本文1
喪失という言葉について。喪失という言葉のもつ意味について、治はしばしば考える。治は喪失という言葉を、これまでの人生でまず使ったことがなかった。あの人と出会うまでは。
それは自分の心情にぴったりと当てはまらないからだ。例えば、「なくした」「失った」ならば使う。けれど喪失というと、なんだか取り返しようのつかない、非常な欠落を感じさせる。辞書で調べてみたところ、記憶喪失だとか、権威喪失だとかいう言葉が並べられていた。やはり、自分はこの言葉の使いどころが分からない。喪失と言えるほど記憶が抜け落ちた経験もないし、喪失するほど権威をもっている人間でもない。
だが今では、喪失という言葉の真の意味を知っているし、言葉でなく、字面でもなく、精神の奥深くでこれを理解した。治が喪失を知るまでに何があったか。それは、あの人との出会いまで遡る。
平成最後の夏だった。
**
その年の夏の頃、治は暇していた。何かの小説新人賞の批評で、「バーから始まる小説はありきたり過ぎる。よほど面白くない限り、落とすことにしている」という審査員がいた。本好きの治は、それを聞いたときなどなるほどなるほどと共感したものだが、あの人との出会いはバーから始まった。実際そうであったので、仕方ないのである。
その夜、治は行きつけのバー『フカクサカ』で飲んでいた。このフカクサカというのは、地名の深草とバーの女マスター草下からとったらしいのだが、いくらなんでもダサすぎる。そこまで通なわけではないが、これまで訪れたバーの中で最もダサい。治はしょっちゅう、フカクサ、あるいはクサカだけの方がまだマシなんじゃないかとか、もじって『カフカ』みたいな名前のバーにしたら良いんじゃないかなど、考えるだけ考えてみるが、言いはしない。
しかも草下はこのダサさに気づいてないらしく、店の中や入り口付近の立て看板にも、デカデカと『フカクサカ』の文字がある。草下はデザインセンスがあり、文字の造形や周囲の飾り付けなどはアーティストのそれではないかと思うほど美しい。店内も観葉植物が主張しすぎない程度に置かれており、キャンドルのオレンジの灯りが、客の顔や酒のグラスを優しく照らす。有り余るデザインセンスをダサい店名が台無しにしており、ダサい店名は洒落た飾り付けによって台無しになっている。ともあれ、居心地が良いのか人気があり、常連客はそれなりにいるようだ。
治は一人、カウンター席で飲んでいた。アブサンをストレートで、ちびちびと。アブサンを飲むと、アルコールが口から喉、気管を通って胃に向かうのがよく分かるし、強烈なハーブの香りは鼻を内側から刺激する。初めて飲んだときは二度と飲むかと思ったが、いつしかクセになっていた。治はお酒でヘマをしたことはほとんどないが、この前アブサン依存症の客がここで倒れて、草下と一緒に救急車に乗せた。草下は憤怒、大憤怒であった。
「次に同じことがあったら、店にアブサンは置かない」
治は、それはちょっと困るなと思ったし、むしろ二度目まではOKなのかよ、とも思った。治はリスクの方を恐れるタイプだから、自分が店を持ったらアブサンなんて置かないだろうと考えている。だいいち、タバコとアブサンが合法で、大麻は非合法というのがしっくりきていない。
バーには、治以外に客がもう一人いた。女性客で、草下と仲良さそうに話している。草下はしばらくして、カウンターから席を外した。
「お手洗い行ってくる。そうだ、治くん」
「はい」
「ぶっ倒れないでよね」
「僕だったら、まず店にアブサンを置かないですね」
「なーにー? 事件があっても店側の責任って言いたいワケ?」
「いや、そうは言ってない。客が悪いですよ。大人だったら、自分がどのくらい飲めるかくらい知っておくべきです。僕は分かってるんで大丈夫ってワケ」
「ガキが一丁前に語るねえ」
「僕はガキじゃない」
「ガキはそう言うのよ」
「お手洗いは行かなくて良いんですか」
「漏れそう」
草下は言うと、内股で歩きながら奥のトイレに向かっていった。ドアを開ける頃には、ほとんどスカートを捲りあげていて、セクシーさもエロさも無かった。何か悪いものを見て申し訳ないなという、意味不明の罪悪感が胸に残る。
店内は、治と女性客の二人だけになった。女性はタバコに火をつけて、吸った。この頃はまだ、どこのバーでも喫煙できていたのである(令和になってからは禁煙文化がより強くなったものだ)。カウンター席で、二席ほど空けて座っていたが、女性は立ち上がり、治の横に詰めてきた。横顔をちらと見たが、まつ毛が相当長いことと、左耳にピアスが五個あるのが分かる。
「『飲み残した一杯のアブサン』」
見た目からイメージするよりは高い声だった。確かに、治の目前には一杯のアブサンがある。そうではなく、太宰治の人間失格から引用していることは伝わった。治は、〈文豪作品を引用するなんてクサくて安易だな〉と思ったし、〈クサいことを言う女性は魅力的だ〉とも思った。
