本文2
今日も「フカクサカ」では、何人かの客が入っては喋り、出てを繰り返していった。端っこのソファで、晶子と治は隣で座っていた。
「マクドぶりね、文学少年くん」
「ですね、窓から石投げられた文豪のお姉さん」
「グッドボウイ」
「ボウイって年齢じゃないですよ」
「ボウイはそう言うの」
二人で乾杯した。草下はというと、飲み物を用意したり、カウンター席の客と乾杯したりしている。忙しそうだ。草下はしょっちゅう、「酒飲んでお金儲けてるんだから、楽なこっちゃ」と冗談めかして言っているが、彼女がひたむきなのは、治には分かる。バーを開業するときはカクテルの作り方もほとんど知らなかったのに相当勉強したらしいし、今の接客だって、相当頑張っている。退屈そうな客がいないか気を配っているし、グラスの空いた客にはすぐ声をかける。それはバーの接客としては当たり前のことなのかもしれないが、草下は十分命を削って、この仕事をしているように見えた。到底、本人が言うような楽な仕事だとは考えられない。
「草下さん、一所懸命ですよね」
「分かる? さすが治くん。ケイのこと大事にしてあげてね」
「はい。晶子さんのことも大事にしますよ」
「私?」
晶子は治と一瞬目を合わせた後、ふふっと言って目を伏せ、タバコを吸った。キャンドルの明かりに照らされ、目鼻立ちの良い輪郭が分かる。まつ毛も地毛とは思えないほど長い。
「私は一人で大丈夫。頑丈だから」
「頑丈な人間なんていませんよ。関係ないけど、まつ毛めちゃくちゃ長いですね」
「じろじろ見ないでくれる?」
晶子は言って、手で顔を伏せた。でも、本気で嫌じゃないのは、声色で分かる。
「いいや、じろじろ見るね」
「やだ、治くんって誰にでもそんな感じなの?」
「どういう意味ですか」
「分かってるくせに」
晶子は新しいタバコに火をつけ、吸ってから煙を吐いた。
「そうだ、これ手に入れたんだよね」
晶子はジャケットから、タバコの箱を取り出した。治は非喫煙者なので詳しくはないが、黒地に緑色の装飾があって、「マルボロブラックメンソール」と書いてある。また、金色で40thとロゴが入っている。
「ブラックメンソール、ですか?」
「そうか、きみタバコ吸わないものね。これ、マルボロのブラメンって言うんだけど。ブラメンとかアイスブラストとか味が違ってさ。私が好きなのは、ブラメン。まあそれは良いとして、この箱、四〇周年記念の特別な箱なの。記念に持っておこうと思って。ここに金色で書いてあるでしょ。ええと、よんじゅう……、なんて読むのこれ、よんじゅうてぃーえいち?」
「『フォーティース』だと思います」
「読めるわけない(そんなことはない)。とにかく四十周年記念でちょっとレアなの」
「凄いですね、ロゴもカッコよいし」
「だっしょ」
本当に「だっしょ」と言った。
そこで治は、晶子の顔を見たとき、言わなければと考えていたことを思い出した。この前草下から聞いた、晶子がシングルマザーだという話だ。仮に晶子が気にしてないとしても、本人がいないところでプライベートな話を聞いたのは、なんだか申し訳ない気持ちになる。だから、正面から改めて、言っておきたい。でないと、こちらが隠し事をしているような気分になってしまう。
「そうだ、晶子さん。僕言わなきゃいけないことがあったんです。草下さんから聞いたんです。晶子さんが……」
「へえ。バツイチシンママで酒豪のヘビースモーカー、へそにピアス空いてて乗ってる車は白のワゴンRって?」
「いやそこまでは聞いてないです。ていうか情報が多すぎる」
「そういえば、言ってなかったっけ? バツイチなのとか」
「直接聞いてはなかったですね。陽葵ちゃんに会ったので、お子さんがいるのは知ってたんですけど」
「そうか、言ってなかったか。でもいいよ、どっちみち言うことになってたと思うし、隠してないから。陽葵に会わせたのだって、偶然だったけど、隠す気ないし、治くんならなんの偏見もないだろうって思ったから。別に、何も恥ずかしいことでもないでしょ」
「そうですね」
「いや、バツイチは恥ずかしいか」
「恥ずかしくないですよ。今時珍しくもないし。本気でそう思います」
治は、そう思う。一度も結婚していない身なので、良いとか悪いとか、善悪について語ることすらできないが、だからこそ恥ずかしいことだなんて考えていない。離婚は、結婚していなければできない。治は、結婚すらしたことないのだから、その時点で晶子の方が人生経験値は明らかに上だ。
つまるところ、晶子は、詳しい経緯は知らないが、この人と人生を共にしようという人物と出会い、何かがあって離別した。どちらも、相当な決断とエネルギーが必要なことだ。治はまだ、人生を共に歩む人と巡り会うこともできていない。春に、彼女と別れたばかりだった。
**
しばらくして深夜帯になると、人はだんだん減っていた。晶子と治は店のドアの近くに立っていた。前述したが、バーのドアは落書きだらけで、それは草下が書いたものもあるが、客が書いたものがほとんどだ。ステッカーが貼ってあったり、ペンやスプレーで書き殴られたものもある。もちろんお下劣な文句もあるが、そもそもこのバーは、カウンターに男性器の形をしたインテリアが堂々と置かれてあるので、もはやなんでもアリだ。
二人でドアに書かれた文句を見ながら、
「治くんはどれが好き?」
などと、片足を遊ばせながら晶子が言う。
「僕はこのステッカーですね。『酒飲んでも一人』。自由律ならではの語感と余韻が良い」
「確かにね。川柳大会の審査員だったら、私もこれを選ぶかも」
二人揃って、一丁前に批評家気取りである。
「私はこれが好きだな」晶子が指を指したのは、スプレーで書かれた言葉だった。「『芸術家は、もともと弱い物の味方だったはずなんだ』ってやつ」
「それ僕が書きました」
「本当に? 名言ね」
「でしょう。太宰治の引用です」
「なあんだ、自分で考えたのじゃないのね」
「二人とも何の話?」
草下が後ろから、治の肩に頭を乗せてきた。本気で頭を肩に預けてきている、正直重たい。治は、人間の頭って重たいんだな、ここに脳みそが入っているわけだからな、と当然のことを思った。
「どの落書きが面白いか、格言か、好きかって話をしてたんです」
「よし、なら今日あたしが新たな名言を生み出してあげるよ。二人とも、待ってろ!」
草下は声を上げると、バーの中を走って転び、また立ち上がってカウンター裏へ消えた。ガサゴソと音がした後、スプレー缶を持って戻ってきた。
「なんでバーの裏側にグラフィティ用スプレー缶があるんですか」
「うちのカウンター下は亜空間と繋がってて何でも取ってこれるでございますですわよ。絶滅危惧種のカブトムシからアメリカ大統領が昨日履いたパンツまで持ってこれますですわよ」
酔っ払いは何を喋ってもいいらしい。
草下が白いスプレーで書いた文字は、ドアの外枠をはみ出して、壁まで書かれた。『誰も彼もが必死こいて生きてる』
**
晶子はまた朝から出勤らしく、「帰って仮眠とって仕事行く」と言って、帰っていった。バーの中は、草下と二人になった。
草下はもはや酒が回りに回って、カウンターに頭を打ちつけている。
「そういえば!」
突然大声を出す草下。
「どうしたんです?」
「治くん、アキちゃんとおせっくすはできたのかい?」
「できてないし、『お』要ります?」
「意外と奥手なのね」
「俺だって抱かれたいですよ」
そこで、治は思い出した。晶子が、へそピアスを開けているという話をしていたことを。
「晶子さん、へそピアスしてるって言ってました」
「してるね。見たことないの?」
「ないです」
「見たい?」
「見たいですね」
「こんの、スケベエ野郎が!」
「今のは誘導尋問でしょうが」
「尻を恥じろ」
「『恥を知れ』な、ってよく通じると思いましたね」
**
「牛丼食おうぜ」
