第1部 前編
空を見上げるたび、私は思う。
あの日から、私の人生は変わったのだと。
羽田空港。
日本中、そして世界中へと繋がるこの場所は、毎日数えきれないほどの人たちの想いを乗せて動いている。旅立つ人、帰ってくる人、大切な誰かを待つ人。そこにはいつも、それぞれの物語がある。
私がまだ未熟で、自分の判断にも自信が持てなかった頃。
羽田空港に、一人の管制官がやってきた。
片山直樹――。
地方の大分空港で15年勤務していたベテラン。
多くを語る人ではなかった。どこか静かで、近寄りがたい印象すらあった。でも、その人がヘッドセットを取り、空に指示を送り始めた瞬間、私はすぐに分かった。
この人は、本物だ。
冷静で、正確で、決して感情に流されない。
どれだけ緊急の事態でも、片山さんの声は乱れなかった。
その背中を見ながら、私は何度も思った。
私もいつか、こんなふうに空を守れる管制官になりたいと。
この物語は、私が片山さんと共に歩んだ記録です。
私は、山口真奈美。管制官として羽田空港に勤務している。
2023年4月1日。
あの日のことは今でも忘れない。
そう、片山さんと初めて会った日。
背筋が伸び、落ち着いた眼差し。
派手さはないけれど、どこか空気を変える存在感があった。
部長の佐藤健一が彼を迎え入れた。
「管制官の片山さんだね?」
片山さんは深く頭を下げた。
「これからお世話になる主幹管制官の片山直樹です。よろしくお願いします。」
部長は笑った。
「管制保安部部長の佐藤だ。そんなに堅苦しくなくて大丈夫だ。これからよろしく頼むよ。」
私はその時、片山さんと初めて握手をした。
「初めまして、片山さん。山口真奈美です。どうぞよろしくお願いします。」
「こちらこそ、よろしく。」
その握手は、意外なほど力強かった。
そして私は直感した。この人からきっと多くのことを学ぶのだと。
羽田空港の管制塔には、さまざまな人がいる。
ベテラン主幹管制官
田辺勝彦。
冷静沈着で、羽田の空を長年守り続けてきた人だ。
「よろしく頼むよ、片山君。羽田の空はなかなか厳しいからな。」
主任管制官の
三津谷雄介。
穏やかな雰囲気だが、管制判断は非常に的確。
「よろしくお願いします。羽田の空は広いですから、一緒に頑張りましょう。」
そして少し変わり者の主任管制官、
内田翔平。
「主任管制官の内田です。気楽によろしくお願いしますね。」
軽口ばかり叩くけれど、仕事になると驚くほど鋭い。
もう一人、若手管制官で私の先輩の
篠田恵。
「篠田恵です。よろしくお願いします。」
真面目で、誰よりも努力家。
そして私。
研修が終わり、初めて配属になったが、ここ羽田空港。
羽田は想像していた以上に忙しい場所だった。
滑走路が幾重にも交差し、数えきれない航空機が昼夜を問わず離着陸を繰り返す。最初のころの私は、その光景に圧倒されるばかりだった。
それでも、隣にはいつも片山さんがいた。
「ANA154、こちら東京タワー。滑走路34Lに進入を許可します。」
私は何度も頭の中で復唱してから指示を出していた。しかし片山さんは違った。
「JAL872、こちら東京タワー。滑走路34Rから離陸を許可します。後続機のANA563、滑走路34R手前で待機。」
片山さんの仕事を初めて見たとき、私は衝撃を受けた。
複数の航空機が同時に接近する状況でも、彼は一切迷わない。
迷いがない。状況をすべて見通しているような落ち着きがあった。
三津谷さんが感嘆した。
「すごいな、片山さん。一度にこんなに多くの航空機をさばけるなんて。」
田辺さんも頷く。
「15年地方にいたって聞いてたけど、そんなふうには全然見えない。」
篠田さんが静かに言った。
「片山さん、すべての状況を把握して先回りして指示を出してます。」
私は隣でそれを見ながら思った。
――私も、あんな管制官になりたい。
ある日、羽田空港で緊急事態が起きた。
ロンドンから到着するワールドスカイキャリア459便が計器故障を起こし、手動着陸を余儀なくされたのだ。
管制室の空気が一瞬で張り詰めた。
「片山、どうする?」
部長が問いかけると、片山さんはモニターを見つめたまま答えた。
「他の便をすべて待機させてください。この機体を最優先にします。」
その判断は迷いがなかった。
「WSC459、こちら東京タワー。現在の高度を維持してください。滑走路34Rを緊急用に確保しました。」
私は震える手でマイクを握りながら、交信を続けた。
その時、片山さんの声が聞こえた。
「真奈美、大丈夫か?」
その落ち着いた声に私は勇気づけられた。そして私は、再びマイクを握りしめた。
やがて機体は滑走路に接地し、無事に停止した。
「やった……!」
その瞬間、管制室に安堵の空気が広がった。
「片山、山口、いい連携だった。」
部長がそう言ってくれたとき、私は胸がいっぱいになった。
自分もチームの一員として役に立てたのだと感じた瞬間だった。
それから半年が経った。
季節は移り、管制塔のメンバーにも変化があった
田辺さんが仙台空港へ異動することになったのだ。
送別会では、みんなが田辺さんとの思い出を語り合った。
しかしそこに、片山さんの姿はなかった。
その席で、ふと疑問が沸いた。
「ところでさ、片山さんってあんなに優秀なのに、どうして15年も地方の大分にいたんだろう?」
その場は静まり返った。
私も同じ疑問を抱いていたから。
けれど、その答えは誰にも分かなかった。
後で空港に戻ると、片山さんは一人で書類を整理していた。
「片山さん、どうして来なかったんですか?」
「いや、俺は送別会とかそういうの、あまり得意じゃないんだ。」
その言い方はとても静かで、言い訳をしているふうでも、誰かを拒んでいるふうでもなかった。
ただ、それ以上踏み込ませないための薄い壁のようにも感じられた。
どうしてこういう時まで一人でいようとするのだろう。
輪の中に入れないというより、自分から少し離れた場所に立ってしまう。
ただ、はっきりしたのは一つだけだった。
片山直樹という人は、私が思っていた以上に不器用なのかもしれない。
私はそれ以上問いつめることはしなった。
翌日、田辺さんの羽田での最後の勤務が終わった。
見送りの時間になり、オフィスにみんなが集まった。
華やかな雰囲気ではなかった。けれど、その場には確かに、長い時間を共に過ごした者同士にしかわからない、温かな敬意が流れていた。
その中で、片山さんが花束を手に田辺さんの前へ進み出た。
「田辺さん、長い間お疲れさまでした。本当にありがとうございました。」
田辺さんは言った。
「山口君や他のメンバーを頼むよ。」
その時、私は思った。
――この人は、不器用だけど、本当は仲間思いの人なんだと。
田辺さんが去っていく寂しさは確かにあった。
けれど同時に、その寂しさの中には、不思議と前を向かせる力もあった。
私は胸の中で、静かに誓った。
田辺さんが守ってきたこの場所を、
片山さんたちと一緒に、これからは私も守っていくのだと。




