↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
21/27

その十九 名

 何でも路地を步いてゐた。

 角を曲がる度に、四つ目垣や生垣や板塀(いたべい)の向かうに百日紅《さるすべり》の花が現れる。

 花の多くは淡い紫や桃色であつたが、軈《やが》て其《それ》が炎のやうな緋色《ひいろ》に變《か》はり、遂《つい》に白い花がぱつと目に飛込んだと思つたら、路地は茲(こゝ)で盡《つ》き、幅(はゞ)五閒《ごけん》許《ばか》りの廣《ひろ》い道に出た。


 大通《おほどほり》にも人影は全く見當《みあた》らない。道の片側は、長い煉瓦塀(れんぐわべい)が續(つゞ)いてゐる所に、白雲木《はくうんぼく》の竝木《なみき》が冷たい數珠《じゆず》の實《み》を埀《た》らして列《なら》んでゐる。

 風は無い。


 塀の內側はどうやら癲狂院《てんきやうゐん》らしい。


 最后《さいご》に見た百日紅の白が、何時迄《いつまで》も眶《まぶち》に映つて去らない。其色合《そのいろあひ》が、愈々(いよいよ)判然《はつきり》感ぜられる程に、何だか片附かない心持になつた。


 さうだ。あの時、人死《ひとじに》があつたのだ。慥《たし》かあれは――


 天道《てんたう》は眞上《まうへ》からかんかんと照付け、地面からは熅《いきれ》が盛んに上がる。

 人目も厭《いと》はず、着流しの單衣《ひとへ》の尻を絡《から》げ、だらしなく寛《くつろ》げた胸を、二、三本骨が折れ、破れかけた古扇子で盛んに煽《あふ》ぎ乍《なが》ら、竝木《なみき》の蔭を傳《つた》ふのだが、カンカン帽の內側はすつかり汗となり、額や首筋を何度も拭つた手拭《タウヱル》は搾《しぼ》る程にじつくり濡れてゐる。


 あの記憶が次第に鮮明に蘇《よみがへ》つて來る――人は生まれたからには死ぬるものである。夫《それ》を避ける事は何人にも叶はない。

 然《しか》るに、あの時は思ひも寄らぬ折に思ひも寄らぬ人が死んだのだ――其時《そのとき》の光景やら自身の襟懷《きんくわい》やらを、余《よ》は何度も反芻《はんすう》し憮然《ぶぜん》となつて步いた。


 其裡《そのうち》に煉瓦塀(れんぐわべい)が途切れ、何時《いつ》の閒《ま》にかに竝木《なみき》も南京櫨《なんきんはぜ》に入變《いれかは》つたと思つたら、突然に背後から、がらがらと大きな音が聞えた。

 脇に避《よ》けると、一臺《いちだい》の俥《くるま》が余《よ》を追拔《おひぬ》いて、七、八閒(けん)先の楠《くすのき》の蔭で急に停まつた。

 轅《かぢぼう》が下《さが》つて、やをらに紳士が降立《おりた》つ。山高帽《やまたかぼう》が持上《もちあが》り、やあやあと男が會釋《ゑしやく》しつゝ近附いて來る。

 白つぽい生地に細縞《ほそじま》が這入《はい》つた、麻の涼し氣《げ》な縮織(ちゞみ)に仙臺平《せんだいひら》を着け、絽《ろ》の夏羽織とは、中々に勿體振《もつたいぶ》つた風體《なり》だが、能々(よくよく)見れば何とはなしに見覺《みおぼ》えがある――慥《たし》か、地方の高等學校の學生だつた時、寮で同じ階に居た人である。親しい友人といふ程ではなかつたが、まあ、互ひに顏は知つてゐるし、言葉を交した事も當時《たうじ》何度かあつた筈である。

 余は、帽を脫ぎ、今一度汗を拭ふと、帶に挾《はさ》んだ裾を下して、いさゝか衿を直した。


「やあ、久振りだね。――水川君」


 渠《かれ》は朗らかな聲《こゑ》で再び帽を擧げてみせると、品のある金緣《きんぶち》眼鏡の奧を細め、整つた髭の口許《くちもと》を寛《くつろ》げて、滿面の笑《ゑみ》を此方《こちら》に向けた。


「本當《ほんたう》に…… でも――、僕は水川ではなく水口だよ――」

「――やゝ、是《これ》は失敬…… 水口君だ。さうだ、水口君だつた。――實《じつ》に失敬したね。赦《ゆる》して吳給《くれたま》へ」

「否何《いやなに》……」

「時に君は、先刻《さつき》から一心に步いてゐる樣子だつたが……? 何處《どこ》かに行く途中かね? ――今日は又隨分暑いね…… 彼方《あすこ》の木蔭に移らうぢやないか――」


 二人竝(なら)んで楠《くすのき》の方へ――所で、余《よ》は此炎天《このえんてん》に何處に向かつてゐたのだつたか――

 隣の男が、顏を橫に向け乍《なが》ら重ねて問掛ける。


「今君は何をしてゐるのかね?」


 はて……?