朝五時にクローズの小さい看板をドアにかけながら、草下が言った。治は結局、閉店までいた。この時間まで居座って草下と共に店を出ることは、しばしばある。
「牛丼屋で吐かないなら良いですよ」
「分かったよ、治くん。酒飲みのプライドにかけて、決して吐かないと誓う」
「かっけえ」
「今のセリフ、メモしてもいいぜ」
治はポーチからメモ帳を取り出して、草下のセリフをメモした。こんなものを持ち歩いていると、小説家か何かなのかと問われるが、別にそういうわけではない。ただ、映画を見ていて気に入ったセリフだとか、気に入った小説の言葉なんかを、雑にメモしている。中学生頃からの習慣だ。
「あ、ポイポイメモ?」と草下。
「そうそう、ポイポイメモ」
メモをとる治に対し、ずっと昔に母さんがポイポイメモと言った。こぼれた言葉を拾うように見えたことから、そう名付けたらしい。このネーミングは気に入っている。もはやこの行為に他の名称を付けることなんて、想像ができないくらいしっくりきている。
朝早い時間、まだ人通りは少ない。早朝出勤と思われるスーツ姿の人や、朝帰りらしきカップルらとすれ違う。
「寒い寒い寒い」
言いながら、草下が腕にしがみついてきた。そのあとすぐ、草下のお腹がぐううとなる。
「ご、ごめん」
「聞こえてないですよ」
「聞こえてる人の返事だよそれ」
「あれ?」
「『何のこと?』って言うところ」
「そうか。間違えた」
「治くんにしては珍しいね。良いけど」
「お腹すいてたんですか?」
「うん。だから牛丼食べたいって言ってるじゃん」
「そういえば、バーの中では食べないですよね? 昨日だって、餃子買ってきて食べてた人ととか、なんかお菓子分けてるお客さんもいました。草下さんも分けてもらえそうですけど。『要る?』とか聞かれません?」
「聞かれるよ。でも、全部断ってる」
そういえば、以前治が晩御飯がわりにサンドウィッチを持って行ったことがあった。草下のバーは持ち込み可だ。ちぎるから半分食べるかと聞いたが、断られたことを思い出した。草下が言うには、理由があるらしい。
「実はさ、これ誰にも言わないで欲しいんだけど、接客中ってご飯食べられないんだよね。自分でも説明できないんだけどさ、ご飯食べられない。飲み物はいけるの。だから乾杯とかしてるでしょ。でも、胃が小さくなってるのか、緊張してるのか、そんなドキドキしてるつもりはないんだけど、とにかく食べ物が喉を通らなくって。昔からそうなの。接客中は一ミリもご飯食べられない」
「そうだったんだね。飲み物も無理してない?」
「いや、飲み物は平気平気。内緒にしててよ、お願い」
「分かった」
やっぱり、草下はバーの仕事に気合とプライドがあるし、頑張りすぎというくらい頑張っているみたいだ。内緒というのも、他の店員や常連のみんなに気を遣わせたくないからだろう。
**
牛丼屋に座ると、タッチパネルを操作した。昨今は、チェーン店の注文方法はどんどんパネル式になってきている。最初の頃は新鮮に感じたが、今では店員を呼ぶ方が気が引けるようになってきた。慣れとは凄いものだ。
治はいつも牛丼大盛り、草下もほぼ毎度チーズ牛丼大盛りを頼むので、ほとんど無言でパネル操作が行われた。治はチーズ牛丼には興味がなくはないが、チーズと牛丼が果たして合うのかどうか、怖くて注文したことがない。
「草下さん、チーズと牛丼ってさ、合うの?」
「おいしいよ。チー牛よ、チー牛! チー牛一択よ」
「チーズハムとお酒なら合うんですけどね」
「全然別の話じゃねえか」
「『チー牛』っていうのも何だか頼みづらいですよね。いつからあの言葉って一般化しましたっけ? 元々、チーズ牛丼頼んでそうな見た目、みたいな意味から派生した蔑称ですよね。美味しそうですけどね、チーズ牛丼」
「ほんとそれ。チー牛頼んで何が悪いんだよ。平成史上最大の風評被害食品だろ」
そんな平成最大の風評被害食品と牛丼大盛りを両手に持って歩いてきたのは、牛丼屋のエプロンに身を包んだ晶子だった。まとめたピンク髪が、帽子の端っこから少し見える。最初は見間違いかと思った。だって、晶子ならファストフード店で働いてはずだ。掛け持ちしているということもあり得るが。
「あら、ケイと治くん。いらっしゃいませ」
「よおアキちゃん」
「晶子さん。ここでも働かれてるんですか」
驚いた。草下は「大袈裟なリアクションだね」と言っているが、本当に驚いた。子供もいるのに、さぞ忙しいだろうと心底感じたからだ。
「そう、掛け持ちよ。治くんは、私がいるところに次々現れる妖精みたいね」
「晶子さんこそ、妖精ですか?」
「ただのシンママよ」
「それ以上二人だけのラブラブワールドが続くなら、牛丼吐くぞ」
どうやら、草下は吐かない約束を忘れたらしい。
そこで、食べ終わったらしい客のおじさんから「会計してくれーい」という声がかかって、晶子はレジへ行ってしまった。
二人して、ほとんど無言で牛丼を頬張る。草下は多弁な方だが、食べるときは口数が減るらしい。それに、お互い夜通し酒を飲んだあとなので、眠たいというのもあるだろう。それにしても、徹夜で飲んだ後の牛丼は、比喩抜きで世界一おいしい。客の数はボチボチで、同じように昨日から飲んでいたらしい人、早朝から出勤がありそうなスーツの人、目の下にクマをつけてパソコンを触っている大学生らしい女子(レポートか?)がいる。そういった人たちに混ざって食べる牛丼。なんだかおいしい。
酔いの残る脳と、なんだかんだ感じる空腹が、おいしさを底上げするのであろうか。
「酒飲んだ後の牛丼って、普通に食べる牛丼となんだか格が違いますよね」
草下をみると、肘をついて白目をむいていた。やはり頑張りすぎらしい。
**
晶子について、日が登っているうちは牛丼屋、日が落ちるとファストフード店で働いていることが分かった。一方で治はというと、近所とも遠いともとれないスーパーで、レジ打ちのバイトをしている。
以前お客さんに叱られてから(確か、パンの上にペットボトル置いたとかなんかだった気がする)、一度辞めようとしたが、店長が相談に乗ってくれて、「今度から店長がすぐ駆けつけるから一度考え直してくれ」と言われ、結局四年生まで続けてしまった。どうせだから、卒業まで続けるつもりだ。というより、あと半年ちょっとで地元へ帰ることが確定しているのに、雇ってくれるバイト先なんて思いつかない。それと、その叱られは一五分ほどにわたり、確かに治が悪かったのだろうが、精神的苦痛に対して時給が見合っていないのではと、未だに思う。大手コンビニのように、セルフレジを早く導入して欲しいところだ。セルフレジは人の温かみが感じられないだと? この真夏に朝七時の満員電車にでも乗ってろアホが。
治は閉店までのシフトに入ることが多く、今日も閉店までいる予定だ。スーパーにしては珍しく、十二時まで空いている。閉店間際は、一度閉店業務さえ覚えてしまえば楽だ。少なくとも治はそう思う。十時頃を過ぎると来る客もまばらになるし、暇だ。しかも深夜給与が発生するから、時給は多くもらえる。今日は梅雨も明けているのに雨というのもあって、なお客は少ない。たまに、「バイトは忙しい方が時間を忘れられるから良い」と言う友人がいるが、治はそんなのはごめんだ。時給が同じなら、暇であるほど宜しい。誰も来ないときが一番嬉しい。
去年の台風の日など、二時間に一人くらいしか来客せず、とても幸せな気分になったのを覚えている。
今は閉店十分前。正直もう誰にも来てほしくないが、駆け込んで来る客がほぼ必ずいるので、変な期待はしなくなった。それよりも、夕方四時から五時くらいの混み具合の方が嫌いだ。治はだいたい昼から閉店まで入るので、夕方のピーク時が一番きつい。休みなくレジを打ち続ける。深夜は暇なんだから、客全員で相談して、ほどほどの忙しさになるようにピークの波を作らず来店してほしい。到底無理な話だが、接客業に関わる人のほぼ全員が考えていることだろう。
