その四 煙
運河が開通して、大陸を迂回する必要がなくなったとは言え、青年にとって、初めての船旅、それも三等客室に押し込められ、波に揺られて過ごす毎日は、苦痛でしかなかった。ことに、南の海の暑さと言ったら――
運河を通って、ほどなく港に入ったが、ここでの碇泊は一日のみ。青年の目的地は、まだまだ先だった。
ともかく、青年は甲板に上がってみた。周りが何だかあわただしい。船員や他の船客の話を聞いていると、どうやら、原動機に故障が見つかったらしい。かなり深刻な不具合で、修理するのにだいぶ時間がかかりそうだという。
結局、船は港に一週間留まることになった。その間、船室で過ごすこともできるが、紹介された町の旗亭に泊まることも可能だという。多少金はかかるが、青年は、旗亭を選んだ。穴倉のようなあの場所で、これ以上過ごすのは勘弁だ。
しかし、行ってみると、旗亭も期待したような別天地ではなかった。まあ、何といっても、安宿だから仕方がない。それに、あの船室に比べれば、ずいぶんましであることには、違いない。
青年はさっそく付近を散策することにした。
「どこか、ここは見ておかなければならないというところは、ありますか?」
近くにいた支配人と思しき人に聞いてみると、市場だったら退屈はしないだろうという。歩いても五分とかからない場所らしい。
行ってみると、たしかに大きな市場で、物や人であふれている。見慣れない野菜や香辛料、金属製の食器、革細工、色とりどりの布、絨毯――
しかし、それらの中に、青年が欲しくなるようなものはあまり見当たらない。それに、自分の財布の中身を考えてみると、仮に欲しい物があっても、おいそれとは手が出せない気がした。
「ムッシュ! ムッシュ!」
振り返ると、青年と同じ年恰好の男だった。男の手招きのまま、ついて行くと、帽子屋の前で立止った。首を横に振ると、次は骨董屋。
うん、ここなら、いい。何か面白いものがありそうだ。あれこれ覗きこんでいると、例の男は、店の主人と何やら世間話でも始めたらしい。金属の縁取りが付いた硝子器具、口の長いやかんのようなもの、様々な灯台、金属製の壺、何に使うのかもよく解らない容器の数々――
店の主人が笑顔で話しかけてくる。しかし、一向に言葉が分からない。とりあえず、フランス語で答えておくか。
「いやいや、見てるだけです。見てるだけ――」
「見ル、イイネ! 見ル見ル、イイネ!」
主人が片言で愛想よく受け答えをすると、さっきの男が声を立てて笑い始めた。主人もつられて笑っている。青年も、仕方なく、気の弱そうな笑みを浮かべた。
主人が店の奥に招くように手を広げる。促されるまま進むと、そこには、生まれて初めて目にする不思議な物があった。大きさは人の背丈の半分以上はあろうか。瑠璃色の硝子と、金属の皿と、長い管。青年が顔を近づけ、上下左右表裏、念入りに観察していると、主人が長い管の先を口にまでもっていき、息を吸っては吐く動作を行った。なるほど、これが、水煙管というものだろうか。
主人と男が何かしきりに声をかけてくる。意味は分からないが大方買えと言っているのだろう。
「いくらですか? きっと高いんでしょう?」
「ノン高イ、ノン高イ!」
それでも、主人が示した値段は、とても青年の持ち合わせに釣り合うものではなかった。淋しそうに首を振ると、主人は、どんどん値を下げてくる。だが、いずれにしても、財布の中身とは、ずいぶんかけ離れている。
すると、あの男が店の外から声を掛けた。
手招きをしながら、どこかを指さしている。骨董屋を後に、男に従っていくと、一軒の茶店があった。店内からは、何かがいぶされるような、それでいて極めて佳い匂いがしてくる。覗いてみると、ぼんやり薄暗く霞んだ奧で、さっき骨董屋で見たような道具のかたわらに、一人の老人が管の先をくわえていた。老人は青年の姿に目を止めると、鷹揚に自分の隣の席を手で示した。
