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本文3(完結)

 草下の育った環境を聞いたのは、一年以上前のことだった。草下はよく、休日に母と遊びに行っている。長い休暇では、二人で旅行に行くほど仲が良い。けれど、ときどき「まあ、一緒に生活してたわけじゃないんだけどさ」と最後に付け加える。それで、父親と仲が悪いかと言われるとそんなことはなく、父ともよく飲みに出掛けているし、中学生の頃からご飯作ってくれたのも友達と遊んだ帰りに迎えにきてくれたのも父だと言う。

 つまり治の感じた印象では、育ての親は父みたいだが、母とは今も友人のように会っている、という感じだ。とにかく会話の行間にある、シングルファザー家庭感がすごい。

「草下さんってさ、言いたくなかったら内緒で良いんですけど……」

 と聞いたのは、バーで酒を飲んだあと、牛丼屋で一緒に食べているときである。あのときから草下はチーズ牛丼を食べていたし、知らなかっただけで晶子さんもここで働いていたのかもしれない。

「治くんって妙に改まるよね。そういうの面倒だからズバッと聞きな」

「シングルファザー育ちで、でも母さんとも仲が良い、って感じですか?」

「あーそうそう。言ってなかったけ?」

「初めて聞きました」

「逆によく分かったね」

「会話の節々からわかりますよ」

「コワ。エスパー?」

「いや、隠してる感がないからじゃないですか」

「いつ頃からかな、小六? 中学生のときにはもう片親だった気がする。『お母さんとお父さんはこれから別々に暮らすけど、どっちに着いていきたい?』って聞かれたんだよね」

「選択権を子どもに与えるのは良いことですね。でも答えにくいな」

「で、お父さんに着いていったってわけ」

「どういう理由だったんです?」

「それが深く考えてなくてさ。弟が先にね、『ママに着いていく』って言ったんだよね。じゃあ、アタシは父さんと一緒かなって。それをこの前父さんと酒飲んでるときに言ったら、父さん泣き始めたんだよ。『ケイ、俺が寂しくなるからって、俺のために来てくれたのか。本当は母さんと一緒が良かったのか』って。意味分かんねえ」

「俺がお父様の立場でもそう感じるよ」

「割り算割り算。家族が四人いるから、二と二で別れるもんだろ。それで、弟がママつったらもう決まりじゃん。割り算だよ。三対一はバランス悪いじゃん」

「三対一で分離してる家族いっぱいいますよ」

「そうなの?」

 草下や他の片親家庭に、治には想像すらし難い苦難があることは分かっているつもりだ。それにしても、草下は逞しすぎる。もし自分が草下の立場だったら、一週間悩むだろう。いや、一ヶ月悩んでも足りないかもしれないし、人生の途中で「やっぱり母さんを選べば良かった」とか考える夜が絶対にある。大人になったら考えないかもしれないが、中高生の頃なら一度や二度と言わず考えそうなものだ。だが少なくとも、今の草下からそういう雰囲気は感じとれない。

「まあでも、話し方が男っぽいって言われるのは、そういう育ちが関係あるかもね。普通に、絡んでた友達のガラが悪いのもあるだろうけど」


**

 昼の暑さがとっくに通り過ぎた、過ごしやすい夏の夜である。夜道で泣く草下を、晶子と治は両肩を支えて慰めていた。

というのも、三条辺りで三人で飲もうと言うことになり酒を飲んだのだが、会計のとき、草下が財布を忘れてきたことに気付いたのだ。それ自体は良くあることである(と治は思う)。だが草下にとっては文字通り一生の不覚だったらしい。膝から崩れ落ちて、「あたしが他人様の財布からお金出してもらうなんて……」と泣いた。それで、店の外まで引きずって出てきたのである。

 鴨川沿いまで連れてきた。

「草下ケイ、本当に情けないであります。人生で初めて。人に自分の酒奢ってもらうなんて。そりゃキャバクラで働いてた頃はお客さんにドリンクを奢ってもらってたよ。そうじゃなくて、友達と飲むときね。生まれてこの方、自分の稼いだ金で飯と酒はどうにかしてきたのに……」

 誰に話しているのか、独り言を言っているのか分からない。呪文のようにボソボソ言っている。

「生まれてこの方って、子供のときは親に世話になったでしょ。だから大丈夫」

 晶子はそのあと「流石に大人の女は重いね」と付け加えた。容赦ない。

「か、鴨川沿いで飲み直します?」

 草下の頭を挟んで、晶子に向けて喋りかける。

「いいね。一旦座って休もう」

「俺コンビニで酒買ってきますよ」

「ええ、これ以上買わせるわけにはいかない、ウワア」

 草下がまた泣き始めた。

「じゃあ買わない買わない。買わずになんかお話でもしましょう」

 京都鴨川沿いには、恋人が等間隔で並ぶという噂を聞いたことがあるだろうか。あれは都市伝説ではなく、実際のことである。昼も夜も鴨川沿いは、カップルで埋められている。特に三条や四条など、飲み屋の多いところではそうだ。

 カップルの合間を縫って数メートル程度余裕のある箇所を見つけ、患者を下ろす救急隊員のように、芝生に草下を座らせた。

「草下さん、ハンカチ要ります?」

「うん」

 草下は治のハンカチを手に取り、頬や目を拭いた。鼻水か涙かわからないものが糸を引く。多分涙だと思いたいが、残念ながら違うだろう。

「洗って返すね、これ」

「いや、あげますよ」

「でも、可愛い柄してるよ」

「元カノに貰ったんで」

「うわ、捨てずに持ってるタイプ?」

「物に罪はないので。壊れるまで使いますよ。草下さん違うの?」

「あたしも気にしない」

「私は絶対捨てるわ」

 晶子は、いつの間にか吸っていたタバコの火を携帯灰皿で消し、二本目のタバコに火をつけた。

 晶子と意見が食い違うことで、奢られた事実を思い出したのか、草下がまたナヨナヨし始めた。草下がこんなに弱気に泣くところを、治は初めて見た。

「うっ、顔洗ってくる」

「ど、どこでです?」

 治が言い終わる前に、草下は芝生を下って、脱いだパンプスと靴下を片手に鴨川に浸かっていった。膝下まで。ショックで混乱しているのか、酔っ払っているのか謎である。治は駆けつけて、直前で靴が濡れてしまうことに気付き、靴下と靴を脱ぐ。

「ちょ、草下さん、よせよ」

「うう、恥ずかしい」

「恥ずかしさ上塗りしてますよ。ほら、戻るよ」

 草下の脇の下に無理やり手を回して、鴨川から引きずり上がらせた。斜面の上の方を見ると、カップルたちが治らを見てそわそわとしており、何組かは立ち上がって、離れて行っている。そりゃそうだ、変質者が近くにいると怖い。晶子は、斜面の上で夜空を見上げながら、タバコを吸っている。

