3:賀茂の黄金姫
1
翌日の賀茂の屋敷は不気味なほどの静けさ包まれていた。
けれどよく見れば、門柱に大きな刀傷が残っていたり、庭の隅に壊れた矢じりが散乱していたり、土塀の一部が崩落していたり……館のいたるところに城攻めの後のような傷や痕跡が残っており、前日行われたであろう、玉姫と直儀さまのけんかの激しさを物語っていた。
ていうかなんで、けんかという水準をはるかに超える破壊痕が残っているような気がするのは気のせいだろうか?
親子で太刀を抜いて切り合いでもしたのだろうか?
こわぁ……
もっとも、それくらいのことはやりかねないのが、賀茂の鬼姫のゆえんなのだけれど。
夕方になってカヤの元へ琴美さんがやってきた。
「カヤ、探したよ」
琴美さんがわざわざ炊事場まで来るのは珍しい。
カヤは手を拭いて琴美さんを迎え入れた。
「どうしたのですか?」
「私と一緒に北の丸まで来てほしいの」
カヤは首をひねった。
呼び出された先、館の北の丸には姫君たちの私室があることくらいはカヤだって知っていた。
けれど、呼び出される理由が分からなかった。
姫の居室にはカヤのほかに先客が一人いた。
賀茂家の棟梁、賀茂直儀その人だった。
直儀さまと玉姫は互いに押し黙って座っており、部屋にはもう何時間も争った後のような緊迫感が漂っている。
まるでそこだけ空気とは違う気体が充填されているようで、正直、めちゃくちゃ入りにくい。
「姫様、料理番のカヤをお連れしました」
ふすまの横で逡巡しているカヤをしり目に、琴美さんはその場にひざまずき、堂々と声をかける。
ちらりと直儀さまは横目でカヤを一瞥し、不可解そうな顔をした。
なぜここにカヤがいるか分からないらしい。
カヤ本人にもさっぱりだし、さもありなんって感じである。
一方の玉姫様は、カヤを見て満足そうに微笑んだ。
ますます意味が分からなくなった。
「分かった、分かりました」
不意に、玉姫様が口を開いた。
「分かった、とは?」
直儀さまが問い返す。
「お父様の頭が金剛石より硬いということは、ふかぁぁぁぁあく理解しました。ええ、もう、骨身にしみて、感動するほどに……お父様には何を言っても無駄なようです。私がお山に行って生贄になりましょう」
「おお」
「ただし――!」
お姫様はびしっとお館様に長い指を突きつけた。
「ただし、条件が一つあります」
玉姫様は続けた。
「お山に登るのに私一人というわけにはいかないでしょう? 供の者を付けてちょうだい」
「なんだそんなことか」
「その供の者は私が選びます」
「……」
御館様は、とても微妙そうな顔をしてお姫様を見た。
「お前」
「何ですか」
お姫様はまなじりを吊り上げて見返す。
直儀さまは続けた。
「……逃げたら許さんぞ?」
「分かってるわよ。そんなに心配ならちゃんとお父様の手の者でも何でも付ければいいじゃない1 私が死んだって、その人に報告させればお父様も納得するのでしょう!?」
「むぅ……」
直儀様は唸り声をあげた。
「お付きの者には、そうね……侍頭の熊井直忠の息子、えっと熊井六郎太とか言ったかしら? それから、私の護衛鹿山雷太郎」
姫様が指を折りながら供の名を上げていく。
そして最後に選んだのが――
「そしてお付きの女官としてそこのあなた、料理番のカヤを連れて行くわ。それでどう?」
「…………?」
……なんで?
