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蜂蜜好きの天使が

作者: 曲尾 仁庵

 男が朝起きて台所に行くと、棚を物色中の見知らぬ少女と目が合った。


「あ、おはようございます」


 その――おそらくは小学生くらいの歳の少女は、悪びれる様子もなくこちらを振り向き、にこやかに頭を下げた。男は戸惑い気味に頭を掻く。艶のないボサボサの髪に伸び放題のヒゲ、やせぎすで血色の悪い顔は、まだ寝ぼけているのかどこかぼんやりとしていた。


「あ、ああ……おはよう。……えーっと?」


 何を言うべきか、言葉が出てこない様子の男に対し、少女は何かを察したような表情を作った。


「あ、私ですか? 私、天使です。どうぞよろしく」


 少女はぺこりと再び頭を下げる。男が半眼で少女を軽くにらんだ。


「……へぇ。最近の天使は泥棒もやるのか?」

「とんでもない。ドロボウは悪いことですよ」


 心外だ、と言わんばかりに、少女は頬を膨らませた。やや呆れ気味に男は言う。


「他人の家に勝手に入ってものを漁ってたら、充分立派な泥棒だよ。たとえお金を置いて行ったとしてもね」


 少女は何かを遮るように両手のひらを男に向け、軽く首を横に振った。


「ああ、それは無理です」

「何が?」


 男は訝しげに眉をひそめる。少女は真剣な顔で言った。


「私、お金持ってないですから」


 少女のある種堂々とした態度に、男は小さく肩を落とす。


「だったらますます泥棒だ」

「違いますよ。私は天使であってドロボウではありません」

「まだ言うか」


 少女の瞳は確信に満ちている。男の目は不信にあふれていた。少女は右手を自らの胸に当てる。


「信じてください」

「信じない」


 男の返答の速さが予想外だったのだろうか、少女の動きが止まる。男はよどんだ視線で少女をジトッと見つめていた。時間が止まったような沈黙が台所を支配する。しばらく停止した時間は、しかし少女のひとことで再び動き出した。


「……ま、それはともかく」


 男ががっくりとうなだれる。そして小さくため息を吐くと、気持ちを切り替えるように顔を上げ、少女に問うた。


「……で? 天使様はさっきから何探してるんだ?」

「蜂蜜です」


 少女の表情が明るく輝く。自分で発した『蜂蜜』という言葉に高揚しているようだ。男はいまいち理解できない顔で問い返した。


「蜂蜜? 何でまた?」

「好きなんです、私。蜂蜜」


 何を聞きたいのか理解しかねるというように、少女は小さく首を傾げた。男は白けた顔で「……ああそう。納得」とつぶやく。と同時に、男の腹が鳴った。身体がようやく眠りから覚め、活動を開始したのだ。


「……腹減ったな。食えるもん探さんと」


 男の独り言に反応し、少女はどこか自慢げに胸を張った。


「朝食なら机の上です」


 男は「え?」と声を上げ、台所のテーブルに目を向けた。焼きたてのトーストにスクランブルエッグ、トマトとレタスのサラダにコーンポタージュ。男は驚きに目を見開いた。


「 ……本当だ。何で?」

「いやぁ、私、天使ですから」


 少女が照れたように笑う。男は渋面で少女に向き直った。


「……意味が分からん」


 意味が分からないのは少女が朝食を用意したことなのか、それとも照れていることなのか、男自身も判然としないようだ。そして少女はどこか得意げに言った。


「安心してください。材料はちゃんと私が買ってきました」


 自分はドロボウではない、という傍証のつもりだろうか。男はやや意地の悪そうな表情を浮かべた。


「お金はないんじゃなかったのか?」

「それを買ってたら、お金がなくなったんですよ」


 少女はややムッとした顔で男を見返した。男のリアクションが期待したものではなかったのだろう。男は不可解そうに眉をひそめた。


「どうして蜂蜜買わずに」

「あっ!」


 少女は思わず、といった風情で声を上げ、棚を振り返って奥を探り始めた。何事だと言いたげに男は少女に一歩近づき、動きを止め、ためらいを顔に表し、頭を掻いて、一歩下がって少女の背に声を掛けた。


「……どうした?」

「ありました、蜂蜜。こんなに奥の方に」


 少女が男を振り返り、誇らしげに戦利品をかざす。千グラムの蜂蜜の入ったガラス瓶が、窓から差し込む朝日に透ける。


「……ずっとこっちを見てたよな?」

「私くらいになると、気配で蜂蜜の場所が分かります」


 えっへん、と自慢げな態度の少女に、男は反応に困った様子で何かを言おうとして口を開き、あきらめたように口を閉じて、そしておそらくは言いたかったこととはまったく違うであろう言葉を口にした。