「『自分は、その永遠に償い難いような喪失感を、こっそりそう形容していました』」
治は答えた。
女性はふふと微笑んで、タバコの煙を吐く。
「なんだか、君なら伝わるような気がしたの」
「太宰先生は偉大な作家です」
「私はアキコ。君、名前は?」
「治です」
「さすがにサムいわよ」
どうやらアキコは、太宰治とかけたジョークを言われたと思ったらしい。
「サムいと言われても、本名なので」
「そうなの? ごめんなさい。漢字も同じなの?」
「はい、同じです」
「凄いね。素敵な名前だし覚えやすい」
「母が本の虫だったんですよ。アキコさんは漢字でどう書くんです?」
「与謝野晶子と同じ、晶子よ」
良い名前だと思ったし、治は与謝野晶子の書く文章やエッセイが好きだ。それよりも、他の言葉が口をついて出た。
「それなのに僕の『治』を疑うなんて」
「言えてる。ひどい女ね」
晶子はまるで他人を罵るように言って、タバコを灰皿に擦って火を消す。また、新しいタバコを吸い始めた。「太宰治もアブサンを飲んだらしいわね。名前だけじゃなくて、そんなところも同じ」
「いや、これは真似です。中学生のとき『人間失格』を読んで、その時からずっと、お酒を飲むようになったらアブサンを飲もうと思ってました」
「好きな作家の真似? 安易ね」
「安易すぎますね」
「『〈それは安易な考えだ〉と思ったり、〈安易な考えは楽しい〉と思ったりした』」
「今度はサガンですか」
「違う」
「あれ、違いましたっけ? フランソワーズ・サガンの『悲しみよこんにちは』の一節だったと思って」
「それは合ってる。私は続きを言って欲しかったの」
「ええ? ちょっと思い出せません」
治は、期待通りの返事ではなかったからと言って違うと一蹴するのは少しばかり勝手だなと思ったが、本の話ができるのは楽しかった。一所懸命思い出そうとするが、続く言葉は思いつかない。『〈安易な考えは楽しい〉と思ったりした』の続きはなんだったであろうか?
「よし、じゃあ治くんに宿題をあげよう。続きの言葉は、次会うまでに思い出しておいて。本を読み直したり調べたりしても良いわよ」
だったら今ここでスマホ検索しても良いだろうと思ったが、風情が削がれる気がして、しなかった。
そこで草下が戻ってきた。
「お二人さん、仲良くなったのかな」
草下はカウンターの奥には入ろうとせず、治の横に立って肩を組んできた。酔っ払っている。草下はバーテンダーだが、客と同じがそれ以上飲んで、酔っ払う癖がある。客が肩を担いだり、おんぶしたりしてタクシーに乗せることもしばしばあるほどだ。治も、何度かそういった世話をしたことがある。
「今日はベロベロになっても、おんぶしたりしませんからね」
「なんだとガキ。誰がお前、お前お前、お前の介抱なんて要らねえわ。一人で酒飲んで帰るくらい、できらあ!」できらあ、など、漫画以外で初めて聞いた。「大人を舐めんな、大学生くん。こちとらね、中卒。最終学歴中卒二九歳! 経験の厚みが違うのよ」
草下のいう通り、彼女は中卒だ。詳細は分からないが、高校を中退して、それからは働き続けているという。治は別に、学歴で差別などしないし、実際十代中盤から社会に出ている草下を尊敬しているが、だからと言って中卒で威張るの人間を見たのも初めてだ。
「今ね、小説の話をしていたの」
晶子さんが言う。
「気になる、何の小説? それとも作家?」
草下は、遊び慣れたオーラを放つ女性であるが、小説や漫画は人並み以上に分かるし、のめり込むタイプなので一度ハマったことに関しては圧倒的な記憶力をもつ。その能力は、バーでの接客でも遺憾無く発揮されているし、そばで会話を聞いていても感心することは多々ある。草下が十代から社会で生き延びて、今でも酔っ払った後の介抱をしてくれる客が存在するのは、彼女のそういった能力が人を惹きつけるからかもしれない。三十路手前の酔っ払いバーテンダーであると同時に、何かのカリスマでもある。ような気が、治にはする。
「太宰治とかの話よ」
「えー、あたしは太宰治嫌いだな」
「どういうところが嫌いなんです?」
今度は治が聞いた。実際のところ、読書好きの中でも太宰治は好き嫌いが割れる作家ではある。だが太宰好きとしては、何ゆえに嫌いなのかは聞きたい。
「なんていうかなあ」草下はカウンターの向こう側に戻って店員に徹する、と見せかけて、グラスにおかわりを注いでから、治の膝上に座ってきた。よくあることである。「ナルシストっぽいって言ったらズレてるかもしれないけど、そんなに自慢でも悪くもないことを、大げさに言ってる感じが好きじゃない。私はこんなに悪いんです、私はこんなにみっともないんです、こんなに薄汚いのです、私は女にモテたいなどと思っていないのになぜかモテてしまうのです。私って、可哀想でしょう? って聞こえるのよね。それが鼻につく」