たぶん、玉姫以外のその場にいたすべての人がそう言いたかっただろうと思う。
少なくともカヤにはなぜそこで自分の名前が出るのかさっぱりわからなかった。
疑問は疑問だったけれど、カヤは所詮ただの料理番である。
勤め先のトップの言うことには諾々と従うしかない。
社畜の悲しいサガだった。
そんなわけで一週間後、カヤは玉姫と一緒に山ツミ岳の山道を登っていた。
生贄の儀式は山ツミ岳の中腹にあるという、古い神社で行われる。
2
山ツミ岳は登りやすい山だった。
登山道は意外としっかりと踏み固められており歩きやすいし、道に迷うこともなかった。
人の滅多に登らない霊峰というイメージを持っていたカヤからすると少し意外に思われた。
まるで毎日誰かが登っているかのようだ。
もしかしたら修験者か僧侶が修行場に使っているのかもしれない。
けれどそれは毎日忙しく働いているカヤにとっての話。
普段ろくに体を動かさない人からすると、違う意見もある。
「あ、あんた達、待って……待ちなさいよ……」
「大丈夫ですか、姫様」
カヤは足を止め背後を振り返った。
そこには汗まみれのお姫様がいた。
玉姫は美しい女である。
透明感のある肌は儚いほどに白く、長いまつげに縁どられた瞳は、吸い込まれてしまいそうなほどに大きかった。
けれど、それらすべてを凌駕して、何よりも目を引くのはその長い髪である。
玉姫の髪は黄金のように輝いている。
比喩とかではなく、文字通り金色の髪をしているのだ。
息をのむほど美しい、という表現が似合う人はそういない。
玉姫はまさに息をのむような美人だった。
慣れない山道にすっかり参った姫君は、木の根に足を取られてたたらを踏む。
「あぶない」
お姫様に見とれていたカヤは慌てて姫に手を伸ばした。
が、一瞬遅かった。
体を引っ張ることは出来たものの、その勢いを完全に殺すことは出来ず、二人は一緒になって倒れこむ。
「いたた……」
「うぅ、姫様、重いです……」
下敷きになったカヤはうめき声をあげた。
「大丈夫か」
先を歩いていた武者――熊井六郎太と、後ろについてきていた姫様の護衛、鹿山雷太郎が慌てて駆け寄ってくる。
「わたしは大丈夫ですけど、姫様が疲れてしまったみたいです。少し休憩しませんか?」
「休憩なんて平気よ。私はまだ歩けるわ」
と言って玉姫は勢いよく立ち上がり、バランスを崩して再び地面――というかカヤの上に、尻餅をついた。
「痛い……」
「ご、ごめんなさい!」
マジぶん殴ってやりたいです……なんて思ってないですよ?
二人の武者はため息をつき、しばらく休憩を取ることにした。
出発したのは夜明け前だったが、もう昼近くになっていた。
これは野宿も覚悟しないといけないかもしれない。
玉姫は倒れたスギの上に腰かけて、ほっと一息をついた。
「はい、これ、お水です」
カヤは姫に水筒の水を渡す。
「ええ、ありがとう……さっきは本当にごめんなさい」
「別に大したことないです。気にしないでください」
そこで会話は途切れた。
カヤは玉姫のことをそれほど知っているわけではない。
当たり前だ。
玉姫は有力軍事貴族、賀茂家の娘で、カヤは単なる料理人である。
もしかしたらカヤが作った吸い物や煮つけを玉姫様が口にしたことくらいはあるかもしれないけれど、そのことを玉姫が認識していることはほとんどないだろうし、カヤだってよく分からない。
だから少し気になった。
なぜ、玉姫は生贄になると決めたのだろう?
武家の習いだから?
領民のことを思ったから?
それとも、何か別の理由?
「……どうかしましたか?」
不意にカヤは姫様が自分のことをじっと見つめているのに気が付いた。
姫様は視線を逸らした。
「何でもないわ」
姫様に会話をする気はないらしい。
カヤはため息をついた。
「そろそろ行きましょう」
野太い武者の声が二人を呼ぶ。
二人は立ちあがった。
しばらく急な坂道を登ると、不意に強い光が差して、カヤは思わず目を細めた。
森はそこで終わっていた。
そしてその向こうに、赤茶けた山肌が広がっている。
その二つの領域の境界に、白く色の抜けた鳥居が立っていた。
それが山ツミ岳の社だった。