5:神々の峰
1
ぽたっ……ぽたっ……ぽたん……
規則正しい水音が聞こえる。
ぽたっ……ぽたっ……ぽたん……
額の上で水滴が弾け、カヤは目を覚ました。
寝起きの思考は模糊として、自分が何をしていたのか、いったいどこにいるのか分からない。
あたりを見回す。
何も見えない。
別に目がいかれたとかそういうわけではない。
暗いのだ。
自分の手が分からないくらいに暗い。
カヤは深い闇の中にいた。
「ここは……」
どこだろう?
独り言のような問いかけは闇の中に殷々とこだました。
空気はよどんでいるように生ぬるい。
耳を澄ませば水が流れる音がかすかに聞こえた。
どうやら自分は洞窟にいるらしい。
けれど、なぜ洞窟にいるのだろう?
ごぉぉぉぉお――
疑問を吹き飛ばすような一陣の風が吹く。
カヤはぶるっと体を震わせて、自分の身体を抱きしめた。
そこでカヤは自分が服を着ていないことに気が付いた。
って、裸?
思考にかかったもやを払うように、カヤは頭を左右に振る。
何があったかを思い起こす。
そう、確か、生贄の儀式のために姫様と一緒に山に登って、それから――
閃光のように記憶がよみがえる。
そうだ、わたしは毛虫みたいな変な生き物に襲われたのだ。
幸い、死んでいないということは本当に食べられたりはしなかったらしい。
ただ、その代わりにされた行為を思い起こす。
「あぁ――」
ため息のような吐息が漏れた。
確かにカヤは食べられたりはしなかった。
今も五体満足なのがその証拠である。
しかし、別の意味で食べられたのだ。
適切な言葉が思いつかないからアホっぽい言い方をしてしまうけれど、こう……性的な意味で、食べられた。
あるいは犯されたとか、手籠めにされたとか、まあ色々言い方はあるけれど、表していることは一つである。
「…………こういう時、どういう風な感想を抱いたらいいのでしょうね……」
カヤは深いため息をついた。
初めてを奪われたことを悲しめばいいのか、死ななかったことを喜べばいいのか分からなかった。
ていうか、初めてが、あんな変な生物って……
「って、そんなこと言ってる場合じゃない!」
カヤははっとしてあたりの様子をうかがった。
闇の中は死んだように静まり返って、生き物の気配は感じられない。
どうやら毛虫もどきたちはここにはいないらしい。
カヤはほっと溜息をついた。
落ち込むのは後でいい。
今は行動するべきだ。
こんな暗い場所で再びあの生き物や、それ以外の猛獣に襲われたりしたらそれこそ目も当てらないだろう。
カヤはそろそろと立ち上がった。
あたりを探ると柔らかな何かが手に触れた。
どうやら布切れの様だった。
ひとまずそれで体を覆うと、カヤは一歩を踏み出した。
「あいたっ」
カヤは顔をしかめた。
足の間が少しだけ痛かった。
2
しばらく歩くと、微かにものが見えるようになってきた。
それはつまり、洞窟の中に光が差し込んでいるということだった。
もっと言うと洞窟は外と繋がっているということだ。
カヤは安堵の息を漏らした。
本当に出られるのか、少し不安だったのだ。
角を曲がる。
不意に視界が開ける。
カヤは反射的に目を細めた。
出口はまるで天国の門のように輝いて見えた。
3
洞窟からはい出ると、荒涼とした景色が広がっていた。
空には明るい満月。
白い月の光が木の少ない高山を冴え冴えと照らしていた。
たぶん、ここは山ツミ岳のどこかだろう。
無意識のうちに見知った場所を探す、が、見覚えのあるものは何も見つからなかった。
生贄の穴と白い鳥居も見当たらない。
どうやら寝ている間にそれなりの距離を移動したらしい。
けれど、誰が自分を運んだのだろう?
「きゅぅ~?」
不意にネコのような声が吹きさらしの山肌に響いた。
カヤははっと身を固くし、あたりを見回した。
周囲にはそれらしいものは何も見当たらなかった。
それでも油断せず、じりじりと後退る。
「わっ!」
不意に、何か柔らかなものを踏みつけ、カヤはその場で尻餅をついた。
足元にいたのは、枕ほどの大きさの茶色いモフモフだった。
カヤを襲った毛虫もどきだった。
普段なら、逃げ出そうと思えばすぐに逃げれたと思う。
そこは狭い穴の底ではなかったし、毛虫もどきだって一匹しかいなかった。
けれどできなかった。
「こ、腰が……」
腰が抜けたのですが!?
すっ転んだ時に変な場所を打ったのか、腰に力が入らなくなっていた。
「きゅぃ~」
地面に這いつくばるカヤの元へ、茶色い毛玉が迫る。
「わー! こっち来んなっ、しっ、しっ!」
「きゅぃぃ~」
カヤの必死に後退るが、そんなことで逃げられる毛虫もどきではなかった。
ふわふわとした夢のような触り心地の毛玉が足にのしかかる。
穴の底での光景がフラッシュバックする。
恐怖に身体がすくむ。
毛虫もどきはカヤの足に登り、丸い口を大きく開いた。
また襲われる――
カヤは思わず目を閉じた。
「……?」
しかし、毛虫もどきは何もしてこなかった。
ゆっくりと目を開く。
「きゅぅ~」
毛虫もどきは口の先に何か、白っぽいものをくわえているのに気が付いた。
「なに、ですか?」
恐る恐る手を伸ばす。
出された少女の手の平に、毛虫もどきは口にくわえていた物体を押し付けた。
それは皮をむいた渋柿を天日で乾かしたもの――要するに干し柿だった。
「なぜ干し柿を……?」
「きゅぴぃー」
顔に干し柿を押し付けられる。
干した果実の甘い香りが鼻腔をくすぐった。
きゅるるるる、と可愛らしい音があたりに響いた。
カヤは頬を羞恥に染めた。
カヤはお腹が空いていた。
干し柿は霜のような白い糖分が表面に浮かんび、とても甘そうだった。
「きゅぃー」
毛虫もどきは何かを言っている。
そこに敵意は感じない。
「……食べろって言ってるのですか?」
「きゅいきゅい♪」
毛虫もどきが首を縦に振る。
カヤは困惑した。
毛虫もどきの動きは、まるでカヤの言葉を理解しているかのようだった。
でも、毛虫が人の言葉を理解しているなんて、そんなことありうるのだろうか?