やや躊躇しながら店に入ると、老人は笑みを浮かべながら、青年にやり方を教えるように、一口、二口、水煙草を吸って見せた。息を吸い込むたびに、道具の中でぶくぶくと音がする。煙が水を通る音なのだろうが、思いのほか大きな音だった。
「さあ、ムッシュ、おかけなさい。こちらに――。どうか遠慮せず」
老人の口からは、思いがけず、流暢なフランス語が出てきた。そうして、水煙管に付いている二本の管のうち、余っている一本を青年に差し出した。
「ムッシュ、煙草をお呑みになるか?」
「ええ、紙巻が多いですが」
「これはどうですかな?」
「初めてです」
「まあ、やってごらんなさい。煙を水に通すと、まろやかになる。また、冷やされるので、たくさんの煙を吸うことができます」
老人に勧められるまま、息を吸い込み、吐き出した。
甘く、陶然となるような薫り。
穏やかで、豊かで――
あたりに漂う薫香に、体ごといぶされ、その薫りが、臓腑の隅々に浸みわたっていくような気がした。
ゆっくりと、心持ちが落ち着いていく。深く深く、沈んで、眠気を誘うような――
聞こえてくるのは、老人の声―― 何かの物語――
遠く、近く、繰り返される、悠久の時間――
いつからだろうか、青年は、一本の背の高い棗椰子の木の下に座っていた。
尻の下は小高い丘になっていて、そこから先に、沙漠が広がっている。
青年のそばには、綺麗に装飾された、立派で真新しい水煙管が置いてある。
十三夜の月が昇って沈んだ。
青年は、水煙草を燻らし続けた。ぶくぶく愉快な音がいつまでも響き、佳い匂いの煙が、途切れることなく立ち込める。
十五夜の月―― 青年の横には、どこから来たのだろう、幼い女の子がちょこんと座って、しずかに控えていた。
青年は女の子のことを気にしなかった。
少女も青年のことを、あまたの砂の一粒とでも思っているふうだった。
二人の間には、一言も、一瞥すらも、交されることがなかった。
煙草の煙が薄雲となって、月のおもてを、なでるように行き過ぎた。
十六夜の月―― 青年のとなりに、いつしか女の子の姿は無かった。
青年はそれを、知ってか知らずか――
流砂を眺めるように淡々と、涼しげな表情をしていた。
少女の在不在は、青年とは全く没交渉だった。
どこから来て、どこへ去ったのか―― 一切が青年の関心の埒外にあった。
青年は、泰然と水煙草をふかし続けた。
二十日月―― 青年のかたわらに、最早、水煙管すら無かった。
それでも、青年が呼吸をするたびに、あたりには、醺然たる煙が漂っていた。
繰り返されるのは、悠久の時間、億兆を越える流砂の粒――
ふと見やると、沙漠の向うから、一頭の駱駝が近づいてくる。
青年は、あの日、老人が語った昔話を思い出した。
駱駝には、人が乗っている。
黒衣――
女だ。供も連れずに―― 一人だけ――
老人の話によると、黒い布に隠されているのは、様々な宝石に彩られた、きらびやかな耳飾り、首飾り、腕輪、指輪…… そして、それら華麗な装飾にも、まったく遜色がないほどの容姿。
この世に、二人と存在せず、言葉を以て喩えるべくもない麗容――
――永遠の花嫁 たしかに老人は、そう語った。
百年も、千年も、沙漠をさまよい続ける一人の乙女――
永遠の花嫁――
やがて、駱駝は青年の前でしずかに歩みを止めた。
涼やかな声で女が問いかける。
青年は答えない――
再び、凛としつつも優しげな女の声。
青年はじっと押し黙ったまま――
どこから来て、どこへ去るのか―― 一切が念慮の埒外
一方通行の問答もふっつりと途切れ、女の影が大きく揺らいだと思ったら――
どさり――
駱駝から落ちた女が砂の上に横たわる。
女はそのまま動かない。
青年も動かない。
気がつけば、あたりに駱駝の姿も無い――
そうして、青年の姿は――
やがて、一陣の風が通り過ぎ、女の覆頭布がわずかにめくれ上がった。
黒い布の隙間からかいま見えたのは、けがれのない白皙の肌膚――
永遠に白い、硬質の肌膚――
<了>