、決まってわたしの好きな白い薔薇の刺繍が入っていた。
あんまり良くしていただくのが申し訳なくて、ある日わたしは、こっそり自分で暖炉に薪をくべようとした。
実家では、それはずっと、わたしの役目だったから。
けれど炭を掴む前に、後ろからそっと、手首を掬い上げられてしまった。
「こら。どうしてそんなことをするの」
「だって、わたし……何もお返しできることがなくて。せめて、これくらいは」
「リアナ」
レオンハルト様は少しだけ困ったように眉を下げて、わたしの両手を、大きな手のひらで包み込んだ。
「君のこの手は、薪をくべるための手じゃないよ。僕に触れられて、幸せそうに笑うための手だ」
「そんな、もったいない……」
「お返しなら、一生かけて僕にさせてほしいな。君はただ、ここにいてくれるだけでいいんだ」
その声があんまり甘くて、わたしは何も言い返せずに、ただ俯いてしまった。
――そしてある朝、彼はわたしの手首を取って、そこに唇を寄せた。
実家で叩かれ、抓られてできた、みっともない古い痣に。
「痛かっただろう。……こんなに細い手首を」
「もう、ちっとも痛くありません。レオンハルト様がいてくださるから」
「うん。もう二度と、誰にも痛くさせない。君を傷つけたものは、僕が全部、なかったことにするからね」
なかったことに、なんて。
ずいぶん大袈裟なひとだと、そのときのわたしは、くすくす笑っただけだった。
その言葉の、本当の意味を。
深く考えたりは、しなかったのだ。
――ただ一つ。
夜になると、あの音が聞こえるのだった。
ゴリ、……ゴリ。
眠りかけた耳の奥に、屋敷の一番下のほうから、あの低い、地を這うような音が届く。
毎晩、毎晩。
ある夜、わたしはとうとう我慢できずに、寝間着のまま廊下へ出てみた。
「おや、お嬢様。こんな時間にどちらへ」
燭台を手にしたわたしを見つけたのは、この屋敷で一番の古株だという、老庭師のヨナス爺やだった。
「あの……夜になると、下のほうから変な音が聞こえるの。何か、砕くみたいな」
爺やの、皺だらけの手が、ほんの一瞬だけ止まった。
「……ああ。あれは、若様のご趣味のお仕事ですよ」
「趣味の、お仕事?」
「ええ。お嬢様は何もお気になさらず。どうぞ、温かいお部屋でお休みくださいまし」
そう言って爺やは、やんわりと、けれど有無を言わせず、わたしを寝室へと送り返してしまった。
次の日、庭に出て、わたしは息を呑んだ。
真冬だというのに、白い薔薇が、庭いっぱいに咲き誇っていたのだ。
その奥では、赤い薔薇が、まるで血を吸ったように深く濃い色で咲いている。
「まあ……! レオンハルト様、薔薇が、こんなに」
「気に入ってくれた? 君のために、うんと手をかけたんだ」
「魔法みたいです。真冬なのに、どうして」
「秘密だよ」
彼は悪戯っぽく笑って、一輪の白い薔薇を手折り、わたしの髪に挿してくれた。
「良い土と、良い肥料。庭仕事は、根気がいちばん大事なんだ」
ふと、赤い薔薇の根方で、何かが鈍く光っているのが目に留まった。
しゃがんで拾い上げると、それは泥にまみれた、金の飾りボタンだった。
小さな紋章が彫られている。蔦と、剣。
なんだか、どこかで見たことがあるような気がして――けれど、それがどこだったのか、うまく思い出せない。
「あら……こんなところに。誰かの落とし物でしょうか」
わたしがそう呟いた次の瞬間、レオンハルト様の指が、すっとそれを攫っていった。
「ああ、それは僕のだよ。庭仕事の最中に、失くしてしまってね」
「まあ。大切なものだったのでは?」
「いいや。……もう、必要のないものだ」
彼はボタンを無造作に上着の内へしまうと、土で汚れたわたしの指先を、丁寧に拭ってくれた。
「さ、手が冷たくなる前に、中へ戻ろうか。僕のお姫様」
* * *
その音の正体を、わたしがとうとう尋ねたのは、拾われて一月ほど経った頃だった。
「レオンハルト様。あの、夜の音のことなのですけれど」
「音?」
「はい。地下のほうから、ゴリ、ゴリって……何かを砕くような音が、毎晩」
ティーカップを傾けていた彼は、少しも動じずに、いつものやわらかい笑みを浮かべた。
「ああ、あれか。驚かせてしまったね」
「何を、していらっしゃるんですか」
「宝石を磨いているんだよ。君のために」
「宝石を……?」
「そう。世界で一番綺麗なものを、君に贈りたくてね」
彼はカップを置いて、わたしの手を両手で包んだ。
「硬くて、少し手こずるものもあるけれど。……大丈夫、じきに、とびきり綺麗になるよ」
その言葉が、嘘みたいにやさしく響いたので。
わたしは、それ以上何も訊けなくなってしまった。
――ちょうどその頃、屋敷を訪ねてきた伯爵夫人が、お茶の席でこんな話をした。
「ねえお嬢様、聞きまして? あなたの元の婚約者……ユリウス様とおっしゃったかしら。あのお家、ご家族もろとも、ある日忽然と姿を消してしまったんですって」
「まあ……行方が、分からないのですか」
「ええ。夜逃げだの、山賊に遭っただの、噂は色々。まったく、物騒な世の中ですこと」
わたしは、なんと答えていいか分からなかった。
正直に言えば――少しだけ、ほっとしたのだ。
もう二度と、あの人たちに会わなくて済むのだと思うと。
隣で、レオンハルト様が、静かに微笑んでいた。
「本当に。……物騒な世の中ですね、夫人」
* * *