半分は共感した。確かに、治の場合なら、そこまで自分自身を責めなくても良いですよ、と声をかけたくなる。それが草下にとっては、鼻につくということなのかもしれない。
「なるほど。早い話が不幸自慢、ワル自慢ってことね」と晶子。
「そんな感じ。あたしだって中学のときからタバコ吸ってたし、酒も飲んでたわよ。高校生の頃には不特定多数の男とセックスしてた。でも、どれも恥ずかしい話、笑われるような話で、好んでしたり、文学に昇華するほどの話じゃないでしょ。恥よ、恥」
「だから作中でも恥の多い生涯って言ってますよ」と治。
「そうやってわざわざ言って、本にまでしてるのが鼻につくの」
「なるほどね」
頷く治。
晶子はタバコを灰皿に押し付けて、火を消した。
「いけない、明日早朝出勤だから、今から帰って寝るわ。ケイ、会計してくれる?」
「はいよー」
草下は立ち上がって、レジまで向かった。この店は支払い現金のみだ。理由は、草下が電子マネー移行を面倒がっているし、そもそもどうやって処理すれば良いか分からないかららしい。帰り際、晶子は治の席まで歩み寄ってきた。
「じゃあね、文豪くん」
「僕は読むだけで、書きはしませんよ」
「これで飲みなさい」
そう言って、晶子は治の目前に五千円札を置いた。突然のことで戸惑った。嬉しいと言うより、初対面の人間に無条件で五千円渡されることなど、初体験で驚きと申し訳なさの方が圧倒的に強い。それに、そのとき治は改めて、晶子の姿を正面から見た。胸にかかるピンク髪が特徴的だ。洒落た大学生にも見えるが、美容師やバンドギャルにも見える。
「え、悪いですよ」
「いいからいいから。甘えなさい」
「返します」
「ダーメ。そんなに私に返したい?」
「申し訳ないので」
「そんなに? 晶子さんからのせっかくの奢りなのに?」
「晶子さんみたいな可愛い人に奢らせたら、彼氏に怒られます」
「可愛いって年齢じゃないわよ、彼氏もいないし。じゃあ分かった」
「財布に引っ込めます?」
「いいや。君が私くらいの歳になったとき、若い子に奢ってあげて。それがお返し」
「なんだかずるい言い方ですね」
「女ってずるいのよ」
「女性がみんな自分と一緒だと思うのは良くないですよ」
「そーだそーだ、あたしはずるくない」と草下。
言っている間に、晶子は颯爽と出ていった。閉まったドアの内側には、落書きが書かれていたり、ステッカーが貼られていたりする。「SEX」だとか、「ばかあほすき」だとか、「元彼即死希望」だとか。
初対面の女性に脈絡なく奢られるなど初めてだったので、しばらく呆然と五千円札を眺めていた。なんだか受け取ったことになったようなので、この分は飲もうかと思った。
「奢られちゃったら、その分飲むしかないねえ治くん」
「同じ思考回路でガッカリです」
「あらしも付き合うろ」
おそらく、あたしも付き合うよ、と言ってくれたのであろうが、呂律が回っていない。
「草下さんもう眠いでしょ。限界だって」
「余裕余裕。んーふにゃあだっしょ」
後半は聞き取ることができなかったが、草下はカラオケに曲を入れ始めた。このバーでは、カラオケで遊ぶこともできる。カウンター上のモニターがカラオケ画面になっている。ここまでは普通のカラオケバーと同じなのだが、バーフカクサカの変わったところは、客よりもバーテンダーが歌うのである。草下がまず最初に歌うし、誰が歌っていなくとも草下の気が向けば突然歌い出す。
草下の歌唱力は誇張抜きにしてもプロ並みだ。チャンスさえあれば、いつでもデビューできるのではないかと、治は思う。実際彼女の歌声を知っている人はみな、実力を認めているので、小さなライブハウスやイベントでゲスト歌手として呼ばれることがある。草下はそうやって、ごくごく稀に、人前で歌を歌う。だが、歌を仕事にせず、する予定もないらしい。
草下が歌い始める。大衆的な曲ではないのか、治の知らない歌手と曲だったが、草下の伸びやかな歌い方と香るような美しい声がバーの中を満たしていった。この場に治と草下しかいないのは、とてつもない贅沢をしているような気がしたのだった。
いつの間にか眠っていた。腕時計を見ると、朝の五時半だ。バーは三時に閉まるはずだが、なぜか声をかけられなかった。それもそのはず、草下も寝ていたのであった。草下はソファに腰掛け、というか半分体を埋めており、大股を開いているせいでワンピースから黒い下着が見えていた。よだれも垂れている。
治は店の奥から毛布を一枚引っ張ってきて、そっと草下にかけた後、お代をテーブルに置いて立ち去った。
「草下さん、おやすみ」