「あれ、ママ見て。治さんじゃない?」
声をする方を見ると、女性が二人いた。一人は高校生くらい、一人は二十代に見えるが実は三二歳の晶子だ。
晶子はまっすぐに治の方に来た。陽葵は晶子の腕に手を回している。
「晶子さん、陽葵ちゃん、いらっしゃいませ」
「今度は私が客ね」
「陽葵です、覚えてくれててありがとうございます」
「こちらこそ、ありがとうだね」
レジ袋が要るかどうかとか業務の質問をしながら、商品のバーコードを打っていく。
「陽葵ったらこんな時間にお菓子買うのよ。デブになっちゃうよね」と晶子。
「違うんです、テスト勉強のお供にしようと思って」
「違わないでしょ」
「脳みそは結構カロリー使うっていいますからね。陽葵ちゃん頭使ってそうだし、別に太らないんじゃないですか」
「ほらほら、治さん分かってるじゃん」
「えー、陽葵の味方なわけ」
「いや、味方とか敵とかじゃないですよ」
そうこう言っているうち、レジ袋に商品を詰め終わった。ちょうど、店内に蛍の光の音楽が流れ始めた。閉店間近になるとかかる曲だ。
晶子はレジ袋を持ったまま話した。
「そう言えば、治くんってもう仕事終わる?」
「仕事っていうかバイトですけどね」
フルタイムで働く人を尊敬してるだけに、自分のバイトはなんだか下に下げた言い方をしてしまう。
「別に四時間でも八時間でもそれ以上でも働いてたら偉いわよ。それより、もうバイト上がるなら、待ってようか? 外雨だから、大変でしょう。うちのお子ちゃまと一緒で良いなら、外で待ってるよ」
「精神年齢はママより上です」
**
バイトが終わって、車の中。晶子が運転席、陽葵は助手席、治は後部座席に座った。晶子が窓を明けてタバコを吸い始めると、陽葵は大袈裟に咳をした。
「タバコくっさ。雨も入るし」
「あんたには、雨かからないでしょ」
「タバコの煙は来るから。早死にするよ」
「こっちは死にたいの。放っといて」
「本当に早死にするよ」
「私は、太く短く生きる」
「治さん、このヤニカスに何か言ってやって、一日二箱平気で吸うの」
陽葵が振り向いた。月に照らされた横顔は、鼻筋が良くて晶子に似ているなと感じた。ヤニカスとは、なかなか酷い言い方をするもんだな。
一方で治は、太く短く生きるというのが格言じみて聞こえたので、ポイポイメモにメモしていた。喫煙を注意された人の言い訳にしてはスタイリッシュである。
「あたし、大人になってもタバコ吸わないしお酒も飲まない」
「健康意識で?」と治。
「ううん。ママのやってることは真似しない。ママみたいにならない。男間違えて、子ども作って、昼も夜も働くしかない」
「ひまりちゃん、今夜クラブ行くかい? フリースタイルバトルで優勝できるよ」
晶子は慣れっこなのか、運転しながら、窓の外にタバコの煙を吐いていた。
「タバコ吸うのは良いけど、晶子さんが早く死ぬのは寂しいね。俺は」
「そ、そう? 寂しいか。寂しいんだ」
晶子は何を思ったのか、煙が出ているタバコを、少し口から離した。
「ママ照れてる」
「うるさい黙れ」
「うわそういうとこ初めて見た、おばさんのくせに」
「なんかさ、前の旦那は言ってくれなかったなって思ってさ」
車内がしいんとした。そうか、前夫は言ってくれなかったのか。好きとか寂しいとか可愛いとか、晶子に伝えなかったのだろうか。だったらどんなに退屈な男だったろう。
陽葵も思うところがあるのか、喋らなくなった。治は離婚がいつ頃かも知らないし、陽葵が父のことをどう思っているのか分からない。会いたいのか、会いたくないのか、好きなのか嫌いなのか、それとも記憶にすらなくて興味もないのか。いずれにしても、車内で気軽に話すような内容には思えなかった。
治はなんとなく、口を開こうと考えた。
「陽葵ちゃんはさ、タバコ嫌いなんだね。吸いたいとか、思わないのかな」
「絶対吸わない。治さんは?」
「吸ったことないね」
「良かった。私ね、ママみたいになりたくないんです」
「タバコ吸いたくないってこと?」
「それもあるし、素敵な彼氏作って結婚するんだ」
「せいぜい頑張りたまえよ」
晶子は、次のタバコに火をつけた。治が座っている助手席から、晶子が手に持っているタバコの箱が見えた。マルボロのブラメン、四十周年記念の箱だった。
晶子は道を覚えるのが得意らしく、家の前で治を下ろしてくれた。
**
「治くん、君家庭教師できる?」
そう頼まれたのは、草下のバーでの話だった。晶子は明日、久しぶりの休みらしい。治と晶子はカウンターで横に並んで、酒を飲んでいる。晶子はレモンハイボール、治はアブサン。さっき乾杯したところだ。
「あたしはリームー」
治が答えるより先に、草下が返事をした。あとゲップも。
「科目によりますね。何の家庭教師ですか?」
「国語、数学、英語、社会、理科」
「全部じゃないっすか。あと社会と理科って高校ならわかれてますよね。倫理とか政治経済とか。一年目は一緒だったっけ?」
「私は何もかも分からない」
「頼み方がアバウトすぎる」
「私は高校でやってた科目とかほとんど覚えてないからさ。あんまり学校行ってなかったし。でもさ、陽葵は私と違って頭が良いから。あの子に教えてやってよ。頼めない?」
「もちろん良いですよ。俺の世代と習うこと変わったりすることもあるみたいなんですけど、まあ高校一年生の分野ならだいたい……」ここまで言って、自信がなくなった。正直、大学四年間で脳みそがアルコールで萎縮している気がする。治に限らず、五教科に関しては大学生より高校生の方がよほど賢いだろう。「国語英語はやれます。数学は数一・Aしか自信ないですよ。理科は生物と地学しかやってないです」
「スウイチ? エー?」
「晶子さんも、さすがに絶対習ってますよ。生まれて初めて聞いたみたいな反応やめろ」
「分からないから、スマホで録音して陽葵に聞かせるわ。教えられそうな科目言って。自信なくても良いからさ」
晶子はスマホを取り出し、ボイスレコーダー機能らしきものを起動させた。治はええと、と言いながら、まだ頭の中に知識が残っていそうな科目を考えてみた。
「言いますよ。国語、英語、数学一・A、社会は日本史A世界史Aと世界史B、倫理。理科は生物、地学。以上です」
これらの科目を思い出すのに、何十秒かかかった。自分は習わなかったが、理科だったら物理とかも選択にあったような、なかったような。もう、高校を卒業してから四年経つのかと思うと、時の流れが早すぎる。きっと、次の四年も、その先の四年も、後から考えたらあっという間なのかもしれない。そうしたら、治はもう三十路になる。
録音を終えた晶子は、強いお酒が飲みたいと言って日本酒を頼み、また治と乾杯した。
「さっきの科目、聞くだけで頭が痛くなりそうだった。じゃあ、明後日空いてたら私が車であなたを迎えに行くから、陽葵にどの教科教えられるか言ってあげてね」
「さっきの録音意味無え」
「お、いいね。私にタメ語になってきたね」
「いや、敬語ですよ。ツッコミはタメ語じゃないとリズム感が損なわれる」
「タメ語で良いのに」
「さすがにね、十歳離れてるからね」
「それで良い」
草下は、さっきから店に流すカラオケ映像を次々と選んでいる。今の会話を聞いていたら、「あたしには敬語な」とか、あるいは逆に「あたしにはタメ語じゃないのにな、友達じゃないってことか?」とか言ってきそうなものだが。考えながら草下の方を向くと、ウィンクしてきた。あたしはお邪魔しないわよ、と言っている。なんだ、気が利くじゃないか。
晶子が項垂れているので、それはそれは深く項垂れているので、治は心配になった。顔も見えない。
「晶子さん」
返事もなく、動きもない。
「晶子さん」
次の瞬間、顔をカウンターにつけた。寝たらしい。酔ってダウンしているのかもしれないが。ピンク髪の隙間から耳が見える。左耳に、ほくろがある。