「……それは、よかったな」


 少女は満面の笑みを浮かべた。男は呆れたように苦笑する。


「……で、どうするんだ、それ?」

「どうするって、食べるんですよ?」


 何を当たり前のことを、と言わんばかりに、少女が不思議そうな顔をした。男の顔が引きつる。


「……そのまま?」


 どこかの熊じゃあるまいし、とでも考えている様子がありありと伝わる。しかし少女は男を意に介さず、きょろきょろと周囲を見渡した。


「スプーンどこですか?」

「え? あー、上から2番目」

「ああ、ありましたありました」


 どの棚の、と言う前に少女は引き出しを開け、スプーンを取り出す。拳でスプーンを握り込む仕草は、見た目の年齢と比べて不釣り合いに幼い。

 男は瓶のふたを開けようと格闘する少女を見つめている。男の顔を痛みがかすめた。何か気配を感じたのだろうか、少女は顔を上げ、男を見つめ返した。


「どうかしました?」

「ん? いや」


 何かを取り繕うように男は首を横に振る。あまり気にする様子もなく、少女はふたとの格闘を再開する。やがてカパっと音を立ててふたが開いた。少女の表情が喜びに沸く。


「それじゃ、いただきます!」

「どーぞ」


 いただくことが当然のように振る舞う少女に苦笑しながら、男はそれを追認する。「どーぞ」と言った手前、もう泥棒呼ばわりはできないだろう。うれしそうに蜂蜜をすくって口に運ぶ少女の様子を見て、男はあきらめたように息を吐いた。


「くぅーっ! この一杯のために生きてるぅ! って感じです」


 少女はぎゅっと目を閉じ、感極まったように叫ぶ。「おっさん臭いな」と小さく呟き、男はふと台所の窓に目を向けた。いつの間にか、窓は開いていた。


「……なぁ」

「ふぁい?」


 口にスプーンを突っ込んだまま、少女は男の呼びかけに応えた。行儀悪いぞ、と顔をしかめ、男は少女に疑問を投げかける。


「そういえば、どっから入ってきたんだ?」

「窓からですよ?」


 当然だろう、とばかりの態度に、男はやや面食らった様子で声を上げた。


「ここ八階だぞ?」

「私、天使なんですってば」

「飛んできたって?」

「不用心ですよ、まったく。私が天使だからよかったものの」


 しかめ面を作り、少女が少し背を反らせた。男は降参とばかりに手を挙げる。


「……今度から気を付けるよ」


 男の回答に満足したのか、少女はうんうんとうなずき、再度蜂蜜の瓶にスプーンを突っ込んだ。スプーンの先が瓶の底に当たり、カツンと音を立てる。少女の顔が絶望に染まった。


