Only Yesterday
黒いスーツ。暗色のネクタイ。
花を見繕って、冷たい色をした石畳の上を歩く。
こんな形式ばった事に何の意味があるだろう?
そう思いながらも、それに誠意や贖罪を照らしてしまうのは人間の空しい性かもしれない。
あの出来事からこれまで、一年と欠かさずにここへ足を運んだ。関係者と顔を合わせるのはお互いの為でないと心得ていて、毎年命日をずらしての墓参だった。
気候の良い時期で、なにもこんな時分に逝かなくてもと思うのは僕の勝手だろうか。
初めは彼の愛読書でも供えてやろうかと思ったが、墓前に本を置いていくわけにもいかず、年に一冊、自宅の本棚に同じ月の号だけが増えていく。
帰宅して本棚に空きを作っていたら、小ぶりな紙がはらりと滑り落ちた。
写真だ。学生時代の僕が写っている。
あの頃はまだ銀塩も生き残っていて、何かあるごとに誰かしらがカメラを持参し、頼んでもいないのに焼き増し写真を渡してくれた。
なんてお節介なと思ったものだが、そうしていつの間にか集まった写真は今も手元に残っていた。
* *
それはまだ、日菜子が僕を“藤倉さん”と呼んでいた頃のこと。
恋人同士となってほどない僕たちは、いわゆる付き合いの作法というものをよく分かっていなかった。休日になればどちらかの家に入り浸って本を読み、食事を摂り、時折ベッドに潜り込む。そんな日々を過ごしていた、ある日のことだ。
「あの、藤倉さん。ずっと気になっていたんですけど」
不意に日菜子から声をかけられ、振り向いた。壁に沿って据えられた本棚の前で佇む日菜子は、神妙な顔をして言った。
「この、建築天望って雑誌。なんで六月号しかないんですか?」
「……ああ、それね」
尤もな疑問を投げかけられて、僅かに言い淀む。どうしたって目につくものだ。いつか気付くだろうと思っていた。
「別に深い意味はないよ。僕が勝手にやってるだけ」
そう、それは誰かに頼まれたものではない。ただ自分が、自分の意志でやっていることに過ぎない。
「毎年この号だけ特別な特集があるとか?」
「まあ、そんなとこ」
彼女に重いものを背負わせるつもりなど毛頭なく、さらりと流した。
僕がこの話を終わらせたがっている事に気付いたのだろう。日菜子はそれ以上、この事に関して訊ねることは無かった。
* *
それから季節が巡って、夏の足音が近付く。
「これ、駿一郎さんですか?」
僕らが同じ名字になる日を控えた、休日の午後。僕の部屋の荷造りを手伝っていた日菜子は、本棚に差し込んであった写真を目敏く見つけて言った。
「どれ?」
「この、端っこに写っているの」
「あー、たぶんそう」
「多分って」
苦笑する日菜子に背を向けて、作業を続けた。このまま関わっていたら面倒くさい事になりそうだと、僕の勘が告げている。
素知らぬふりをして傍らの本へ手を伸ばせば、その表紙に影が差した。
「……なんだよ」
いつの間にか正面に立っていた日菜子を見上げて、眉根を寄せる。日菜子は目をきらきらと輝かせ、期待に満ちた顔を僕へ向けていた。
「ねっ、ねっ、駿一郎さん。他の写真も見たいです!」
「ない」
「ええ~、またそんなこと言って。ありますよねぇ?」
「ないですねぇ」
「じゃあ、そこにあるのは何ですか?」
「は?」
思わず舌を打った。図々しい日菜子と、怠惰な自分へ向けて。テーブルの端には昨日の僕が片付けも半ばに放置した写真の束が、剥き出しのまま置かれていた。
言い逃れができない。
「これ、見ても?」
「好きにして」
やったあ、と喜ぶ彼女にため息を一つ。そんなものを見て一体何が楽しいんだか。
十数枚の写真はいずれも十五年ほど前、医学生の頃のものだった。若かりし頃の僕は今と変わらぬ様子で写真に収まっていて、何か特別面白い事をしているでもなく、変わり映えのしない日常が切り取られていた。
「駿一郎さん、あまり変わりませんね」
「失礼じゃない?」
「あ、でもちょっと可愛いかも」
「もっと失礼だろ」
そんな他愛もない会話を交わしながら、日菜子の手が一枚、また一枚と写真を捲っていく。
やがて一周りして、二周目の途中ではたと手が止まった。
「もしかして、この方が大槻さんですか?」
宴会の卓を囲んだ写真。僕の隣でグラスを掲げる男を指さして、日菜子は言った。
あいつの写真などもちろん見せた事もなく、外見の特徴を話した覚えもない。同じ様な年頃の男女が収まった幾枚もの記録の中から一度で言い当てた彼女に、驚きを隠せなかった。
「なんで分かるんだ」
「んー、雰囲気? なんか、一番の仲良しって空気感があるので」
「君のそういうところが時々恐ろしいよ」
「駿一郎さんが私を褒めるなんて。珍しいですね」
こいつも随分な口を利くようになったと思いながら、それが嬉しいとさえ思ってしまう僕は、少し浮かれているのかもしれない。
「それ片付けるから。返して」
「あっ、待ってください。もう少し」
日菜子の指から写真を抜き去ろうとすれば、さっと避けられて阻止されてしまう。食い入るように見つめるその横顔があまりに真剣で、無理やり奪い取ろうなんて考えは湧きようもなかった。
それからしばらくの間、日菜子は静かに写真を見ていた。なんとなく手持ち無沙汰になって、片付け途中の本棚を眺める。仕事柄どうにも蔵書量が多くなりがちで、荷造りも荷解きも一筋縄ではいかないだろうとため息が漏れた。
そうしてふと、本棚の片隅に並ぶ背表紙へ目が留まった。
「そういえばさ。そこにある建築雑誌について訊いたこと、あったよね」
「あ、はい」
顔を上げた日菜子は、本棚を一瞥してから僕へと視線を移す。
「あれ、大槻の私物なんだ。僕が預かってる」
最も新しいものは先日発売されたばかりの今月号で、僕の言葉に矛盾があることはきっとすぐに気付いたと思う。
けれども、聡い彼女ならば意図を汲んでくれるだろうという確信めいたものがあった。
「悪かったよ。あの時はぐらかして」
「いえ、そんな。なんか訳ありなのかなって、薄っすら思ってました」
緩く首を振りながら、日菜子は微笑む。その表情がなんだかとても穏やかで、安堵と罪悪感とが同時に押し寄せた。
「気にしてないの?」
「はい? 何をですか?」
「僕に嘘つかれたこと」
僕はあの時、大槻の事を話さなかった。どうとでも受け取れるような曖昧なことを言って、誤魔化した。
日菜子はころんと丸い目を瞬いて僕を見た。少し驚いたような顔。それからゆっくりと表情を戻して、口角を上げる。
「気にするもなにも。駿一郎さん、嘘なんてついてないじゃないですか。あれをどう解釈するかは私次第だったんです」
今度は僕が面食らう番で、言葉を失ってしまった。
「それに私はもう、あなたの全て受け入れていますから」
知ってるでしょと笑う彼女に、何も言えないまま立ち尽くす。
彼女は素直なひとだ。恐らくその一言一句に偽りはないだろう。
「これから何かとんでも無いものが出てきても、あんまり驚かないかもしれません。散々扱かれましたしね。強くなりました」
その言葉を、信じてもよいのだろうか。
「あ、でも浮気とかそういうのはやめてくださいね! あと犯罪行為も」
「しないよ、そんなの……」
情緒をぶち壊す発言に苦笑しながらも、言葉を発するきっかけをくれた事へ感謝した。僕は日菜子のこういうところにいつも助けられている。
「ねえ、駿一郎さん」
不意に、呼ぶ声。
「これ。とってもいい顔してる」
日菜子が優しい目をして眺める写真には、カメラへ向かって微笑む僕が独り写っていた。
思い返すと、何気ない日常の中でシャッターを切るのはいつも大槻だった。そのせいか、彼の写真はあまり残っていない。
ただ、この写真が僕の手元に在るという事は、彼が確かにそこへ生きていた証左でもある。
「こんな表情もできたんですね」
「撮った奴の腕がいいんじゃない?」
日菜子は、きっとそうです、と答えてくれた。もう会えなくなってしまった友人は、僕の記憶の中で得意気に笑っていた。
タイトルはカーペンターズの「Only Yesterday」より。
喪失を経て未来へ向かう、藤倉と日菜子の関係を重ねています。