そう囁いて、ドアをそっと閉め、鍵をかける。治は特別に、合鍵を渡されているのだった。客に合鍵を渡すなんて意味がわからないし、なぜ治が選ばれたのかも不明である。つまり何もかも意味不明だが、こうしてよだれ垂らした草下を置き去りにできるので、役には立っているということだ。
夏の朝は早い。すでに明るくなっている。日が上る帰り道、治はサガンの一節を思い出し、思わず立ち止まって呟いた。
「『〈それは安易な考えだ〉と思ったり、〈安易な考えは楽しい〉と思ったりした。なんといっても夏だった』」治はもう一度、「なんといっても夏だった」と独りごちだ。
街路樹の蝉たちが、けたたましく歌っていた。
**
その日京都は突然の大雨で、ニュースにもなった。直前まで日が照っていたためか、傘を持っている人は少なかった。治は雨に打たれていた。雨に対してはかなり運が強い方で、生まれてこの方突然暴雨に打たれるという経験がなかったのだが、その記録は二一歳にして途切れた。
卒業論文に関して、教授に呼び出されていたのだ。進捗に関して軽く質問され、今後の方針を相談したのだ。軽い面談のようなものである。治を担当してくれている教授は、かなり面倒見が良い。卒業まで全然面倒をみない教授だっている。それも当たり前で、教授からしたら、生徒が留年しようがしまいが、自分の仕事や研究には関係ない。それを踏まえると、治の教授はかなり親身な方だ。
治は駅までの道のりを歩いていた。すれ違う人が皆、大雨に対してなんらかの対処をしているが、無視して普通に歩いている人もいる。スーツのおじさんは鞄を頭の上に添えて小走りでいるし、ハンカチを頭の上に置いて歩いている女性もいる。物陰から物陰へ走っていた中学生が、治のすぐ近くで転んで、尻餅をついた。心配になった治と、他数人がびくりと立ち止まったが、中学生はすぐ立ち上がり、恥ずかしそうに頭を下げて
「大丈夫です!」
とまた走っていった。
瞬間、何かがぽたりと、治の近くに落ちてきた。鳥のフンが、右靴に落ちたのだった。頭上を見ると、カラスが鳴きながら飛び去っていく。突然の出来事に唖然として立ち止まった。周りの誰とも視線が合わない。
今度は誰も心配しないのか、と思った。元気いっぱいの高校生は気にするが、卒業目前の大学生は無視か。転んでしまうのは危ないが、鳥のフンなら怪我をすることはないからか。などと考えた。
「あら、ツイてないわね」
声がすると同時に、雨が止んだ。実際には止んだのではなく、背後から女性ものの、緑の傘がさされていたのだ。振り向くと、ピンク髪の女性がいた。胸にかかるその髪は薄暗いバーの中でも目立っていたが、日中に見るとなお派手に見える。明るいところで見ると、目の下にクマがある。体調は心配だが、不謹慎ながらそのクマも含めて綺麗だと思う。
「晶子さん」
「やあ、ヘルマンヘッセくん」
「本屋を三日で辞めそうなツラしてます?」
「三ヶ月で辞めそうね。それに、本屋っていうよりは美容師とかバーテンダー?」
そう言われて、晶子の方がバーカウンターにいそうだと考えた。
「褒めてます?」
「爽やかでチャラそうってこと。一緒においで、傘の中入れてあげるから」
「ありがとうございます」
治は、晶子に一歩遅れて着いていった。
「今日の僕はツイてますよ」
「ん?」
「美人と相合傘できた。それに『ウン』もツイてる」
言いながら、右足に付着したフンを指差す。
「裁縫道具持ってない?」
「何に使うんです?」
「あなたの口を縫い合わせたくて」
「なら麻酔も要りますね」
駐車場に着くと、車の鍵を開けた晶子は「先に乗っておいて、助手席でも後ろでもどこでも。汚いけど」と言って、駐車料金を払おうと歩いていった。治は呼び止める。
「いや、駐車料金は僕が出しますよ」
「遠慮しないで。ほら、乗っておきなさい」
治が本当に甘えたものか悩んでいると、晶子は治の両肩に手を置いて、助手席に押し込んだ。
「ほらほら。お姉さんに恥かかせるつもり? こういうときは甘えるの」
「ほあ」
間抜けな返事をして、治は助手席に座った。ドアに手をかけようとしたが、晶子によって外側から閉められた。
有難いことだが、なんだか子ども扱い、そうでなくとも少年扱いされているような感じが不思議であった。不快ではないが、バーで出会ったことを考えると、治が酒を飲める年齢であることは分かるはずだ。晶子が何歳なのか知らないが、まるで中学生扱いされているようにすら感じる。
それとも、本当に親と子どもほど歳が離れているのだろうか。だが、晶子は普通に見て二〇代、どれだけ上に見ても、三〇代だろう。四十路を超えていることはあり得ない。とはいえ、いまいち女性の年齢を見抜くことには自信がない。会社の面接やバーで、年上の女性と出会うが、本当に年齢が分からない。もう二五を超えてくると、女性の年齢は謎だ。少なくとも治にとってはそうだった。三〇代の女性は十歳若く見えるし、四〇代の女性も十歳若く見えることが多い。女性は若く見えてしまうものなのだろうか。それとも、おっさんたちよりもそういった努力をする人が多いのだろうか。あるいは、治の審査基準が出来上がっていないだけか。
