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悲しみの人魚は黄金の瞳に囚われる  作者: 水野沙彰


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3-5

 どれくらいそうしていただろう。セレスティアは戻らなければと思い、やっと重い腰を上げた。座っていると気にならなかった足首が痛みを思い出す。


「ああ……そうだったわね」


 少し前のことなのに、怪我をしたことをすっかり忘れていた。先に医務室に行くべきだろうか。セレスティアは右足を庇いつつ、誰かに尋ねてみようと歩き出した。


「──ちょっと待って!」


 声を掛けられたようで、セレスティアは足を止める。誰もいないと思っていた筈の庭園には、どうやらもう一人いたようだった。


「貴方は……」


 植木の隙間から姿を見せたのは、柔らかそうな薄茶色の癖のある髪に、貴族の女と同じくらい白い肌の男だ。茶色の瞳は明るい色なのに、先を見通しているかのように深い。細い身体の彼を、セレスティアは知っていた。


「こんにちは、パントゥスの姫君。怪我をしているんでしょう。せっかくだからもう少し休んでいきなよ」


「ジョフロワ殿下……っ、畏れ入ります」


 セレスティアが頭を下げようとすると、ジョフロワがそれを止めた。てくてくとマイペースに歩み寄ってきて、セレスティアを通り過ぎ先程まで座っていたベンチに座る。そして、立ったままのセレスティアに向かって隣をぺちぺちと叩いた。


「そーゆー挨拶とか、僕興味ないんだよね。どうぞ座って」


 遠慮しようと一歩下がったセレスティアを、それでもジョフロワはまっすぐ見続ける。とても断り辛い。ロザリー達に心配を掛けてしまっているだろうかと思いながらも、セレスティアは示された場所──ジョフロワの隣に座った。間に人が一人座れるくらい、間を空けている。


「失礼します」


「うん。──それで、どうしてこんなところにいたの? さっきまでシルヴァンと楽しそうに踊ってたじゃない」


 ジョフロワは、どうやら途中で退席していたようだ。セレスティアが転んだところも見ていないのだろう。どう言えば良いものか、セレスティアは迷った。ベルナールとセレスティアの関係も、ダンスの最中に転んだことも、口に出しては説明し辛い。目線は下がり、俯いてしまう。


「ええと」


「それとも、ベルナール兄ぃに虐められた?」


「それは……っ」


 慌てて顔を上げたが、ジョフロワは感情の無い瞳をセレスティアに向けている。


「僕、姫さまのこと多分兄弟の中で一番知ってるんだ。母方の家が学者の多い家系で、僕も研究が好き。専門は歴史だよ。分かった?」


 一番知っていると、ジョフロワに何の気負いも無く言われて驚いた。しかし冷静に考えれば、興味のある歴史と、兄弟の関わることだ。セレスティアは納得し、頷いて素直に受け入れた。


「そうでございましたか」


「うん。だから姫さまがベルナール兄ぃに捕まってたのも、シルヴァンがそれを連れ出したのも知ってる」


 今度こそ動揺した。それは、セレスティアは誰にも言っていない。そして先程初対面のふりをしていたシルヴァンもきっと言っていない筈だ。


「そ……うです、か」


「そんなに構えないで。大丈夫、僕は、姫さまの敵ではないから」


「……え?」


「まあ味方でもないんだけど」


 ジョフロワは口角を上げ、心から楽しそうに笑った。


「この感情を言葉にするなら、喜びが一番近いかな。僕にとって姫さまは、物語の登場人物が目の前に現れたようなものだから。ねぇ、王国はどんなところだった? 滅んだときどう感じた?」


 ジョフロワが少しずつセレスティアに顔を近付けてくる。一切の悪意なく無邪気な色の澄んだ瞳が、セレスティアの目を引いた。


「あの……」


「助かってからこれまでどうしていたの? 涙が真珠になるって聞いたけれど……」


 言葉を切ったジョフロワが、セレスティアの目からついと横に視線をずらす。しばらく観察したと思うと、徐に手を伸ばしてきた。


「何を……っ!」


 触れるつもりかと目をぎゅっと閉じる。距離が近くなっていく身体に、異性相手に油断したことを後悔した──が、その手はセレスティアの顔や身体ではなく、左耳に触れてすぐに離される。


「へえ、これがその真珠か。確かに近くの海で採れるものと比較しても、大きさも純度も素晴らしいね」


 ジョフロワはセレスティアから人一人分だけ空けた辺りに座り直し、掌の上をじっと見ている。先程までよりも少し軽くなった左耳に触れると、付けてきた真珠の耳飾りが無くなっていた。既にセレスティア本人に関心はなくなったようで、ジョフロワは耳飾りに夢中だ。

 セレスティアはジョフロワから視線を外して、空を見上げた。王城の明かりのせいで星はあまりよく見えないが、代わりに青白い月がしっかりと輝いている。夜空を照らすあの月を誰かに例えるのならば、それはセレスティアにとってシルヴァンだろう。


「──ここにいたのか」


 掛けられた声は少し遠かった。


「シルヴァン様?」


 セレスティアが声のした方を向く。シルヴァンは大広間にいたときと変わらない、白を基調とした夜会服を着ている。装飾に金と緑を取り入れているのは、その目と髪の色故だろうか。現実から逃避するようにぼうっと見ていたセレスティアの手に、シルヴァンの手が触れた。


「すまなかった。あの場で貴女を庇い切れず、情けない。足の怪我はどう?」


「いえ、私が悪かったのです。ベルナール殿下にも、大変な失礼を──」


「いや、兄上は大丈夫だ。むしろ良い薬だよ。これで色々と反省してくれたら良いんだけどな」


「色々?」


「そう、色々ね。まあ反省してたら今こうなってはいないけど……って、ジョフロワ兄上!?」


 シルヴァンはセレスティアの奥で耳飾りを様々な角度から眺めているジョフロワを見つけ、小さく嘆息した。


「兄上、今そこを動きたくないのは分かりましたので、彼女を医務室に連れて行ってもよろしいでしょうか」


「いいよ。──あ、でもこれまだ見たい」


 ジョフロワは真珠を掲げた。


「あ、よろしければお貸ししますので」


「本当に? ありがとう」


 セレスティアが言うと、ジョフロワは今日一番いい笑顔を浮かべる。シルヴァンがそれを見てまたも嘆息し、座ったままのセレスティアを一気に抱き上げた。

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