40 劇的建造物
それは、大きな音を立てただけでびくともしなかった。
十一のドラゴンが吐き出した青い弾は、原が機転を効かせて繰り出した魔法によって防がれたのだ。
遡ること五分前。
原は、まもなく死ぬのではないかという恐怖の前で、自らのスキルを思い出す。
--空間変換能力。
「そ、そうだ! べ、ベルリンの壁!!」
原が外務大臣だった時代、G7サミットでドイツ訪問中にベルリンの壁の残骸を訪れたことがある。
その際、壁に描かれた多くの落書きの中で、特に目を引いたのが、旧ソ連のブレジネフと旧東ドイツのホーネッカーがキスを交わしている有名なシーンを描いたアートだった。このイメージは、当時の政治的な緊張と対立を風刺したものであり、非常に印象的であった。
時は流れ、現在に至るまでその記憶は原の心の奥深くに刻まれていた。しかし、まさかその記憶が、今、ここで無関係な状況の中で突如として蘇るとは、彼自身も予想外だった。彼は何の前触れもなく「ベルリンの壁」と声に出して叫んでしまったのだ。
この突然の発言に、原自身も、なぜその瞬間に過去の記憶が蘇ったのか、全く理解できなかった。心のどこかで、かつての冷戦時代の緊張感や、壁が象徴していた分断という歴史的重みが、何かの拍子に心を揺さぶったのかもしれない。
その発言が空気を一変させ、短い沈黙が流れた。原は自分の行動に羞恥心を感じつつも、その奇妙なひらめきがもたらした何かを探ろうとした。
過去と現在が交錯する中で、政治的なシンボルとしての壁が今日においても持つ意味を考えさせられた。
この一件は、原にとって突然の記憶の再訪であったが、同時に、歴史的な出来事が個々の人間の心にどれほど深く影響を与えるかという事実を改めて彼に思い起こさせるものだった。それは彼に、人々の記憶に残る出来事が時として予期せぬ形で再浮上することの証となった。
とまあ、あれこれ考えてはいたが、空間変換を原はうまく使いこなせたのだ。
ベルリンの壁は、現実世界ではないものの、その姿を再び現した。それは、喜劇的かつ悲劇のようにも見えた。
まるで大地が一大スペクタクルを上演するかの如く、突如として轟音を伴い、地面からゆっくりと持ち上がり始めた。この突然の出現は、あたかも自然の力が急場のマジックトリックを披露しているかのようで、断層が地球の皮を割り、新たな壁が天を衝く姿は圧巻だった。
それを見た原は、まさかと思うほど口をあんぐりと開けていた。
その瞬間、空からは敵の青い弾道が飛来し、まるで運命を感じさせるタイミングでベルリンの壁に猛烈な勢いで衝突した。
青い光の弾丸が壁に命中すると、壁は一瞬で色とりどりの光を放ちながら、どこか滑稽な音を立てて崩れ落ち始めた。これは戦闘ではなく、まるで歴史を目の当たりにしているかのような光景が広がっていた。
「べ、ベルリンの壁が崩壊した……」
原はこの光景に息を呑み、空中に舞う壁の破片が、地上に降り注ぐ星屑のように見えた。壁の一部はまるでダンスを踊るかのようにふわりと舞い上がり、次第にその勢いを失い、地面に静かに落ち着いた。
この一連の出来事は、戦場に予期せぬ幻想的な美しさをももたらした。
敵は、この劇的な展開には動じたのか、次の一撃を準備するほど冷静ではいられなかったようだ。敵の隊列は、まさかの出来事に来た道を引き返して行く。
ベルリンの壁は、もはやただの遺構ではなく、この異様な戦場での奇妙な参加者となっていた。
そして原は、自らの能力を信じ、これなら敵を木っ端微塵にできるのではないかと考えた。
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「さてさて、どうするか」