 一體《いつたい》、余は何者なのか――

 懷《ふところ》を探つてみると、汗に濕《しめ》つた紙入が出て來た。中には、幾許《いくばく》かの札《さつ》と名刺と――

 さうだつた、自分は――


 木蔭に這入《はい》ると、友人に、名刺を差し出した。

 渠《かれ》は受け取つて、人差指と親指で其《それ》を摘まみ、矯《た》めつ眇《すが》めつし乍ら、少しく風に煽《あふ》ぐやうな素振《そぶり》を見せた。

 さうだ、名刺も些(いさゝ)か濕つてゐたのだつた――どうも氣が引けるやうに思はれたが、余も友人も、名刺と水分との紐帶については一言も觸《ふ》れない。


 木蔭の隅《すみ》の方で、車夫が日に灼けた顏や頸《くび》の大汗を汚い手拭で拭き乍ら、怪訝な顏をして余の風體《ふうてい》をじろじろと檢分してゐる。


「逸文堂《いつぶんだう》――? あゝ、『逸文錄《いつぶんろく》』といふ雜誌の……」

「さうさう…… 僕はね、其編輯《そのへんしふ》に一寸《ちよつと》加はつて遣《や》つてゐるのだよ。――極々偶(たま)には、僕も何か書いたりもしてゐるのだがね……」

「さうかい。それは、好いね。――さうだ、學校でも君は文科だつたね。今度僕も雜誌を買つてみよう。君の書いたものを是非讀んでみたいね」

「――あゝ、さうかい。難有《ありがた》う。但(たゞ)、僕は色々な號《がう》を遣《つか》つてゐるからね……」

「號? 例へばどんな?」

「豎子《じゆし》とか、丱角子《くわんかくし》とか、丱童《くわんどう》とか……」

「ふうん、成程《なるほど》、中々難しいね…… まあ、兔《と》に角《かく》買つて讀むよ……」

「羞《は》づかし乍ら、大したものは、僕なんぞに書かれる筈も無いのだが……」

「否々(いやいや)、謙遜し給ふな―― 然《しか》し、何だね…… 學校の時は、君は氣の毒だつたね…… 慥《たし》か、あの時、體《からだ》を壞《こは》して、大學には進まなかつたのでは無かつたかね?」


 あゝ、さう來たか――厭《いや》な事を訊《き》くものだ。剩《あまつさ》へ、友人は余から少し距離を取るやうな風をした。


「さうさ、大學には行かれなかつた。結句、學士樣には及びも附かずさ」

「まあ、幾《いく》ら學問をした所でね、論語讀みの論語知らずとも云ふからね…… まあ、今、書肆《ほんや》に勤め、雜誌の編輯にも關(かゝは)り、物書《ものかき》もしてゐるのなら大丈夫だよ」

「ふゝん…… どうにか、かうにかさ。僕も口を糊《のり》しなけれあならないからね……」

「まあ、あれ程の病氣をしても、今現在、身を立てゝゐるのが立派だよ…… 今はもう胸は可《い》いのだね? 咳も出ないやうだし……」

「あゝ、どうにかね……」


「僕はね―― 今、こんな事を遣つてゐてね……」と友人が名刺を出してきた。

 差出された夫《それ》には、或有名な銀行の名の下に、副頭取とあつた。


「これあ、隨分大層だね」

「否、まあ、御蔭樣でね…… どうだね、近々(ちかぢか)一獻《いつこん》差上仕《さしあげつかまつ》らうぢやないか、久闊《きうくわつ》を敍してね。――もう、體《からだ》も大丈夫なんだらう? あの頃は、御互ひに大いに吞んだものだね。尤《もつと》も、酒は赤酒、肉は馬肉だつたが……」


 さう云ふと、友人は愉快さうに笑つた。

 はて、さうだつたゞらうか? 余はこの人物と酒席を共にした事があつたのだらうか?


 友人は帶から金鎖の袂《たもと》時計を取出し、ちらりと見た。


「ぢやあ、僕は之《これ》から行く所もあるものだから…… 其裡《そのうち》、君の會社《くわいしや》にでも連絡するよ。――安心し給へ、今度は、馬肉に赤酒なんぞでは無いからね――」


 さう笑ひ乍ら渠《かれ》は再び車上の人となつた。


「では失敬。又今度――」


 快活な友人の表情とは対照的に、車夫が蔑むやうな目附で此方《こちら》を一瞥する。さうして、ゆるゆる俥を囘《まは》して方向を定め、徐《おもむろ》に走り始めた。

 其去つて行く所を一頻(ひとしきり)見送つてから、貰つた名刺を見返してみた。


 木蔭には心持の好い風が吹き込み、汗を冷やし、少しく乾かして行くらしい。

 樹上では、わしわしわしと壯《さかん》に蟬が鳴いてゐる。

 其喧《そのやかま》しい聲さへ、寧《むし》ろ涼しく感ぜられる。


 名刺には、野閒兼二郎とあつた――「野閒兼二郎」?


 其文字《そのもんじ》を目でなぞつてゐたら、どうも違和感が募つて來た。

 慥かにあの顏には見覺えがあつたやうだが、「野閒兼二郎」なる名は、予《かね》て記憶に無い――


 野閒兼二郎…… 野閒兼二郎……


 さう考へてみると、果してあの顏迄《かほまで》も――?


 余には、何もかも全てが曖昧模糊として、輪郭が暈《ぼや》けて來るやうに思はれた。


 慥かに見識《みし》つてゐると思つてゐた顏、更には今迄其處(そこ)にあつた眼鏡に髭の容貌《かほつき》すら、今となっては、どうも判然《はんぜん》としない。其已《それのみ》ならず、四圍《あたり》の景色も此炎天《このえんてん》も――蟬の聲の響(ひゞき)すら、段々と遠離るやうに――




                         <了>





評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。