晶子に直接年齢を聞くのは失礼だし、そもそもそこまで気にならない。治は、会話が通じれば相手が何歳だろうと構わないタイプだ。実際、晶子の見た目年齢が若々しいことに変わりはない。大学生だと言われても、疑う要素はない。振る舞いからして、社会人になってから数年は経っているようではあるが。
そんなことを考えていると、晶子が運転席へ乗ってきた。
「おら、行くよ」
晶子がシフトレバーをDにしてアクセル踏んで出発するさまは、それを見ただけでも運転慣れしているのが分かった。しょっちゅう運転するのだろう。
「あなたの家案内してって言おうとしたけれど、ちょっと寄るところがあってさ。先にそっち行っていい?」
「もちろんです」
「あとタバコ吸っていい?」
言いながら、既にマルボロの箱を取り出し、タバコを一本抜こうとしている。
「いいですよ。車の中は、運転手の好きにするべきだと思ってます。タバコとか、かける音楽とか」
「寛大だねー、最近は受動喫煙がどうとか言う人もいるからさ。喫煙者は肩身が狭いよ。まあ、ダメって言われても吸うけど」
晶子は、タバコに火をつけた。
「今から高校に行くからね。私ママなんだよね」
「そうなんですね」
「今から娘を迎えに行くの。大雨だからね」
「優しいママですね」
と言って、治は少し考えた。別に、シングルマザーを珍しいとは思わない。けれど、高校生の娘さんがいるだと? 治は運転席にいる晶子の、横顔を何度か見た。
「なに? 顔に何かついてるなら教えて」
「綺麗な目と高い鼻がついてます」
「口が上手いねえ」
「高校生の娘さんって言いました?」
「うん」
「妹さんじゃなくて?」
「確かに、一緒に歩いてると姉妹と間違われる」
「とても高校生の娘さんがいるようには見えないですよ。だって……」
治はそのとき、高校生の子供がいる親は、何歳で出産しただろうと考えた。子が高校一年生だったとして、その親は若くても現在三〇代になっているはずだ。「晶子さんは二〇代にしか見えないですよ」
「ウッフフ」本当にウッフフと言った。「よく言われる」
ところで、さっきからカツカツ、カツカツと車のドアか何かを指で叩くような音が聞こえる。赤信号で車が止まったとき、そのカツカツとした音がまだ響いていた。晶子がその音を出しているのは明らかだった。
「さっきから、何を叩いているんですか?」
「タバコの臭い篭ったら嫌でしょ? だから、窓を開けようとしているの。でも運転席側の窓がさ、たまにこう、開かなくなるんだよね」
そう言いつつ、まだカツカツしている。さっきからずっと、晶子は窓を開けようとしていたのだ。
「故障じゃないですか?」
「故障じゃないよ。たまにこうなるだけ」
「それは故障じゃないですか。修理に出さないんです?」
「だから違うって。いつもは開くの。開かなくたって、何度もこうやって押せば、そのうち開くの」
それを故障と言うのではないか、と治は思ったが、晶子がより強く窓のボタンを押しているのが分かったので、言わなかった。そろそろイライラし始めているのだろう。余計に壊れてしまいそうである。
「こいつ、廃車にするぞ」
晶子が言うと、まるで言葉が通じたかのように窓が開いた。ギシギシ言いながら下がる窓は、晶子の迫力にギブアップしたかのようだった。晶子は、開いた窓からタバコを持った手を出す。
「ほらね、壊れてない」
「壊れてないですね、僕の勘違いでした」
これほど会話でゴリ押しされたのは、初めての経験だった。
やがて高校の前に着くと、晶子はハザードをたいて道の脇に車を止めた。校門を見ると、ちょうど授業終わりなのか、何人もまとまって門を出ている。
「娘さん探しに行きます?」
「私の子よ? この位置からだって見えるわ」
門から出てくる高校生たちの中で、傘をさしている者はそう多くない。午前中が晴れていたら、雨は降らないとたかを括った子は多かっただろう。小さい折り畳み傘に傘を寄せて歩いていたり、カバンを頭上に掲げて進んでいく生徒もいる。しばらくして、晶子が車の窓を下げた。雨に濡れるのも気にせず、上半身を窓から出す。
「おーい。ひまり!」
晶子の声はよく通る。雨の中でも、一声でひまりに届いた。ひまりと呼ばれた女子は、周りの友達になんとか言って(きっと、あれうちの母さんなんだよね、と言った具合だろう)、嫌そうな顔で近付いてきた。手には傘を持って、ちゃんと雨粒から身を守っている。
「雨だから心配してきたのよ、でも傘持ってきてたのね」
