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悲しみの人魚は黄金の瞳に囚われる  作者: 水野沙彰


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2-3

 セレスティアは廊下に付けられている手摺を頼りに、歩行訓練をしていた。何年も自力で歩くことをしなかった足はすっかり痩せ細り、十八歳の重さを支えることはできなくなっている。

 足枷を外してもらった翌日、ロザリーが医師に相談したところ、やはり筋力が落ちてしまっているとのことだった。同時に関節が固まっているようで、歩行訓練とテレーズによるマッサージが現在のセレスティアの日課になっている。


「……っ」


 次の一歩を踏み出した瞬間、かくんと膝の力が抜けた。あ、と思って手摺をぎゅっと握る。しかし細い腕一本では支え切れず、セレスティアはぺたりと廊下に座り込んだ。絨毯が敷かれている為、痛みはない。自由にならない身体がもどかしかった。心配してくれているロザリーとテレーズ、そして援助を惜しまないと言ってくれたフランクール伯爵の為にも、セレスティアは少しでも早く歩けるようになりたかった。


「もう少しでも……」


 少し休んでから、今度は両手で手摺を掴んで立ち上がる。震える足が悔しい。そのまま壁に軽く寄り掛かり目を閉じた。

 少し前の自分からしたら、天国のような生活だった。充分な食事と、柔らかな寝床。優しい人達。まだ動ける範囲は狭いが、それでもセレスティアのしたいことを認めてもらえる環境。それはセレスティアにとっては幼い頃以来のことだった。


「──お嬢様、そろそろお休みなさってはいかがですか」


 テレーズがセレスティアを見つけ、廊下の向こうから声をかけた。セレスティアは目を開け、テレーズの方を見る。心配そうに細められた目が暖かい。無理してこれ以上続けるのも、余計に心配をかけてしまうだろうか。


「ありがとう。そうね、そうすることにするわ」


 その返答に安堵したのか、テレーズはすぐにセレスティアの元へやってきた。手を取られ、支えられながらゆっくりと部屋に戻る。テレーズとはすっかり打ち解けている。ここに来て一番長く共に過ごしているせいでもあるが、やはりその人柄の影響が大きいだろう。

 与えられている部屋に戻り、椅子に座った。無理して歩いていた足が小刻みに震えている。やはり止めてもらって良かったかもしれないとセレスティアは思う。


「それと、これを使ってくださいね」


 テレーズは桶にぬるま湯を張って持ってきて、セレスティアの足元に置いた。そのままセレスティアの足を片方ずつ持ち上げ、湯に浸けていく。強張った足先からじんわりと熱が伝わり、震えが収まっていった。


「ありがとう。──あったかいわ」


 自然と柔らかく頬も解れていく。目を閉じればこのまま眠ってしまいそうな程だ。


「それはようございました。せっかくですし、少しお休みしてしまってはいかがでしょう?」


「だけど……なんだか悪いわ」


「良いのですよ。毎日頑張っていらっしゃるのですから」


 フランクール伯爵邸に来て足枷が取れてから、セレスティアはこれまでにない程変化の多い日々を送っていた。やはり慣れない環境で疲れも溜まっていたのだろうか。セレスティアは重くなってきた瞼に気付き、苦笑いしてテレーズの勧めに頷いた。





「あの子は眠った?」


「はい。寝台に横になられてから、すぐにお休みになりましたよ」


 ロザリーの問いかけに、テレーズはすぐに頷いて笑う。ロザリーもまた満足そうだ。


「良かった。あの子ずっと一生懸命だったから、心配してたの。──だから貴方とは会わせたくなかったのよ」


 深い溜息とともに吐き出された言葉は、シルヴァンの心に刺さった。


「お祖母様、申し訳ありません。ですが一目、無事を確認したくて……」


 お忍び用の簡素な服を着たシルヴァンは、肩を落として言った。自分でも、セレスティアに関わりすぎてはいけないと分かっている。しかしジョフロワから借りた本を読んだら、居ても立っても居られなくなってしまった。

 十年前に起きた、パントゥス王国の悲劇。それはシルヴァンも知っていた。小さな島国が一夜にして滅ぼされ、順に王族が殺されていったというあの悲劇。生き残った幼い姫君が、セレスティアだったのだ。

 シルヴァンはロザリーの許しを得て、セレスティアの休んでいる寝室へと足を踏み入れた。薄いレースの天蓋の内側、セレスティアはゆっくりと呼吸している。


「殺されずに済んだのは、真珠の涙のお陰だったのか……」


 最後の姫君が殺されなかったことは有名だ。セレスティアは真珠を生み出す道具として、ならず者達に飼われていたのかもしれない。アンテノール王国の軍が彼等を捕らえた時、セレスティアはそこにはいなかった。その頃にはもう、他の者の元にいたのだろうか。いずれにせよこうしてここに生きていることが、奇跡としか思えなかった。


「無事で、良かった」


 国営博物館にいた頃よりも、セレスティアは人間らしかった。その作り物めいた美しさに変わりはないが、血色の良い頬は、確かに血が通った人間なのだとシルヴァンに思わせる。

 シルヴァンは衝動に逆らえず、天蓋を掻き分けて寝台の端に腰掛けた。そしてその白い手を、自らの両手で祈るような形で包み込む。


「セレスティア、ありがとう」


 会わないと決めた筈だった覚悟は、今日までの二週間で霧のように消えてしまった。誰にも気付かれなければ良いだろう。セレスティアの気持ちを縛らなければ──寝ている間なら、顔を見ても良いだろう。そうしてアルマンを伴ってこっそりと城を抜けてきたのだ。シルヴァンが額を寄せて目を閉じていると、すぐ近くから控えめで小さな声がした。

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