その廿二 峠
「今はそっちさん行きなはらんが良かですもんな」
道のわきの石に腰を掛けて、五十恰好の人の好さそうな男が煙管を銜えている。
この人も寺迫の人だろうか。顔を見たことがあるような気もするが判然とはしない。
「先生は今日は鮠斗原ん方に行かしたとですかな?」
向うは自分の事を見知っているらしい。
「はい、ちょっと本校の方で会議があったもんですから」
「はあ、そぎゃんですか……」
自分はこの春から寺迫にある尋常科の分校で教員をしていた。同じ県内とは言え、自分の生地はここから大分離れた海の近くで、この辺には親戚も無かったため、この山間の村を訪れたのは今回の赴任が初めてであった。もとは庄屋だったという大きな屋敷の一室を借りて下宿にしている。
今日は午過ぎから本校に呼ばれ、会議があったのだが、思いの外長引いて、夕方近くになってもまだ続いた。校庭側の窓の硝子を通して表を見ると、次第に空が被って来て、段々と薄暗さが兆しつつある。
それにしても、会議は中々終わらない。じりじりしていると、一人の先生がこちらの様子を心配して、
「ほら、川田先生な向こうまで帰らっさにゃいかんですけん」と教頭に促した。
「ああ、そぎゃな……。そるなら、本件は……」
――やっと終わった。
校長などへの挨拶もそこそこに、そそくさと校門を後にした。
寂しい峠を上ったり下りたり、気持ちは急くが歩みは思うようには捗らない。息を切らしながらようやくここまでやって来たが、下宿に辿り着くにはあと半里ほど同じような山道を辿らねばならぬ。
その上、この先には青緑色の汚い水をたたえた小さな沼がある。昼でも薄暗く、心持ちの良くない場所である。想像するだに何とも心細い。すっかり暮れてしまう前に何とかそこを通り抜けたい。剰え、今にも一雨来そうなあんばいで、雨具を持たぬ自分としては、はらはら気が気ではない。
「まあ、先生もほら、そこに坐んなはらんですか。今は行かっさん方が良かけん」
黄昏時に掛かりつつある時分、空模様も怪しいというのに、実に悠長なことである。それに、今は行かぬが良いとはどういうことだろうか。寂しい山道に連れが出来たことはありがたいが、ここで休んでいる暇などとても無い。
不審に思っていると、その人は左手に雁首をぽんと打ちつけて掌を灰吹にした。受けた火玉をころころと転がしながら、もう一方の手で煙管に莨を詰め替えると、転がしていた火を火皿の上に乗せて二服目を吸い付けた。
まだ打ち立つつもりは無いのか――
「先生…… 先生な、そん先ん道の何本に見ゆるですかな?」
何本も何も、辻でも何でも無い一本道なのにおかしなことを聞くものである。
「一本にしか見えませんが……」
当たり前の事を当たり前に答えた。
「そうな、そぎゃんですかな…… あんな、己にゃあな、何本も分れとる如見ゆるとですよ」
「はあ……」
「こぎゃん事ぁ、たまーにありますもんな。道がな、何本て分れて来っとだもん。こぎゃん時に、慌えて当推量で行きよったら大事ですばいた。谷の底やらに転落たくるけんね。まあ、そぎゃん時ゃな、道ん傍んでん坐ってからな、ゆるっと莨でん吞んどったら良かと。そしたらな、またすうってな、道が一本になってくるけん――」
男は澄ました顔で、頻りに莨を吹かしている。泰然自若たるものであるが、自分の苛々は一層増幅される。
やがて、男のまわりに烟が殊の外もうもうと立ち込めてきた。
いやに燻る莨だが――
みるみるうちに、男の輪郭が朧になって行く。
はて、これは一体?――そう思った途端、目の前から忽然と男も烟も消え失せ、ほんの今まで腰掛けていた石ばかりがそこに残った。
背中がぞわりとなって、体中の毛という毛が一本立ちするように思われる。
前を見ると、あの一本だった筈の道が幾筋にも分かれてあった。
あたりは一層暗くなる。冷たいものがぽつりと頬に落ちて来た。
<了>