「何、他人のフリしてるんですか」

 やっと斜面を上がってきた治は、息も絶え絶えである。

「友達だと思われたら嫌でしょ。もうちょっと草下背負ってうろちょろして、別の方角から合流してくれない?」

「ええ……」

 冷たいが、リアルな反応である。

「嘘嘘、隣おいで」

「タバコって美味しいんですか?」

「美味しいよ。興味あるの?」

「タバコに興味あるっていうか。晶子さんがやってることには興味あります」

「また、そういうこと言う」

 草下は、晶子の肩に寄りかかって、寝息じみたものを吐いている。

「おすすめはしないよ」

「そうなんです?」

「高いからね。でも、吸ってみるかい?」

「一本ください」

 晶子さんは、四十周年のマルボロの箱から、一本タバコをくれた。

「これどっちが吸う側っすか?」みたいな会話をしながら咥えて、貸したライターに火をつけようとしたが、なかなかつかない。

「フフ、あんた本当に吸ったことないのね。ちょっと貸してごらん。今からつけるよ。で、治くんはタバコ吸って。吸う力で、タバコに火がつくの」

「そうなんですか」

 咥えながら言う治。口から吸っていると、確かに火がついて、煙の味が分かった。喉を通って、肺の奥まで届いている感じがする。タバコを離して煙を吐くと、むせた。

「ゴホッ」

「最初ってむせるよねー」

「なんとなくおいしさは分かりました。ゴホッ」

「ブラメンはね、うまいよ。私が最初に吸ったのがブラメンだったんだ」

「じゃあ俺も一緒ですね」

 なんだか、晶子に自分にとって初めてのことを教えてもらったのは、言葉にできない嬉しさがあった。そこまで考えて、ちょっとポエミーでキモいなと思った。

 晶子がタバコを吸う横顔は、相変わらず綺麗だ。でも、タバコの光に照らされる顔には、やはり黒ずんだクマがある。最近まで、夜道やバーの中みたいな薄暗いところでは、流石に見えなかった。それが、今では見えるようになっている。

「晶子さん、大丈夫ですか?」

「なんのこと」

「いや、働きすぎとか」

「私は頑丈だから大丈夫」

「いや、人間誰でも限界ありますよ」

「でも、他の誰かが陽葵の親をやるわけにはいかないでしょ」

「それは……そうですけど」

「この前内科行ったらさ、聴診器とか当てられたり、お腹とか背中とか触られるじゃん。『あんたよく生活できてるね』って言われちゃった。アッハハ」

 文豪の逸話としてウィキペディアにあったら笑うが、本当に大事な、生きている人に言われると困ってしまう。治が何も言わないでいると、晶子は困ったように笑った。

「きっと大丈夫。若い子がおばさんの心配なんかしなさんな」

 全てをしてあげたい。自分が働いて、晶子さんの働く時間を減らして、陽葵ちゃんの親代わりになることができたら。でも、治はただの貧乏大学生である。金もなければ稼ぐ力もなく、誰かの親になるような人格があるかも分からない。

「すみません」

「何を謝るの?」

「役に立てないから。俺、一万か二万なら貸せますよ。はした金ですけど」

「はあ? あなた夫でも父親でもないんだから。二度と言っちゃダメよ。気持ちはありがたいけどね。ありがとう。ありがとうとだけ言っておくね。でも、気持ちだけだからね、受け取るのは」

「晶子さんのこと慕ってるんです。だから何でもいいから何かしたくて」

「だから、若い子は先走っちゃダメだって。金貸すとか何とか、二度と言わないでね。分かった?」

 治としては、頷きたくない。

「分かった? 約束して」

「分かりました」

 治は、わけもわからず涙が出てきた。頬を伝うのが分かった。止めようと思っても、次々頬を流れていく。

「なんで泣くの?」

「晶子さんが、いつも必死なのが分かるから」

「アホ、私なんかのために泣くな」

 晶子はぐっと抱き寄せて、頭を撫でてくれた。「よしよしよしよし」。草下も、晶子の向こう側から治の頭を撫でた。


**

「雨降っちゃったから、花火できなかったね。かんぱーい」と晶子。

「乾杯。元からできるわけなかったでしょ」

 晶子と治は、晶子の部屋で二人乾杯を交わしていた。外で降る雨の音が二人を包んでいる。


 今日の早朝に晶子から、「陽葵と三人で花火しよう」と電話があった。

「路地裏でさ、やろうよ。線香花火も買ってきたからさ」

「今日の夜って、雨予報じゃないですか?」

「まじ?」

「九十パーとか」

「でもあれって雨が降る確率じゃなくて、面積の割合らしいわよ」

「降らない方の十パーに住んでる自信はどっから来るんすか」

「天気予報ちゃんと見てるんだね」

「洗濯物干すときに気になるんで」

「貧乏大学生くんと違って乾燥機能あるからねうちの洗濯機」

「マウントとってどうするんですか。花火、延期します?」

「今晴れてるから、とりあえずうちにおいでよ。夜にもし雨が降ったら、家でお酒飲もう」

「酒飲みたいだけでしょ」

「あなた飲みたくないの?」

「飲みたいですね」

「この酒カスがよ」

「用事終わったなら電話切りますよ」


 場面変わって現在、案の定花火はしていないし酒を飲んでいる。しかも、陽葵は不在である。かつて酒飲み対決をした机で、二人足をくっつけて座っていた。

「陽葵ちゃんどうしたんです?」

「友達と花火大会」

 晶子は、マルボロブラメンを吸って、息を吐いた。この、やや甘めのニコチンの香りは、もはやクセになりつつある。晶子の部屋や車の中でこの香りに触れると、理由不明の落ち着きすら感じる。

「予定めちゃくちゃじゃないですか」

「だって陽葵から聞いてなかったんだもん」

 結局使うあてのなくなった花火セット二袋は、未開封のまま玄関に置かれている。

「でも、陽葵ちゃん花火大会行けたんですかね? この大雨じゃ、中止になってる可能性もありますね」

「だったら、かわいそうだよね」

 いつもだったら、「晶子さんと二人きりになれてラッキーです」とか言いたいところだが、陽葵がこの雨の中友達と外に出ていって、花火を見れていなかったらと考えたらかわいそうで、お調子こいたことは言えない。

「ウイスキー飲む?」

 机の上には、大きいウイスキーが置かれてある。

「貰います。いつももらってばかりですみません」

「そういうときは、ありがとうで良いのよ」

「ありがとうございます」

「また勝負する?」

 晶子は、治のグラスにウイスキーを注いでくれた。

「勝負はしないです。絶対負けるから」

「えー」

「僕が酔って寝ちゃっても、晶子さん面白くないでしょ」

「面白いよ」

 晶子がスマホを取り出して画面を見せてきたので、何かと思ったら治の寝顔だった。いつの間にか撮られていたらしい。

「え? いつ撮ったんです?」

「この前私に負けて寝たとき」

「野郎の寝顔なんて誰得でしょ」

「ううん、結構かわいい寝顔してるよ」

 別にかわいいと言われても、褒められたのか、なめられているのか馬鹿にされているのか、ピンとこない。晶子もウイスキーをグイグイ飲んでいる。

「治くん、今日負けたらさ」

「コワ。もう勝負始まってるんですか」

「前の彼女とどうして別れたのか教えてよ」

「そんなこと酒の席じゃなくても教えますよ」

「なんで別れたの?」

「まあ、早い話がフラれたんですよ。『遠距離恋愛は無理』ってね。同じ大学で出会って付き合ったんですけど、今年就活やってて、僕が地元の四国に就職が決まって、元カノは元カノの地元の関東に就職が決まったんですよ。そうしたら、春からお互い遠距離恋愛することは確定になって。僕は離れてても会いにいくって言ったんですけど、元カノは無理だったらしいです」

