2:領民の直訴
1
都から歩いて二十日ほど、美しい山並に囲まれた中野国賀茂ノ庄では、最近、人攫いが頻発している。
攫われるのは決まって嫁ぐ前の女の子ばかりで、どれだけ親が目を光らせていても、いつの間にかいなくなる。
いなくなった子供は決して見つからず、たまに道端に服の切れ端が残っていれば運がいい方と言われる始末である。
子供たちを奪われた農奴たちは怒りの声を上げ、手に手に農具を取り合って、領主の館へと押し掛けた。
その地を代々領地としてきた賀茂氏の当主、賀茂直儀は、「そんなことを言ってもな」と、百姓の代表たちを前に肩をすくめた。
「私とて村々に一族の者を配置して、人攫いどもには目を光らせている。これ以上何が出来るというのだ?」
直儀は線の細い男だった。
身の丈はせいぜい五尺ほど、痩せ型で色白く、初対面でこの男が天下に名高い武門の棟梁、賀茂党の宗主だと判断するのは難しいだろう。
けれど農奴たちは気を緩めなかった。
直儀がただものではない。
彼が評定衆の一人として、都で辣腕を振るったことは東国の領民たちにも知られわたっていた。
それに本人に力はなくとも、その背後で具足をまとう武者たちは容易に彼らを殺せるだろう。
一人の農奴が口を開いた。
「直儀さまが監視を増やしていらっしゃることは承知しております。が、人攫いどもは一向に捕まりませぬ。もしかしたら、他に原因があるのではないかと村の衆は言っております」
「他に原因?」
「子供たちはヤマカミに攫われたのだ、と」
「ヤマカミか……」
直儀は語尾を濁した。
賀茂ノ荘は山に囲まれている。
北の山クイ岳、西の山ツミ岳、どちらも古くから知られる霊峰であり、そこには古いカミが住まうという。
カミは恐ろしい。
彼らの業は人智を越え、気まぐれにヒトの生活を破壊する。
もっともカミが悪事を働いていたのはそれこそ神代の話である。
今は人の世、カミの祟りなんて聞くことは滅多にない。
それは分かっている。
けれど同時に、カミへの畏怖は人々の本能に刻み込まれ、風習として残っていた。
「……ヤマカミはなぜお前たちの子供をさらうのだ?」
「分かりませぬ。もしかしたら我々が何かカミの怒りの触れるようなことをしたのかもしれませぬ。特に理由などないのかもしれませぬ。我々にはカミのことはわかりませぬ」
直儀はため息をついた。
懇願するように農奴たちは頭を地面にこすりつけた。
「どうか、われらをお助けください」
百姓はやせており、顔は悲しみに歪んでいた。
それも仕方ないだろう。
彼らは大切な家族を奪われたのだ。
直儀は憐れむような視線を百姓に向けた。
館の外から争うような声が聞こえる。
声はだんだんと大きくなっているようだ。
もしかしたら近隣の村からまた集まっているのかもしれない。
もちろん、館に詰める郎党、合力せば、武装した農民程度、蹴散らすことは訳もない。
しかし――
しばらく考えて直儀は口を開いた。
「分かった」
「直儀さま」
「我が家に伝わる古い儀式をやってみよう。古文書によると、器量の良い娘をヤマカミに差し出せば、カミの怒りは解け、村には五穀豊穣が訪れるという。その儀式を、今一度やってみてから様子を見るのはどうだろうか?」
百姓たちは色めきだった。
自分たちの娘を生贄として差し出せと言われたと思ったのだ。
ただでさえ子供がさらわれているのに、これ以上我が子を失うようなこと、到底受け入れることは出来ない。
それを見て、直儀は人を食ったような笑みを浮かべ、立ち上がった農奴を黙らせた。
「誰がお前たちの娘を差し出せと言った。だいたい、お前たちの娘に器量のいい娘がいるのか? あか抜けないしみったれた子供を捧げてカミの怒りに触れたらどうする?」
虚仮にされた農奴たちの顔が怒りに赤らむ。
直儀は続けた。
「私の次女がもう十六になる。性格に難がないわけではないが、器量は良い。あの子を捧げればよかろう」
一瞬、目の前の男が何を言ったのか分からず、農奴たちはぽかんと顔を開いた。
直儀は今、何と言った? 自分の娘を生贄に捧げる?