「……なくなりました」

「は?」


 聞き間違いかと思っているのだろう、男が妙に甲高い声を上げた。


「冗談」

「じゃないです」

「……ホントに?」

「ほら」


 少女が瓶を掲げる。まるでなめ尽くしたように、瓶はきれいに透明になっていた。男はめまいを感じたのか、壁に手を付けて身体を支えた。


「もう一瓶いただけます?」

「まだ食うのか!?」


 男が思わずと言った風情で身を乗り出した。「ダメですか?」と少女は瞳を潤ませる。妙な罪悪感にとらわれたのか、男は一瞬言葉に詰まると、肩を落として何かを諦めた。


「……左の棚に買い置きがあるかも」

「ありがとうございます!」


 少女の声に明るさが戻る。せめてもの抵抗か、男は意地悪そうな声音で言った。


「賞味期限切れてるかもしれんぞ」


 しかし少女はその程度の嫌味など意に介さないようだ。棚を覗き込みながら、少女の声は揺るがない。


「大丈夫です。蜂蜜は意外に日持ちするし、それに……」


 少女は一度言葉を切り、やや声のトーンを落として言った。


「……少々は、この際」

「……そんなにか」

「もちろんです」

「理解できんよ」


 男は軽く肩をすくめた。理解できないというよりは、理解する努力を放棄したのだろう。だが少女は男のその言葉を信じなかったようだ。


「そんな事言って、結構蜂蜜好きでしょう?」

「いや、全然」

「またまた。買い置きまでして」

「ああ、それは……」


 男はほんの一瞬だけ笑い、そしてすぐに表情を打ち消した。そして短くポツリと告げる。


「娘が、好きでね」


 わずかな時間の沈黙が訪れる。しかしそれはすぐに、少女の叫びで破られた。


「あぁっ!」


 その叫びで我に返ったように、男は小さく息を吐くと、若干呆れ気味に言った。


「今度は何?」

「蜂蜜かと思ったらごま油でした」


 情けない表情を浮かべ、少女がごま油を手に振り返る。男は冷たい視線を向けた。


「……間違えないだろう」

「似てません? ほらほら」


 少女は小さくごま油の瓶を振る。薄く積もっていたホコリが宙を舞った。


「気配が分かるんじゃなかったのか?」

「蜂蜜とごま油の気配はとても良く似ています」

「そうですか」


 少女は不満げに口を尖らせる。男がまるで信用してくれないことが納得いかないようだ。男は侮るような視線を少女に向けていたが、やがてその目は徐々に虚ろに、ぼんやりとしたものに変わった。今でない時、ここでない場所を見ているように、男は少女を見つめる。奇妙な雰囲気を感じ取ったか、少女は怪訝そうに首を傾げた。


「どうかしました?」


 ハッと身を震わせ、夢から覚めたように男の目に光が戻る。男は取り繕うように笑って、小さく首を横に振った。


「ああ、ちょっと、ね」

「変な顔してましたよ」

「……悪かったな。変な顔で」


 男がわざとらしく不機嫌な顔を作る。少女は再び蜂蜜の探索に戻った。棚の中に顔を突っ込み、奥に手を伸ばす。棚からホコリが舞い上がり、朝日の中に浮かび上がった。


「……うーん」

「見つからないか?」

「なんかもう泣きそうです」


 少女は情けない声をあげる。男に同情する様子はない。


「蜂蜜くらいで大袈裟な」

「何をおっしゃいます。こんなとき以外にいつ泣くというんですか」

「こんなことで泣くほうが少数派だろう」

「あなただってあるでしょう? 泣きたいときのひとつやふたつ」


 少女は棚から顔を出し、ムッとした顔で男をにらんだ。男は少女からわずかに目を逸らす。その顔は内心を隠すあいまいさに塗りつぶされていた。


「……大人は、泣かないんだ。どんなときでもね」


 少女の顔からふっと表情が消える。まなざしは真剣なものに変わり、幼さは急に大人びたものの気配に入れ替わった。


「嘘」

「本当さ。もうずいぶんと泣いた記憶はない。立派な大人だろ?」


 冗談めかした口調で、男は乾いた笑いを浮かべた。少女は透明に男を見つめる。


「泣かないのは、立派ですか?」

「泣いても無駄なんだ。何も変わらない」

「そうでしょうか?」

「そうさ。大人は、無駄なことはしない」


 男の言葉には倦み疲れ、擦り切れた果ての諦念がある。少女は男から目を逸らさない。奇妙に張りつめた空気が漂い、台所は静寂に包まれた。長いような、それともわずかな時間だったのかもしれないが、音のない時間の終わりを告げるように、少女の顔に表情が戻った。


「……でも、いくらなんでも蜂蜜が見つからないときは泣きますよね?」


 冗談なのか真剣なのか、少女はやや上目遣いで男に言った。脱力し、男は白い目で少女を見返した。


「泣かんと言っとるだろう」

「顔で笑って心で泣いて」

「そんなわけあるか」

「強情ですね」

「そっちこそ」


 不満げにふくれっ面をしていた少女は、やがて我慢できなくなったように吹き出した。男もその笑顔につられて笑う。穏やかな光が台所に満ちていた。笑い合い、そして男は何かに気付いたようにつぶやく。


「……ああ、そうか」


 男の意識は再び、ここではないどこかへと向かっているようだった。何も映さない瞳で、男は独り言ちる。


「君を見てると、幸せなことばかり思い出すんだ。だから……」


 男は右手で自らの顔を覆った。元々青白い顔はますます蒼白になり、目は見開かれ、かすかに震えている。男は絞り出すように呻いた。


「もっと、できたはずなんだ。もっと何か……でも、何もできなかった。何も、しなかった」


 自らを切り刻む言葉を、男は吐き出しているようだった。自責と後悔が声に滲む。少女はほんのわずかの時間だけ泣きそうな顔になった。男はそれに気付かない。少女は男に背を向けて棚を漁ると、何かを見つけて大声を上げた。