「治くんは関東で就活しようとか思わなかったの?」

「もちろん思いましたよ。あのー、『結婚持ち出した』とか言ったら笑います?」

「笑わない」

「思いましたよ。今の内定けって、また就活しようかなって。でも元カノが言うには『私に合わせて就活させちゃったら、治くんの将来に責任取れない』って。僕はこのまま結婚したいとすら思ってたので、すがりました。別れ話にあんなに縋ったのは初めてでしたよ。離れてても、お金貯まったら迎えに行くし、元カノの住んでる地方に引っ越して同棲や結婚して良いと思ってる、今どき男が彼女いる方に引っ越すのも珍しくないしって伝えました。でも、『お互い地元で新しい人見つけると思うよ。私はどうかわからないけど、治くんなら』って」

 晶子は返事の代わりに頷きながら、タバコの煙を吐き出した。

「それは辛かったね。治くんの言ってることも分かるけど、彼女さんの言ってることも分かるな」

「新しい恋人の話とか出されても困りません?」

「まあ先のことは分からないけど、それ言ったら二人が結婚まで直球で進めるかも分からないからね。彼女さん、結構冷静だと思うけどな。遠距離恋愛になって、地元で好きな人できて浮気したりされたりしたら、最悪なパターンじゃん? 少なくとも、別れておけばその最悪パターンはないわけだし。治くん、地元で新しい好きな人作らない自信ある?」

「当時はありましたよ」

 弱い返事だなと、自分でも思った。実際、今は晶子に惚れているからだ。元カノと別れたときは一人で泣いたが、今は未練はない。

「今は晶子さんいるのでもう未練ないけど」

「ふふ、ありがとう。あなたは私と離れても、良い人と出会うよきっと」

「そんな悲しいこと言わないでくださいよ」

「じゃあ今度は、なんか治くんから聞きたいことある?」

 ウイスキーを入れたグラスの氷が割れて、崩れた。聞きたいことは、あると言えばたくさんあるが、ただ横にいて体温が分かるだけでも充実した幸福感がある。

「へそピアスしてます?」

「変な質問」

「深刻な話してもなあって。今更離婚のときの話とか聞かれたくないでしょ」

「察し良いよねー治くん。そういうところ好きだな」

 簡単に好きとか、言わないでほしい。「当ててみる? ピアスしてるか、今はしてないか」

「そもそもへそにピアスって空けられるんですか? 鼻とか耳なら分かりますけど」

「できるできる。お腹の肉ビヨーンって伸ばして、穴空けるの」

「痛そう」

「耳の軟骨の方が痛いよ」

「してないに投票で」

「残念、ハズレ。なんでそう思ったの?」

「高校生の頃はしてたけど、陽葵ちゃんが生まれてから外したとかかなって」

「お、そこまでは当たり。でも陽葵が大きくなってから、またピアス空けた。だからハズレ」

 治はウイスキーのおかわりを注いだ。晶子のグラスが空いていたので、晶子の方にも注ぐ。

「本当っすか」

「証拠見たい?」

 晶子のグラスの氷がまた割れて、グラスの底に崩れて落ちた。晶子は照れくさそうに、シャツを捲った。長袖シャツ一枚に、下はジャージという服装だ。白い肌が見えて、へそに銀のピアスがしてある。

 今更女性のへそをみるくらい何ともないと思っていたが、晶子が頬を赤くするので、こっちも悪い気になって目を逸らしてしまう。

「見ないと答え合わせにならないでしょうが! 見ろ」

「や、晶子さんが露骨に照れるから悪い気になるでしょうが。してますね。分かりましたよ僕の負けです」

「じゃあグラスに入れてるウイスキー一気飲みして」

「そんな話聞いてないけど、良いですよ」

 治はグラスをぐいと持ち上げた。晶子は、えへへ、と言いながらグラスの底を押し上げてきた。この程度なら大丈夫。少し体が火照る程度だ。一気に飲み干す。晶子は罰ゲームを食らったわけでもないのに、治に合わせるようにして一気飲みした。そして、二人とものグラスにまたウイスキーを注いでいく。しかも乱雑に注ぐから溢れているし、もう片方の手はシャツの腹を捲ったままだ。

「今日、酔いすぎてません? あとシャツもう下ろして良いですよ、ピアス見ましたから」

「ダメダメ、次のラウンド行くんだから。負けたらイッキね」

「俺よりよっぽど大学生やってますね」

「じゃあ次のクイズ」

「出題者交代しないんすか」

「はい、私は乳首ピアスしてるでしょうか?」

 グラスの氷が割れる。ほとんど崩れて、溶けてしまったようだ。

「してる方に賭けます」

「今度はしてるなんだ。正解は……」

 晶子は治のグラスを持って、治の口に押し付けてきた。へそピアスは見せたままなのが、妙に器用だなと感じた。

「ほら飲め。あなたの負け。ほら口開けな」

「本当はピアスしてるでしょ」

 晶子はグラスを机に置いた。

「してないなら見せろってこと?」晶子は目を上に向けて少し考え事をしたあと、上目遣いで見てきた。「だからしてる方に賭けたの?」

「まあ……」

「エッロいのねー」

「このゲーム始めた方がエロいでしょ」

「仕方ないなあ」

 晶子は白い歯を見せて、シャツを肩上まで捲り上げた。歯を見せても、品がないなんて治は思わなかった。無邪気に見える。無邪気さと色気が同居している様子が、神秘的にすら見えた。

「下着かわいいですね」

「本当良い子ね」

「何で?」

「下着褒めてくれた人なんて初めて。良いよ、確かめてごらん」

 晶子が治と向かい合ったので、治は抱き寄せるように近付いて、背中に手を回す。

「ちょっときついから、一番上のホックは外してる」

 お互い、おでこがくっついていた。

「晶子。俺はずっと前からこうしたかったよ」

「うん」

「でも君は? 本心なの? それとも酒の勢いに任せてるだけ?」

「ふふ、真面目な恋愛をするには忙しすぎるから。今なら酔ってるせいにできる。あなたといると、たまに青春に戻りたくなる。でも、こういう風にしないと戻れないから」

「明日の朝になったら、酒のせいにする?」

「うん。私ってずるいかな」

「ずるいね」

 治は言って抱き寄せ、ほくろがある方の耳に優しく歯をつけた。

「きゃー、くすぐったい。全然お仕置きになってないよ」

 晶子が体をくねらせた。

「お仕置きになってない? じゃあやめとくか」

「もっとやってよ」

 一つホックを外した。

 ピンポーン。インターホンがなった。

「無視しよ。続けて」

「敬語で言いなよ。続けてくださいってさ」

「うわ、本当はSなの? 燃えるんだけど」

「言いなって」

「やだ恥ずかしい」

 最後のホックに手がかかった。

 ピンポーンピンポーン。インターホンが連打される。何度もだ。そのうち、ドアがノックされて、治も晶子も戸惑って、体を寄せ合ったまま止まった。

「ママー、いないの? 開けて、鍵忘れちゃった」

 陽葵の声だ。晶子はさっと治から離れて、ブラのホックを慌ててとめ始める。

「ちょ、陽葵帰ってきちゃった。治くん出られる?」

「無理です」

「なんで?」

「勃起してるんで」

 晶子が噴き出した。

「男子って大変ねえ」

 着崩れたシャツを正して、晶子が立ち上がった。早足で玄関に向かう。と言っても、本当にすぐそこの距離だが。晶子は玄関に向かう途中立ち止まって、治の方を向いた。もう照れておらず、酔いが覚めた風だった。

