第1部 後編
季節は秋になり、田辺さんの後任としてやってきたのは、片山さんの後輩――鈴木辰哉だった。
鈴木さんは整った顔立ちに落ち着いた物腰が印象的な人で、管制塔に入るなり片山さんを見つけて笑顔を見せた。
「お久しぶりです、片山さん!」
その声に、片山さんも少し驚いたようにしながら口元を緩めた。
「鈴木か。久しぶりだな。セントレアでの活躍、聞いたぞ。」
さらに鈴木さんは、まっすぐ頭を下げた。
「片山さんの指導のおかげで、今の自分があります。本当に感謝しています。」
――片山さんの後輩……?
私は心の中でその言葉を繰り返した。
鈴木さんは謙虚なのに、不思議と自信を感じさせる人だった。
その日のミーティングで、部長が改めて紹介した。
鈴木さんは軽く頭を下げた。
「皆さん、初めまして。鈴木辰哉です。セントレアでの経験を活かして、羽田でも全力で頑張ります。どうぞよろしくお願いします。」
ミーティングの後、三津谷さんが声をかけた。
「鈴木くん、セントレアではすごく活躍してたって聞いたよ。」
「いえいえ、まだまだ勉強中ですよ。セントレアではたくさんの経験をさせてもらいましたが、羽田は規模も違いますし、まずは皆さんからいろいろ教わりたいです。」
その受け答えは自然で落ち着いていた。
私は鈴木さんの優秀さを感じていた。
すると内田さんが私を見て言った。
「真奈美にとっては新たなライバル登場かな?」
「そんなことは……ないですよ。ただ、すごく優秀な人だなって思っただけです。」
そう答えたものの、胸の奥には少し緊張があった。
その時、片山さんが静かに言った。
「鈴木は新人の頃からずっと努力家だった。今の姿は、その結果だな。」
鈴木さんは少し照れながら笑った。
「いや、片山さんの指導がおかげです。当時はよく叱られましたからね。」
そして続けた。
「いや、叱られた後には必ずフォローがありました。だから成長できたんだと思います。」
その言葉を聞いた時、私は少し驚いた。
片山さんには、そんな一面もあるのだと初めて感じたからだ。
その日の業務を終えた頃には、鈴木さんの実力はもう誰の目にも明らかだった。
「さすが片山さんの教え子だな。」
「鈴木君ならすぐにエースになりそうですね。」
みんながそう言うのも無理はない。
私もそう思った。
でも同時に、自分との差もはっきり見えてしまった。
――負けてられない。
私はそう自分に言い聞かせながら、デスクに戻り、業務の復習に取り組み始めた。
十二月に入り、羽田空港は年末年始の繁忙期に入っていた。普段以上に張り詰めた空気の中で、私たちは増え続ける便を捌いていた。そんなある日、関東に寒波が来て、羽田は突然の雪に見舞われた。
「全員、緊急態勢だ!」
佐藤部長の声と同時に、管制塔の空気が一気に変わった。片山さんはすぐに状況を見極めて指示を飛ばした。
「滑走路の状態は?」
「滑走路AとCは使用可能。ただし、降雪量が増えれば除雪が必要になります。」
私は必死で着陸機をさばいていたけれど、隣の鈴木さんとの連携がうまく噛み合わなかった。
「鈴木さん、次の便の間隔をもっと広げたほうがいいです!」
鈴木さんが対応を変えた一瞬の迷いで、全体が少しずれた。その時、片山さんの鋭い声が飛んだ。
「真奈美、鈴木、今の状況を整理しろ。」
「連携が取れていない。お互いの動きをもっと意識しろ。ここは個人プレーじゃなくチームだ。」
私ははっとした。焦っていたのは私も同じだった。
その言葉は、痛いほど胸に残った。
数日後、ようやく少し落ち着きを取り戻した頃、鈴木さんの歓迎会が開かれた。
でも、やっぱり片山さんはいなかった。
「片山さん、やっぱり来なかったですね。」
「だろうと思った。」
鈴木さんは懐かしそうに笑った。
「片山さん、昔からああなんですよ。人付き合いが悪いってわけじゃないんだけど、なんていうか、飲み会とかにはあまり顔を出さないタイプなんです。」
でもそのあと、鈴木さんは少し真面目な顔で言った。
「でも、あの人なりにみんなのことを気にかけてるんです。大分にいた頃も、厳しいけど、本当に困ったときは必ず助けてくれる人でした。」
私は雪の日の片山さんの声を思い出していた。厳しいけれど、あの人はちゃんと私たちを前に進ませてくれる。
「もっと連携を取れるようになりたいです。次はうまくやりましょう。」
「ええ、もちろん。」
鈴木さんとそう言い合えた時、私は少しだけ前に進めた気がした。
新年が明けた羽田空港に、また緊張が走った。
その朝、部長の後ろに立っていたのは、黒いスーツの男――警視庁公安部の倉木和男だった。
