第2部 後編
十二月が近づくころ、三津谷さんのお父さんが長野で倒れた。
電話を受けた三津谷さんの顔色が変わった時、私たちはただ事ではないとすぐにわかった。
佐藤部長も片山さんも、すぐに休暇を認めた。
「もちろんだ。仕事のことは心配しなくていいから、しっかりお父さんに寄り添ってやれ。」
「俺たちのことは気にしなくていい。こっちはみんなでカバーするから。」
三津谷さんは長野へ向かった。
そこで待っていたのは、お父さんの病気という現実だった。担当医は白川という医師で、三津谷さんのお父さんが虚血性心疾患を抱え、それが心筋梗塞の原因になった可能性が高いと説明したらしい。
「三津谷さんのご家族ですね。担当医の白川です。お父様の状態について説明させていただきます。」
三津谷さんは病室でお父さんと向き合い、怒りと心配を抑えきれないまま言ったという。
「医者には心筋梗塞だって言われたんだ。疲れなんかじゃ済まないよ。どうしてもっと早く病院に行かなかったんだ。」
その話を後で聞いた時、私は、三津谷さんが家族の前ではただの優しい父親や夫ではなく、息子でもあるのだと初めて強く感じた。
羽田ではその間、私たちが三津谷さんの分まで働いた。
私が
「三津谷さん、大丈夫ですかね。」
と片山さんに聞くと、片山さんは穏やかに言った。
「彼なら大丈夫だ。責任感の強い男だから、きっと立て直してくるさ。でも、戻ってきたときに居場所があるよう、俺たちが頑張らないと。」
その言葉に、私は妙に救われた。
片山さんは、やっぱりこういう時に一番頼りになる。
三津谷さんが戻ってきた日、内田さんはいつもの調子で言った。
「お帰りなさい、三津谷さん!いやあ、ついに戻ってきましたね!これでまたチーム全員揃いましたよ。」
篠田さんも笑っていた。
その時の私は、全員がそろうことの意味を前よりずっと重く受け止めていた気がする。
やがて新システムの運用が始まった。
最初こそデータの遅延や一部エラーは起きたけれど、チーム全体でカバーし、大きな混乱なく乗り切った。
その夜、内田さんが小さなクリスマスツリーを持ち込み、鈴木さんがあきれながらも飾り付けを手伝っていた。
「なんでわざわざツリーを飾るんですか?」
「気分が大事なんだよ、鈴木。」
そんな何気ないやり取りさえ、少し愛おしく思えた。
一方で、その頃から篠田さんはときどき浮き立つような様子を見せていた。
早退したり、クリスマス前に急いで帰ったりしていて、私はてっきり本当に好きな人がいるのだと思っていた。
年が明けて二月。
私は昼休みに女子トイレで、涙を浮かべた篠田さんを見つけた。
「篠田さん、大丈夫ですか?」
「本当に何でもなから。」
その時はそれ以上聞けなかった。
けれどその夜、貨物エリアで火災が発生し、私たちはまた一丸となって対応に追われた。
火は激しく、夜空を赤く染め、煙は滑走路へ流れ込んだ。
旅客機も貨物機も、乗客も、空港そのものも危険の中にあった。
片山さんはいつものように即座に指示を出した。
「真奈美、現在の航空機の状況を確認しろ。鈴木、貨物エリア周辺の機体を安全な位置に移動させるよう誘導してくれ。」
レーダールームでは三津谷さん、内田さん、篠田さんが滑走路変更や到着機の再調整を進めた。
その最中でさえ、内田さんは篠田さんを気にしていた。
「篠田、大丈夫か?」
篠田さんは短く答えた。
「ええ、問題ありません。」
さらに後で、三津谷さんも言った。
「篠田、無理するなよ。何かあれば言え。」
すると篠田さんは、いつになく硬い声で答えた。
「任務は全うします。それが私の仕事ですから。」
あの火災の夜、私はみんながそれぞれ何かを抱えながら、それでも持ち場を守っているのだと思い知らされた。
火災の翌朝。
佐藤部長が私たちをねぎらった後も、篠田さんだけはどこか上の空だった。
内田さんがたまりかねて声をかける。