「そうだ、陽葵が入る前に、その、それ、柔らかくしておいてよ」

「そんな自由自在なもんじゃないですよ」

 ドアを開けると、リビング直通の玄関から、雨に濡れた黒髪がぺったりと服にくっついたままの陽葵がいた。

「花火大会、中止になってすぐ帰っちゃった。あれ、治さん、こんばんは」

「こ、こんばんは」


**

 あの夜、結局晶子は、同じ職場の夜勤の人が欠勤になったとかで、突然の電話から駆り出されて出ていった。自動的に解散になった。陽葵は、「二人とも、付き合ってるんだったら教えてよね」と言っていたが、すぐに晶子が否定して、それが何だか、事実とはいえ寂しかった。


**

 二度くらい、治がバイトに行く途中だとか買い物に行く途中で、陽葵とすれ違った。高校の友達と出かけているようで、毎回陽葵の方から先に見つけて、手を振ってくれた。女子高生同士で「あの人誰?」みたいな会話をしているらしく、陽葵が明るい声で、「ママの友達」というのが聞こえてきたものだった。


**

 治はその夏、二週間程度四国に帰省する予定だったが、キャンセルした。晶子が倒れたからだった。予兆はあったと思う。いつも目の下にクマをつけていたし、それは会うたびに深くなっていた。働き詰めであったし、酒もタバコも、日本人の標準値よりかは多く摂取していただろう。理由を探せばいくらでもある。ただ、運が悪かっただけかも。でも治は、もう少しだけ晶子の運が良ければ、天が微笑んでくれていたらと今でも思う。

 晶子のスマホから電話がかかってきたので出ると、陽葵の声が聞こえてきた。切羽詰まって、泣いている声だった。

「治さん、来て。ママが倒れたの」


 帰省で乗る予定だったバスをキャンセルして、電話で聞いた病院まで急いで向かっていった。いつもは髪型くらいは気にするが、服装も髪型も気にせず、鏡を見る余裕すらなく飛び出ていった。

 ところがその日、晶子と会うことはなかった。電車に乗っている途中、陽葵からまた電話があった。車内はそこそこ人が乗っていたので、口を押さえて、小声で話した。

「もしもし。治さん。あたし」

 電話越しの声はさっきよりはかなり落ち着いていて、もう泣いてはいないようだった。ただ、喉が枯れている感じがするので、さっきまでは大泣きしていたのだろう。ともかく、陽葵が落ち着いているということから、最悪の事態ではないことが伝わったのでほんの少し安心した。

「陽葵ちゃん、どうしたの?」

「申し訳ないんだけど、今日はママと治さんは合えなさそう」

「陽葵ちゃんの気持ちさえ良ければ、どんなことがあったのか、今どういう状況なのか、教えてくれないかい」

「うん。ママは今日、いろんな検査しなきゃいけなくなったの。あたしも今待合室から電話してる」

「晶子さん、命に別状は?」

「生きてるし意識もあるし、少し話せたよ。どういう病気なのかは、これから調べるみたい。色々検査があるから、今晩中に帰るのは難しいってお医者さんが言ってた。でも、もしかしたら何の病気でもないかもしれないもんね。ただ、立ちくらみしただけかもしれないよね。それかー、熱中症とか」

 それは、陽葵が本気でそう考えていると言うよりは、希望的な観測に近いだろう。聡明な陽葵には、可哀想なくらい似合わない台詞だった。

「そうか。ひとまず良かったよ」

「治さんの話もちょっとしたよ。でも、ママは会いたくないって」

「え? どうして?」

「すっぴんを見られたくないんだって」

「もう、驚かせるなよ」

「ふふ、とにかく、そのくらいは話せるってこと」

「もし落ち着いて、会えるようになったらまた連絡くれないか。二人が良かったら。入院することになるならお見舞いに行くし、家に帰って来られたなら退院祝いするよ」

「うん。あ、ママ出てきたから、一旦切るね」

 それから、電話はなかった。出てきたと言っても、点滴を打ちながら歩いて出てきたのか、それとも担架にのせられたまま検査室から出てきたのか、どちらだろうか。気になって仕方がない。おそらく後者だろう。

 治は次の駅でホームに降りて、Uターンした。帰って一人きりでいても、落ち着かなさそうだったので、草下のバーヘ足が向かう。


**

 それから三日くらいは、いてもたってもいられず、本を開いてみても読めなければ、バイトしていても心ここに在らずだった。治の接客態度は、きっと過去最悪だっただろう。そんなことは、正直治にとってはどうだって良い。晶子の安否で頭がいっぱいだった。

 夜に一人でいると不安ばかりが大きくなっていくので、毎晩草下のバーに会いに行った。それで、その日のバイト代くらい飲んでしまっていた気がする。


 陽葵から電話があった、すぐあとの夜のことだ。カウンター越しに草下と話した。

「あたしも心配だ。でも、すっぴん見られたくないから来られたくないってのは分かるぜ」

「そうですよね。僕は弟でも彼氏でもないし。親でもない……。辛いです。入籍しておけば、見舞いに行けたんですかね」

「治くん、ちょっとヤンデレなところあるよな。彼氏じゃないんだったら、入籍はなおさら無理だったろ」

「冷静に考えて、そうですね」

「まあ、退院できたら可能性あるかもよ。あとさ、あたしもアキちゃんの入院が長引くなら見舞い行くけど、まだ何日かはバタバタするんだと思うよ。あたしは父さんがぶっ倒れて入院したことあるから、分かるんだよね。原因が分からないと、アキちゃんが行ったみたいな大きい病院に入れられて、内科とか脳外科とか外科とか、泌尿器科とかとにかく可能性がありそうな病気いろいろ調べてもらうからね。薬も、これが要るだの要らないだの、そもそも手術するのかしないのかとか、込み入った話があるだろうからね。うちの父さんはガンって分かって、もう自宅で闘病生活してるけどさ。アキちゃんも、家に帰るまでしばらくかかるかもな」