「もう、恥ずかしいから学校来ないでって言ってるでしょ」
「乗せて帰ってあげようと思ったのに。なにが恥ずかしいのよ、言ってみなさい」
「高校生は親がわざわざ学校来るなんて恥ずかしいの。友達と帰る、歩いて」
「なあにー、良いけどさ、お礼の一つくらいあっても良いんじゃない?」
そのときひまりが、後部座席に座る治の方を見た。
「あ、初めまして」
「初めまして、治って言います」
治は、気持ち程度に軽い会釈をした。
「治さん。私、晶子の娘でひまりって言います。さっきはお見苦しいところをすみません」
晶子に話すのとは違って、ハキハキして模範的女子高生のような喋り方だった。
「見苦しいって、あんたがツンツンしてただけでしょうが」と晶子。
「まだそんなこと言ってるの? 本来はね、ママが私と治さんをお互いに紹介しないとダメでしょ。じゃあ、私は友達との時間大事にするから」
「ハイハイ、せいぜいハトに糞かけられないように気をつけて帰って」
「なにそれ」
ひまりは言いながら背を向けた、かと思うと、また振り返った。
「あ、そうだ」
「なに?」
晶子が、上げかけていた窓ガラスを止める。
「治さん、母がお世話になってます。母、おばさんのクセに若い人引っ掛けるなんて」
「引っ掛けてなんかない」
晶子がすぐ言い返すので、治の話す暇がない。
「友達なんだ?」
「まあ舎弟ってところよ」
「舎弟から彼氏になれると思う? ひまりちゃん」
と治が言うと、ひまりはにっこり笑った。
「母からしたら同じ意味かも。じゃあバイバーイ、治さん」
手を振りながら、ひまりは友達のところに戻っていった。
晶子は、ひまりを目で追って見送ると、車を勧めた。
「じゃあ、送ろうか。私の娘、生意気だったでしょ」
「しっかりした娘さんに見えましたよ」
「そう? まあ育て方はこだわってるけどさ。礼儀とかね。あ、そうだ、あの子の名前、太陽の陽に、あおいって書いて陽葵っていうの」
**
治の家は、京都は京阪深草駅のすぐ近くにある。晶子は車を道路脇に停めて、降ろしてくれた。
「じゃあ、今日はここでお別れね。私は一旦、帰って陽葵のご飯とかするからさ」
「ありがとうございます。忙しいのに、いろいろ」
「いいよ。あ、そうだ。私三二歳」
「なんです急に?」
「いや、治くんって遠慮して聞いてこなさそうだから。まあ、友達みたいに接してくれて良いよ」
「僕は二一です」
「見たら分かるよ。いや、ちょっと意外かな。高校生くらいに見える」
「バーで会いましたよね」
「見た目だけの話ね。あと未成年飲酒かもしれないでしょ」
「ぶっちゃけそういう人もいるでしょうけど」
治は言って、車から降りた。
「じゃあねー、陽葵と付き合うときは私に一声かけなよ」
言いながら、晶子は車を走らせていった。治はただ、大きく手を振って見送った。僕は晶子さんに惚れそうなんですよ、とは言えなかった。
治は部屋に帰って、習慣化した手洗いうがいを済ませると、一人で考えた。晶子は三二歳で、高校生の娘を育てているのか。今の自分の歳の頃には、既に母だったわけだ。すごく大変そうだ。ただ、治には「大変そう」「苦労が多そう」というフワフワした印象が浮かんだだけで、晶子がこれまで歩んだ具体的な道のりは思い浮かばなかった。治はまだ大学生、学校の中とアルバイトくらいしか経験したことがないから、当たり前と言えば当たり前だが。
晶子は、この前バーで会ったとき、「早朝出勤」という言葉を口にしていた。働き詰めなのだろうか。ともかく、治自身には真似できないくらい忙しいだろうということだけが、分かった。
**
バイトもゼミもない土曜日は、暇を極める。だが、おそらく人生でこれほど暇な一年はこれから老後を迎えるまでないであろうし、老後を迎えるつもりもあまりない。治はその自覚を持って暮らしており、幸いにも本や映画や音楽が好きだ。
治の母は本の虫で、昔から本を渡してくれた。兄妹がいたせいか、なんでもかんでも買ってもらえることはなかったが、本に関するおねだりだけは許された。小説、図鑑、画集、なんでも買ってもらえた。
夜、治は何か、寝る前に短編でも読もうかと考え、ベッドの上で芥川龍之介の短編集『蜘蛛の糸』を読んでいた。11時頃のことである。スマホでメッセージが来た。
草下からだ。
「マクド、ポテトLサイズが期間限定でSサイズと同じ価格だ!」
返事をうった。
「Sサイズ買う人いるのかな」
「そうじゃない! 食べに行こうぜ治くん!」
「もう寝るところだよ」
「無許可睡眠死刑、絶対一緒食事、御前斗私、断固来店」
草下はテンションが上がると、漢文とも中国語とも取れない謎の漢字群を送信してくる。しかも、なぜだか絶妙に意味が伝わる。とにかく、一緒に行かないと殺すという意味らしい。
