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アロイスは執務室の机に肘をつき、頭を抱えた。
「この書状は……どうしろと言うんだ」
孫であるシルヴァンがセレスティアをフランクール伯爵家に預けた時点で、きっとシルヴァンは彼女を好いているのだろうと思っていた。ならばその恋心を守ろうと、かつての名声に誓った。
そしてセレスティアも、共に過ごしてみれば良い娘であることは分かった。こちらもシルヴァンを慕っていることは瞭然で、焦らずともゆっくり愛を育んでいければ良いと思っていた。この馬鹿らしい権力争いが終わった後で、だ。
「同日に二通とは……どうするか」
今、第一王子ベルナールの勢力と第三王子シルヴァンの勢力は拮抗している。それは二年程前からは予想できないことだった。当時ベルナールは有力貴族達を囲い込んでいたし、シルヴァンもふらふらとして何をしたいか定まっていないようだった。
「あら、そんなのあの子を見ていれば考えるまでもないじゃない」
ロザリーがソファで紅茶を飲みながら、迫力ある笑みでアロイスに言う。
「とはいえ、今この内容は……火に油だ」
アロイスの執務机の上には、二通の書状がある。一通はセレスティアとシルヴァンの婚約を打診する書状で、正式書類である証明に国王の印が押されている。夜会から数日の内にここまで手配をした手腕は、我が孫ながら誇らしくもあった。
もう一通は、ベルナールからの私的な書状だった。こちらはセレスティアの保護養育権を譲るよう依頼──という形式で脅迫しているものだ。フランクール伯爵家は清廉潔白でこれまでやってきたが、身内と家を盾にとられてはアロイスも動き辛くなる。手段を選ばないベルナールであれば、本当に何をするか分からない。
国王がベルナールの動きを知らずにいるとは思えなかった。フランクール伯爵家自体も試されているのだろう。
「我が家の力と派閥までお試しになるとは、陛下もお人が悪い。──ロザリー、まだ戦う覚悟はあるか?」
アロイスは顔を上げ、ロザリーを見る。ロザリーは右手に持っていたティーカップの残りを呷るようにして飲み干し、音を立ててソーサーに置いた。その仕草は上品とは言い難い。
「今更何を言っているのです。私は貴方に嫁いだ時からずっと……覚悟なら、とうの昔にしております。歳はとりましたが、今でも衰えたつもりはありませんわ」
その笑みははっとさせられる程に美しく、アロイスは嘆息した。どうやら自分よりも、妻の方が覚悟は決まっていたらしい。
「そうか。どうやら私は、老けたつもりになっていただけらしい」
「そうですよ、しっかりなさいませ。こんな挑戦をされるなんて、私達もまだ捨てたものではないということです」
面白いと言わんばかりの口振りは、アロイスの闘志を刺激した。大人しくしているからといって、その者が本当に大人しいとは限らないのだ。若者に舐められたままでいるフランクール伯爵家ではない。
アロイスはロザリーの言葉に頷き、シルヴァンとセレスティアの婚約を承諾する旨の書状を認め始めた。
「私とシルヴァン様が、婚約……?」
セレスティアは呼び出されたアロイスの執務室で言われた言葉に、頬を染め目を見張った。
「ああ。国王の印が入った正式な書状が届いている」
嬉しかった。シルヴァンもセレスティアと共にいたいと願ってくれたと思えば、衝撃も喜びに変わる。
「私としては受けて構わないと思うが、セレスティアはどうだ?」
「大変……大変、光栄なことです」
シルヴァンと共にこれからを生きていくことができる。本当の家族を作っていくことができる。──じわじわと湧き上がってくる感動は、セレスティアにとっては初めての感情だった。赤い頬に気付いたアロイスが、口元を緩める。
「ではこちらは破棄してしまおう」
アロイスがもう一つの書状を掲げた。セレスティアはそこに並んだ文字を読んで、無意識の内に拳を握り締める。それは怒りか、恐れか。
「こ、れは……」
「婚姻でもなく娘を強請る愚か者からの書状だ。私達が相手にする価値など無い」
アロイスはセレスティアの目の前で、ベルナールからの書状を縦に二つに割いた。更に数度破り、読めなくなったそれを執務机横の屑入れに放る。
「ですが……ですが旦那様っ! 私のせいで……」
書状は確かに脅しと取れる内容だった。第一王子であるベルナールからの明確な敵意である。それを破り棄てることが、フランクール伯爵家にどれだけの不利益を齎すのか、セレスティアには想像もできない。迷惑を掛けたい訳ではない。ベルナールの元に行きたいのでもない。ただただ苦しかった。
「気にしなくて良い。これでも我が家は、古くからアンテノール王国で騎士として権勢を誇ってきた。孫の好いた娘の為だ。この程度の脅迫など痒くもない」
ふんと鼻を鳴らしたアロイスが、婚約の返事を封筒に入れた。蝋を垂らして印璽を押す。フランクール伯爵家の紋章である装飾剣が、真紅の封蝋に刻まれた。
「では、私はこれを届けてくる。セレスティア、数日中に王城に呼ばれるつもりでいなさい」
セレスティアは、コートを羽織り剣を持ったアロイスと共に執務室を出た。追い抜いて先を行くアロイスの背中が、大きく見える。それはかつて最強の名を恣にした騎士の姿そのものだった。




