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あの救出劇から一週間、シルヴァンは事件の後始末に追われていた。奴隷商の摘発は自警団の手柄にしたが、奴隷達の受け入れ先はシルヴァンの庇護下の孤児院だった。後日国王である父親から関与について探りを入れられ、自警団からの要請が現場単位であったのだと言い訳した。しかしお見通しだったのだろう。何の咎めも言及も無かった代わりに、事後処理の一切を第三小隊に押し付けられたのだ。
アルマンも忙しくしており、シルヴァンは城内に引き篭もることを余儀無くされていた。護衛も付けずに外出できる程気楽な身分でもなければ、それ程甘い環境でもない。ただセレスティアがどうしているか、それが気にかかっていた。母方の実家であるフランクール伯爵家を信じ、セレスティアを預けた。シルヴァンにとって祖父母の存在は大きく、数少ない心から信頼できる人間だ。しかしそれと心の問題は別だ。最後に見た表情が忘れられずにいた。
「──気分転換でもするか」
シルヴァンは立ち上がり、両手を組んで背を伸ばした。固まった身体を解す。演習場に行って、身体を動かそう。すぐ近くにある演習場ならば危険もない筈だ。シルヴァンは机の脇に立て掛けていた剣を腰に差し、上着を羽織った。城内を歩くだけでも身なりを気にしなけれはならない。窮屈に思うこともあるが、立場上仕方のないことだった。
部屋を出て廊下を歩く。ところどころに飾られた美術品が華やかさを演出しているが、シルヴァンには生憎その価値は分からない。ただ綺麗だと思うだけだ。
「シルヴァン、今から鍛錬かい? いや、精が出るねぇ」
階段を下りた先、どこか湿り気のある低い声が背後からシルヴァンを呼び止めた。シルヴァンは足を止め、嫌な予感を抱きつつ素直に振り返る。
「兄上、お疲れ様です」
予想通り、そこいたのはベルナールだった。廊下を照らす明かりが濡羽色の長髪を特に艶やかに見せ、青い瞳はシルヴァンの何かを探るように細められている。
「おやおや、お疲れ様なんて。疲れているのは俺ではなく、君の方ではないかい? なんでも、自警団に頼られて色々動いていたそうだけれど。人気者は大変だね」
「自警団? 何のことでしょう」
揶揄う口調に、シルヴァンはあえて何も知らないふりで答える。すると、ベルナールは分かり易く表情を不機嫌に歪めた。
「例の奴隷商の一件だよ。随分と多くの貴族を摘発したようだねぇ」
「その件ですか。現場の者達が報告を上げていなかった所為で、私も良い迷惑です。事務処理ばかりこちらに回ってくるのですから」
「そうか、でも良い見つけ物もあったのではないかな?」
「──何のことでしょう?」
とぼけ続けるシルヴァンに、ベルナールはつかつかと足音を鳴らして距離を詰めてくる。伸ばした手で胸倉を掴まれても、シルヴァンはただ前を向いていた。
「俺の人形だよ。何処にいるのか、君は、知っているのでしょう?」
「あの場にいた者は皆保護したようですが……人形などありませんでしたが」
「ふん、白々しいことだよ。──そうか、保護した者は皆孤児院に預けているということだったな」
「ええ、そうです」
シルヴァンは睨み付けてくるベルナールから目を逸らさない。怯みたくなかった。至近距離で向き合い、ただじっと正面からその瞳に映る自身を見つめ続けた。ベルナールは得られるものは無いと諦めたのか、シルヴァンから手を離して距離をとった。
「──ならば探すまでだよ。シルヴァンも俺と争いたくなければ、あの人魚の情報を持っておいで」
シルヴァンは乱れた胸元を整える。シャツに皺が寄っているようだった。ベルナールは獲物を見るような目でいまだシルヴァンを見ている。
「兄上は、あの奴隷商に──」
「知らないよ。シルヴァンこそ、そんなに詳しいのかい?」
「いいえ、兄上程ではありません」
シルヴァンは意図的にへらりと笑って、ベルナールに背を向けた。そのままあえて振り向かず演習場へと向かう。背後で何かを殴るような重い音が響いた。
シルヴァンはしばらく演習場で汗を流し、剣の手入れをした。服装を整えて部屋に帰る途中、近くの扉が目に入る。その部屋はシルヴァンでもベルナールでもない、もう一人の王子の部屋だった。部屋から出てくることは稀で、ベルナールのように社交に出歩くことも、シルヴァンのように市井に行くこともない。しかしシルヴァンにとっては、ベルナール程警戒する必要のない兄である。アンテノール王国第二王子、ジョフロワの部屋だ。あの時セレスティアが抱えていた本はパントゥス王国の本だったと思い出す。研究熱心なジョフロワなら、そのあたりの歴史にも詳しいかもしれない。
シルヴァンは少し迷って、その扉を数度叩いた。しばらく繰り返すとようやく返事があり、中に入る。いつ来てもシルヴァンの部屋と同じ広さがあるとは思えない圧迫感のある執務室だ。本棚が壁沿いだけでなく部屋の中ほどにも置かれており、視界を遮っている。間を抜けて奥に行くと、ひらけた場所にいくつもの本の山ができている。執務机さえ、本と紙の束で埋もれていた。
「──ジョフロワ兄上、お邪魔します」
シルヴァンが声をかけると、本の山の間からぴょこりと本を持った手が飛び出した。その本が山の一番上に置かれ、かき分けるように本の山が左右に動いた。拍子に上の方に置かれていた本が、先程置いた本ごとばたばたと音を立てて落ちる。
「ん? シルヴァンか。久しぶりー。……あ、本が」
がさがさとその間を掻き分けて、薄茶色の癖っ毛と不健康なほど白い肌が覗いた。