カウンターに投げ出された指先が、治の指先に触れているのが分かった。治がそっと手を握ると、心なしか晶子も握り返してくれた気がした。起きているのか、それとも偶然の反応か。とにかく、幸せだと思ったし、マメがある感触に「働いてばかりの人の頑張っている手だ」とも思った。
「アキちゃん寝ちゃったね。寝不足だからねいっつも」
「酔っ払ったんですかね」
「私に限ってそれはない」
晶子が突然顔を上げた。最初から聞いていたのか、今飛び起きたのか分からない。治は握り合った手を見て、怒られたり嫌がったらすぐさま放そうと考えていた。晶子は握った手をそのまま、空いている方の手でスマホを見た。
「帰って仮眠とって出勤だわ」
晶子の手が、治の手からするりと抜けた。会計を払うとき、「お釣りは、そこの手が綺麗な少年におごっといて」と言った。
「悪いですよ」
「家庭教師代、先払いってことで」
なんて言い返そうか考えたが、戸惑った。うまいな。何がうまいか表現できないが、治はともかくそう思った。
「治くん、ケイ、おやすみ」
晶子が涼しげに店を出た。
**
ガソリンスタンドで、治はワゴンRの助手席に座っている。
「お待たせ」
ガソリンを入れ終わった晶子が、運転席に入ってきた。全く待っていない。自分でもめざといと思ったが、晶子は多分、千円しかお札を入れていない。実際、ガソリンのメーターもほとんど変わっていない。これではまた、明日か明後日にはガソスタに来ることになるだろう。
治は今、晶子の運転で晶子宅へ向かうところなのだが、車のガソリンが足りないということでガソスタに寄っていたのだ。
「晶子さん、今更ですけど、ガソリン代出しますよ」
「いいよいいよ。私の頼みで来てくれてるんだからさ」
走り出した車の中で、治は窓の外を見たり、晶子の横顔を見たりした。外を見たって大学近郊なので、よく行く牛丼屋や友人のバイト先のコンビニなどがあるだけで変わりばえはしない。晶子の横顔はいくら見ても飽きないが、じろじろ見ても失礼だ。
タバコの火をつけた晶子は窓を開けようとしているが、今日のワゴンRは機嫌が悪いらしく、なかなか開いてくれない。晶子がエルボーを一発かましたあとスイッチを押すと、ガガガと音を立てながら窓が下がった。腕を出して、タバコの煙を吐く晶子。
想像はしていたが、晶子が昼夜働いているとはいえ、経済状況は良いとは言えないだろう。車を修理に出したり買い替えるのは惜しいし、なんならガソリンを満タンに入れることすら憚っているのを見てしまった。ただ、「タバコに使うのは良いが、ガソリンに使うのは勿体無い」だとか、そういった思考回路の持ち主である可能性もあるが。
車を買った地元の友達も、去年にドライブに連れて行ってもらったとき、「車買ったばっかで金ねえんだわ」と言いながら千円札をちびちびとセルフスタンドで入れていた。代わりに、ご飯代は治が出した。治は自分の車を持っても、多分満タンまで入れるだろう。どうせ走るのだから。ともかく、晶子が金欠でなければいいが。
「なあに。もしかして晶子お姉さんの財布の心配をしてるの?」
二本目のタバコに火をつける晶子。
「してないです。やっぱ、してます」
途中で、どうせ嘘をついても見抜かれるぞこれはと思ったせいで、変な言葉使いになった。
「どっちやねん」
「してますね」
「なんでよ?」
食い気味である。
「いや、さっきガソスタで千円しか入れてなかったので」
「毎回満タンにするのが面倒なだけよ」
しょっちゅうガソスタに行く方が面倒では? とは言い出せなかった。晶子から、イライラというか、ムカついているというか、とにかく悪い意味で前のめりなオーラを感じたからだ。プライドだとか、晶子なりの価値観が、お金の心配をされるのを許さないのかもしれない。冷静に考えて、治は十歳下だ。治も、中学生にお金の心配をされたとしたら、ムッとはしないが情けない。実際のところ、貧乏大学生ではあるのだが。
「とにかく、治くんは何にも心配なんてしなくて良いのよ。何にもよ。私は一人でやっていける。陽葵を育ってるのだって一人でやっていける。私はママだし、パパでもあるの。兄貴でもあるし、姉貴でもある。その辺の親より四倍強いの」
それは治に言っているのか、晶子が自分に暗示をかけているのか分からなかった。車内に流れるタバコの香りが、お香のようにも感じた。
その辺の大学生よりは会話が上手い自信があったが、なんて返せば良いのか分からない。晶子の両の目の下に真っ黒なクマがある。クマ消しの化粧をしているらしくても見えるクマが。出会ったときから、こんなに黒かっただろうか。
陽葵は本当に礼儀正しい。
「治さん、今日からよろしくお願いします」
深々と頭を下げて、温かいお茶まで淹れてくれた。「こういうの普通はママがやるんだよ」とか言いながら。
「金も出ねえのにやらないよ」
娘に対して怖すぎる。
「ヤンキー上がりが、良くガキを高校生まで育児できたね」
カウンターも鋭すぎるだろ。
「井の中の蛙がよ」
「蛙の子は蛙って言いたいんですか」
治がやっと口を挟むことができた。
「なあに? 治くんも陽葵の味方なワケ?」
なぜか楯突かれる。
晶子はトイレの場所などを簡単に説明してくれたあと、治と陽葵が部屋に入ったのを見送って、ドアを閉めかけた。
「じゃ、治くん。私今日休みだから、撮り溜めてたドラマ見てるね。晩御飯は、三人で一緒に食べよう、私作るから。他に用事あったら言ってね」
「少なくとも国語に関してはママに用事ない」
まだ続いていたのかこのやり取り。
「今度生意気言ったら体育教えてあげるよ。柔道か合気道な」
力強くドアが閉められた。
二人並んで、陽葵の机に座った。部屋は片付けられてある。治が来たから片付けたというより、元から片付けてあるという雰囲気だ。几帳面なのだろう。ちなみに通りがかったリビングは服や雑誌が散らかっていたが、逆説的に晶子のものだと言うことが分かる。
国語の教材を陽葵が捲り始めた。ドアの向こうからは、何を言っているかは分からないがテレビの音が聞こえる。晶子がドラマを見始めたのだろう。
「あのさ、陽葵ちゃん。母さんと何かあったの?」
「何もないよ。どうしてそう思うの?」
本当にきょとんとした顔なので、こちらもきょとんとした顔になってしまう。
「いや、言い合いが激しいからさ」
「そう? しょっちゅうこんな感じだよ」
煽り文句の語彙力なら日頃から鍛えられていそうである。治なら、母さんにあんなこと言われたら驚くし、母さんにあんなことを言ったら、きっと母さんは言い返さず泣くだろう。家族いろいろである。
しばらく現代文の問題を一緒に解いた。陽葵は晶子の娘だけあって、会話力はあるし、年上に対する礼儀もあれば、ちょうど良いフランクさもあり話しやすい。この子なら高校でも友達は多いだろうし、大学に受かっても、たくさんの友達に囲まれ、教授にも好かれるだろうと予測できた。
「治さん。現代文ってさ、解き方とかあるの?」
何問か解いたあとのことだ。
「俺はあると思ってる」
「具体的には?」
「例えば、ここの問い。こういう問題ってしばしば出てくるだろ、『この人が〇〇した理由を答えよ』ってやつ。理由聞いてくる系」
「あるある。私これ嫌い。そんなの分からないじゃん。登場人物か作者に聞かないと」
「そう思いながら解く気持ちは分かるよ。まあでも、陽葵ちゃんはとりあえず、高校三年間はこの問題と付き合わなきゃいけないわけだ。だから一旦考えよう」
「嫌だけど、治さんが言うなら分かった」
「この手の問題は、ほぼ必ず出るよね。だから、俺は本文を読むとき、『だから』とか『なので』、『故に』って言葉にまず○を付ける。なぜかというと、こういった言葉の後には、だいたい理由が記されているからだ。日常会話でも、『だから』って言ったら次に理由を話すだろ?」
治は「いいかい?」と言ってペンを借り、問題文の『だから』に丸をつけた。そのあとの文章に、物差しを置いて縦線を引いていく。