眠れない夜だった。
ゴリ、ゴリ、と。
その音は、いつもより少しだけ、はっきりと聞こえた。
わたしは寝台を抜け出し、燭台も持たずに、音のするほうへと歩き出した。
裸足の裏に、石の床がひやりと冷たい。
一段、また一段と、螺旋の階段を降りるたびに、その音は少しずつ、大きくなっていく。
ゴリ。
ゴリ、ゴリ。
心臓が、妙に速く鳴っていた。
――怖い、と。
ほんの一瞬だけ、そう思った。
でも、すぐに打ち消した。
だってその音の主は、わたしを世界で一番大切にしてくれる、あの優しいひとなのだから。
怖いはずが、ないのだ。
宝石を磨いてくださっているのなら、そのお姿を、一目だけでも見てみたかった。
冷たい石の廊下を辿った先、地下の一番奥に、ぼんやりと灯りの漏れる小部屋があった。
扉の隙間から、そっと覗く。
黒い革の手袋をつけたレオンハルト様が、こちらに背を向けて、何かの作業に没頭していた。
石の器のようなものに向かって、根気よく、腕を動かしている。
ゴリ、ゴリ、ゴリ。
傍らの布の上には、白く硬そうな欠片がいくつも。
足元には、細かく砕かれた土色の粉が、袋にいくつも詰められていた。
――ああ。
胸が、いっぱいになった。
こんな夜更けまで、たった一人で。
わたしのために、宝石を磨いてくださっているんだ。
みっともない痣だらけの、なんの取り柄もないわたしのために、この人はこんなにも。
気づけば、わたしの目からは、ぽろぽろと涙がこぼれていた。
「……リアナ?」
小さな嗚咽を聞きつけて、彼が振り返った。
一瞬だけ、その菫色の瞳が、見たことのない色に沈んだ気がした。
けれどそれは、瞬きひとつの間に、いつもの蕩けるような甘さに戻っていた。
「駄目じゃないか。こんな冷たいところに、裸足で降りてきて」
彼は手袋を外し、汚れひとつない手で、わたしを軽々と抱き上げた。
「まだ夜は冷えるんだ。僕のお姫様は、温かいところにいなきゃ」
「でも、レオンハルト様が、わたしのために……」
「うん。もう少しでね、完成するよ」
彼の胸に頬を寄せると、微かに、土の匂いがした。
そして、その奥に――嗅いだことのない、けれど不思議と懐かしいような、鉄に似た匂いが、ほんの少しだけ。
わたしはなぜだか、その匂いを深く吸い込まないようにした。
そうしたほうがいい気が、したのだ。
階段を上る彼の腕は、少しも揺れなかった。
まるで、この暗くて冷たい場所を、何度も何度も通い慣れているみたいに。
「怖いものは、何も見なくていい。君はただ、幸せなことだけ考えていて」
低い声が、耳元をくすぐる。
「わたし、怖くなんて……」
「そう。それでいい」
彼はわたしのこめかみに、ちいさく口づけた。
「君のその綺麗な目には、綺麗なものだけ映っていればいいんだよ」
わたしは、こくりと頷いた。
このひとがそう言うのなら、きっと、それでいいのだと思った。
* * *
春が来て、わたしとレオンハルト様は、静かに式を挙げた。
参列者は少なかったけれど、庭を埋め尽くす薔薇が、どんな祝福の言葉よりも美しかった。
気づけば、あの古い痣は、わたしの手首から、すっかり消えていた。
鏡に映る顔からも、いつも人の顔色ばかり窺っていた、あの怯えた表情が消えていた。
わたしは生まれて初めて、心の底から安心して、笑えるようになっていた。
「よく笑うようになったね、リアナ」
食卓で、レオンハルト様が口元を綻ばせる。
「レオ様のおかげです。わたし……こんなに幸せでいいのかしらって、ときどき怖くなるくらい」
「いいんだよ。君はもう、何ひとつ怖がらなくていい」
彼はテーブル越しに手を伸ばして、わたしの手に、自分のそれを重ねた。
「怖いものは、ぜんぶ僕が片付けたからね」
夏。
満開の庭を二人で歩きながら、わたしは思わず声をあげた。
「今年の薔薇、去年よりずっと、綺麗に咲いたのね」
白も、赤も。
どの花も、ぞっとするほど大輪で、生き生きとしていた。
「ああ」
レオンハルト様は愛おしそうに、わたしの髪に挿さった一輪へ、指先で触れた。
「今年は……とびきり良い肥料が、たくさん手に入ったからね」
「ふふ。レオンハルト様の庭仕事は、本当に魔法みたいです」
「君が喜んでくれるなら、僕はいくらでも手をかけるよ」
彼は身をかがめて、わたしの髪に、口づけをひとつ落とした。
「これから先も、ずっとね。君を傷つけるものは、ひとつ残らず――」
そこから先の言葉は、風にさらわれて、よく聞こえなかった。
わたしは、この上なく幸せだった。
その夜も、寝台に沈むわたしの耳の奥に、あの音は届いた。
ゴリ、……ゴリ。
屋敷の一番下のほうで、あのひとが今日も、根気よく何かを磨いている。
わたしのために。
「……おやすみなさい、レオンハルト様」
わたしは目を閉じて、その優しい子守唄のような音に包まれながら、ゆっくりと眠りに落ちていった。
――その音の正体を、わたしは、とうとう知らないままだった。
けれど今も、わたしは――こわいくらいに、幸せなのだ。
最後までお読みくださり、ありがとうございました。蜜月 憂です。
甘いのに、少しだけ背筋が冷える――そんな読後感をお届けしたくて書きました。
リアナは何も知らないまま、これからもずっと幸せに笑っています。どうかそのままで。
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