店に現地集合して、一緒に入った。草下はポテトLを一緒に食べようとか言って、五人前注文した。あとはジュース。治には偶数で注文しないのが疑問であったが、それ以前に量が多すぎる。男子高校生の悪ノリみたいだ。
「食べ切れるんですか?」
「食べなきゃ損! 私今から朝ごはんよ」
「あなた基準だとそうか」
草下は完全に昼夜逆転している。それがいつ頃からなのか知らないが、治が出会った時にはそうであった。バーでの仕事も夜から出勤であるから、日中に活動しなければならないようなことは、彼女にはほとんどない。
草下と一緒にボックス席に座る。向かい合って座れば良いというのに、草下は治の隣に座った。
草下には、昼夜逆転の哲学のようなものがある。それを彼女が自覚しているかは分からないが、治にはそう感じる。彼女は日の沈むと同時に起き、それからご飯を食べてバーに出勤し、日が上るか上らないかのうちに帰り、ご飯を食べて体操したりシャワーを浴びたりして寝る。気が向くと、朝寝る前にラジオをするらしい。ラジオの副収入があると聞くからそこそこ有名らしいが、なぜか教えてくれない。ハンドルネームは内緒なのかもしれない。彼女の話は面白いから、さぞラジオは向いているだろう。
自他共に認める夜行性である草下が言うには、昼夜逆転にはメリットがいくらかあり、その話を聞いたことがある。またそれは、日中に活動するデメリットに関する話と言えるかもしれない。以下は、草下が言った、大体の内容だ。
一つ。日光を浴びなくて済む。これにより、日焼けする心配がない。草下は三十路手前にして白く美しい肌をもっている。これは美容に気を遣っているのはもちろんだろうが、日光をほとんど浴びない生活をしていることも関係しているだろう。実際、日焼け止めは持っていないらしい。稀に日中用事があると、大急ぎで日焼け止めを買いに行く。太陽の下を歩くと、草下は、「あっちー、眩しいー。昼に働いてる人って偉い」などという。まるで吸血鬼みたいなセリフだなと治は思った。実際、彼女の見てくれは、映画に出てくる美形の吸血鬼のようかもしれない。
二つ。人の流れが少ない。都会であれ田舎であれ、夜は人の流れが穏やかになるものだ。草下に言わせれば、「昼は時間が早すぎて、何かに追いかけられてる気がする」らしい。そして、時間に縛られない夜の世界を選んだ。もしくは、いつの間にか夜に導かれていたのかもしれない。
「昼に生きる人って、一秒一秒、何がなんでも無駄にしたくないって感じ。私には真似できないけれど、なんだか不思議な生き物を見てるみたいだね」
いつか、草下が言ったことだ。治はこの言葉を聞いたとき、小説『モモ』の話みたいだと思った。もし時間泥棒が現れたら、草下が世界を救ってくれるかもしれない。
こんな感じだから、バーの開業時間も二〇時に設定されてあるものの、その日の草下の体調や気分によって前後する。
大量のフライドポテトが乗ったプレートが運ばれてきた。治はそれほど食欲があったわけではなかったが、美味しそうに見えたし、すぐ食べたくなった。食べたいという感情は、匂いや食べ物の見た目がそう思わせるのだろうが、「物量」も関係あるのかな、とも考えた。とにかくたくさん盛られていると、なんだか美味しそうだ。そのポテトを運んできた人の顔を見て、そんな暇人の考え事は吹き飛んだ。
「あ、晶子さん」
「あら、治くん、ケイ、いらっしゃいませ」
店員のエプロンをつけた晶子が、プレートをテーブルに置いた。また目の下にクマがある。常日頃クマがあるのかもしれない。でも美人だ。
「晶子さん、ここで働かれてたんですね」
「そうなの。二人はデート?」
「そ、治くんとデート。なあ?」
「ポテトLだけを大量注文するカップルがいますかね」と治。
「ふふ、ゆっくりしていってね」
晶子は微笑んで、去っていった。お店のエプロンでありながら、他の店員より爽やかに、綺麗に見える。気付くと、草下にバカを見る目で見られていた。
「人が人に見惚れてるところ、初めて見た」
「え、分かります?」
「分かるよ。治くんならいけるんじゃないの」
草下はポテトを食べながら言った。
「え、既婚者じゃないんですか?」
「離婚してる。あ、言っちゃダメか。や、やっぱりいいや。アキちゃん、隠すタイプじゃないでしょ。それに、治くんもシンママとか、バツイチに偏見なんてない人間だからさ」
「確かに、聞いたところで良くも悪くも思いはしませんが」
「ていうか、既婚者でも惚れたら突っ込んでいくタイプだよね」
「分かります?」
治は別に、不倫を悪いとは思わない。いや、それはもちろん善とされる行いではないのは分かっているが、世間が言うほど騒ぐことではないと考えている。毎年不倫ニュースが取り沙汰されているが、一切興味はない。もちろん当人たちには大変なことであろうし、周囲の人物は迷惑だったろう。だが、あくまで不倫は、「その夫婦と、親族の問題」だと考えている。だから、治も含めて一般人が口を挟む事柄でもない。この日本のどこかで、毎日毎晩行われていることだろう。