雨宮が腕を組みながら二人に問う。その声の調子は、危険が去って安心したというような雰囲気があった。
しかし、雨宮の問いに勘解由小路はうーんと唸り、福本も口を窄めて天を仰いでいた。
ゴブリンや妖精から迎えがくる気配ないし、ここから宮殿に戻ると言っても、かなりの距離があるのは確かだ。
「歩いて帰るか?」
勘解由小路の問いかけに、二人は返答しなかった。以前に、ブヘヘ村まで歩いた記憶が蘇る。それを上回る距離なら途中で倒れるに違いない。
三人が次の予定と不安を語り合っていると、突然、遠くの地平線の向こうから不気味な轟音が響き渡った。その音は、重くて深い低音で、まるで地球自体がうめき声を上げているかのようだった。
地震の前兆に似たその鳴り響く地鳴りは、不安と緊張を一層高め、三人の会話をぴたりと止めさせた。
雨宮らはお互いを見つめ、何が起こりうるのか予想もつかない恐怖に襲われていた。
「いやいや、何だよ今の……」
勘解由小路が不安を露わにして言った。その音が徐々に近づいてくる中、雨宮らは不安定な足取りで立ち上がった。
「どうする。行って……みるか?」
「総理が言うなら、どこまでもついていきますよ」
「ああ、そうだ。総理が決めてくれ」
二人は、雨宮の目を見据えて言った。その目は、信頼してもいいと思えた。
雨宮は、二人とともに音の発信源の方へと歩き始めた。
ゆっくりと進んでいくと、遠くの方で炎が上がったり煙が上がったりと、各地で争いが起きているのだろう。
あの音の出どころも、そういった激戦地からでは? と福本が言ったが、雨宮と勘解由小路は直感的に違うと思った。
雨宮たちの足元は確かな土の道から、荒々しい岩肌へと変わっていった。不安定な小石が踏みしめる度にカサカサと音を立てる。彼らが足を進めるたびに、その音は不穏な空気と混ざり合い、不気味な調べを奏でた。
三人は、前方にそびえる巨大な山脈の前に立った瞬間、足を止めざるを得なかった。壮大なその光景は、まるで天をも貫くかのような雄大さで、彼らの前に立ちはだかっていた。遠くから見ていたよりも、それは圧倒的に大きかった。
空は次第に暗くなり、雲が低く垂れ込め始めた。風が山の斜面を駆け抜け、その音が谷間を通り抜ける度に、遠くの轟音と混ざり合って、より一層彼らの緊張を高めた。
「いやいや、この向こうじゃないよな」と勘解由小路がつぶやくと、「こっちの方から聞こえました」と福本が反論した。どちらも不安に満ちた表情で、山脈の荘厳な姿を仰ぎ見ていた。
確かに、あの音は山の向こうから聞こえてきたようにも思えたが、それが現実的に可能なのかどうか、誰にも判断できなかった。
「ど、どうする?」と雨宮が問いかけた時、他の二人は黙るしかなかった。
彼らの前には、途方もなく険しい岩山が広がっており、簡単には越えられそうになかったのだ。いや、厳密に言えば一つだけ方法があった。
それは、先刻福本が繰り出した隕石をぶつけるというものだ。しかし、それを実行するには、あまりにも危険が伴うため、誰もがその選択を口に出すことをためらっていた。それに、実際に破壊できるかどうかはわからなかった。
先ほどは、衝突したにもかかわらず、地形は変わらなかったからだ。
彼らは、ほとんど動くことなく立ち尽くしていた。風が彼らの服をひらひらと揺らしていた。
山の中腹では、時折、岩が崩れる音が聞こえ、それが彼らの不安をより一層かき立てた。
雨宮らはそれぞれの心の中で、山を越える勇気と、引き返す理性とがせめぎ合っているのを感じていた。それでも、前に進むしかないのかもしれない。
それとも、やはり……隕石をぶつけるか。




