その十三 白
窓の障子を細目に開けて空を確かめた。
朝の絹雲がほつれて毛羽立っている。その色味をひとしきりじっと確かめた後、往来に目を移すと、褐衣に似た白装束の人が白い傘をさして歩いていた。
ああ、あの人が通るのだなと思った。
今日もあの人が通るのを眺めてしまった。お婆さんが「ならぬ」と言った、その禁をこっそり破り続けて、もう何年になるのだろう。
そう考えながら、白い傘が向うの角で見えなくなるまで、ずっと見送っていた。
そう言えば、自分はあの人の顔の様子をしかと見たことがない。細纓の冠の緌がぱっと広がる様子が、冠鶴の頭の毛さながらだといつも思うのだけれども、その緌に遮られて目見の様子が、どうも判然としないのである。ただ、何でも鼻筋が通っていて、先が少しく上向きになって尖った様子なのは、見て取れる。
その鼻筋の感じを頭の底に沈めつつ、
「ひとつ」
そうやって、また自分は日を数えるのであった。ひとつ、ひとつと重ねてきて、もういかほどになっているのか、暦に印を付けているのだけれど、とても見返す度胸は無かった。
何かが耳の穴を掠めた気がした。
ああ、お婆さんが呼んでいる。行かなくては。
急な梯子段を階下に降りると、お婆さんの皺だらけの顔に穴が開き、その穴がかすれた声で朝飯だと言った。
自分は黙って頷き、まずは仏様に線香を上げると、お婆さんと二人膳を並べて朝飯を食った。飯は黄色い粟飯で、まあそれはそれで我慢もしようが、今日も味噌汁はどんみりと黒かった。上方生まれの自分としては、白々とした味噌汁が所望であったが、この期に及んでそれは出来ぬ相談であることは、重々承知していた。重々承知はしていたけれども、それでも自分は心の芯の所で、白々としたお汁を呑んでみたいものだといつも念じていた。
半分ほど飯を食ったところで、ふとお婆さんが口を開いた。
「こなたは、そうやってもう早々に御膳に箸を付けておりゃるが、手水含嗽はお済みなりや?」
自分は目の端で皺の中に穴がまさに閉じ込まれようとするところをちらりと見たが、黙ってそのまま箸を動かした。
「七生の因縁とは言うたものだが、業の果てというもありやなしやじゃのう……」
そういった聞えよがしが終るか終らぬかの際に、自分はことりと箸を置いた。
粟飯はあらかた平らげてはいたが、味噌汁はほんの口を付けたばかり。何、かような濁り湯の惜しくもあろうかとすらり立ち上がり、さっさと梯子段を上って自分の部屋に入ると、後ろ手にぴしゃり戸を閉てた。
さて、机に向かって頬杖を突いてみたが、腹立ちもしばし盛りを通り越してみると、今度は何だかお婆さんが憐れに思われてきた。
血のつながりこそ無いと言っても、自分の大叔父の内儀殿の姉御前という縁の続きがある。お婆さんとて、そうした遠い係累を頼らなければ、他に親類縁者は無く、糊口の道は断たれてしまう。
考えてみれば、実に心細かろう。気の毒なことである。
自分にしても、親兄弟をとうに亡くして、懐に些少の余裕がある身なればこそ、遠いとは言え、結縁のつながりを無下にする訳にも行かない。
ただ、そうは言っても、毎日毎日のお婆さんの挙措動作、言葉の端々に見え隠れする自分に対する当て擦りのようなものを、笑ってやり過ごす気にもならぬ。
そんなことをとりとめもなく考えていたが、明日までに仕上げておかねばならぬ原稿があったことを思い出した。悠長にはしていられない。
気を取り直して、しばらく紙の桝目を眺めていたが、中々に最初の一文字が出てこない。あれこれ思い浮かびはするのだが、どうも、どれもこれもが気に入らない。
そのうち時計の鐘が九つ打った。
そうして、また一つ。
そのひとつを聞いてはっとした。そうすると、今度はするする筆が滑り始めた。耳の奧がしいんとして、それがまた心地よく、更に筆が進んで行った。
時計の鐘の十を数えたと思ったら、程なく今度は十一を打った。しかるに、十と十一の間にあった筈のひとつは、どうやら聞き逃していたらしい。
成程これならば、明日まで仕上げるに造作はあるまい、そう安堵しつつ面白く桝目を埋めていたら、何だか、梯子段がきしむ音が耳に入った。
とっさに厭な予感がした。胸がわくわくする。
「おりゃるかやい?」
下手糞なお婆さんの声色を使って、障子をからりと開けたのは藤七郎であった。
今日は、袴を着けている。その勿体ぶった恰好を一瞥したばかりで、無心に来たのが察せられた。
「すまんが、今仕事をしているのだ。何か用かね?」
「おや、そうだったのかい? それは申し訳なかったね……。君が一段落するまで、どら、階下でお婆さんと話でもしていよう」
「大事な用かね?」
「うむ――、まあ、そう大したことでもないのだが……。まあ、いいさ。御婆さんの所に行ってるよ。どうも、失敬したね」
そう言うが早いか、藤七郎は大きな音を立てて戸を開け閉てしたのち、さっさと梯子段を降りて行った。
出て行った後を見遣ったら、障子がずれて閉まっており、細い隙間が開いているところがある。
藤七郎らしい杜撰さに、舌打ちしたくなる気持ちを吞み込んで、障子を直しに起ち上がった。
どうも、実に忌々しい。
再び机に向かったが、精神の状態が大きく変じたことから、またもや一向に筆が進まなくなってしまった。それに、先程長い間同じ姿勢で胡坐を掻いていたため、腰やら膝やらがどうもしくしく痛む。
「えい、くそ」
自分は床の間の隅から莨盆を取って来て、庭に面した窓を開けると、框に腰を掛け紙巻を一服吸い付けた。
烟が外にゆっくりと流れて行く。
それを目で追いながら、その先にある庭の木々を眺めていた。
欅はもう随分と葉の色が変わっている。一方、常緑の椨の木は相変わらず青々と暗い葉を茂らせている。しかし、よくよく見れば、一部に色褪せた病葉があり、虫食いのような破れも認められた。
また、数日前から、山茶花が咲き始めているが、今日も四、五輪の、白にごく一部のみ紅の筋をまとった大理石のような花が見受けられた。遠目には美しくもあるが、しかし、それらも仔細に点検すると、花弁がところどころ土色に変色している。
そうだ。いずれを見ても、真相の如き全きものは一つも無い――つくづくとそう感じられた。
さて、そうやってしばらく庭に目を遣っていたが、胸裏の苛々は一向に治まらなかった。
最早一字たりとも、書ける気がしない。
「えい、くそ」
仕方がない。藤七郎を呼んで、さっさと用件を済ませて帰ってもらおう。
「藤さん、おい、藤さん、上がって来給え。何か話があるんだろう?」
梯子段の上から、そう声を掛けると、さっそく下に藤七郎の顔が現れ、笑みを作ってこちらを見上げた。
「もう、一段落付いたのかい?」
「いや、そういう訳でもないが、とにかく君の話を聞こう。上がって来給え」
頭を掻きながら、藤七郎が梯子段に足を掛けたのを見て、自分はさっさと窓の框に戻った。
気まずそうな顔つきで部屋に入ってきた藤七郎は、袴の裾を捌くと腰掛けている自分の足下に膝を折って、背筋を伸ばし端座した。
やはり、無心に違いない。
しかし、藤七郎の口から出てきたのは、上の田端の伸造さんが近頃飼い始めた牛の話だった。しばらくは我慢してそれを聞いていたのだが、藤七郎の話が一向に本題に入ってくる様子が無いのにしびれを切らし、
「藤さん、そうじゃないだろう。大事な話があるんだろう。それをさっさと話し給え。僕だって暇を持て余している訳ではないのだ」と極め付けた。
すると藤七郎は、一旦ぐっと下を向いて、ゆるり顔を上げたと思ったら、今度は堰を切ったように、このところ思った通り物事が運ばず、様々な日雇い仕事までを請け負っていること、色々と慣れぬ仕事にも精々努めて手許不如意を何とか解消しようとしたがどうしてもままならないこと、それで到頭、今度は恥を忍んで方々に頭を下げ、工面に走り回ったみたけれども、それでもどうにもならないことなどを、言葉の端々に何やら沢山の誤魔化しや言い訳やらを織り交ぜながら、くどくどと長広舌で開陳し、
