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その十五 貓

 酒肆みせに這入るや、女給おんなは僕から目をらした。

 卓子テーブルに呼んでもらうと無理に笑顔を作って酌をした。


 始めは天気がどうだとか言っていたが、やがて水口の話ばかりをし始めた。


 僕が水口は死んだよと告げると、一瞬ぎょっとしたような表情になったが、直ぐに何でも無い様子で、水口との思い出話を繰返した。


 水口の死因について僕はあえて口にしなかったが、不思議にも女給おんなも訊こうとしない。

 支那蕎麦がどうだの、そういった他愛もないようなことばかりを繰返している。


 その目と言ったら、僕を見ているようで見ていない。僕を通して、その奥の更に奥にある、遠くの何かを追っているのがありありと判る。

 そうして、その目をよくよく観察してみると、瞳の位置がしっかりと定まらずにふらふらと眼振を呈しているのである。


 きわまれり――そう、僕は思った。もう、後戻りはできない。


 そのうちにビールの瓶が空になる。何か追加するかと女給おんなが訊く。

 さて、何だろう。電気ブランでもいいのだが、今夜はアブサントの方が僕の気分に合うようだ。


 女給おんなは、細かに震顫しんせんする瞳で僕の背後を見透みとおしながら、貓に関する猟奇的な話を始めた。唇の端に薄笑いすら浮かべながら。

 何でもその話は水口がしたのだという。


 はて――と僕は思った――果してそうだろうか?


 一体、女給おんなの周囲には、虚実綯交(ないま)ぜになったような話が多かった。

 噂話もたくさんあった。

 その一つに、もともとは堂上華族の令嬢だったのが落ちぶれたのだというものもあったが、或る友人などは、とんでもない、そうやって自分に箔を付けているだけさと言下に否定した。


 そのことをふと思い出し、貴顕の筋には屋台の支那蕎麦なんぞ到底口には合うまいねと、出自に水を向けたところ、やんわりとはぐらかした。

 それでいて、決して否定はしない。


 或いは、実は水口がねといよいよ本題に触れようとすると、言掛けた僕の言葉に自らの言を被せて、話頭を転じようとする。


 女給おんなは、自らは進んで水口に言及しながら、僕が水口の話をするのは、どうも不都合だと思っているらしい。

 まあ、それも判らぬでもない。けだし、見透かされているのだ。

 それだからこそ、あんなに震えている。


 僕は、これからどういう方便で女給おんなを誘い出し、水口のところへ連れて行こうかと思案していた。

 そうすると、気脈が通じるものか、いよいよ不安そうな表情をする。

 その癖、口許くちもとにだけは薄笑いを浮かべながら、仔貓こねこの脳味噌などという言葉を口にしたりもするのである。


 僕も段々調子に乗って、史記や資治通鑑にあるその類の逸話や、子路の死に際して、孔仲尼がししびしおくつがえして、以後二度と口にしなかったという話を持出したところ、黙ってそれを聞いていたのが、聖人とは言え矢張りそれまでは食っていたと見えるねと呟くと、見る見る顔面が蒼白になって行くのが分った。


 僕が葉巻の吸口を切るために、小さなナイフを取り出すと、それだけでも非常に慌てたような風であった。


 ああ屹度、今も僕の後ろに見えているのだろう。

 早く二人を一緒にしてやらねば――そのとき、僕はますますそう堅く決心した。




                         <了>



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