「だいたいこの、縦線の辺りが理由になるわけだ。この辺の文を引用すると、答えと一致するはずだ」
陽葵は大きい目をわざわざ薄くしながら、答えのページをぱらぱら捲った。「本当〜?」という風だ。次には、その目が丸くなった。
「本当だ、当たってる」
陽葵はまた、答えと問題のページを見比べた。
「次の問題もだ。『故に』のあとに答えがある。凄い治さん、これ必勝法だ。どうして学校の先生は教えてくれないのよ」
「俺より先生向いてないのさ」
突然強気である。
陽葵は突然、お尻を何度か浮かして軽く撥ねた。現代文の問題を解いただけだが、この世の真理に気付いたかのような喜びようだ。治は家庭教師なんて初めてやったが、これだけリアクションしてくれると、教え甲斐がある。
「凄いね、国語って答えがあるんだね。やっぱり治さん、太宰治の生まれ変わりだ」
「いいや、そうとも言えない。高校のテストや大学入試にはあるけどね。文学的な意味では、答えがないこともいっぱいある。文学を勉強すればするほど、答えがないって答えが分かってくるんだ」
「どういうこと?」
「例えばね、こういう話が例年ある。センター試験……君の世代だと大学共通テストっていうのになってるのか? とにかく、大学入試の問題には、元になる本があるだろ? その作者が、今年の問題を解いてみたところ、半分も正解しなかったって、実際の答案用紙をSNSにアップして話題になった。
他にも例えば、太宰治の『人間失格』は文学界ではたくさんの教授が研究して、それこそ俺なんかよりもっと賢い人たちが集まって、論文が出まくってる。この世の解説論文を全部集めたら、多分『人間失格』の本文よりも分厚くなるくらいね。その中でも、『この本は日本文学空前絶後の傑作だ』って言ってる人もいたら、『なんの見どころもない紙屑だ』って言っている人もいるし、『自叙伝かつ遺書だ』って言ってる人もいたら、『女性をバカにする思想本だ』って言っている人もいて、そんなのが何十年も話し合われているんだ。賢い人たちが、ああでもないこうでもないってね」
「えー、じゃあ結局どういうことなの?」
「まあ、文学に答えはないが、大学入試とか学校のテストでは、仕方なく答えを設けているって言うのが近いか」
「意味ないじゃん」
「受験勉強なんて、ある種の暗号でしかないからな。俺の『だから戦術』だって、文学なんかじゃなくて、試験を解くために作った作戦だし。どこの誰でも思いつくさ」
「テストは面白くないけど、さっきの論文の話は面白いかも」
「そういう話に興味があったら、文学部に入学したらいいよ」
途中で、大きないびきが聞こえてきた。隣人のいびきかと思ったが、どうやら晶子さんらしい。目を合わせると、陽葵は笑ったあとで、鋭くドアの方を見た。晶子のいる部屋の方を。
「うるさいなあ」
「まあまあ。晶子さん、疲れてるから」
「治さん、ママと付き合ってるの?」
藪から棒になんだよ、と返事をするのは簡単だ。そう言ったかわし方はできるはずだ。だが、年齢を盾に会話を避けているようになる気がする。高校生を子供扱いして、いや大切に丁重に扱うのは大事だが、対等な会話をしないのは無礼だと治は考える。
少し返事に戸惑った。とはいえ、実際何かあるわけでもないから、隠すことすらない。
「付き合ってないよ」
「本当?」
「うん」
「ママのこと好き?」
「そうだね。好きだよ」
瞬間、陽葵はキャーと言った。治がビクッと肩を動かすほどの叫び声だ。凄い勢いで部屋のドアが開く。
「陽葵! どうした!」
寝起きでボサボサピンク髪の晶子である。陽葵の無事を確認したあと、治の顔を見る。いつもの優しい瞳ではなく、戦闘体制に近い、攻撃的な目だ。良くない方向に疑われているな、ということだけは分かる。
だが、陽葵が両手を出して、待ったのポーズをとったのを見て、晶子はドアの前で突っ立った。
「何もないよ、ママ。大丈夫だって」
「今悲鳴聞こえたんだけど。私の夢?」
陽葵は何も言わず、というか言えないのか、ニヤニヤしている。堪えても、堪えきれないニヤニヤだ。治にはなぜニヤニヤするのか分からない。しかも、その視線は、晶子より治に向けられている。もはや、口だけでなく目までニヤついている始末である。
「ちょっと、真面目に心配してんのよ」
晶子の気持ちは良くわかる。真面目に心配するほど、ふざけた顔をされると腹が立つだろう。
「悲鳴かもしれないけど、嬉しい悲鳴ってやつ? かな? 分かるでしょ? 会話が盛り上がったときにそういう声出すじゃん」
「なるほど?」
晶子はさっきの悲鳴を思い返して、確認作業を脳内でしているらしかった。確かに、恐怖の声ではなく、喜びの声だったか、と。
「じゃあ陽葵、怖いことがあったわけじゃないのね?」
「うん。国語の問題解いてただけ」
「じゃあ、なんでそんなに話が盛り上がったわけよ? 治くん」
「ええと、俺もびっくりしてるというか……」
まさか、晶子のことを好きだと言ったら悲鳴をあげられた、とは言えない。いや、もう言ってしまってもいいのか? 聞かれたのだから、結果的に愛の告白をすることになっても仕方がない。こんなやけっぱちっぽい形で言いたくはないが、会話の流れを作ったのは晶子と陽葵なので、治のせいではない。たぶん。
「もしかして、あんたたち付き合うことになったの? だったら言ってよね」
晶子が突然納得した顔になった。治が何かロマンチックなことを言って、陽葵が承諾した、みたいなシチュエーションを想像しているらしかった。治が何かいう前に、陽葵が椅子から立ち上がる。
「違う! 本当に違うの。ママ、それだけはない! 絶対ないから。治さんは別の好きな人いるから。あたしと治さんは絶対にあり得ない」
これでは必死すぎて、逆に隠しているように聞こえるではないか。だが、「必死すぎるよ、やめなよ」と治がここで言ってしまうと、輪をかけて怪しい。放置しておくことにした。
晶子は信じるべきか信じざるべきか、治と陽葵の顔を交互に見ている。こういう心理戦はあまりやりたくはない。治からしたら、晶子に惚れているのにこんな疑われ方をしても、メリットがなさすぎる。それに、陽葵が一所懸命に隠しているのと、その中に「治さんママのこと好きなんだって!」って大声で言いたい気持ちが明確にチラついていて、余計に恥ずかしい。
もう、強気に出るか。早く楽になりたい。
「晶子さん。聞きたいことがあるなら、なんでも答えますよ」
「お、う、うん」
いきなり精神的仁王立ちで話しかけられ、若干困惑する晶子。
「恋バナよ、恋バナ。恋バナで盛り上がったの。治さんの過去の恋バナ」
陽葵がちょうど良い言い訳を出してくれた。最初からそう言ってくれ。それとも、これまでの会話で、吐くセリフの微調整が済んだのだろうか。
「なるほどね。元カノの話ってわけね」
頷く晶子。納得した安心からか、目が眠そうになった。もう、疑いの目は向けられていない。
「そうよ。じゃあ、私たちは恋バナ、じゃなかった勉強するから、ママは早くあっち行って。邪魔邪魔」
「あんたね、ちゃんと恋バナしなさいよ」
まだ寝ぼけているようである。
陽葵は、晶子がドアを閉めるのを見送ると、椅子に座って、すぐさま椅子ごと治に近付いた。壁があるとはいえ、晶子に聞こえぬよう小さめの声で喋りかけてくる。
「さっきはごめんなさい。あたしの大声のせいだわ」
「許すよ。そのニヤつきをやめてくれたらね」
「だってだってだって……」陽葵は、両足をバタバタとさせた。「治さんったらストレートすぎるんだもん。こっちが恥ずかしくなっちゃう」
陽葵は、確かに耳まで赤くなっている。
「陽葵ちゃんから好きかって聞いてきたのに、そんなこと言われてもな」
「なんで誤魔化さなかったの? 『好きって何?』とか『なんでそんな話?』みたいに言えば良かったじゃん。いきなり言うからびっくりしちゃった」
