その廿一 楓
何かがちらりと目に入った。
その何かにふと気が取られるように思ったのだが、頭を正面からやや左後方にさっと振り向ける最中のことで、振り切った先、歩いている牝鹿の尻に目を留め、その鹿が斜面を登って行くのを見ているうちに、今度はこのところ気掛りに思っていることどもが頭によぎって来た。
「何たることだ。一体どうすれば……」
そう吾身に呟くと、思わず顔が引きつるように歪み、その渋面が吾ながらありありと見えるように思われた。
何たることだ……
すると、その一瞬のうちに、さっき目に入ったものが何だったのか、もう忘れてしまっている事実に気が付いた。
はて、さっきは何を認めて気を取られるように思ったのだろう。
そちらを見返してみたが、何も変わったものはない。
気が取られるような気持ちは、その時のままに反芻されるのだが、目に映ったのが何だったのか、どうしても、思い出すことが出来ない。
否、それどころか、その後に頭をよぎった気掛りについても、何だったのか判らない。平生己が何を気に病んでいたのかすら、最早掬い上げることが叶わないのである。
何でも、自分は楓の林の中にいた。
頭の中はどうも曖昧で片付かない。そうして、得体の知れない不安の念が、股の間から胸までわくわくと突き上げてくる。
紅葉の盛はすでに過ぎていて、枝の葉は少なく、地面には、朱を残しつつ朽ち色になった、縮れて乾き切った葉が堆積している。それらを、かさりかさりと踏みしだきながら進むのだけれども、自分の足を見れば乱緒の草鞋である。
そうして、葈の脛巾。括袴に着籠んだ、垂領の水干。
青苧の生地も、菊綴や袖括の緒も、かなり汚れている。
さて、自分はさるやんごとなき辺りに随き従って来たように思うが、己の主がいかなる人であったやら、一切、思い当たらない。
どうにも曖昧で、それでいて、無性に落ち着かない。
ともかく、あの鹿の行くとおりに、行ってみよう。そう思って後を辿ったが、鹿の歩みは存外早くて、どんどん遠ざかって行く。
やがて、小さな垂水に行き当たった。鹿の姿は、とうに見失っている。
人の背丈ほどの高さから、水が二筋に分かれて落ちている。水が落ちる先には、平たい大きな岩が横たわっており、長年の滴下に依って二つの穴が穿たれている。水は落下するや否や穴から溢れ、岩の肌を滑り降り、細いせぜらきとなって、林の中を下って行く。
流れが右に大きく曲がる向う側に、疎らに蘚をおいた岩が見える。
見るともなしに見ていると、岩の上に、ぬっくと立派な鹿の角が現れ、やがて、その岩陰からゆらりと一頭の牡鹿が出て来た。悠然たる足取りで近付いてくる。これまで目にしたこともない大きな鹿である。馬などよりも、更に一回りほども大きいように思われる。
そう言えば、先程ちらりと目の端に認めて気を取られたのは、この立派な鹿の角ではなかっただろうか。
判然とはしないながらも、そう思い当たるような気がした。
そうして、よくよく見ると、鹿は背中に人を乗せている。
騎鹿と言えば、春日神――
途端に慄然となった。
何と畏れ多いことか――
敬意というよりも、むしろ怖ろしさの方が先に立った。がくがくとわななく膝をその場に折り、小さく蹲りながら、合掌した。どうにも震えが止まらない。
頭を垂れて目を瞑っているのだけれども、神々しい気配はますます大きく強く感じられる。蹄が朽葉や朽枝を踏みしだく音が、しいんとした頭に響いてくる。
足音は自分のかたわらに到るとぴたりと止み、息遣いのみが耳に入ってきた。
南無三宝……
途端に起こる高らかな哄笑――
「汝は、この儂を春日の神とでも思うたか?」
意地悪そうなしわがれ声。目を開け顔を上げると、嘲るように片方の口の端を吊り上げ、顰面をした男が立っている。自分よりは、二十、否、三十近く年長であろうか。胡麻塩の疎らな髭面に、深い皺が刻まれ、鬢にも随分白いものが混じっている。
牡鹿はすでに男のそばを離れ、林の奥へとゆっくり向かっている。男は鹿を追おうともしない。
