8
喫茶店の会計は有理が持った。
「いいよ、割り勘で。自分の分は自分で払う」
「いいのいいの。さっきのお詫び。それに今日は私がミナを誘ったんだし」
「じゃあ、水族館の入場料は払わせて」
「残念。前売りチケットを買ってあります。今日は、私が誘ったデートなの。ミナは楽しんでくれたらいいだけ」
財布からチケットを二枚取り出すと、有理は得意そうな顔でヒラヒラとそれを振ってみせた。これにはミナも苦笑して肩を竦めるしかなかった。
二人は喫茶店を出ると、アクアランドに向かった。広大なアクアランドの敷地は、水族館と遊園地に分かれている。まずは水族館のなかへと入り、ゆっくりと水槽を見てまわった。
目の前いっぱいに広がる大水槽も、水の中をくぐり抜けるかのようなチューブ型の水槽も、カラフルなサンゴや小魚も、海底でじっと動かない大きなサメも、ミナには初体験だった。タッチプールでは、子どもに混ざってナマコを撫ぜたり、ヤドカリを手に乗せたりした。アオウミガメが悠然と泳ぐのを見上げ、小さなカタクチイワシが群れて一つになり蛍光灯の光を反射させるのを眺めた。ミナの隣には有理がいて、悪魔らしからぬ無邪気さで様々な魚を指さしては、魚の名前をミナに告げた。そのたびに、ミナは有理の博識さに感心する。
『まもなく本日最後のイルカショーを行います。ご覧になるかたは、海獣スタジアムまでお越しください』
ふいに流れた館内放送に、二人は足を止め、顔を見合わせた。
「イルカショーだって。行く?」
「うん、見たい」
有理は入口でもらったパンフレットに載っている地図を確認すると、ミナの手をとった。
「行こう、ミナ」
そして「せっかくだから一番前で見よう」と、子どものようなことを言う。有理の足取りは軽く、連れられるミナも自然と速足になる。自然と手を繋いでいることに気づき、ミナは一瞬動揺した。しかし水族館という非日常のなかでは、天使と悪魔が手をつなぐことも許されるような気がした。ミナは悪魔の手の体温を感じながら、スタジアムへと急いだ。
屋外にあるスタジアムは巨大な楕円形で、中央にある大きな水槽と複数の小さな予備水槽からなっていた。大きな水槽では十頭ほどのバンドウイルカがゆったりと泳ぎ回っている。
「すごい、大きい」
最前列のベンチに座ると、すぐ目の前を泳ぐイルカが良く見えた。ミナは、近くで見るイルカの大きさに思わず感嘆の声をあげる。
「イルカも初めて? はい、これ合羽」
「ありがとう。やっぱり濡れるかな」
スタジアムには売店があり、そこで買ったビニールの合羽を羽織る。
「楽しみだね」
「うん、楽しみ」
ひかれあうように顔を見合わせると、自然と笑みがこぼれた。
まもなく軽快な音楽が流れ始めた。トレーナーたちが奥から出てくる。イルカたちもショーの始まりを予感するのだろう。にわかに泳ぐスピードが速くなる。
ショーの開始を告げるアナウンス。
ミナは自分の鼓動が高まるのを感じた。それからはまるで夢を見ているかのようだった。次々とジャンプをするイルカたち。尾びれで水面に立ち、輪をくぐり、声を揃えて鳴く。あるいは、全身を使って観客に水をかける。
水がかかるたびに観客は声をあげた。ミナと有理もそんな観客の一人として、気が付けば叫ぶように声を出していた。
最後の大ジャンプが成功に終わると、自然と拍手が沸き起こった。拍手の中、頭を下げるトレーナーとイルカたち。やがて小さくなる音楽を背景に、有理の満足そうな溜息を聞いた。
「どう、楽しいでしょ、水族館?」
「認めるのは悔しいけど、確かに楽しい」
二人の間には、自然と笑いがこぼれていた。
「それにしても、ミナ、びしょ濡れだね」
「あ、ほんとだ……」
有理の一言で、ミナははっと我に返った。濡れた服がじっとりと肌に張り付いて冷たい。
「すごかったもんね、イルカ。カッパ着ていたのに」
有理はカッパを脱ぎながら、やっぱり濡れていると笑う。ナミも合わせて笑うべきところだったのだろう。しかし、うまく笑えなかった。
「ミナ、どうしたの? そんなに濡れたの嫌だった?」
「だって……」
コートの前身頃が大きく濡れてしまっているのをみて、ミナは泣きたくなった。
「海水だし、シミになるかも」
「そんなに気にならないけど。まあ念を入れるなら、帰ったらクリーニングかな」
たいしたことではないというように有理は言った。確かにたいしたことではない。しかし、すぐには割り切れない。なんで普段の天使の制服を着てこなかったのだろう、とミナは思った。あの服ならいくらでも汚れても構わなかったのに。でもこの服は。
「せっかく有理に貰ったばかりなのに」
絞り出すように言うと、有理は驚いた顔をした。
「そんなこと気にしてるの?」
「なんか悪いなって」
「もう。そんな顔しないの。服ならまた次も見繕ってあげるから」
有理はミナの背中を雑に叩く。
「次があるの?」
ミナは問うた。
「ないの?」
有理はきょとんとした顔をした。まったくこれだから、とミナは思う。そう思うと、少し元気が出た。
「決めるのは貴女でしょ?」
「そうでした。じゃあ、決定。次のミナの勝負服も私が決める。だから、ほら、元気出して? 悪魔が他人を慰めるのって実は貴重なのよ?」
「うん、ごめん。もう大丈夫、ありがとう」
「ならよし。それに、残念ながら、そろそろ仕事の時間ね」
仕事。そうだ、仕事だった。ミナは思う。服を濡らしてしょんぼりしている場合ではない。
「あそこのカップル」
有理が指差したのは大学生くらいの年齢の男女だった。今時の格好をした普通の若者、という感じである。特に人目を引くこともないが、外から見る限りはとても親密そうに見えた。カップルはイルカスタジアムのベンチに腰掛け談笑している。太腿同士が密着するほど距離が近い。
「あのカップルの彼が、高畑さんの片想いの人ね」
「遠目だからよく分からないけど、良くも悪くも普通の人に見える」
「鋭い分析。心中を思うほど、執着する必要はないと思うよね、客観的に見れば」
しかし客観的に見られなくなるのが「恋愛」というものなのだろうとミナは思う。
「二人、仲良さそう」
ペットボトルのジュースを回し飲みしている二人を見てつぶやくと、有理は「高畑さんのつけいる隙はないなあ」と他人事のようなコメントをした。有理によると、カップルの男は田口、女は笹原という名前だという。
「あの二人、そろそろ遊園地の方へ行くはず。高畑さんも来るし、私たちも行きますか」
有理が立ち上がる。もちろん、ミナも続いた。