「金輪際、君のところになんぞ、到底来られた義理ではないのは、分っている。分ってはいるんだが……」と言い淀みつつも、結句のところは、幾許かの金子を用立ててはくれまいかという趣旨の話を、実に回りくどい修辞法を用いて何度も何度も頭を下げながら訴えた。
この男、懲りもせずによくも同じ不義理を繰り返すものだ。全く苛立たしい。厚顔にも程がある――そう憤然となったが、一方では、そのような宿業の淵から逃れられぬ藤七郎が、どうにも憐れで気の毒にも思われた。
「分った。分りました。でもね、藤さん、今はいけない。僕にも無い袖は振れないからね。そうさな、どうか、三日待ってくれ給え。今書いているものの稿料が、三日後の木曜には僕の懐に入る手筈になっている。それを君に用立てよう。それで大丈夫かね?」
そう言うと、藤七郎は途端に破顔して、
「ありがたい。毎度毎度のことで、もはや見捨てられるかと思ったが、実にありがたい。正に、持つべきものはだね。恩に着るよ」とまくし立てた。
「分った、分った。それじゃあ、今日は帰ってくれるかね? 僕には仕事があるんでね。その仕事を済ませねば、君に一文も入らないのだからね」
そう厭味を言ったところ、折悪しく、階下からお婆さんのかすれ声が聞こえた。
梯子段のところまで行ってみると、
「鱒を三人分焼いたで、お昼にしよまい」と皺だらけの顔が、いつにも増して縮こまった風で、こちらを見上げていた。
普段僕には吝い菜しか出さない人が、今日に限って、しかもよりによって藤七郎などに塩鱒の切身を焼いて馳走しようというのだから、その料簡に釈然としなかった。わくわくと腹の底が波打つのを、押え付けながら、
「二人でどうぞ先に食べて下さい。僕はいいんです。僕にはまだ片づけなければならないことがありますから」といささか突慳貪な声を出すと、お婆さんは何やらしきりにもごもごと口を動かしていたが、藤吉郎の方は、
「済まないね。それじゃあ、先に呼ばれるよ」と、まるで何事も無かったような快活な調子で自分の横をすり抜け、階下に降りて行った。
「えい、くそ」
金をたかっておきながら、飯まで馳走になろうとは、どういう神経だろう――そう思っていると、階下から藤七郎とお婆さんが大きな声で談笑しているのが聞こえてきた。
「藤さん、お婆さん、静かにして下さい。僕は今、仕事をしているのですから」
あらん限りの声で怒鳴りつけると、途端にぴたりと静かになった。
しいんとして、物音ひとつ聞こえてこない。
今度はそれが却って気になって、机に向かいつつも一向に筆が進まない。
頬杖を左に突いたり、右に突いたり、立て続けに何本も紙巻を呑んでみたり、どうにもこうにもならずに呻吟しているところへ、突然障子がからりと開いたので驚いた。
敷居の向うにはお婆さんが跪坐の体で座っており、その傍らに膳がある。
「根を詰めておろうじゃによって、持って行ってやろまいと思うてな……」
「お婆さんが膳を持って梯子段を昇ったのですか? 危ないでしょう。無鉄砲にも程がある。藤七郎はどうしたんです? もう、帰ったのですか?」
「ああ、あの人か? 蓋し、そうじゃろうて」
「それにしても危ないじゃないですか、膳を抱えて梯子段を昇るなんて」
「それも、これもあれじゃて……。先刻の話じゃが――、こなたが忙しい思いをしとるところに済まぬことをしでかしてしもうたと思うてな……。それでじゃな、膳を持ってな。根を詰めて仕事をしておろうと思うたによって……。この年寄りがな、あのようなる急なる梯子段をば、よろよろと膳をば運んで昇って来たによって、どうか赦いてくりゃれ、赦いてくりゃれよ」
殊勝に小さくなっているお婆さんが途端に気の毒になったが、膳に目を遣ると、鱒の切身が真っ黒に焦げているのが目に付いた。
「お婆さん、魚が妙に黒いですがな?」
「ああ、そうかもあろうかな? わしらが下で食うたのはさまで黒うはなかったようじゃが、それは言われてみりゃあ、こやつは最も黒うておりゃるがな」
