1:モフモフの巣
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少女は途方に暮れていた。
頭上を見上げる。
空は小さく、遠い。
空が小さいのは彼女が穴の底にいるからだ。
穴の深さは百尺以上は絶対にあると思う。
正直、数字はテキトーである。
確かに言えるのは、その穴が自力で這い上がる気には到底なれないくらい深いということと、それほど深い穴なのに底の広さは十畳にも満たないってことくらい。
「はぁ……困ったなぁ」
自然とため息が漏れた。
少女の名前はカヤという。
白い小袖に朱の袴――いわゆる巫女服に身を包み、泥だらけで穴の底にいることを除けば、どこにでもいる感じの良い女の子に過ぎない。
カヤがこの穴に落ちて、かなりの時間が過ぎていた。
が、助けが来る様子は一向にない。
当たり前だ。
彼女が落下した穴は人里離れた深い山の奥にある。
こんな場所まで人が来るはずもない。
だから、助けは来ない。
そして自力で登ることもできない。
ついでに言うと、水も食料も持っていない。
「これは、絶体絶命……?」
緊迫感の薄い声が土壁に響いた。
カヤだって自分の状況が芳しくないことくらいは理解している。
人は水を飲まなければ数日で死ぬのだ。
このままでは自分の最期はかなりみじめなものになるだろう。
それくらいは分かっている。
分かっているけど、いまいち現実感が湧かないのだ。
その原因はたぶん、いきなりの状況の変化に彼女の頭が追い付いていないということもあるし、それから周りの絵面のせいでもあると思う。
「ひゃんっ!」
いきなりぬるっとした何物かが足裏に触れ、カヤはその場で飛び上がった。
慌てて視線を足元に移す。
そこには、ひどく不格好な生き物がいた。
最初、それは蛇のように見えた。
茶色くて、長くて、そこそこ太い。
まるで紐のような生き物と言えば、ほとんどの人がそう勘違いすると思う。
けれど、ちゃんと見ればその生き物が蛇でないことはすぐにわかるだろう。
毛が生えているのだ。
枕くらいの大きさの身体を、もふもふとした長い毛が密に覆っている。
その上、顔があるべきところにそれらしいものはなく、その代わりにただ丸っこい毬のようなパーツが一つ、ちょこんとくっついていた。
強いて近い生き物を上げるならば毛虫――すごく大きくて毛並みの良い毛虫である。
……毛虫というにはあまりに大きすぎるし、たぶん全然違う生き物だろうけど、見た目的には近しく見えた。
そんな毛虫もどきが穴の底には何匹も蠢いていた。
色も大きさも千差万別、茶色いのがいれば鮮やかな緑色の個体もいた。
中には漆でも塗ったみたいに派手な赤い個体もいて、穴の底は絢爛豪華な絵巻物のように彩られている。
どうやらこの穴は彼らの巣穴らしい。
毛虫もどきの身体は弾力があり、穴に落下したカヤが怪我をしなかったのは、彼らがクッションになってくれたからのようだった。
「変な生き物……というか、物の怪?」
カヤは足にぶつかった一匹を持ち上げる。
柔らかな毛並みはビロードの様な肌触りで大変触り心地が良い。
持って帰れるなら一匹家に持って帰りたいくらいだ。
地面から引き離された巨大毛虫は小首を傾げ、あたりを探るように鼻先を振る。
その拍子に腕から滑り落ちそうになって、カヤは慌ててモフモフを抱え直した。
毛虫もどきは顔のような丸いパーツをカヤの着物の襟に押し付け、「きゅぅ~♪」とご機嫌な猫のような満足そうな声を上げた。
意外と可愛い声してるなあ……
カヤは思わずなごんでしまった。
次の瞬間、何の前触れもなく毛虫もどきの先端についていた丸いパーツがぱかんと割れた。
たぶん、それは口なのだろう。
大輪の花のように開いた丸いパーツの内側はピンク色の粘膜が広がっていた。
口内の様子を美しいとかかわいいとか評する人はそんなに多くないと思う。
それがどんな美人やイケメンのものでも、口の中の、歯とか粘膜までキレイなんてことはそうそうない。
ましてや謎の毛虫もどきの口だ。
「き、キモいんですけど!?」
「きゅぅうぅ~♪」
毛虫もどきは大きく口を開け、少女の胸へと飛び込んでくる。
驚いたカヤは毛虫もどきを思い切り放り投げた。
宙を舞うモフモフ、振りぬかれた少女の足は白く、滑らかで、美しかった。
お手本のようなボレーシュートがさく裂する。
毬のように蹴り飛ばされた黒い体は宙を舞い、ぼてんと地面に転がった。
と、同時にカヤの小さな足から草履がすっぽ抜ける。
「あ」
向かった先には、ひときわ大きな毛虫もどきがいた。
どれくらい大きいかというと、長さはカヤと同じくらい、太さと言ったら、米俵くらいはありそうだった。
べしっ、と割と痛そうな音がして、草履は地面に転がった。
カヤは凍り付いたように動きを止めた。
眠りを妨げられた黒い毛玉がのっそりと上体を持ち上げる。
その先端にある大きな口なら、人の頭くらいならぺろりとマルカジリできそうだ。
毛虫もどきはのそのそとカヤに近づいてきた。
「お、落ち着いて! 話せばわかるはずです!」
慌てて謝る、が、もちろん毛虫もどきに日本語が伝わるわけもない。
た、食べられる――!