この男は気が狂っている。
毒気を抜かれた男たちは散り散りになって村々へと帰って行った……
2
とまあ、そんなことがあったらしい。
らしいというのは伝聞だ。
カヤはその場にいなかったので、後から全部、同僚に聞いたのだ。
同僚の名前は琴美という。
琴美は賀茂家で召使をしている。
「で、何か言うことはないの?」
話を終えた琴美は、ひどく恨めしそうな目でカヤを見ていた。
カヤは小首を傾げた。
そんな目で見られる心当たりが一向に思い当たらない。
「……何かあったのですか?」
カヤの質問に、琴美は逆に問い返した。
「こんなこと、お姫様が知ったらどうなると思う?」
カヤは少し考えた。
ここで言うお姫様とは、生贄にささげられることになったお姫様のことに違いないだろう。
直儀の次女の名前は玉姫様という。
玉姫様の気性の激しさは有名で、賀茂ノ庄ではちょっとした伝説みたいになっていた。
その玉姫様を生贄にする?
「あー」
「あー、じゃないよ!」
琴美は文机に拳をぶつけて勢いよく立ち上がる。
その眼には一筋の涙が浮かんでいた。
きっと館でひどい目にあったに違いない。
カヤは優しい目で琴美さんを見た。
「わたしの胸で泣きますか?」
「子供扱いすんな! 私の方が二つも年上なんだからな!」
琴美は拳で涙をぬぐい続けた。
「ていうかなんでそんな他人事みたいなのよ!? カヤだって同じ賀茂家の召使じゃん! 姫様たちのお相手をするのは私もアンタも同じなんだからね!」
「それはそうですけど……」
カヤはあいまいに頷いた。
琴美の言っていることは嘘ではない。
わたしは琴美と同じく賀茂家で召使をやっている。
お姫様たちとは年齢も近いし、話をしたことがないわけではない。
とはいえ、二人の立場はかなり違う。
「あなたは女房、わたしはただの庭師兼料理人――立場が全然違うし」
琴美は、うぐぐ、とうめき声をあげた。
女房とは貴人の身の回りのお世話をする召使のことである。
貴人というのは今の場合、賀茂家のお姫様たちのことで、要するに琴美はお姫様たちのお世話係をしているのだ。
だから彼女は姫様と直に接する機会も多い。
それに比べれば単なる料理人なんて、接する機会はほとんどゼロに等しいわけで。
琴美はがっくりと机の上に突っ伏した。
「明日には怒りが解けているといいんだけど……」
「……化けて出ないでくださいね? 恨むなら、玉姫様か直儀さまにしてください」
「死ぬの!? 私は玉姫に殺されるの!?」
カヤは首を横に振った。
さすがに死ぬことはないだろう、けど、とても大変なことにはなるだろうなあ、とは思う。
同情したカヤは、琴美の背中を撫でてやった。
背中の中ほどまで伸びた長い髪がさらさらと指の間を流れていく。
琴美は呻くように言った。
「カヤのバカ」
「はいはい」
「それに直儀さまも」
「……」
「自分の娘を生贄にするだなんて。直儀さまは何を考えているの……?」
カヤには何も言えなかった。
琴美はほとんど玉姫専属の女房のような扱いだと聞いている。
親しくしている方と離れ離れになるのは、自分の身を切られるくらいつらい。
けれど、賀茂家は武門の棟梁。
その宗主である直儀さまの決定は絶対だ。
いくら姫様が駄々をこねたところで覆ることはないだろう。
玉姫様は、生贄として殺される。