この厭な顔はどこかで見たことがあるように思うのだが、思い出すことが出来ない。思案しているうちに、この男の身なりも自分と全く同じであることに気が付いた。ただ、水干を盤領に着ているところと、装束が真新しく、少しも汚れていないところが異なっている。
「汝は、なお、儂が憎いかの?」
どう返答したものだろうか? この男と自分との所縁もはっきりせぬのに、憎いも何もある筈は無いが、どうもむかむかする程、いけ好かないのは事実である。
「ほれ、これはどうぢゃ?」
男が懐から、帖紙に包んだ何かを取出した。
「唐菓子ぞ。食うたことなど無かろう? 旨いぞよ。あの童もさぞ食いたかったろうにの」
唐菓子、唐菓子、そして、童……
何か思い出しそうなことがあるのだが、頭の中を探ってみても、どうも、白い混沌に包まれていて、現れてこない。
否、慥か……
――「お赦されませ、お赦されませ」
童が奥から走って来る。しかし、あっと言う間に資人達に取押さえられ、その後、東対の、階の無い、北庇の下に引出された。
あの御簾の向うには、弟姫君がおわすと言う。御簾の前には、取次の女房の姿がある。
「とくとく、打てと仰言せぢゃ」
鉄漿を付けた口が、つけつけと命じた。
笞を手にした資人の長上は、何とも厭な笑みを浮かべて――
ああ、この顔は――
憶い出した。
鹿に乗って現れた漢は、長年にわたって自分の長上であった者である。
漢が童をしたたか打ち据える。
何でも、折敷の中の唐菓子に童が手を伸ばしかけたところを、たまたまその場にお出ましになった弟姫君に見咎められたのだと言う。
慌てふためいた挙句、思わず逃げ出してしまったのだったが、捕えられてこのような仕儀に。
年端も行かぬ子供が、見たこともない珍しい食べ物に思わず惹かれたのに違いない。不行状には違いないが、手も触れていないものを、ここまでせねばならぬものか。
「さらさらに攻めよかしとぞ仰言せなる。いとど、打ち侍れ」
憎々しげに鉄漿の闇が動く。
それを受けて、皴深い、漢の顔が嬉しそうに歪む。
童は、一頻り金切り声を挙げて赦しを乞い、打たれるたび苦痛に身悶えしていたのだが、しだいに息も絶え絶えに反応が無くなって行った。
それでも、もう止めよとは仰言せにならぬ。
放埓にて、性無き姫とは思っていたが、かくまで酷薄なるご気性とは知らなかった。
それら一連のありさまを、為す術もなく、離れた所から眺めていた……
そうだった。憶い出した。
そして、この漢の常日頃の所業のさまも全て頭の中に甦って来た。
このような輩を、先程は神と間違えて拝んだとは、何たることだ。
そうだ。あの時――
童は打たれるままに意識を失い、遂には息を引取ったのであった。
忽然と吾が襟懐を瞋恚が突き上げる。
周囲には誰も居ない。やるなら今だ――
どうしてそのような衝動に駆られたのか、吾ながら道理に合わぬようにも思われるのだが、吾知らず太刀を引抜いて斬掛っていた。
しかし、白刃は空を斬るばかり。
そこに輩の姿は無い。
「詮無きことを―― 愚慮にも程がある」
はっと振り返ると、輩がにやにやと、唐菓子を頬張っている。
そこに再び太刀を振下ろした――
童が打擲された日から数日後、弟姫君が初瀬に参詣になることになった。随従に侍うよう仰せつかった数人のうちに、自分のみならず、あの輩も選ばれていた。
気が進まないながらも、命であれば仕方がない。
海石榴市の宿では、弟姫君の守護を行うことになった。階の下にもう一人の資人と控えていたところ、夜が更けるにつれて、相手が次第に舟を漕ぎ始めた。そのたびに、起こすのだが、しばらくすると、またうとうと。どうにも切りがない。しまいには、放っておくことにした。
夜ともなれば、涼しさが勝る季節となり、虫の声が響き渡っている。
それを黙然と聞いていた。
随分と更闌けて、十日の月が沈もうとしている時刻、ふとその月影に目を遣ったら、はっと胸裡に或る念が浮かんだ。
いったんは、それを振払ってみたが、どうしてもそこから逃れることが出来ない。
それで、傍輩の様子を見ると、すっかり寝入ってしまっている。