思わず目を閉じた、しかし、覚悟した痛みや衝撃はなかなかやってこなかった。
「……?」
恐る恐る目を開けた。
大きな毛虫モドキは、巫女服の袖に噛みついていた。
もしかしたら目がないから服と体の区別がつかないのだろうか?
なんにしてもチャンスであることに違いはない!
カヤは相手を刺激しないようにゆっくりとその場を離れようとして――ぶちっ、と何かが切れる音が穴の底に響いた。
「へ?」
まじまじと手元の布地に目をやった。
着物は肩口でちぎれていた。
そんなに強く引っ張ってないのに、なぜ?
動揺し、動きを止めるカヤに向かって、モフモフが再び襲い掛かる。
毛虫もどきは今度は腰巻に噛みついた。
布地は毛虫もどきに噛みつかれた場所から徐々に張りを失っていき、あっという間に半分液体みたいになって脱げ落ちていた。
「ふ、服が溶けてる!?」
なんでー!?
意味が分からなかった。
意味は分からなかったが、とにかくこの生き物に噛みつかれると服が溶けるということは分かった。
もちろんカヤは露出狂ではないので、こんな場所で素っ裸になりたいとは思わない。
緩んだ布地をかき集めるようにして肌を隠しつつ、謎の生き物から距離を取る。
けれど、いくら穴の底が広いとは言え、それでもせいぜい十畳ほど。
カヤはあっという間に壁際に追い込まれてしまった。
これは、マジで、ヤバいのでは……!?
カヤは何かないかとあたりを見回した。
よく見れば壁には小さな穴がたくさん開いている。
集合体恐怖症の人なら泡を吹いて倒れてしまいそうな光景だけど、見方を変えれば掴む場所がたくさんあるということだ。
意外と登れる……なんてこともあるかもしれない。
カヤは土壁に手を伸ばして、すぐにひっこめた。
壁面は湿っていて、まるで生きているみたいにぬめぬめとしていた。
若干――いや、かなぁーり触りたくない!
生理的に無理!
壁際で逡巡するカヤの背中に毛虫もどきは迫っていた。
「ぷいぷい~♪」
「くそぅ! 調子に乗りやがって~っ!!」
思わず悪態をつく。
他に方法はない。
覚悟を決め、カヤは壁の穴に手を伸ばした瞬間――にょろん、と穴から出てきた細長い生き物とコンニチワ――
「ぎゃあぁあ、ナニコレ!? マジキモいんですけどぉっ!?」
慌てて手を引く、けれど、その時にはもうカヤの両腕ははい出てきた謎の触手にからめ取られていた。
ちょ、マジマジマジ!!??
触手はばっちり両腕に巻き付き、押しても引いても取れそうにない。
なんだこれなんだこれ!? いったい何がおこっているのですか!?
壁際で拘束され、可愛いお尻を突き出して暴れる少女の元へ、色とりどりのモフモフ達が迫る。
足元から巨大毛虫達が這い上がってくるうぞうぞとした感覚に、カヤは思わず悲鳴を上げた。
「この触らないでください! 変態! やだっ!」
少女の体の上を毛虫もどきが這いまわる。
ぬめる粘液が小袖をふやかし、形を失った襦袢が重力にひかれストンと脱げ落ちた。
露わになった白い肌に毛虫もどき達が噛みついた。
毛虫モドキの口は痛くなかった。
牙とかはないらしい。
その代わり、ぬめる粘膜は生暖かく、きめ細かな少女の肌に隙間なく張り付いた。
毛虫もどきは肌に吸い付く。
「んひゃぃっ!?」
甘い痺れるような感覚が背筋を走り抜け、口から変な声が漏れた。
気持ち悪い、とも言いきれない。
でも、これを気持ちいいって言ったらいけない気がする!
なんというか、こう、女子として!
未知の感覚に戸惑いながら、それでも少女の本能が告げていた。
これはちょっと、いやかなり、シャレにならないのでは!?
頭の中では気の早い走馬灯が回転を始めていた。
なんでこんなことになったのだろう?
なんでわたしはこんな暗い場所で変な化け物の餌にならなくちゃいけないんだろう?
カヤはその原因を思い出す。
事の始まりは一週間前、百姓たちが直訴をかましたときにさかのぼる……