 実際、草下のいう通りだった。



**


 陽葵から電話があったのは、晶子の入院から四日後だった。その頃には、まだ不安とはいえ、治の精神状態は少し落ち着いていた。晶子が倒れたとき、すぐさま電話をくれた陽葵に対して、「頼ってくれてありがとう」という気持ちが湧く程度には冷静になっていた。

 病院には、晶子の友人ということで訪れた。陽葵が事前に病院側へ言ってくれていたらしく、思ったよりスムーズに入れた。面会時間は三十分程度で済ませてくださいということだった。治も元から、長居するつもりはない。晶子は検査だとかで疲れているだろうし、病気をうつしたりしても良くない。治は至って元気だが、弱っている晶子にはどんな菌が効いてしまうか分からない。

 病室では、病院が用意してくれたらしいパジャマを着た晶子が横になっていて、パイプ椅子に陽葵が座っていた。晶子が二度と話せないようになっていたらどうしようと考えていたが、彼女はしっかり治の方を見て、目の光だけは失わずいた。

「やあ、グッドボウイ」

「やあじゃないよ、心配させといて。ねえ、治さん」

 陽葵の精神状態も心配したが、いつもの、しっかり者の高校生という雰囲気を纏っている。一命を取り留めていたことが分かって、安堵しているのが分かる。叱っているような、喜んでいるような笑顔だった。少なくともあの日電話をかけてきたときのような、パニック状態ではないようだ。

 治は陽葵に一声かけて、壁に立てかけられていた見舞い客用のパイプ椅子を広げ、横に座った。なんと声をかけるべきか、考えていた。言いたいことはたくさんある。顔を見られて良かっただとか、倒れたとき、即死の出来事でなくて良かっただとか。今の病状も聞きたい。とても三十分じゃ足りない。時間を気にすればするほど、逆に何も話せなくなってしまいそうだった。初めて、晶子と共にいることに、制限時間を設けられたことに気づいた。それは、動けば動くほど固まるセメントを、口に詰められたみたいに感じるのである。

「『彼を人質にした私は、ここにいる!』」

 言って、晶子が少女のように目を煌めかせる。走れメロスの、終盤のセリフだ。晶子のために本でも持ってきたら良かったと、今更思った。

「『ありがとう、友よ。』」

 セリヌンティウスのセリフだ。

「ふふ、やっぱりあなたは文豪の生まれ変わりね」

 治は、病床の晶子に優しく抱きついた。晶子も抱き返してくれる。その腕が、やけに細く感じた。

「泣くんじゃないよ」

「メロスとセリヌンティウスも、ラスト抱き合ったとき泣いてましたよ」

「そうだっけ?」

「とか言って、『走れメロス』あんまり好きじゃないんですよね」

「ええ? 私は大好き。何で嫌いなの? もやしだからメロスみたいな体育会系が嫌なの?」

「聞き方ひどいな。太宰治は、他の短編の方が好きです。『女の決闘』とか『駆け込み訴え』とか」

「本当文学オタクね」

「お互い様でしょ」

 治は、自分がセリヌンティウスほど辛抱強く待てるかと言われたら甚だ疑問であったが、晶子のこの数日間は、メロスのような気分だったのかもしれない。息も絶え絶え、裸同然になりながら走り続けたメロスのように、晶子は治に会うためにボロボロの体を何とか生きながらえさせたのかも。

 体を離そうとすると、晶子が手を握ってきた。そのまま、治の手を胸に当ててくる。入院中だからか、下着をつけていないのが分かった。そのまま、乳首の周りを触らせてきた。陽葵がいるのも、お構いなしだ。治には気になった。

「ちょ、ちょっと……」

「いいよ治さん。好きにさせてあげて。ママ、何か言いたそう」

 治は、晶子の顔を見た。目が合う。

「してない」

「え?」

「乳首ピアス、してないでしょ。あなたの負け」

「こんな時に何言ってるんですか」

 いたずらっぽく笑う晶子を見て、なぜだが微笑みと涙が止まらなかった。感情をどう表せばいいのか、顔の筋肉も脳みそも、対処しきれていないんだと、治は感じた。

「あ、そうだ。すっぴん見られるの嫌って言ってらしいですけど、今だってかわいいですよ」

「はいはい」

 晶子は少し微笑んだ。そのあと。

「私肝臓がんだって。結構進行してて、もう治らない」

 血液型を教えるくらいの軽い言い方だった。晶子はとっくに、体が悪いのは自覚していたのかもしれない。

「肺がんの可能性もあるって。気管支炎は元からなってたし、血液系の病気もなんかあったかも? とにかく、内科とか外科とか神経科とか連れて行かれて大変だったわ。CTもとったし、血も抜かれたし、おしっこもさ。毎日何かの検査結果聞かされてる。倒れたときそのまま死んでなくて、奇跡だって。アハハ」

「ママ、お医者さんに言われてた通院、何年もサボってたらしいから。絶対行かなきゃダメでしょ」

「やめてよ、お医者さんにも叱られまくったんだからもう勘弁して」

「晶子さん、気管支炎って、タバコ吸えるんでしたっけ?」

「吸っちゃダメって先生にはずっと言われてたけど」

 治の横で、陽葵がため息をついた。


**

「治くん、写真撮ってよ」

 二度目のお見舞いのとき、晶子に頼まれた。治は、芥川龍之介や太宰治の短編集を何冊か晶子にあげた。「退院いつになるか分からないよ?」と言われたけれど、ほとんどあげるつもりで持ってきたものだ。晶子は痩せたし、元々白かった肌は、美しいというよりは、どちらかというと血色のないものになってしまった。腕も格闘技を習っていたような逞しさは、日に日に失われている。もともとあった目の下のクマが少し薄くなっているのだけが、唯一、以前より健康的な要素だ。

 今日は、午前中に陽葵と草下がお見舞いに来て、二人は初めて顔を合わせたらしい。そういうわけで、今日の見舞いは晶子と二人きりだった。

 晶子のスマホを受け取りながら、治は疑問だった。

「なんで今撮るんです?」

「最近写真撮って、現像するのハマってるの。これ、治くんが私の家でウイスキー飲んで寝た時の写真。現像の写真も趣あるでしょ」

「野郎の寝顔なんか病院に飾らないでくださいよ」

「だから私のも撮って欲しいなと思って」

 何だか、いよいよ今際の際の会話らしくなって、了承したものか悩んだ。

「今ですか? 晶子さんが退院してからにしませんか?」

「退院してからも、一緒に撮ろう。でも、どうしても今がいいの。五枚。ずっと前から撮りたかった五枚。私をモデルにして、お願い」

 晶子が両手を合わせて、頭を下げてきた。

「分かりました。退院してからはツーショット撮りましょうね。約束ですよ」

「うん、約束」

 それで、頼まれたように五枚撮った。口を開けたり、白い歯を出したりした表情だった。目の下にクマがあっても、入院用のパジャマでも、晶子はやはり本物のモデルになれるくらい、被写体として美しいと思った。う、の口の形を二回したので、突っ込んだ。