「警視庁公安部の倉木です。現在、特定の組織が羽田空港のシステムに対してサイバー攻撃を企てているという情報が入りました。もし攻撃が行われれば管制システムや通信が混乱し、空港全体の運用に深刻な影響を及ぼす可能性があります。」
その言葉に、管制塔の空気は一変した。
ミーティングでは片山さんが中心となって役割分担を決め、私たちはいつも以上の警戒態勢に入った。会議の後、鈴木さんが小さな声で言った。
「サイバー攻撃か……航空業界にまでそんなことを仕掛けるなんて、恐ろしい時代になったな。」
「ええ。でも、空港と乗客の安全を守るためには、できる限りのことをしないと。」
そう答えながらも、私の胸の奥には不安があった。
それでも、片山さんの横顔を見ていると、逃げるわけにはいかないと思えた。
夜遅くまで続いた対策会議のあと、私は鈴木さんと一緒に片山さんのところへ向かった。
「片山さん、私に他にできることはありますか?」
片山さんは静かに私を見て言った。
「今は、ただ自分の仕事をしっかり果たせ。それが最も重要だ。」
その言葉に、私は頷くしかなかった。
管制塔の窓の向こうには、いつもの夜景が広がっていた。けれど、その美しさの奥に、確かに不穏な影が近づいていた。
私は心の中で強くつぶやいた。
――絶対に守ってみせる。
会議の翌朝、公安部の倉木警部に伴われて現れたのが、サイバー犯罪対策課の伊藤圭輔巡査部長だった。黒縁の眼鏡をかけた伊藤さんは穏やかな口調で状況を説明し、管制システムの監視を始めた。私は不安を抑えきれずに声をかけた。
「伊藤さん、何かわかりそうですか?」
伊藤さんはモニターを見つめたまま答えた。
「今のところ、明確な異常は見当たりません。ただし、不自然なデータの転送が一部に記録されています。おそらく、攻撃者が下見を行った痕跡かもしれませんね。」
その言葉に空気が張り詰める。さらに伊藤さんは、
「我々技術班が攻撃を防ぎ、皆さん管制官が空を守る。お互いの役割を果たせば、問題は起きません。」
と静かに言った。鈴木さんが
「伊藤さん、頼もしいですね。俺たちもできる限りのことをやりますよ。」
と応じると、片山さんもすぐに続けた。
「いつも通り、自分たちの役目を果たすだけだ。余計な動揺は不要だ。」
その声を聞いて、私も深く息を吸った。見えない脅威を前にしていても、空を守る私たちの仕事は変わらないのだと、自分に言い聞かせた。
クリスマス直前の金曜日。羽田は冬の柔らかな日差しに包まれていたけれど、私たちの胸の奥には、見えない緊張が張りついていた。
そして夜、突然すべてが暗転した。
電光掲示板に、見たことのない不気味なマークが浮かび上がった。
翼を広げた鳥のシルエットが、鎖を引きちぎるように描かれている。黒い背景の中で赤い色が燃えるように揺れ、中央には「LIBERATOR」という文字が浮かんでいた。
その名前は、空港を混乱に陥れたサイバーテロ組織の名前だった。
「全管制官、エマージェンシーに移行!」
片山さんの声が響いた。
「全便、手動管理に切り替えろ! システムがダウンしても、人間がいれば守れる!」
その言葉に、私たちは一斉に動き出した。
「ANA213、こちら東京タワー! 現在システム障害中ですが、安全に誘導します!」
震える手を抑えながら、私は必死に航空機と交信を続けた。
「真奈美、大丈夫か?」
片山さんが静かに声をかけます。
「落ち着いて1つずつこなせ。お前ならやれる。」
私は深く息を吸った。
「……はい、分かりました!」
一方、倉木さんと伊藤さんは、攻撃の発信源を追跡していた。
やがて犯人は空港内で確保され、ウイルスの拡散は食い止められた。
「倉木だ! リベレーターの一味を確保し、システムも一部復旧した!」
その連絡が管制室に届いたとき、誰もが安堵した。
深夜、最後の便が離陸したとき、私たちはようやく息をついた。
「みんなお疲れ様。」
片山さんの言葉に、私は静かに頷いた。
そして翌朝。
羽田空港にはいつもの日常が戻っていた。
みんな疲れていた。
でも、誇らしかった。
ミーティングが終わり、私は窓際に立って空を見上げていた。
そこへ片山さんが来て言いました。
「真奈美、昨日はよくやった。」
その言葉が、どれほど嬉しかったか。
私は思わず笑った。
「ありがとうございます。」
その日の夕方、業務を終えた後。
私は再び管制塔の窓際に立っていた。
羽田空港の滑走路には、今日も無数の航空機が行き交っている。
片山さんが隣に立った。
「今日も無事に終わったな。」
私は振り返った。
「片山さん、これからもよろしくお願いします。」
片山さんは、穏やかに笑った。
「ああ。」
そのとき、私は確信した。
この空を守る仕事は、決して一人ではできない。
仲間がいるから守れるのだと。
今日もまた、羽田空港の空には航空機の灯りが輝いていた。