「あぁっ!」

「な、何だ?」


 我に返り、男は慌てた様子で少女を見た。少女は手に蜂蜜の瓶を掲げ、そのラベルを男に見せつける。


「全然大丈夫ですよ、これ!」

「……何が?」

「賞味期限っ! ね? まだ充分間に合います!」


 男は目をすがめ、ラベルを、そこに書かれた賞味期限を確認する。製造年月日から三年。そして期限までにはあと半年ほどあるようだった。男は呆然とラベルを眺める。


「ほらほら、ほらね? やったぁ♪ いただきまーす!」


 喜びに満ちた顔で、少女は瓶のふたを開ける。どこか拍子抜けしたように男が笑った。


「……はは…は……」

「えへへへ」


 少し気恥ずかしそうに笑って、それをごまかすように少女は蜂蜜を舐めた。不意に男の目から涙があふれる。一度あふれた涙はとどめようもなく、男は幼子のように大声を上げて泣いた。




 ひとりしきり泣き終えたのか、男は鼻をすすり、涙を拭った。少女は差し込む朝日を纏い、天使のように微笑んでいる。透き通る瞳で男を見つめ、少女は言った。


「……でたじゃないですか」


 男は顔を上げ、少女を見返した。


「涙」


 男は恥ずかしさを振り払うように非難めいた顔を作る。


「……卑怯だな」

「蜂蜜を見つけたことがですか?」

「そうだ」

「それは、ごめんなさい」


 少女は素直に頭を下げる。「まったく」と文句を言って、男は深呼吸を一つした。


「……泣いても」


 目を伏せ、少女はポツリとつぶやくように言った。


「いいと思いますよ。大人も」


 勇気を振り絞るように、少女は顔を上げ、男をまっすぐに見つめた。


「それはきっと、不実でも卑怯でもないと思います」


 男は驚いた顔で少女の視線を受け止め、そして目を細めて小さく笑った。少女も微笑みを返す。カチン、と音を立て、スプーンが瓶の底に触れる。


「あっ」

「どうした?」


 少女は手の瓶を掲げる。いつの間にか中身は空になっていた。


「なくなっちゃいました」


 どこか寂しそうに、少女は瓶を揺らす。男は何か言おうと口を開き、小さく首を振って口を閉じると、ため息のような言葉を吐き出した。


「……そうか」

「はい」


 少女が空瓶を棚の上に置いた。男は殊更に明るい声を出した。


「蜂蜜屋さんから表彰されるぞ、そのうち」

「それは楽しみですね。副賞は蜂蜜一年分くらい」

「あるある」

「夢が膨らみますねぇ」


 互いに承知した白々しさを、二人は呆れたように笑った。少しだけ先延ばしに。そこに何の意味があるのかは、分からなくても。


「……ひとつだけ」


 男が笑いを収め、視線を落とした。


「なんでしょう?」


 少女は穏やかに応える。男は目を伏せたまま、少しかすれた声で言った。


「……幸せ、だったか?」

「もちろん」


 即答した少女に、男は思わずといった様子で顔を上げた。どこか信じられないものを見ているような男を、少女の慈母のような微笑みが照らしている。


「そっか……」

「はい」


 空気を払い、少女の背に純白の翼が現れる。少女の足が床を離れた。男が少女を見上げる。少女は微笑み、男に背を向けた。


「蜂蜜、また買っとくよ。1ダースくらい」


 男は少女の背にそう声を掛けた。少女は驚いたように振り向く。男はまぶしげに目を細めた。


「気が向いたら……また、来てくれ」


 窓を背に、陽光を受けて輝く翼を広げ、少女は見た目にふさわしい幼い顔で、


「……よろこんで」


 うれしそうに笑った。




 天使が去り、男はしばらくの間ぼんやりと窓から見える空を見ていた。やがて男は踵を返し、洗面所へと向かう。冷たい水で顔を洗い、ひげを剃り、髪をとかし、歯を磨く。普通のこと。普通のことを、普通に。


「……よし」


 鏡に向かってそう言って、男は再び台所に向かい、久しく食べていないまともな朝食に手を付けた。




 窓の鍵を掛け忘れた朝には、少しトボケた蜂蜜好きの天使が、この部屋にやってくる。

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― 新着の感想 ―
[良い点] 心があったかくなる、そんな気持ちになれました。 蜂蜜好きの天使との会話。 時に緊張感があり、時に和み。 優しい天使の正体が例え何であれ、男性にとって心を軽くしてくれた存在なんだな、と思い…
[一言] じんわり染み入るようなお話でした。 主人公の明確に語られない過去、想像をかきたてるヒントの数々が、より切ないですね。 けれども、蜂蜜好きの天使の明るさや優しさが、これからも彼を救ってくれるの…
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