「どうせバレてるからね。それに誤魔化す方がダサいだろ。中高生の男子じゃねえんだから」
「分かるー! 分かる分かる(このあと、『分かる』と十回以上繰り返す)。ダサいよね、誤魔化す男子さ。治さん良いな、今どき珍しいストレート系。モテるでしょ」
「モテないよ。人並みだ」
「それモテる人の答え。じゃあ、ママにはまだ言ってないんだ?」
「残念ながらね。俺からの好意は見え見えだと思うけどな」
この辺りで、また晶子のいびきが聞こえてきたので、陽葵の声のボリュームが元に戻った。
「あたし、治さんのこと応援する。えー、そうなったら治さんがパパか。若いなあ。絶対楽しい。お兄さんみたいだし」
想像するまでが早すぎるだろ。
「治さん、これからもいっぱい家に呼ぶね。で、私一人で勉強するから、私のことは放っといて、頑張ってママに近付いて」
「当初の目的が行方不明すぎるよ。元々君に勉強教える約束だからね」
「ママに近付きたくないわけ?」
「いや、両方やるよ。陽葵ちゃんに勉強を教えるし、晶子さんにもアプローチする」
「うー……」
陽葵はためたあと、すぐ横のベッドに飛び込んで、枕に顔を埋めた。キャーという声が枕に抑えられる。「照れる照れる」と、照れるを十回くらい言った。
「自分の恋愛で照れろよ」
**
陽葵は賢い。元々晶子から聞いていたが、予想以上だと治は思った。テスト範囲の教科書問題や、学校から貰った教材を解いていったのだが、高校一年数学に関してはほとんど教える必要がなかった。というか、横から見ていた治が思い出したり、危機感を覚えるくらいだった。サインコサインタンジェント、いわゆる三角比に関しては、もう聞かれても何も答えられないなと自覚した。二次関数も難易度が上がるともう分からない。来年この家に呼ばれても、数学は何も教えられないだろう。
集中力もあるし、治からの注意がなくても数十分椅子に座って淡々とこなしている。おそらく、小さい頃から、言われずとも勉強するタイプだったのだろう。
尊敬した。治にはこれが無理だったからだ。宿題はイヤイヤだったし、嫌なことを目の前にしてずっと座っているのが、拷問のように苦痛だった。理由もわからず泣いたこともある。宿題をやっていた理由は、「やらないと親や先生に怒られるから」だった。興味のある本なら一日中読める。漫画も読めるしゲームもできる。でも宿題はとにかく嫌だった。今から考えると、そういう子供を椅子に縛り付けたところで、伸び代なんてタカが知れている。
治は仮に学校の先生になっても、宿題をやらない生徒をあまり叱らないだろうな、としばしば考える。そういう子供を大人の力で言いなりにさせるのは難しくないが、ただ「宿題が終わった」という成果を与えるだけで、無理やりやらされた内容なんて、次に飯を食べる頃には忘れている。だったら子供自身のためにはならない。「治先生のクラスは宿題の提出率が高いですね」って言われるためだけに宿題を出させようとは思わない。
「治さん、ママのどこが好きなの?」
陽葵がたまに治の方を向いたと思ったら、これである。もはや教育のために呼ばれたというより、息抜きの際の話し相手で呼ばれたというべきかもしれない。
「顔」
「うっわ、イカつい。ママ美人だけどさ」
「かわいいよね」
「面食いなの?」
「違う」
「嘘じゃん」
「いや、たまたま晶子さんがかわいいってだけだよ」
「面食いはみんなそう言うでしょ。それね、女の子の前で言っちゃダメだよ。怒られる」
「怒るような人には言わない。俺だって相手は選ぶさ」
「怒るような人って?」
「顔の話でカッとなるのは、ブスだけだろ」
「やっば。治さんって意外と毒吐くんだね」
「本当のことだよ。陽葵ちゃんが怒らなかったのも、君がかわいいからだろ」
「うわー、なんかあなたのこと、分かってきたかも」
陽葵は、頬を赤くして、目を泳がせいている。
「どういう意味?」
「治さん気をつけた方がいいよ、女の子その気にさせるタイプだ。恨み買うよ」
**
晩御飯は、晶子が鍋を用意してくれた。
「普通そうめんとかでしょ」
そうめんが食べたかったらしい陽葵。治が三人の皿に具と汁をよそる。治、晶子、陽葵は三角を作るようにバラバラに座って机を囲んでいる。
「確かに季節感はないかも。治くんもそうめんが良かった?」
「いや、美味しそうですよ。夏に冷房ガンガンの部屋で鍋囲むっていうのも、乙なもんじゃないっすか」
「ジジイみたいなこと言うね」
言わなきゃ良かった。
「こういうのはママがやるんだからね。なあにお客さんによそらせてるの」
「やろうとは思ったよ、治くんが素早過ぎただけ」
何だかバトル漫画の表現みたいだ、などと考える治。三人でいただきますをすると、乾杯をした。陽葵以外はビールだ。晶子は乾杯のあと、コップの中のビールを、一気に飲み干した。草下だったらこのあとでかいゲップをする。さすがに、晶子のゲップは聞いたことがないな、などと、くだらないことを考える。
「そういや、治くんは今日の夜どうするの?」
割った豆腐に何十秒を息を吹きかけていると、晶子にそう言われた。ご飯にしろたこ焼きにしろ鍋にしろ、熱い方が好きなのだが、すぐ食べると舌を焼くので、こうやってほどほどに冷ましてから食べる。二十年間この食べ方である。
「お二人が食べ終わったら、帰らせてもらいますよ」
「でも、私お酒飲んじゃってるから運転できないよ」
「歩いて帰りますよ」
「治くんち深草でしょ? 隣町とはいえ、結構歩くんじゃない? ていうか猫舌だったの?」
「猫舌ではないです」
「豆腐食べれてないじゃん」
治は食べようとしたが、歯先に当たるだけで熱いのが伝わった。先っちょだけ齧って、ハフハフと食べた。
「あ、熱い、美味しいです」
「猫舌じゃん」
「火傷を警戒してるだけです」
「めっちゃ嘘じゃん」
見せつけるように、湯気の出る揚げものや肉を食べる陽葵。
「終電までまだ時間があります。それに、もし終電を逃しても、三十分くらい歩けば帰れると思いますよ」
このままでは猫舌扱いされるので、話題を元に戻した。晶子は一瞬きょとんとしたが、帰り道の話だと分かると返事をくれた。
「三十分? 遠過ぎでしょ」
「地元じゃそのくらい歩くのは普通でしたよ。街中で飲んで、三十分歩いて帰るとか普通でしたし。終電もありえないくらい早いんですよ」
「そうなの? 四国の人ら足腰強過ぎでしょ」
晶子はビールの缶を持って、コップに注ぐ。コップの中の氷が、ヒビ割れる音がした。
「なんか良いですね。鍋のぐつぐつした音と、酒に浸かった氷がひび割れる音って風情ありますね」
「またジジイみたいなこと言うのね」
「言わなきゃ良かった。『飲み残した一杯のアブサン』」
「あ、名作引用で誤魔化したね」
「なになに、何の話?」
陽葵が鍋の二杯目をよそりながら言った。食欲があるのは良いことだと、治は心の底から思う。頭を使ったから、なおお腹が空いたのかもしれない。
「陽葵もね、テスト終わって春休みになったら、読書したら良いわよ。そうしたら分かるかも」
「えー、治さんとママだけの秘密の会話なの? ずるい」
「治くん、今日泊まっていきなよ」
あまりにもいきなり言うので、口につけたビールを噴きそうだった。
「俺一応男っすよ。良いんですか彼氏さんとか」
「だからいないって。まだ疑ってたの」
「とーまーれー、とーまーれー」続けて、陽葵は泊まれと何度も囁いてきた。ニヤついてる。
「本当ですか、俺彼氏にぶん殴られないか心配ですよ。とりあえず歯は食いしばるけど」
「架空の彼氏の心配してどうすんのよ。じゃなかったら、仕事の合間ぬって一人でケイのバーに通ったりしないって」
「泊まりまァす!」
**
「あたし友達と電話してから寝るね、治さんとママはごゆっくり。酒でも飲んで」