実際、不倫が大犯罪のように報道されるので疑問に思った高校生の治は、自分で調べてみたが、不倫は民事裁判にはなるが、刑事裁判にはならないらしい。確かに、この件で警察が出てくるという話は聞いたことがない。つまるところ、極端な表現だが法律と治の価値観は、この件に関しては一致している。不倫は窃盗や傷害事件を起こすよりも、明らかに軽い。
ポテト三人前を食べ終わる前、草下の食べる速度が明らかにペースダウンし、腰を曲げてソファにぐったりと両腕を垂らした。食べる気ほぼゼロである。
「お腹いっぱいですか?」
「よく分かったね」
「見りゃ分かりますよ。まだ二人分以上あるんですけど、どうするの?」
「治くん、あとは任せた」
そのあと、草下は大きいゲップをした。辺りを見る。他に人がいないかの確認だ。幸い、夜もふけてきたせいか、ゲップを聞いた客はいなさそうだ。窓際にカップルがいるが、特に反応はない。聞こえたけど無視しているだけかもしれないが。
「よし、大丈夫だ。危なかった、安心しな」
「僕は元から安心ですよ。あと、ポテト食べ切れるかは保証できないですからね」
「ああ、この世で最も悲しい瞬間のひとつだなあ。最も悲しい瞬間をね、私たちは今味わっているんだよ。分かる? 食事が処理に変わる瞬間だ」
「まさか焼肉とケーキバイキング以外でこの感覚を味わうとはね」
仕方がないので、治は一気に何本も口に入れて、ゆっくり噛みながら食べている。治は同じ味が続いても楽しめる方なので、幸いまだ『食事』をしている。草下の方はもう『処理』のようだ。
「見てよこれ、限界。こんな状態の私に、食べさせようって言うの」
草下は、シャツを捲り上げてお腹を出した。今日の草下は長袖ブラウスに膝下スカートという身なりなので、服をめくってお腹を見せられる。治からしたら、別に見せてもらわなくて結構だが。草下の凄いところは、顔も綺麗で若々しさもあるのに、エロさを感じさせないところだ。それとも、草下と治が友人関係だから、なんとも思わないだけなのだろうか。ちなみに、今更、外で腹なんか出すな、なんて注意をしようとは微塵も思っていない。そういう人間だ。
草下の腹は、ぷっくらと出ている。誇張抜きに、ここまで腹だけ出ている人を見たことはない。太っている人なら分かるが、草下は腕も足も細いのに、食べると下腹だけが出る。胃下垂らしい。治の視線を確認したのか、腹をポンっと叩いた。
「ほら、もう限界」
「凄いよ。草下さんって体は細いのに、下腹だけがめちゃくちゃ出るよね。そんな人、見たことない」
「ビール腹のおっさんみたいだろ? ちなみにうちの父さんはこんなもんじゃねえぞ」
「おっさんみたいとは言ってないですよ。胃下垂なんだっけ?」
「それもあるし、元から下腹に肉が付きやすいんだろうね。この前、銭湯行ったときの話したっけ? 私銭湯好きだからさ、結構行くんだけど、おばあさんに『妊娠何ヶ月目だい?』って聞かれたからね。悪口じゃないよ、マジでそう思ったらしい。私でも、私の腹見たらそう思うわ。だから『元々こういうお腹なんです』って答えたんだよね。そしたら、『安産型じゃ』って言われた。やったぜ。銭湯のこういう何気ない会話って良いよね」
「暖かい言葉だね」
「銭湯だけにな」
「サムい」
ところで、草下はどこか男らしい話し方をするが、それは彼女の生い立ちに関係しているのかもしれないし、オラオラした元の性格が関係しているのかもしれない。細かい話は、また後で記すことになる。
結局、残りのフライドポテトはほとんど治が平らげた。
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平日夜。治は、スーパーのレジ打ちのバイトを終え、草下のいるバーへ向かった。治の生活を成り立たせているのは、実家からの仕送り(家賃代三万五千円)と、レジ打ちバイトの収入、大学生奨学金だ。奨学金は、来年から返済しなければならない。治が考えるに、奨学金は直ちに「大学生ローン」とかに名称を変更すべきだと思う。治自身は、自分がこれから何百万返済しなければならないか自覚しているが、奨学金という名称のせいで、軽視している学生が多く見られる。
奨学金は返す義務があるし、期限を過ぎても返さなければ電話がかかってくる。ごく当たり前のことだが、これを甘くみている人が多すぎる。それには奨学金というネーミングも関係しているのではないかと、治は考えている。どうせほとんど、車のローンや住宅ローンと変わらないのだから、「学生専用ローン」だとか、「通学ローン」とかいう名称にすれば良いのに。




