その十九 名
何でも路地を步いてゐた。
角を曲がる度に、四つ目垣や生垣や板塀の向かうに百日紅の花が現れる。
花の多くは淡い紫や桃色であつたが、軈て其が炎のやうな緋色に變はり、遂に白い花がぱつと目に飛込んだと思つたら、路地は茲で盡き、幅五閒許りの廣い道に出た。
大通にも人影は全く見當らない。道の片側は、長い煉瓦塀が續いてゐる所に、白雲木の竝木が冷たい數珠の實を埀らして列んでゐる。
風は無い。
塀の內側はどうやら癲狂院らしい。
最后に見た百日紅の白が、何時迄も眶に映つて去らない。其色合が、愈々判然感ぜられる程に、何だか片附かない心持になつた。
さうだ。あの時、人死があつたのだ。慥かあれは――
天道は眞上からかんかんと照付け、地面からは熅が盛んに上がる。
人目も厭はず、着流しの單衣の尻を絡げ、だらしなく寛げた胸を、二、三本骨が折れ、破れかけた古扇子で盛んに煽ぎ乍ら、竝木の蔭を傳ふのだが、カンカン帽の內側はすつかり汗となり、額や首筋を何度も拭つた手拭は搾る程にじつくり濡れてゐる。
あの記憶が次第に鮮明に蘇つて來る――人は生まれたからには死ぬるものである。夫を避ける事は何人にも叶はない。
然るに、あの時は思ひも寄らぬ折に思ひも寄らぬ人が死んだのだ――其時の光景やら自身の襟懷やらを、余は何度も反芻し憮然となつて步いた。
其裡に煉瓦塀が途切れ、何時の閒にかに竝木も南京櫨に入變つたと思つたら、突然に背後から、がらがらと大きな音が聞えた。
脇に避けると、一臺の俥が余を追拔いて、七、八閒先の楠の蔭で急に停まつた。
轅が下つて、やをらに紳士が降立つ。山高帽が持上り、やあやあと男が會釋しつゝ近附いて來る。
白つぽい生地に細縞が這入つた、麻の涼し氣な縮織に仙臺平を着け、絽の夏羽織とは、中々に勿體振つた風體だが、能々見れば何とはなしに見覺えがある――慥か、地方の高等學校の學生だつた時、寮で同じ階に居た人である。親しい友人といふ程ではなかつたが、まあ、互ひに顏は知つてゐるし、言葉を交した事も當時何度かあつた筈である。
余は、帽を脫ぎ、今一度汗を拭ふと、帶に挾んだ裾を下して、いさゝか衿を直した。
「やあ、久振りだね。――水川君」
渠は朗らかな聲で再び帽を擧げてみせると、品のある金緣眼鏡の奧を細め、整つた髭の口許を寛げて、滿面の笑を此方に向けた。
「本當に…… でも――、僕は水川ではなく水口だよ――」
「――やゝ、是は失敬…… 水口君だ。さうだ、水口君だつた。――實に失敬したね。赦して吳給へ」
「否何……」
「時に君は、先刻から一心に步いてゐる樣子だつたが……? 何處かに行く途中かね? ――今日は又隨分暑いね…… 彼方の木蔭に移らうぢやないか――」
二人竝んで楠の方へ――所で、余は此炎天に何處に向かつてゐたのだつたか――
隣の男が、顏を橫に向け乍ら重ねて問掛ける。
「今君は何をしてゐるのかね?」
はて……?