お風呂から出た陽葵はそう言って、返事を待たずドアを閉めた。キッチン付きのこのリビングが、食卓件晶子の寝床らしい。晶子はいつも、リビングに布団を敷くか、ソファで寝ると言っていた。治が心配そうな顔をすると、「あんまり家に帰らないから、私の部屋作っても仕方ないでしょ」とのこと。
「酒でも飲んでって、あの子が買ったわけでもないのに偉そうにね」
陽葵の言葉には、とにかく何か言い返したい様子の晶子。治にも妹がいるが、母と娘ってこうだったか? 少なくとも治の家庭は違った。とはいえ、話を聞いていると晶子親子も二人で出かけることもあるらしいし、それこそ初めて車に乗せてもらった日は高校まで会いに行っていたから、口ではああ言っていても仲は良いのだろう。
治と晶子は、『蔵元の梅酒』をロックで飲んでいた。愛媛の地元酒で、治が今日持ってきたものだ。
「美味しいねー、お酒ありがとう」
「地元の母さんが送ってくれたんです」
「あんたは、母さんと仲良いのね。そりゃ素敵なこった」
あんた「は」という表現に膨大な含みを感じたが、話を掘ると地雷を踏みそうなので、やめておいた。
「治くん、ありがとう。陽葵は賢いからさ、もっと塾行かせるとか家庭教師雇って伸ばしてあげたら良いんんだけど、そこまでできなくて。治くんがいてくれて良かったよ」
「いや、陽葵ちゃんは晶子さんの言う通り賢いし、何なら一人でもどんどん勉強していきそうですよ。偏差値六十とかの大学なら今以上の工夫もせずいけそう。何より勉強することを嫌ってないのが強い。さすが晶子さんのお子さんですよ」
「まあ口が達者なこと。でも、ありがとう。鍋くらいでお礼になってる?」
「なってますよ。前も酒奢ってもらったじゃないっすか」
「そうだったっけ? まあいいや。他におねだりとかある?」
「晶子さんの唇をください」
「なあに年上をからかってんの」
「マジです」
治は、少し晶子の方に体を寄せた。晶子は目を合わせてはくれないが、酒の入ったグラスを揺らしながら微笑んでいる。さっきまで、晶子には間を空けずに返事をしようという考えが見てとれた。間を空けると、会話の真剣度合いが上がるからだ。会話が真剣な空気になるほど、冗談や微笑みだけでは受け流せなくなる。でも、晶子は少し黙ってしまった。
だが、きっと気まずい沈黙ではない。
晶子も、治にそっと寄ってきた。肩が触れる。どうしたものか、晶子は考えているらしい。イエスとも、ノーとも答えられないのだろうか。
治はそっと、晶子の整った顎に手を添えた。
「ちょちょ、ちょっと待って」
顔の位置を戻して、自身の頬を叩く晶子。「あっぶねー」
「安全です」
「危険だよ。マジでキスする二秒前だよ」
「嫌なことしたなら謝ります。ごめんなさい」
「嫌じゃないけどさ……」
晶子がやっと、横に並んだ体を捻って、治と向かい合った。かと思うと、すぐ「フフッ」と言って頬を赤くし、グラスに視線を落とす。
「そんなキラキラした目で見ないでよ」
「見ます」
「なんでよ」
「晶子さんが可愛いんで、つい」
「治くんってさ、オス出すの上手いよね」
オスを出す、と言うのがよく分からない。オーラ的なものなのか?
「嫌じゃないけど、ほら。私たち付き合ってないでしょ? 付き合ってない人とは、そういうことしないの」
「はえー」
間抜けな声が出た。治は偏見など持ち合わせていないと思っていたが、ピンク髪、ヤンキー出身、両耳で合計七個のピアスを付けた晶子が固い貞操観念を持っていたことは意外だった。別に尻軽だと思っていたわけではない。年齢的にも、二十代より三十代の方が、貞操観念は緩くなっていくイメージがある。ていうか、三十路過ぎて「エッチなことは付き合ってから」と言う人物は相当レアではないのだろうか。悪口ではない。シンプルな、全人口に対する割合の話である。むしろ、尊敬すらする。
「何、尻軽だと思ってわけ?」
「いや、思ってないです」
「確かにチャラくは見られるよ。明らかに、『すぐヤレそうだな』って思ってナンパしてくる男もいるさ。でも、付き合ってない人とセックスしたことないからね。これ本当」
「すげえ、尊敬しますよ」
「治くんは見た目では硬派かと思ったけど、話せば話すほどチャラいね。付き合ってない人ともそういうことする?」
「時と場合によります。相手が良ければ。相手が嫌がるならしないですよ」
「嫌がられることあるの?」
「いえ全く」
「チャラいねー」
「今の、晶子さんにキス断られたのが初めてです。でもマジで、無理やりは俺のポリシーに反するんで。俺のこと怖くなったなら、今すぐ帰ったって良いんです」
「いやいや、そんなこと思ってない。なんて言ったら良いんだろう。今のままの関係が心地いいの。今のままが。分かる?」
確かに、今の治と晶子はきっと、恋人ではないが、友人以上には仲が良く、お互いに程よい好意は感じ合っているはずだ。でも、治からしてその好意は恋愛的だが、晶子からどうかは分からない。それこそ「懐いてくれる舎弟」程度かもしれない。そういう、不透明な状況は時として楽しいが、時として辛い。離れた方が、良いのだろうか?
治が尻を浮かしかけていたので、晶子は腕を引っ張って、また肩が寄り合う距離に戻した。
「本当に嫌じゃないの。あなたと一緒にいると楽しいし、落ち着く。本当よ。嫌だったら今頃投げてるわ。私、柔道黒帯、合気道段持ってるから。あんたみたいなモヤシは、本気出せばいつでも病院送りにできるよ」
「恋バナからナチュラルに殺し文句が出てくるの初めて聞いたよ」
「既に私の間合いだからね」
「コワ~」
「治くん、私は良い彼女にはなれないよ。あなたが思っているほど、良い女じゃない。おばさんだし、子持ちだよ?」
「お姉さんです。それに、良い彼女になれるかは付き合ってみないと分からないですよ」
「釣り合わないって話。治くんはさ、同じ大学生とかと付き合いなって。こんな、やつれたおばさんじゃなくてさ」
「釣り合うとかどっちでも良いです。俺は晶子さんのこと慕ってるんです。だったら釣り合うかとかお似合いかどうかとかは、晶子さんは決めたり考えたりしなくて良い。俺が素敵な女性だと思ってるから、それだけで良いんです。何でも合わせますよ、してほしい髪型とか着て欲しい服とか。タバコも吸ったことないけど、一緒に吸える男が良いって言うならタバコのことも調べます」
「もう、何が起こってるのー」
晶子は机に顔を突っ伏した。数秒後、「戻ってくるから」と言うと、キッチンの奥から氷を入れた大きいグラスと、ウイスキーの瓶を両手にやってきた。その瓶は、銘柄は見た覚えがあるが、いくら何でも大きすぎる。ウイスキー瓶だと七〇〇ミリリットルとか千リットルが普通というところだが、明らかにその倍くらいの大きさだ。それを持つ晶子には、どこの王か分からないが王の貫禄がある。しかも、何かしらの覚悟を決めた目をしている。
治はほぼ反射的に、両手で頭を抱えた。
「そんな物騒なことしないわよ」
「信用はしてますよ」
「いや、今から瓶で頭を割られる人の構え、してたでしょ」
「完全に生殺与奪の権を握られた感覚があったので、念のためです」
「よし。腹括ったわ。私の唇が欲しいって言ったわよね」
晶子は、氷とウイスキーを机の上に置いた。そういえば、最初はそういう話だった。
「欲しい!」
「分かった。世の男もあんたくらいハッキリしてたら良いのにね。ただし、私の唇はそこまで安くないわけよ」
「元夫が羨ましいです」
「ヤツは世界で一番勿体無い離婚をした男よ。ところで、ここにウイスキーバランタインの一七五〇ミリリットルがあるでしょ」
「でかすぎるだろ。こんなの見たことない。これ一般客じゃなくて、バーとか居酒屋がトラックで仕入れるやつじゃないですか。どこに売ってるんです?」
「これとワインは、Amazonで定期購入してる」
「有象無象の酒豪とは一線を画す、まさに酒乱っすね」
