想いの籠った幸福の刺繍(改稿)
読んでいただけたなら幸いです。
2018年05月26日改稿しました。
「ブレッド、チャールズ。俺が居ない間は母さんの事を頼んだぞ! 」
「うん。解ったよ父さん! 」
「はい。とうさん。」
「じゃあ、行ってくるよ。セシリア。」
「そんな…大げさな。夕方には帰って来るじゃないの。」
キャッキャと笑う、末娘のリリーを高い高いしながら、その男、ダニエルは、妻であるセシリアに向かって笑う。
「とうさん。まだたかいたかい…。」
せがむリリーを静かに下ろすとダニエルは妻を抱きしめる。
「行ってらっしