渋谷の国 ②
名前を、エンプティ。
愛称をプティ。
バーバル製(有名?なブランドらしい)の白いスーツで上下を揃えており髪の色は金髪、青い瞳を持っている。
首から冷たい感触を感じ、服の中から挙げてみればそれは首に下がっていた”写真の入っていないロケットペンダント”だった。
「空っぽだ!中に何も入ってないぞ!お前どんな寂しいやつだったんだよ!」
ホーステールには、そう笑われた。
エンプティ(空っぽ)。
それが由来。
俺にはこの姿になってからの記憶がない。
周囲からはホワイトカラーと呼ばれるが、このスーツにだってどんな理由があるのかわかっていない。
以前の俺は国境を越えた拍子記憶でも無くしたのではないか、と周りは推測した。
なんでも、こういった異常を持つ人間は少なくないという。
現在、自国にうんざりした貧乏な国民が無許可無対策に国境を越えようとする事例が多いらしい。
そうして空間魔法の変動に体が耐えられなくなり、消滅するもの、別人になるもの、怪物になるもの、などその影響は様々だという。
そういった人間は一括りに『夢遊病患者』と言うらしい。
俺はまさに消滅する寸前だったという。
しかしホーステールの一声で、俺の存在は復活したらしい。
そんな他者の認識一つより存在が戻ることはそうない事例らしい。
行きつけの闇市場の、評判のいい、なぜか常に女装している闇医者がそういっていた。
俺の最初の記憶。
「お前、俺の行きつけのカフェの前で何してるんだ」
場所は新宿の国の隅の隅にあるにある、これまた隅の小さなカフェ。
そんな店の前で掛けられたホーステールの、いかにも怪訝そうな腑抜けた、そんな声だけだった。
聞けばその時の俺は身なりが不自然に綺麗な、ただの浮浪者だったという。
ウィードーズに入って数日。
新宿の国にて、戸籍を手に入れるために役所に行った時のことだった。
「生年月日を教えてください。あ、あとそれと、好きな食べ物もです」
生年月日、それと好きな食べ物。
今を生活する人間であれば必ず聞かれる質問だろう。
「4月1日です。好きな食べ物は、ウサギのパテです」
当然な回答をした。
しかし時間を置いて俺は自分の発したその言葉にゾッとした。
そこに本当は一つとしてなかったのだった。
全て、自分がいかに”普通”であり無害な人間だと見られるかだけを考えて発するその、逃げるためだけに構成された言葉。
その瞬間の恐怖感が今後の人生を決めた様に感じた。
そうして最後に感じたのは、嘘をついたことに対するあまりにも遅すぎる罪悪感。
待ち時間の間、ふと振り返った。
そこには杖を手に座っている老人、近くには孫と思われる成人男性が話しかけている。
その隣には、寝ている子供と走り回る子供二人を連れている母親らしき女性がいた。
羽をつけた小人に実物大のボールを持たせジャグリングをさせようとする、小太りの青年。
そんな光景が、俺にとって輝いて見えた。
しかしその奥のゴミ箱を漁る麦わら帽子の老人がより一層、輝いて見えた。
(ああはならない、頑張るか……)
そんなやる気を出させてくれる。
俺のついた嘘も、肯定してくれる。
ありがとう、麦わらの老人。
「お前、いつの間にいたのか」
「もう二時間くらい前からいるんだが………」
「俺がとっておいたカステラ、お前食ったろ」
「それ食べていいか聞いて許可取ったんだ……」
この世界の住人は、常に匂いによって人を判別している。
そしてそれが薄い人間ほど存在感が薄くなる。
俺は時々、無に等しいほどの存在感になるらしい。
何度も香水を使用してもものの数時間で消えてしまう、そんな体質の持ち主だということがわかった。
「あんたコーヒー臭いよ?あんたのせいで客がみんな隣町のカフェに行くからとっとと消えてくれよ、プティ」
ソルベアイス専門店の女性店主に言われた時だった。
自分が睡魔に弱いということを知ったのは、記憶を取り戻してすぐにわかった。
そのあまりの睡魔に、まるで気絶したように眠ってしまう。
しかしそれがあまりに多かったことから、対策として闇医者からコーヒーを勧められた。
甘味が苦手な自分にとってうってつけの飲料、またカフェインによる眠気覚ましから夢中になるには時間はかからなかった。
そしてあまりの感動に気が触れたのか、コーヒーの豆をそのまま食べていた時に言われたことだった。
自分の体からはまさにカフェそのものの匂いで充満していたらしい。
いつしか自分の匂いは、コーヒーそのものとなっていた。
役所から入る時に見えた、ウィードーズの指名手配のポスター。
俺を含めたウィードーズの人数分のポスターであり生年月日や好きな食べ物、身長から体重まで書かれており、何より全員が変顔で写真が載っていた。
あまりにも悪意があることから、騎士団の怒りを感じた。
ウィードーズは、造花の姫と石の国の姫”カサブランカ”との会談にてとある事件の犯人として指名手配されていた。
会談後、ラ・フランスに渡されるストロベリークォーツの首飾りがとあるキャラクターのおもちゃにすり替えられていたという事件。
巷で話題になっていた、ストロベリーモンスターという今世紀最も下品とされているアニメがあった。
そのあまりの下品さから、インターネットでの放送を禁止されるほどだったが一般には受けずともカルト的な人気と知名度を誇るほどとなった。
「捨てなさい!こんなもの!」
そういい、プレゼントされた箱ごと床に放り投げてしまった。
彼女のその憤り、また彼女がそのキャラクターを知っているという事実が知れ渡ってしまったこと。
それがこの、ウィードーズを世間に知らしめてしまった事件だった。
そして、そのキャラクターの人選も、すり替えたのも、俺だった。
しかし俺はこの事件にて、自分の存在感を消す技を覚えた。
感覚としては、息を止める時のような息を含み、耐える時の力の込め方に近い。
息を止めるのにも限界があるように、長くは消すことはできない。
当然役所では匂いで本人の身分がわかるような魔法がかかっているわけで。
それでもこうしてバレずにパスポートを手に入れることができたのは、精巧にできた身分証明書と、偽装用の特別な香水とそれに浸透しやすい自分の体質のおかげだった。
確かに、普通になりたいと思うこともあった。
しかし気がつけば仕事が終わり、あの列車の最後尾に戻るという繰り返しの生活を送っていた。
何の疑問も抱かず、これからこの列車がどこに行くかも気にならなくなっていた。
こうした性根がまさにエンプティと呼ばれるもう一つの理由と言えるのだろう。
「今日はコーヒーの匂いが強烈だな、プティ」
「はは。どうも今日は眠くて、やっぱり寝れてないですねぇ。」
確かに寝れないからコーヒーを飲んでいる。
しかし最近は無意識に飲んでいるのだった。
飲みすぎては、やがて匂いが定着してしまう。
そうなれば、持ち前のステルス能力も発揮されなくなるのではないか。
そんな心配がここ最近は頭をよぎるようになっていた。
前列のスライドドアがプシューと、空気を吐きながら開いた。
そこからバタコとほぼ同じ背丈に、あまりにもサイズが大きすぎる制服を着ている女性が箒とバケツをもって入ってきた。
「はいはい、通りますよ~~」
景気の良い声と共に、俺たちの足の間をするすると抜けて掃除をする女性。
その景気の良い声も、変声期を迎えていない子供そのものだった。
しかしその華麗な箒捌きは少女と呼ぶにはいささか洗練とされていた。
誰もが子供だと思ってしまう容姿だが、彼女は立派な成人女性だ。
「あまり掃除しすぎないほうがいいですよ?またホーステールに怒られる」
「あんなの無視無視。この列車はワタシのよ?最後尾まできっちり掃除しないと」
しかし車掌の、まるで円盤を重ねたような制帽も彼女の頭には合わないようで、今にもずり落ちそうだった。
彼女の着る制服のトップスの肘部分までしか彼女の腕の長さは足らず、そこから袖までだらしなく地面に垂れ下がっている。
しかしズボンは綺麗に自分の足のサイズに切られていた。
「ジャケットの袖には、金の線が入ってるから。金持ちに見えるから」
自慢げにそう言った彼女は、落ちそうな帽子をクイっとあげる。
首から下がっているのは、なんとネクタイではなく桃色のパパラチアが光る金色の首飾りだった。
彼女のその、全体的にだらしのない格好がまさにこの列車の現状を語っている様だった。
「渋谷、渋谷、お出口は右側です。」
(このアナウンス、本当に不快だ)
いつものように淡々と知らせる不快なアナウンスは、俺の重い腰をさらに重くさせた。
しかしどんなに耳を塞いでも聞こえてくるのだから不思議だった。
俺は列車の、後者専用の中央の車両に移動した。
最後尾の、煙を上げる汽車が通り過ぎる。
駅に足をつけた瞬間に感じた違和感。
数十年前、世間を賑わせた床に敷き詰められたレンガとウォルナットの木材を用いた柱のモダンレトロ。
かつての新宿の国の駅そのままのデザインのこの駅は渋谷の国のもの。
渋谷の国の変わり様は相変わらずだった。
現在、こうしたリバイバルブームによるレトロが流行っていた。
それに便乗してのことだろう。
違和感とは、数年前はこのモダンレトロとは打って変わって魔法の大国を扮した(パクった?)バロック様式のデザインだったからである。
これから先、どんなデザインに変わるのかと少し楽しみにしている自分もいた。
振り返れば黒い煙は天井窓より空高くあがり、やがて目に飛び込んできたのは大型ボード広告。
赤い瞳。さらにその奥に映し出される一重咲きのガーベラ。
肩まで伸びるブロンドベージュに後ろに束ねられたハーフアップのロングヘアーが肩まで伸びている。
彼女の着る白いワンピースは、彼女の髪色と瞳に不思議にもよく似合っていた。
彼女の左右対称のはっきりとしていながら幼さの混じった顔立ちと、純粋無垢な笑顔に白色はよく似合っていた。
そんな彼女は、そのカメラから伸びた手を掴み、まるで自分だけの景色を特別に見せてあげるとでも言いたげな無邪気な表情に心が惹かれた。
今にも走り出しそうなほどの躍動感とその髪の風に靡く様は、まさに映画のワンシーンを映し出したようだった。
その広告にあまつさえ手を伸ばしたくなるほどであり、まさにあの手を取れば、どこか遠くへ連れて行ってくれそうだと感じた。
そうして手に目を移した時に、彼女のつけているやけに派手な虹色のマニキュアが目立ちハッと現実に引き戻された。
白いワンピースには少々不似合いの派手なマニキュアを見て、初めてこの広告がマニキュアを宣伝するものだということに気づく。
そんな看板ごときに自分の足が数分間止まってしまっていたことに驚いた。
広告に目を奪われること自体が初めてだった。