一體、余は何者なのか――
懷を探つてみると、汗に濕つた紙入が出て來た。中には、幾許かの札と名刺と――
さうだつた、自分は――
木蔭に這入ると、友人に、名刺を差し出した。
渠は受け取つて、人差指と親指で其を摘まみ、矯めつ眇めつし乍ら、少しく風に煽ぐやうな素振を見せた。
さうだ、名刺も些か濕つてゐたのだつた――どうも氣が引けるやうに思はれたが、余も友人も、名刺と水分との紐帶については一言も觸れない。
木蔭の隅の方で、車夫が日に灼けた顏や頸の大汗を汚い手拭で拭き乍ら、怪訝な顏をして余の風體をじろじろと檢分してゐる。
「逸文堂――? あゝ、『逸文錄』といふ雜誌の……」
「さうさう…… 僕はね、其編輯に一寸加はつて遣つてゐるのだよ。――極々偶には、僕も何か書いたりもしてゐるのだがね……」
「さうかい。それは、好いね。――さうだ、學校でも君は文科だつたね。今度僕も雜誌を買つてみよう。君の書いたものを是非讀んでみたいね」
「――あゝ、さうかい。難有う。但、僕は色々な號を遣つてゐるからね……」
「號? 例へばどんな?」
「豎子とか、丱角子とか、丱童とか……」
「ふうん、成程、中々難しいね…… まあ、兔に角買つて讀むよ……」
「羞づかし乍ら、大したものは、僕なんぞに書かれる筈も無いのだが……」
「否々、謙遜し給ふな―― 然し、何だね…… 學校の時は、君は氣の毒だつたね…… 慥か、あの時、體を壞して、大學には進まなかつたのでは無かつたかね?」
あゝ、さう來たか――厭な事を訊くものだ。剩へ、友人は余から少し距離を取るやうな風をした。
「さうさ、大學には行かれなかつた。結句、學士樣には及びも附かずさ」
「まあ、幾ら學問をした所でね、論語讀みの論語知らずとも云ふからね…… まあ、今、書肆に勤め、雜誌の編輯にも關り、物書もしてゐるのなら大丈夫だよ」
「ふゝん…… どうにか、かうにかさ。僕も口を糊しなけれあならないからね……」
「まあ、あれ程の病氣をしても、今現在、身を立てゝゐるのが立派だよ…… 今はもう胸は可いのだね? 咳も出ないやうだし……」
「あゝ、どうにかね……」
「僕はね―― 今、こんな事を遣つてゐてね……」と友人が名刺を出してきた。
差出された夫には、或有名な銀行の名の下に、副頭取とあつた。
「これあ、隨分大層だね」
「否、まあ、御蔭樣でね…… どうだね、近々一獻差上仕らうぢやないか、久闊を敍してね。――もう、體も大丈夫なんだらう? あの頃は、御互ひに大いに吞んだものだね。尤も、酒は赤酒、肉は馬肉だつたが……」
さう云ふと、友人は愉快さうに笑つた。
はて、さうだつたゞらうか? 余はこの人物と酒席を共にした事があつたのだらうか?
友人は帶から金鎖の袂時計を取出し、ちらりと見た。
「ぢやあ、僕は之から行く所もあるものだから…… 其裡、君の會社にでも連絡するよ。――安心し給へ、今度は、馬肉に赤酒なんぞでは無いからね――」
さう笑ひ乍ら渠は再び車上の人となつた。
「では失敬。又今度――」
快活な友人の表情とは対照的に、車夫が蔑むやうな目附で此方を一瞥する。さうして、ゆるゆる俥を囘して方向を定め、徐に走り始めた。
其去つて行く所を一頻見送つてから、貰つた名刺を見返してみた。
木蔭には心持の好い風が吹き込み、汗を冷やし、少しく乾かして行くらしい。
樹上では、わしわしわしと壯に蟬が鳴いてゐる。
其喧しい聲さへ、寧ろ涼しく感ぜられる。
名刺には、野閒兼二郎とあつた――「野閒兼二郎」?
其文字を目でなぞつてゐたら、どうも違和感が募つて來た。
慥かにあの顏には見覺えがあつたやうだが、「野閒兼二郎」なる名は、予て記憶に無い――
野閒兼二郎…… 野閒兼二郎……
さう考へてみると、果してあの顏迄も――?
余には、何もかも全てが曖昧模糊として、輪郭が暈けて來るやうに思はれた。
慥かに見識つてゐると思つてゐた顏、更には今迄其處にあつた眼鏡に髭の容貌すら、今となっては、どうも判然としない。其已ならず、四圍の景色も此炎天も――蟬の聲の響すら、段々と遠離るやうに――
<了>