「その顔、さっきと一緒じゃないですか? ネタ切れ?」

「ううん。違うの」

「一緒でしょ」

「なんていうの? 今のは、うじゃなくて『す』」

「やっぱり一緒ですよ」

 五枚撮り終えてスマホを渡すと、晶子は確認して、「これでよし」と言った。

「現像したら治くんにもありがたく渡してあげる」

「額に飾らせてもらいます」

「治くんに、もうひとつ話したいことがあるの」

「酒とタバコ持ってきてとか?」

 晶子は、下を向いた。会話中に下を向く晶子を、初めて見た。

「酒とタバコは欲しいけど、お医者さんに禁止されてる。ていうか院内禁煙だしね。持ってきて欲しいけど」

「ダメです」

「そういう話じゃないの。ただ、話したいことが。治くんは、私がすごくひどい女でも仲良くしてくれる?」

「人殺したって言われても、何とも思いませんね」

「まじ?」

「死体、一緒に埋めますよ」

「本当に、一度思い切ったらどっぷり慕ってくれるのね」

「そりゃもう、頭のてっぺんまでどっぷり」

 晶子は、治の顔と窓の外を交互に見ながら、話してくれた。

「私の元夫は、見てくれはきっと良くて、本当にただそれだけの人だったわ。全然家に帰ってこなくて、パチンコとか他の女と遊ぶのに明け暮れてた。私の妊娠が分かったとき、『子供ができるなんて面倒くさくなるだろ』って言われたわ。あの人には、ハナから世話する気もなかったのに。私は二つ気づいた。元夫は結婚なんて不向きな男だったってことと、それを見抜けなかった私にも結婚は早かったってこと。だから、陽葵を産む頃には愛情なんて冷めてたわ。

 陽葵が生まれてから、朝も昼も働いて、そのときからもうシンママみたいな生活が続いた。元夫は仕事なんだか女遊びなんだか、それとも借りた金のせいで怖い人たちに追いかけられてるのか知らないけれど、全然家に帰ってこなかったから」

 晶子は咳き込んだ。声が掠れてきて、喉が枯れているのが分かった。長話をするのは久しぶりかもしれない。すぐそばのペットボトルを取って、水を飲む晶子。

「ゆっくりでいいですよ」

「ええ、そうしたいけど、面会時間があるから。全部聞いて欲しいの。

 私は朝も夜も働いて、母に預けた陽葵を迎えに行って世話する生活が、何年も続いた。そのあと、若い男の子と出会った。大学生で、今の治くんくらいの年の子よ。当時二十歳だったはず。働いてた先が一緒で、彼は大学に行きながらバイトしていたの。凄く私のことを慕ってくれたわ。私は彼の恋愛感情に気付いていたけど、忙しかったし、夫も形式上だけどいるし、何より恋愛ってものに懲り懲りだったから、仕事のこと以外ではできるだけそっけなく振る舞ったつもりだった。でももう半分の私は彼に惹かれてて、夫が遊んでいるんだから、自分だってちょっとくらいいいわよね、って、魔がさしそうなときもあったの。

 陽葵は四歳になって、保育園や託児所で預かってもらいやすくなった。あの子にはかわいそうだとも思ったけど、それまでよりいくらか働きやすくなったし、たまに友達と遊ぶ時間くらいは取れるようになった。彼はよくお茶に誘ってくれたけど、本当にお茶しただけで、健全なお友達の関係が続いたわ。

 ある日、一緒にお酒を飲んだ帰りにホテルの一室まで行った。私は自分に言い聞かせたわ、今頃夫だって他の女と遊んでる、これでおあいこになるって。でも、自分の罪悪感だったのか、陽葵のことが気にかかったのか分からないけれど、キスしようとした彼からそっと離れた。それで、『やっぱりやめましょう、こんなこと』って、確かそう言ったの。私たちの間には男女の関係はなかったわ、最後まで。

 私は何事もないかのように家に帰った。元夫は、ホテルに入るのを見ていたのか、出てきたのを見ていたのかそれとも噂で聞いたのか、翌日には何故か彼のことも、それにホテルに行っていたことも知ってたわ。そこで初めて、元夫の執着の強さに気がついた。もう遅かった。執着なんてないと思ってた。自分は他の女と遊ぶのに。逆にだからこそ自分以外を認めないのかもしれないけれど、とにかく私の浮気は事実だろうと、心だけのものだろうと許さないって姿勢だった。珍しく家に帰った夫は私を問い詰めてきたわ。私も潔白だと言えば良かったけれど、真実を言えば信じてもらえると思って、ホテルに行ったこと、行ったけど何もなかったことを全部話したわ。でも、普通はホテルまで行っておいて、潔白だなんて信じられないわよね。夫は暴力に出たけれど、逆にやり返したわ。本気で人を殺そうと思ったのはその時が最初で最後。元夫は折れた鼻を押さえながら外へ出て行って、それから二度と帰ってくることはなかった。

 元夫はその足で、私の愛した彼のところへ行ったの。そして包丁で彼を滅多刺しにした後、自分の首元に包丁を突きつけて死んだ。聞いた話では、彼は四十回以上刺されていて、元夫の死体には首元から頭の後ろまで刃が突き抜けていたらしいわ」

 治はただ、晶子の手を握っていた。夏だというのに晶子の手は氷みたく冷たかった。

「私は陽葵を連れて大阪の街を出て、今のマンションに住んだ。それ以来、恋はしていない」

 晶子の頬を、ゆっくりと涙が伝った。

「私は良い妻にも、恋人にもなれない」

 治はベッドの上の晶子を、頭から抱えるように抱きしめた。

「晶子さん、あなたは美しい。痩せていても、白くこけても、すっぴんで涙を流していてもだ。ずっと待ってます。絶対に一人にはしない。答えになってるか、分からないけれど」

「私はきっと、地獄に堕ちるわ。蜘蛛の糸も垂らしてもらえない完全な悪人なの」

「そんなことはないさ」

「治くんは、刺されて死ぬことも、人を刺すこともない?」

「決してないよ」

 晶子も、治にしがみついた。精一杯の力で背中に手を回してくれているのが分かる。

 看護師が通りかかって、チラチラと治たちの方を見た。時間を気にしているのが、露骨に伝わった。晶子がゆっくりと、治の肩から顔を離した。

「時間みたいね」

「また来ます。明日は昼間ずっとバイトがあるので、面会時間中に来られないけど。明後日か、そうじゃなくてもとにかく来ます」

 晶子は返事をせず、涙を拭きながらこくこくと頷いた。


**

 晶子の葬式には、何十人もの人が訪れて、それだけで彼女がたくさんの人に慕われていたことが分かった。中高生時代の友人かもしれないし、職場の人や、治のようにバーで出会った人たちかもしれない。治は黒スーツに黒のネクタイを締めて、草下と一緒に出席した。

 陽葵は親戚らしき人と話していたが、治と草下の姿を見ると早足で寄ってきてくれた。

「ケイさん、治さん、お忙しいところ……」

 陽葵が言葉に詰まった。そのあと、うっうっと言い始めたかと思うと、両目から涙を流して、治にしがみついた。治はむしろ、陽葵の号泣に安心した。一六歳で、気持ちを抑えて定型句を並べる必要なんてない。今まで葬式に来た人にはそうやって話しかけてきたのかもしれないが。