そういうお婆さんの受け答えが、著しく自分の癇に障った。もう、我慢がならない。
「お婆さん、随分なものですね……。全く、誰が稼いでいると思っている――時に、お婆さんはご存じか? ほら、あれですよ。見てはならぬとの仰せでしたがね。実はね、僕はずっと眺めていたのです。毎朝毎朝。ええ、あの白装束です。お婆さんは、ならぬと仰せでしたがね――」
まくし立てると、いつもは皺に隠れているお婆さんの双眸がかっと見開かれた。そうして、鼻と思しきところの下にも、皺の中から黒々とした穴がぽかんと穿たれた。まるで黄泉の穴である。
「白装束をな? 眺めておると……」
「左様です。お婆さんの設えられた禁を破って、毎日眺めておるのです。ご存じなかったでしょう?」
顔に穿たれた穴の縁がわなわな震えて、しきりに何かものを言いたげにしていたが、到頭一言一句出て来ず、代わりにため息が三つばかり漏れたのみであった。
「まあ、どうか御膳をお上り。わしは下に行っとるで――」
いつもよりいっそうかすれた声でそうつぶやくと、開けた障子のあとを閉めることもせずに、壁に手を伝わせ伝わせ、よろよろと梯子段を降りて行った。自分はその背中を見送りながら、今度は非常に不憫に思われた。そうして、己自身の狷介な残酷さに慄然となり、どうも辟易するようであった。
ともかくも、起ち上って障子を閉めると、膳の前に座って箸をとり、一通り食事を済ませた。
案の定、焦げた鱒は旨くなかった。その魚を食べていると、お婆さんに対する厭悪がまたぶり返してくるようでもあった。
さて、いずれにせよ、仕事を進めねばならぬ。
再び机に向かい、どうにかこうにか、一文字一文字、ぽつりぽつりと桝目を埋めてみた。するとそのうちに、知らず知らず興が乗ってきた。そうして、時計の鐘が鳴るのも耳に入らぬほど夢中になっていたのだが、気が付けば、あたりがだいぶん被ってきている。
手許の暗さに、ふと心付いて袂時計を見ると、すでに四時半を過ぎていた。
こんな時間か――自分は一服するために、莨盆を提げて往来側の窓辺に行った。細目に障子を開けると、こんな時間だというのに一人の白装束が目に入った。
それもいつもの褐衣のような姿ではなく、白い袿をかづいた壺装束のような形で、しかも腰がだいぶ曲がっている。
白装束が通るのは早朝と決まっていたし、若い男と決まっていた。しかし、今歩いているのは、間違いなく年寄りの女である。
自分は、はっとなった。
あれは、お婆さんではなかろうか。
慌てて梯子段を駆け下りた。
懸念の通り、階下には誰の姿も無い。
普段であれば、お婆さんがそろそろ晩飯を炊ぐ時分であるのに。
「お婆さん、お婆さん――」
大声を出したが返事が無い。
往来に飛び出してもみたが、もはやどこにも人影は無かった。
そうして、家内に戻って、ふとあることに気付いた。
今までお婆さんが普段に使っていたものが、どこにも見当たらない。
湯呑も筐膳も莨盆も手炙も――
お婆さんが寝起きしていた部屋の箪笥の抽斗をことごとく引いてみたが、着物も小物も何も無い。押入に夜具も無い――
お婆さんがそこに居たという痕跡が、すっかり消え去ってしまっている。今まで存在していた筈のあれこれが、悉皆、忽然と失われている。
何だか訳が分らない。
果してあの人は――と考えた――本当にこの世に存在した人なのだろうか――
今まで何を疑うこともなく、自分の遠い係累だと思っていたが、そんな縁者が本当にあったのだろうか? 自分はもともと誰一人としてこの世に縁の続きが存在しなかったのではないか?
そういう寂寞とした思いが、胸を去来した。
言いようもない不安と焦燥が、わくわくと股の間から腸に突き上げてくる。
白装束を見てはならぬという戒めの真の理は、実はこういうところにあったのかも知れぬ――今更ながらではあるが、その時、つくづくそう思い当たり、そしてはっとした。
はて、それではあの白装束の若い男は――
<了>