ていうか仮にこいつが人語を理解しているとしても、なぜカヤに食べ物を与えようとするのか分からない。
この茶色いモフモフはいったい何を考えているのだろう。
「きゅーいー」
困惑するカヤに毛虫もどきのはぐいぐいと干し柿を押し付けて来る。
4
さんざん悩んだが、結局、カヤは干し柿を口にしなかった。
それを食べてしまったら何かに負けてしまう、そんな風に感じたのだ。
何の勝負なのかはカヤ自身にもよく分からない。
それに、まあ、毛虫もどきが口に含んだものを食べるのも抵抗があったし?
お腹だってまだ我慢できないほど減ってはいなかった。
カヤが贈り物を受け取らないと分かると、毛虫もどきは気落ちしたように体を縮こまらせた。
なんだかちょっとだけ悪いことをした気分にもなった……
「って、何考えてるのですか、わたしは! 本当に悪いのは問答無用で犯してきた毛虫もどきの! わたしは悪くない! わたしは正義!」
カヤは自分に言い聞かせるように声を出した。
誰もいない高山に、少女の高い声は遠くまで響いた。
カヤは空のような虚無的な気分になった。
茶色いモフモフを体から引きはがそうとしたけれど、毛虫もどきは根でも張ったようにしっかりとカヤの肩にしがみつき、容易には離れてくれなかった。
幸い、毛虫もどきはカヤに襲い掛かってくることもなく、ただじっと肩にしがみついているだけだった。
ちょっとした襟巻、というかネックウォーマーみたいな感じ。
実際ふわもこ素材の毛虫もどきは暖かかった。
洞窟の中にいた時はあまり分からなかったけれど、高山の夜の冷気は容赦なくカヤの体温を奪い取っていた。
茶色いモフモフが一緒にいるのは、そういう意味でも案外悪くない。
まあいっか、放っておけばそのうち離れるだろう。
カヤはぺたんと洞窟の入り口に座り込み空を見上げた。
山の夜空は水晶のように澄んでいて、明るい星たちが凍り付いたように輝いていた。
これからどうしよう。
山を下りて、村に戻って……それから?
元の仕事に戻ることは出来ないだろう。
ていうかわたしが戻りたくない。
だってわたしは、姫様に殺されかけたのだ。
今更あの館で、同じ人たちにお仕えすることはわたしには出来ない。
こっちから願い下げである。
けれど、それ以外にこんな小娘に出来る仕事があるだろうか?
そもそも村に戻れるのだろうか?
わたしは今、どんな風に惣の人々に思われているのだろう?
玉姫はどういう風に説明するのだろう?
「はぁ……」
思わずため息が漏れた。
先のことを考えるとひどく落ち込んだ気持ちになった。
「きゅい~?」
毛虫もどきが頬に身体をこすりつける。
「何ですか?」
「きゅぃきゅぅ」
毛虫もどきは頬を撫で、首筋を柔らかな毛でくすぐった。
「励ましてくれるのですか?」
「きゅぅ~♪」
毛虫もどきの身体は暖かく、柔らかかった。
顔をうずめると干した布団のような気持ちの良い匂いがした。
高山の夜は冷え込んでいる。
温かな起毛素材の毛虫もどきは心地よかった。
「……はっ!」
カヤは慌てて毛虫もどきから顔を引きはがした。
弱っている時に優しくされると、つい気を許してしまいそうになってしまう。
これはきっとこの毛虫もどきの巧みな戦術なのだ。
見た目で女を油断させ、いい匂いで安心させて、ヤル!
なんという的確で隙のない生殖戦略……!
「わたしはあなたに気を許したりなんかしませんからね!」
カヤは毛虫に向かって指を突き付けた。
毛虫もどきは頭(?)の上に疑問符を浮かべて、体をくねらせた。
なぜだろう。
ひどくむなしい気分になった。
「わたしは一人で何をしているのでしょう……」
カヤは視線を逸らした。
満月は明るかったが、さすがにこんな夜中に移動したいとは思えない。
何をするにしても朝まで待つ必要がある。
朝までこんな場所にいたら体を壊してしまう。
仕方ないから洞窟の中に引き返そうと立ち上がり。
「あれ?」
森の中に何かが見えた気がした。
目を凝らす。
見間違いかと思ったが、
それは明りのようだった。人がいるのだろうか?
でもこんな人里離れた山奥にいったい誰がいるのだろう?
森の中で祈りを捧げる修験者か。
あるいは、姫様たちか――
カヤは少し考えた。
姫様に自分がまだ生きていることがばれたら面倒なことになるかもしれない。
けれど、知らない人なら助けてもらえるかもしれない。
焚火の一行が朝までいる保証はない。
一人は心細かった。
誰か、他の人と一緒にいたいと思った。
カヤは明かりの様子を調べてみることにした。