 陽葵はもう、子供のように泣いていたし、実際に子供だ。晶子の知り合いにテキパキと挨拶するのも酷だし、葬式の準備だって大変だっただろう。案内の連絡は陽葵から来た。親族にも手伝ってもらっただろうが、この歳で親の葬式を仕切るのは、あまりにも辛すぎる。

「ごめんなさい、突然」

「陽葵ちゃん、それで良いんだ。無理なんかするな」

 草下も、横でハンカチ出して泣いていた。

「ママのバカ。私絶対、ママみたいにならないし、早死にしない。タバコなんか、絶対に吸わない」

「うんうん」

 実際のところ、何を晶子が殺したかは分からない。働きすぎか、ニコチンかアルコールか、それら全てかもしれない。だが、「タバコが直接の原因かは分からないよ」とか「肝臓だから酒じゃないのか」と言ったところで何の慰めにもならない。

 陽葵から聞いた話だと、晶子は陽葵との面会中に息を引き取ったらしい。うとうとしていた晶子は、「悪いね。来てもらったのに、今すごく眠いの。ちょっと、寝るわ」と言って瞼をとじた。それから、目を開くことはなかった。今際の際に陽葵と会えたのは、不幸中の幸いだったのかもしれない。

 陽葵は、治の次に「ケイさん!」と抱きついて、一緒に泣いた。陽葵と草下が泣く様子を見て、治は自分が釣られ泣きしないのが、不思議でならなかった。言いようもなく悲しいし、胸が痛い。透明な手が心臓をグッと掴んでいるかと錯覚するほど、胸の真ん中が痛くて苦しい。今すぐ周りを気にせず泣き叫びたい。けれど、一滴も涙が出ないのだった。

「陽葵、落ち着いたら、うちのバーに来な」

「ママみたいになりたくないから、お酒なんか飲まない。未成年だし」

「ジュース出すよ。うちはジュースあるから未成年も来れるよ。アキちゃんの話いっぱいしような」

「い、い、行きます……」


 草下は棺のそばへ行って晶子の顔を見たらしく、何やら話しかける様子だった。治は、椅子に座って、草下の背中を遠目に見ていた。

 治は誰に言うでもなく、心から声が溢れてきた。実際、ボソボソと言っていたかもしれない。晶子さん、本当にその棺の中にいるんですか? いるとして、ちょっと寝ているだけだ。寝てるだけなんですよね。僕を驚かせようとしているだけだ。ちょっと疲れているだけなんだ。ほらみろ、今にも起き上がるぞ。棺から出てきて、陽葵ちゃんや草下さんや僕を驚かせようって思ってるんですよね。あり得ない。呆気なさすぎる、こんなに簡単に死ぬなんて嘘だ。と。

 晶子と出会ってから今日の葬式まで、四週間ばかりの出来事だった。

「治くん、治くん」

「はい?」

 さっきから、草下に話しかけられていたらしい。

「晶子に挨拶行っとく?」

 治は、晶子の入っているらしい棺を見つめた。

「いや、遠慮しておく」

「……」

 草下は、言葉を選んでいるようだった。人の死に別れに、どうするのが正しいかなんて、分かる訳がないよな。

「あたしが一緒に行こうか?」

「いや、やめておく」

「どっちにしても、後悔ないようにしな」

「……、こんなの、おかしいですよ」

「え?」

「呆気なさすぎる。僕たちを驚かせようとしてるんだ。草下さん、晶子はまだ生きてる。今にも棺から出てきて、僕らをどっきりさせるはずだ。そうだろ? 草下さんも仕掛け人か?」

 草下はこれまでになく戸惑った様子で、目を泳がせ、両手を意味もなく擦り合わせたり、肩にかかったオレンジ色の髪を触ったりしたが、最終的には治の目を見つめた。

「治くん、現実を恐れるな」

 図星だ。棺の中を覗いたら、晶子がそこにいるのを確認したら、嫌でも彼女が死んだということを受け入れなければならない。事実そうだとしても、治が目を逸らすことはできる。心の中で、実はまだ晶子は生きてるんじゃないかと思い込むことはできる。でも、一度棺を覗いたら、辛い現実を受け止めることになる。本当は、この葬式に来ることすらも怖かった。それなのに、棺の中を見ることに耐えられるのだろうか? 発狂しかねないと、自分でも思う。

「草下さん。だっておかしいよ。さっきからずっと、涙が出ないんです。こんなに悲しいのに」治は、シャツの真ん中を、くしゃくしゃに皺がつくほど握った。でないと、胸の奥の痛みに耐えられなかった。心臓の鼓動が、これまでにないくらい伝わってくる。「胸が、すごく痛いんです、でも泣けない。俺って冷たい人間なんですかね」

「いいや、あたしも葬式で泣けなかったこと、あるよ。まだ、受け止めきれてないんだ、いろいろさ」

 草下は、治の頭を撫でた。

「辛いよな、泣けない葬式は」

「辛いですか」

「後から来るんだよ、そういうのはな」


 棺を焼く前に、皆がいろいろなプレゼント、例えば花や手紙、を入れた。治は草下に頼んで、芥川龍之介や太宰治の短編集を入れてもらった。晶子が入院したときに、何冊か貸したものだ。

「入れてあげるけど、良いの? 治くん、芥川龍之介ファンでしょ」

「良いんです。保険」

「何の?」

「晶子さんに、蜘蛛の糸が必要になったときの」


 晶子は、かなりの財産を残したらしい。それは陽葵が高校三年間バイトしなくて良いどころか、その後四年生大学入って奨学金を借りずに生活できるくらいだった。


**

 八月の終わり、治は草下のバーにいた。未だに頭の中のモヤが晴れない。実家の母と電話していても、「何だか暗くない?」と心配される始末である。

 カウンターに座って、晶子の写真を見ていた。陽葵から送られてきたものだ。亡くなる少し前、五枚撮ってとお願いされた例の写真だ。実質、これが晶子の遺影になった。こんなことになるなら、撮らなければ良かったと、半ば子供じみたことすら考えている。退院してからまた写真を一緒に撮るって、約束したはずなのに。と理不尽な考えも思い浮かぶ。あれから、晶子のために涙を流すことは、相変わらずできていない。

 五枚ぱらぱらめくってみるが、口を開けていたり、唇を突き出していたり、晶子の明るい雰囲気が出ていて、でもやはり、無邪気というよりは落ち着いた、子をもつ一人前の女性という感じだ。

