その廿三 璃
「ああ、ここだね」と夫が言った。
そうだった、ここだった――妻もそう思った。忘れ物が無いか、席の周りや網棚を見渡してから列車を降りた。ホームに降りたと思ったが、実はそうではなく、二人は線路の上に立っていた。あたりに人気は無く、ここで降りたのは二人だけらしかった。
田舎の単線なので列車の本数は多くはないにしても、とにかく線路から離れなければいけない。線路の左手を並行に沿った道がある。その上に出た。
道はまだ舗装されておらず、車の轍が二筋凹んでいた。ここ数日好天が続いたのだろう。地面は乾き、固く締まっていた。今まで乗ってきた列車が去って行く方向に、その道を歩いて行った。少し先にバスの停車場の標識が見える。その脇には小さな小屋も見える。待合所だろうか。
妻の郷里までは更にバスに乗らなくてはならない。郷里にはもう何年も帰っておらず、それどころか、実家すらもうそこには無かった。ただ、どうしても帰らねばならぬ用事が出来たのである。
道の先には、こんもり小高い森があり、線路も道も森を避けるように、だんだんと左の方に湾曲していた。
今降りたばかりの列車が、もうすっかり遠くに、姿も音も小さく離れて行くのが見える。
三両の客車を引いて、煙を吹く汽罐車――何だか、子供の頃に読んだ『銀河鉄道の夜』という本の挿絵にあった、軽便鉄道の汽車によく似ているようだと妻は思った。
それを夫に話そうとしたところ、少し先を歩く夫がこちらを振返って、
「あれはどうも、銀河鉄道の汽罐車だね」と笑って言った。
妻は嬉しくなって、
「私も今そう思って、それを言おうと思ったのに、先に言うのはずるいなあ」と言った。
夫は、
「僕はいつだってずるいからね」といたずらっ子のような顔付をした。そうして、二人して声をあげて笑った。
笑いながら妻は、今の時代になっても、あのような汽車が交通手段として用いられていることが、何だか不可思議に思われた。ただ、その気持ちを夫に打ち明けるのはどうも憚られるような気がしたので、そのことは黙っていた。
やがて停車場に到り、標識に貼付けてある時刻表を見ると、バスは二時間に一本ほどしか通っていない。そのうち、郷里に向かうバスは、午前と午後に一本ずつのみ。午前中の便まで、あと一時間以上ある。ともかく、待合所に入ってみると、そこは思いの外奥に細長い建物で、店を営んでいた。土産物のような、骨董のようなものを売っている。店番は初老の婦人で、毛糸の帽子に鼈甲の蜻蛉眼鏡を掛けていた。陳列棚の一つに、標本箱のような、細かな仕切りのある飴色の木箱があって、一つ一つの仕切りには、蜻蛉玉のような、色とりどりに綺麗な佩物が入っていた。
妻が目を輝かせて、
「見てもいいですか?」と訊くと、店番の人は表情を動かさずに、
「どうぞ」と乾いた声を出した。
「これは、手作りですか?」
「そうです。大体は私が拵えています」
受け答えをする婦人に相変わらず笑顔は浮かんでいないものの、それでも、歓迎されていないという様子ではなかった。ただ淡々と決まったとおりに、自分が行うべき所を行うのみといった風。
夫は妻の後ろを通り過ぎ、更に店の奧に入って行った。並んだ佩物を一通り吟味し終った妻が夫の方を見遣ると、夫の視線の先には、十センチ四方ほどの真四角の箱を二段重ねたような物があった。
何だろう?――妻も夫の傍に寄って行った。それは、下の箱は金属の素材、上の方は、硝子で出来ていた。金属の表面にはアカンサスのような模様が彫られており、硝子の部分は美しい水色をしていた。その硝子で出来た箱は、それぞれの辺が下の箱と同質の金属で縁取られ、補強されていた。縁取りの金属にも、装飾の彫刻が施されていた。
なかなか立派な拵えである。
「これは、金かしら、鍍金かしら?」
「うーん、どうだろう。真鍮か、アルミ銅かも知れないね」
上の方、硝子の箱は半透明で、その内側には街の模型のようなものが非常に小さく見えたが、何だか人や車が動いているようでもあり、ただの作り物ではないように思われた。何分、硝子の透明度の加減もあって、どうもはっきりとは分からない。
「もうし、すみません、これは一体何ですか?」
「はい? ああ、それ。見付けてしまいましたか。――それはね、実は私もよく解らないのです。ずっと昔からそこにあるようです。先代か、先々代か…… とにかくそれは、売り物では無いのです。申し訳ないことですが。ただ、そこに置いておくようにと、先々代か、その前の代か……」
そのとき、店番の人が腰掛けている椅子の後ろの柱時計が、ぼおんと一つ鐘を打った。
いつの間にかに、バスの時間まであと十分程になっている。
「おお、もうこんな時間か。そうだ、切符は持っているかい?」
「切符?……」
妻が手提げの中の蝦蟇口を探ると、緑色の切符が出て来た。夫に見せると、
