その十四 魚
歩いていた。
何でも歩いていた。随分と歩いてきたようにも思われる。
ただ、どこから来たのか判らない。どこへ行くのかも判らない。
辺りは朧で、あまりはっきり霽れ渡ったような印象ではなかったけれども、決して暗くはなかったので、夜ではなかった。
今から考えると、どうやら午後のように思われた。夕方近くだったのかも知れない。
そうやって、歩いていたと思ったら、人の家の庭のような所に這入り込んでしまっていた。庭には何やら観賞用の植物が植わっていた。
今から思えば、普通の草花ではなかった。白っぽい木耳のような姿をしたものが、足下に整然と並んでいた。
それを踏んではいけないと思うのだけれど、その庭というのが、片側が崖のようになった極めて細く狭い土地で、そこら中におびただしく白けたような植物が並んでいる。それこそ、足の踏み場もないようなありさまだったので、思わずその幾つかを踏みつぶしてしまったのかも知れない。
このようなところを家の人に見られたらどうしよう。申し開きもできないだろうに、もと来た往来に早く戻らなければと胸の底がわくわくするのだけれど、自分がこの家に紛れ込んでしまった道筋が、どうにもはっきりしない。
どこからここに這入ったのだろうか。あちこち探すのだけれども、その入り口がどうにも見当たらない。
どうやら、これは崖のようになっている斜面を下って行かなければ、到底外には出られないような気がしてきた。
それで、できるだけ傾きが緩やかな場所を探り探り降りてゆくのだけれど、まだ幾らも降りていないのに、家の窓の奥が何やらひらりとしたようで、家の人に気付かれたかも知れないと、はっとした。
余計に気持ちが焦って急いで降りようとするのだけれど、足下がどうにも覚束ない。
家の人が自分を追掛けてくるのではないだろうか、そう思うとどうにもいたたまれない。いたたまれないけれども、なかなか思うように足は進まない。
下を見ると、広々と平らに開けた土地で、舗装も何もなく、赤茶けた土がむき出しになって広がっている。そのさらに遠く向うの方は、海だろうか、湖だろうか、何だかよく判らないが、何やら鉛色に水光りしているように見えた。
恐る恐る斜面を下っていると、下の開けた土地に一つ二つ人影が見えた。ひょっとすると、あの人に自分が他人の庭にいたことを見とがめられたのではなかろうか。気持ちがひやりとしたけれども、ここを降りて行くより外に仕方がない。
果して下に降り切ってみると、辺りは妙に埃っぽかった。しかし、ところどころにじくじくとぬかるんだような場所がある気がした。木や草など、植物らしい緑はどこにも見えなかった。遠くに、黒っぽい小屋掛けのようなものがいくつか見えて、そこが何やら作業をする場所のようにも思われた。
あたり一面、何やら赤茶けた印象で、空も同様の色合いだった。霽れているのか、雲っているのかも判然としない。
そうこうしているうちに、先程下の方にちらりと見えた人が、自分のそばまで近づいていた。
藍が黒ずんだような色の継の当たった野良着を着ている。それを横目に、内心びくびくしながら、素知らぬ顔で通り過ぎようと思っていると、案の定声を掛けられた。
「あんた、あそこにおったでしょう」
「はい」
「わしは、こっから見とったがいね」
やっぱり見られていた。
何やら悪事が露見してしまったような気がして、股の間から腸にわくわくした動揺が突き上げてくるように思われた。
「何やら、知らんうちに、迷うて行ったです」
思わず、その人の訛に合わせるような口調になって、そう弁明をしたのだが、到底信じてはくれまいと肚の底では思っていた。
「そうですかいね……」
そう言いながら、その人はどこから取り出したのだろうか、手に魚の干物のようなものを持っていた。少し炙ってあるらしい。
それを裂いて自分の目の前に突き出した。
「ほれ、まあ、これえ、食べんされ」
「いえ、わしゃ、いいですけえ」
「えっと、まあ、そう遠慮されりゃんで……」
幾らか押し問答はしたように思うが、なんとかその場を切り抜けて、足早に立ち去った。ずんずん進んで行くと、やがて小屋のあたりに差し掛かり、そこを過ぎようとしたところ、陰にしゃがんでいた人が突然に起ち上がった。
「あんたぁ、あそこにおったがでしょう」
しわがれたような、大きな声が肚の底まで響く。
顔を見ると、さっき自分に声を掛けてきた男と見分けがつかないように思われた。今から思えば、この人は白っぽい麻のような粗い生地の小袖のようなものを着ていて、それが随分と薄汚れて、古びて見えた。
さっきの人が農夫だとすると、今度の人はどことなく漁師のような印象にも後知恵としては感じられる。
ただ、どちらにしても曖昧で、全般に区別はつけがたく、記憶自体がぼんやりとしている。
「あんたぁ、あっこがどげな所か分かっておりんさるかね? 危ない、危ない。あげな所に行っては、危のうがす……」
この人もさっきの庭のことを言っているのだなと判った。どうにも後ろめたく、いたたまれず、その場を走って逃げたいように思った。
「ほれ、ほれ――」
気が付くと、その人も魚の干物のようなものを裂いて、自分の鼻先に突き出していた。ぷんと饐えたような臭いがする。
ふと、この魚には何か毒があり、この男はそれを自分に強いているのではなかろうかと思われた。
「ほれ、ほれ、食べんされ」
自分は手のひらを相手に向け、必死に断ったが、その人はしつこくにじり寄ってくる。
「ほれ、ほれ」
自分は手のひらを広げたまま後退るが、思うように足が動かない。
ついにその人は、持っている干物を自分の手のひらに押付けてきた。
魚の骨だか、棘だかが、ちくちくと肌に刺さる。
ああ、これで魚の毒が体に回るかも知れない。
そう思いながらも、どうにも詮方なく、自分は必死で後退っていた。
<了>