「おら、二杯目、乾杯」

 草下が言ってきたので、治も「乾杯」とグラスを優しくぶつけ合う。治は今日、アブサンを飲んでいる。

「治くん、今日潰れたら冷房切って置き去りにするからね。熱中症になれ」

「コワ。潰れたことなんてあります?」

「先週カウンターで寝たよ。珍しい。晶子が……」

「いなくなってから悪酔いするようになった、ですか」

「ごめん」

「いや、良いですよ。確かにそうだ、自制しないとですね」

「その写真、アキちゃんのでしょ」

「はい、僕が撮ったんです。陽葵ちゃんが送ってくれました。良い笑顔ですよね。やっぱり、なんかめちゃくちゃ子供じみたこと言いますけど、こんなかわいい笑顔の人が、しかもこの写真撮ってからまだ一ヶ月も経ってないのにこの世にいないなんて、僕思えなくて。今にもさ、この店のドアを開けて、『おひさー』って入ってきますよ」

「それ先週も言ってた」

「じゃあ別のパターンでいきます。トイレにいるんだ。今晶子さんはトイレにいる」トイレの方を指差した。「それで、今から出てきますよ。『あれ、治くんも来てたんだ』ってね」

「それハードボイルド系漫画の最終話で、銃撃戦で死んだと思ってた相棒が生きてたやつだろ」

「恋愛漫画でも良いでしょうが」

 そのとき、トイレのドアが開いた。治以前に客が来ていたのか。その姿を見て、一瞬言葉を失った。

「……あ、晶子さん」

 だが、確かにこれ以上なく似ているが、髪はピンクでなく黒だし、まだ幼さがあり、化粧っけも少ない。晶子のどこか不良じみたそぶりよりは、しっかり者の少女という感じだ。晶子の子だ。

「あれ、治さんも来てたんだ」

「陽葵ちゃん。ここで会うのは初めてだね」

 陽葵は治の隣に座って、オレンジ色の飲み物を飲んだ。

「おー、酒飲むんだ?」

「違うよ、オレンジジュース。未成年飲酒になっちゃうでしょ」

「別に、バレなきゃいいと思うけどね」

「ダメでしょ」

「あたしも良いと思うよ。止めやしない」

 草下は言って、大きいゲップをした。

「ここにいる大人ヤバくない? あ、そうだ、その写真」

 陽葵は、治が持っている五枚の写真、晶子の写真を指差した。

「治さん。私に隠してることあるよね?」

「何のことか分からない」

「やっぱりさ、ママと治さんは付き合ってたんでしょ?」

「陽葵ちゃん、嫌味とか言うタイプだっけ。何もないよ」

「その写真見たら分かるじゃん。治さんはママの声も聞いてるでしょ。もう、隠さないでよ水くさいなあ」

 ほとほと意味が分からなかった。写真を撮ったとき、これといった会話をした覚えもない。

「ざけんなよ! 本当はこんな写真要らない、見ても辛くなるだけだ。余計なもの寄越してくれたよな」

 陽葵がびくっとして、怯える目をした。

「すまない、大声出して。でも陽葵ちゃんが何の話をしているか、分からないよ。晶子さんとは、俺の片想いだったよ。最後まで。晶子さんからしたら、俺は友達だったはずだ」

「嘘。でも、治さん本気でそう思ってるのね。ママったら何も言ってなかったの? この写真撮るとき」

「別に何も」

「じゃあママの照れ隠しか。ちょっと貸してくれる?」

 陽葵が言うので、治は五枚の写真を手渡した。陽葵はそれを見比べて、どういう意味があるのか順番を並べ替えるような動きをした。

「良い? 治さん、瞬きせずに見ててよ」

「うん」

 陽葵は、写真が見えるように治に見せてきた。「これ、『お』って言ってる」確かに、晶子は『お』の口をしている。陽葵は二枚目を見せてきた。「次『さ』」三枚目を見せられる。「これは『む』ね」

「まさか……」

 陽葵は四枚目を見せてきた。「『す』」五枚目。「『き』って言ってる」

 陽葵はそのあと、一枚目から五枚目を紙芝居のように順番に捲って、晶子の表情に声を当てていった。

「『お』『さ』『む』『す』『き』、良い? もう一回よく見てほら。『お』『さ』『む』『す』『き』。もう一回行くよ。『お』『さ』『む』『す』『き』。ね?」

 治は言葉が出なかった。何か言いたかったが、うっと喉の奥が詰まって、言葉にならない。感情が言葉を追い越してしまっている。今はいない晶子の言葉が、その弱りきった笑顔と共に思い出された。

ーーネタ切れっすか?ーー

ーーなんていうの? 今のは、うじゃなくて『す』ーー

 治は陽葵から写真を取り上げて、胸に抱えた。カウンターから滑り落ちて、床に膝をついて泣いた。

「なんで……! 何でだよ」

 あんなに出なかった涙が、溢れ出てきた。

「どうして……!」

 どうして、自分は気付けなかったのだろう。どうして晶子は直接言ってくれなかったのだろう。全てはもう遅い。

 跪く治に、陽葵と草下が優しく抱きついてくれた。そうやって、しばらく三人で抱き合っていた。


 バーから帰る前、治はドアへの落書きを増やした。太宰治の名言『芸術家は、もともと弱い者の味方だったはずなんだ』にも、スプレーで書き足しておいた。


**

 三月になると、治は引っ越しの準備を始めた。

 バスで地元に帰るとき、陽葵が見送りに来てくれた。京都駅のバス停で、バスが来るまで少しの間話した。治は荷物が少ないから、四年間の大学生活を終えても、小さいキャリーひとつで地元まで帰ることができる。

「四月から治さん銀行員なんでしょ。何だか想像つかない」

「俺もつかないね」

「投資教えてよ」

「意識高いね。良いことだ。とりあえず、銀行員からは買わない方が良い」

「えーそうなの」

「陽葵ちゃんも、春からまた応援してるよ。頑張りすぎないようにね。大人になるのが楽しみだよ」

「ママのことは好きだけど、ママみたいにはならない。だから治さんのタイプじゃないかもね」

「何でいきなりフラれたんだよ」


 陽葵は、バスの窓から見えなくなるまで手を振ってくれていた。治もそれに応えて、手を振り続けた。陽葵の姿が見えなくなったあとで、治は音楽プレイヤーをかけながら、手帳に挟んである晶子の写真を見た。『おさむすき』の五枚だ。


喪失。


 喪失感は、今もある。晶子のこと、晶子と過ごした四週間のことを思い返すと、ただ一言、喪失という言葉が浮かんでくる。胸が痛くなるときも度々ある。この世に残された側の人間は、ずっとそれを背負っていくのだろう。陽葵だってそうだ。

 晶子が言い出して買ってくれた花火セットは、結局開封することはなかった。陽葵は、次の夏にでも、草下と一緒にあの花火セットを使うのだろうか。今では、そんな些細なことが気になる。

**

 治が京都を発ってから、三年が経った。大学生になった陽葵は草下のバーへ来ていた。長い黒髪は変わらずだ。長いまつ毛やくっきりした目鼻は、晶子譲りである。陽葵は、ドアの落書きを見ていった。

「ケイさん。このセリフ、良いよね。私好きだな」

「あーそれ? 治くんが書いたやつだよ」

「治さんっぽいね」

 陽葵はその文を、独り言のように呟いた。

『芸術家は、もともと弱い者の味方だったはずなんだ。今でもそうだ』

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