草鞋を履いたまま、膝を使ってそっと階を昇り、恐る恐る上を窺うと、宿直の女房も、几帳の脇に臥して軽く鼾を搔いている。
今だ。今しかない――
四つ這いになり、音を立てぬようしずしずと几帳の裡に回ったところ、思った通り褥に弟姫君の寝姿を認めた。
豊かな髪に白皙の面。
普段は直接目にすることが憚られる尊容を間近に拝し、まじまじとうち眺めた。
あと二、三年もすれば、怖ろしいほどに麗しくおなり遊ばそう。その麗しさこそが、こののち一層、酷薄の刃を研ぎ澄ます因縁ともなるやも知れぬ。
今だ。やるしかない――
今にして思えば、その時どうしてそのような衝動に駆られたのか、吾ながら道理に合わぬようにも思われるのだが、懐中していた刺刀をそっと抜き、片手で姫の口を押さえると同時に、衾の上から胸の辺りに四、五回ほども突立てた。
声もなく、ほとんど身動きも召されなかった。
そのまま卒去れたものと見える。
自分は、枕許にあった螺鈿蒔絵の匣を懐に入れると、急いでその場を立ち去った。
匣の中には、紅い珊瑚樹の枝が入っていることを、自分は知っている――
――輩に振下ろした太刀は、再び空を斬った。
気が付くと、輩の姿は自分の右横へと移っている。
「汝は、童の仇でも取りたかったのか? それで主殺しに及んだか?」
そうだ。あのように酷い話はない。無慈悲には無慈悲で酬いるのみ。
「否、汝はあの珊瑚樹が欲しかっただけであろ?」
そんな筈は断じて無い。
無慈悲には無慈悲で酬いるのみ――
「ならば、何故、匣を持ち去った? 今も己が懐にあろう?」
はっとして、水干の上から左手で押さえてみると、慥かにそこにあった。
「汝は、年頃、その珊瑚樹を狙うておったに相違あるまい?」
深い闇の淵に突き落とされたように思われた。
慥かに、そうであったのかも知れぬ。自分は、かなり以前から、蒔絵の匣と珊瑚樹を見知っていた。
これを奪うに、童の一件を口実にしたのではなかろうか――
そう思い当たると、吾ながら自らの浅ましさに慄然となった。
否々、そんな筈は無い、そんな筈は無い――そう、吾が胸に繰返しつつも、肚の底では、己の瞞着に嫌気を覚え始めていた。
「こなくそ!」
今度は刃を横様に薙いだ。
輩はひらりと高く跳び上がり、何とあろうことか、垂水の上に姿を移した。
「そうして、汝は儂をも殺したのであったな」
そうだった。
あの時、抜身を握りしめたまま遁げるところを、この輩に見られたのだった。
輩は腕組みをして立ちはだかり、一部始終を見ていたと告げた。そうして、匣を渡せと言ってきた。そうすれば、逃がしてやるとも。
宛てにはならぬ。手中の鞘巻を眉間に投げつけ、怯んだところを、太刀を抜き放って斬り伏せ、趨去った。
輩にしてみれば、平素の圧倒的な力関係から、よもや刃を向けられるなど、思いもしなかったであろう――
その輩に、垂水の上から見下ろされている。
「放免も放たれよう。汝も永くはあるまい」
片方の口の端を吊り上げ、忌まわしい表情でそう言い放ったと思ったら、たちまち輩の額が割れ、血を噴いた。剰え、左肩から右脇へと袈裟懸けに水干が裂け、見る見る血が滲んだ。
黒々と、したたかに――
あの時の様子、そのままである。
はっとしているうちに、輩の姿は忽然と消え、その代わりに、ゆらりと、あの立派な牡鹿の姿が垂水の上に現れた。
大槻の枝のような角を振り立て、無表情に自分を見下ろしている。
目の色は冷たく、どこまでも深い。
飄風が起り、楓の葉が舞上り、舞散る。
鹿の上にも、自分の上にも――
紅葉の朱。珊瑚樹の色も亦、斯くや?
降頻る紅葉の中、神寂る瞳に見下ろされている。
何と畏れ多く、怖ろしいことか――
がくがくと震える膝をその場に折り、蹲りながら、固く固く手を合せた。
神々しい気配が、じっと自分を見据えている。
頭を垂れ、しっかりと目を瞑っているのだが、気配はますます大きく強くなる。まるで万代に亘る己の宿業が焙り出されているようにも感じられた。
神々しい瞳に、じっと見られている。
厳そかに冷たく、深く、そして由々しい。
四囲に降り積む楓の葉――
<了>