「ああ、それではいけない。そうではなくて、オリオンの切符だよ。持っていないのかい?」
夫が甲高い声を出した。ポケットから取り出して妻に見せたのは、真っ黒な紙に、白い点が三つだけ打たれている切符。白い点は星座のオリオンの三つ星なのだという。
「この店に、切符は売っていないのですか?」
夫が訊くと、店番の婦人は困った顔を横に振った。
「今、この時間、切符は一枚も無いのです。昼前に着く汽車があります。それで運んで来ることになっているのです。申し訳ないことですが」
そうこうしているうちに、土煙を巻上げながらバスがやって来た。古めかしいボンネットバスである。
懐かしい形のバス。子供の頃にはよく見かけたし、乗りもしたのに、今ではすっかり無くなってしまった――そんなことを考えていると、夫はそそくさとバスに近寄り、車掌に切符を示して乗り込んだ。
「切符が無いのですが、乗る事はできませんか? お金ならあるのです」
妻は車掌に頼んでみた。狢のような顔のその男は、不機嫌そうに入口に立ち塞がり、切符用の鋏をかちかちもてあそびながら、
「規則で決まっているです。切符は予め用意して貰わねばならぬのです。出来ぬことは出来ぬのです」と取り付く島もない。
夫が窓から体ごと乗り出すようにして顔を出し、
「とにかく、僕だけ先に行っているよ。遅れるわけにはいかないからね。汽車で切符が届いたら、かならず追いかけて来るんだよ」と言い掛けたが、その言葉も終らぬうちにバスの扉がぴしゃりと締まり、発車した。
去り行くバスの窓から、夫が頻りに手を振る様子が見えたが、もうもうと立ち込める土埃の中、朧に霞んで頼りなく、夫もバスもどんどん小さく見えなくなった。
「汽車が来て、切符を買って、そして次のバスが来るまで、ここに居させてください」
「ええ、どうぞ。それはもちろん」
「あの、それから、硝子の箱…… もう一度見せていただいてもよろしいですか? 見るだけですので」
婦人はやや困惑した表情を一瞬見せたが、
「どうしても、ご覧になりたいですか? ――そうですか…… まあ、ご要望であれば、仕方がありません。どうぞ、ご覧になりたければ……」と頷いた。
薄暗い店の奥で、硝子はほんのりと表面に光を帯び、その色は一層青く、美しさと透明度を増したようだった。濁ったように見えていた内側の暈りも、少し霽れたように思われた。そうして、そこに見える街の様子は、やはりどうしても作り物のようには思われなかった。
やがて、一台のバスが硝子の中の街を通ったように見えた。しかも、それは先ほど夫を乗せて去ったあのバスのように思われた。
自分は、もう二度と夫には会えないのかも知れない――ふと、そんな不吉な考えが頭をよぎった。はっとして、よくよく硝子の中を覗いてみたけれど、再び内側の暈りが増していて、よく見透せなかった。そうして今度は、硝子の内側から灯がともるよう紫色の光が浮き上がって来た。
「それはね、あまり熱心に見ていては良くないと思いますよ。どうか一休みなさって。こちらにどうぞ」
婦人に勧められるままに、入口付近の長椅子に座って、麦湯をいただきながら、汽車が切符を運んで来るのを待つことにした。婦人の方を見ると、柱時計の前の椅子に深く腰を掛けて、何やら本を読んでいる。あまりお喋りが好きな人ではないようだ。それは妻も同様で、こちらも手提げから詩集を取出し、膝の上に広げてみた。しかし、文字の表面を目が追うばかりで、一語一語の意味が全く頭に入ってこない。
もう、あの人とは会えないのではないだろうか――その気持ちばかりが募って、わくわくと落ち着かない。
やり場のない不安を抱えたまま、時折店の外に出ては、線路の先を眺めたりもした。立ったり座ったりを何度繰返したことだろう。何時間も、何十時間も経ったと思った頃合いに、待ちに待った汽車が到着した。
赤帽が荷物を運んで来る。居ても立っても居られず、赤帽のもとに駆け寄った。
「お手伝いします。どうか一緒に運ばせてください」
三つある大きな麻袋の一つをひったくるように受け取って、店へと駆け戻った。その、たまたま運んだ袋の中に、寄せ木細工の小箱が入っていた。切符はその中だという。
店の婦人が小箱を開ける。その様子をじりじりしながら覗き込んだ。
中にはいろいろな色の切符が整然と収まっている。しかし、黒い切符は見当たらない。
「オリオンの切符、ありますか」
婦人は、申し訳なさそうに首を横に振った。
「他の切符でも、いいのです。沙丹波行きのものは無いのですか?」
「ありません。オリオンの切符でしか、沙丹波には行かれないのです……」
それ以後は、何を訊いても黙って首を振るばかり。
見遣ると、店の奧では、あの硝子の箱が仄かな光で点滅している。
赤く、青く、ゆっくりと、ゆっくりと――
<了>