「おい篠田、大丈夫か? 全然元気ないじゃん。何かあったら遠慮せず相談しなって。」
私も続けた。
「そうですよ、篠田さん。私たちチームなんですから、一人で抱え込む必要ないですよ。」
すると篠田さんは深いため息をついて、ぽつりと言った。
「私の気持ちなんて、わかるわけないじゃないですか。」
空気が止まった。
けれど片山さんは慌てなかった。
「話してみな。どんなことでもいい。こういうのは、みんなで解決していくものだ。」
しばらく沈黙していた篠田さんは、とうとう真実を口にした。
「……推しが、結婚したんです。」
一瞬、誰も意味がわからなかった。
私が思わず
「もしかして……片思いの人ですか?」
と聞くと、篠田さんは力なく続けた。
「カイトが結婚して、しかもグループを脱退するって……。もう立ち直れません。」
そのカイトというのは、アイドルグループ BELIEVERS のメンバーだった。
つまり篠田さんの“片思いの相手”は、実在の恋人ではなく推しだったのだ。
あまりに意外で、内田さんまで目を丸くした。
「カイトって、あの『BELIEVERS』のメンバーの?」
「そうです!」
そこから篠田さんの熱弁が始まった。
ライブ遠征、イベント参加、スケジュール調整――あの早退も、クリスマス前に急いで帰ったのも、全部カイトのためだった。
私たちは唖然としながらも、だんだん笑ってしまった。
内田さんが慰めようとして、
「気持ちはわかるよ。俺だって先週、彼女にふられたばっかだし。」
と言った瞬間、三津谷さんが即座に突っ込む。
「お前、またコロコロ相手変わってるじゃないか。篠田の話とは次元が違うだろ。」
篠田さんも負けずに言い返した。
「本当ですよ。一緒にしないでください!」
その一言で、張りつめていた空気はきれいに崩れた。
結局その夜、佐藤部長の提案で慰労会が開かれることになった。
けれど片山さんはまた断った。
「すみません。自分は業務の後に片付けたい仕事があるので、残ります。その分みなさんで楽しんでください。」
そして三津谷さんも、その日は志帆ちゃんの誕生日で早く帰った。
後から聞いた話では、プレゼントは志帆ちゃんが欲しがっていた人形だった。
「ただいま、志帆。誕生日おめでとう。」
「やったー! パパありがとう!」
その夜、家族三人でケーキを囲んだという。
職場では冷静な三津谷さんが、家ではこんなふうに笑っている。
そのことが、私はなんだか嬉しかった。
一方その頃、片山さんは羽田のオフィスに一人残り、静かな空港を見下ろしていた。
居酒屋で笑っている私たちとも、家族の誕生日を祝う三津谷さんとも違う場所で、あの人だけは一人で仕事を続けていた。
「静かだな…。」
その言葉を、後になって私は何度も思い返した。
そして、季節はまた巡る。
業務を終えた静かなオフィスで、片山さんはデスクに突っ伏したまま眠っていた。
私が声をかけると、片山さんは夢から戻ってきたような顔をした。
「片山さん、大丈夫ですか?」
「真奈美か。大丈夫だ、ちょっと寝てしまっただけだ。」
目を覚ました片山さんは、何も話さなかった。
私が
「何かあれば、遠慮なく言ってくださいね。」
と言っても、あの人は少し硬い顔でこう返しただけだった。
「本当になんでもないから、気にしないでくれ。」
でも、その声は昔より少しだけ柔らかかった気がする。
私は帰宅する片山さんの背中を見送った。
三月上旬の夜。
冬の名残を抱えた冷たい風が吹き、羽田の空には春を待つ気配が漂っていた。
その下で私たちは、それぞれの場所で、同じ空を守り続けている。
片山さんが羽田に来てもうすぐ2年が経とうとしていた。
私たちは前より少しだけ強くなった。
だけど、物語はまだ終わっていない。
むしろ、ここから先にこそ、本当に知るべきことがあるのだと、私はそんな気がしていた。