「ルールは簡単。私よりたくさん飲めたら、治くんの勝ち。望み通りにしてあげるわ。私がグラスに注いで飲むから、治くんが私のペースに合わせて飲む。ちゃんとついてきてね。途中でギブアップしたり、私に二杯以上差をつけられたら、治くんの負け。例えば、私が五杯目に口を付けたとき、治くんが三杯目を飲み終えてなかったらあなたの負け。OK?」
「OK」
二杯の差は付かないと思う。まさかこのバランタインを底まで飲むつもりだろうか。飲み対決などという馬鹿騒ぎじみた行為は久しくしていない(あれは酒を飲んで間もないガキがやる、浅はかな行為だと認識している)が、現状、負けたことは一切ない。
晶子は別のコップ二つに、蔵元の梅酒を同じくらいの量注いで、お互いの前に置いた。
「一応、急性アルコール中毒になられても困るから、ピンチのときのチェイサーとして、ちょうど残っていた梅酒を置いておくわ。この一杯だけ、口直しや、酔いを遅くするのに飲むことを許可する」
チェイサーの概念を覆す意味不明な救済措置だが、ないよりはマシな気がしてきた。
晶子はなんの合図も無しに、ウイスキーを飲み始めた。治も慌てて飲む。一杯目はお互い、一気にクッと飲んだ。ウイスキーバランタインの度数は四〇前後。アルコールが、喉、気管を通って体の中へ入っていくのが分かる。酒好きの治も、鼻の奥にくるアルコールの感覚に、眉間に皺がよる。
お互い二杯目を少し飲みながら、治が口を開いた。
「これ、晶子さんが途中で寝ちゃったらどうするんですか?」
「寝顔にキスして良いわよ」
「事前にそんなこと許可されたの初めてなんですけど」
「まあ私の方が先に寝るなんて、あり得ないけどね。あんたは夕食の鍋を胃から戻して、我が家を汚さないことだけを考えて」
「酒飲みのプライドにかけて、決して吐かないと誓う。晶子さんの方こそ、明日の仕事とかに影響ないんですか?」
「やめてよ、こんな時に仕事の話? 朝から牛丼屋出勤よ」
「大丈夫?」
「余裕余裕。出勤が怖くて酒豪やってられっかよ」
**
部屋に入る光は、暖かく明るい。治は目を覚ました。机の中で。
まず、ひどい頭痛を感じる。激しい痛みというよりは、鈍痛に近い。めまいもする。足や腕の倦怠感もすごい。体に悪いものというか毒素のようなものが、四肢の中に溜まっている気がする。ここは、晶子の部屋だ。昨日の夜、晶子さんと飲み対決をして、その後どうなったっけ? 記憶を遡るよりも先に、尿意が走る。トイレの場所を教えてもらっていて良かった。
ハンカチで手を拭きながらリビングに戻った。人気がないと思ったら、晶子も陽葵も外へ出たあとらしい。ちょっと気分がマシになったので、辺りの様子が把握できる。寝ていた治に、どちらかが毛布をかけてくれていた痕跡があり、机の上に置き手紙が二つと、部屋の鍵がある。それに、ウイスキーバランタインの空き瓶も。「マジかよ」と独り言が出た。この瓶を、二人とはいえ一晩で空けたのか。
ーーおはよ、治くん! 仕事行ってくるね。鍵閉めて、ポスト突っ込んでおいてね。寝顔可愛かったぞ 晶子ーー
ーー治さんへ。学校行ってきます! 陽葵よりーー
どうやら、飲み対決は治の敗北らしい。
スマホがなった。バイト先の店長からだ。
「治くん、何回もかけたんだぞ」
「すみません」
「今日出勤だよ君」
「マジすか」
「無断欠勤なんて初めてだな。大丈夫? 今から来れるか?」
「行けます、準備して行きます。本当すみません」
「なんか気分悪そうだね。声が変だ。風邪?」
「酒です。昨夜、飲んでました」
「素直すぎて怒る気にもならんな」
**
しばらく、陽葵に勉強を教える(というかほぼ一緒に勉強している)、バイト、草下のバーに行くという日々を繰り返した。
すごく嫌な気分になる出来事があった。その夜、治と晶子は草下のバーで飲んでいた。晶子の話によると、陽葵は無事に期末テストを終えて今は夏休みを迎えたらしい。
「陽葵、大喜びだったよ。治さんのおかげで、苦手だった国語もできたって。クラスで一番点数良かったらしいわ」
晶子はレッドアイを飲んでいる。
「そりゃ良かったです。それより俺、迷惑かけなかったですか?」
「何のこと?」
「ほら、飲み対決したじゃないですか。途中から俺、記憶なくって」
酒を飲んで記憶を無くしたのは、あのときが人生初めてだった。これからもきっと、ないだろう。仮にあの量のウイスキーを飲むことがあったとして、あんなハイペースで飲むことはない。
「おとなしく寝てたわよ」
「なら良かったですけど……」
「ケイ、聞いてよ。私治くんの寝顔見ちゃった」
「お、お前らいつの間にそんな関係に?」
「ややこしい言い方はやめてくださいよ」
まあ、この辺の会話までは楽しかった。
突然バーのドアが乱暴に開けられ、肩を組んだおばさん(と呼ばれるくらいの年齢と思われる)が二人で入ってきた。草下は一瞬で警戒したのか、どうぞとも言わなかった。おばさま二人はボロボロのブランドバッグをカウンターに置いた。これまた乱暴なドスンという置き方だった。
「何のみます?」
初めて草下が口を開いた。
「ここで一番美味しいやつ!」
片方が言って、何が面白いのか二人で爆笑し始めた。草下は奥へ入って飲み物を用意しに行った。治は放置したものか、おばさまの相手をしたものか悩んだ。友人として草下の手助けはしたいが、店員でもない者がしゃしゃり出て余計面倒になっては本末転倒であるし、彼女らが何か違法行為にあたる行いをしたわけでもない。草下が目配せでもしてきたら、すかさず手助けに行くが。むしろ逆で、草下とはさっきから目が合わない。
面倒な客に巻き込むまいとして、治や晶子の方を向いていないのだ。プロだな、と思う。晶子は動じず、タバコを吸っている。片手には、四十周年のマルボロの箱。
「ここの内装お下劣でセンスないわね」
おばさまが男性器のオブジェを指さした。確かにこの店には、下品で意味不明で奇天烈なインテリアは多い。ソファにおっぱい型のクッションを置いてある日もあるし、何十年前か分からないポルノ映画の広告も貼ってあり、誰も手をつけない本棚に月刊ムーが飾られてある。でも口に出して言う事じゃない。
「お姉さんこれ使うのー?」
明らかに晶子に向かって、おばさまが話しかけてきた。相手が男ならセクハラで一発だが、同性同士だとややこしい。治はこのバーでなかったら「店変えます?」と言っているところだが、草下を置き去りにしたくはない。
「隣のイケメンが相手してくれるから要らないわよね〜」
「僕らはただの……」友達ですって言おうとした。越えちゃいけないラインというのを、常識として持ち合わせていないらしい。
次の瞬間、草下がカクテルグラスを二人の前に音を立てて置いた。
「お客さん、これ飲んだら帰ってもらえます? 代金は要らないんで」
「何? お客様にその態度」
「客が店選ぶのは当然だけど、あたしらもお客さんは選ばせてもらうぜ」
「酔ってウザ絡みしたらダメなの? あんたらも理性捨てに来てるでしょ、ねえ?」
今度は、おばさまは晶子と治の方を向いた。
「『品性まで捨てた覚えはない』」
晶子は言って、タバコの煙をふうと吐いた。
「ここの酒美味しくないわよ、出よ出よ!」
もう片方のおばさんが言って、ちょっと飲んだグラスと千円札を置いて、二人で手を繋いで出て行った。
「男みたいな喋り方しやがって、口コミでボロカス書くからな」
ドアを閉める前のセリフだ。中学生みたいな捨て台詞である。
しばらくの静かさのあとで、草下がカウンターの向こうからやってきて、晶子と治に後ろから抱きついた。
「ごめんね。嫌だったでしょ」
「あなたは悪くないわ」
「草下さんこそ大変でしたね」
「ケイ、ここ座りなよ」隣の椅子を優しく叩く晶子。「私が何か奢ってあげるよ」
三人で、カウンターに横並びになって乾杯した。仕切り直しだ。
「晶子さん、そういえばさっきのセリフ、戸愚呂弟ですよね? 僕めっちゃ好きで」
「そう! あなた漫画も分かるクチ? 趣味合うね」




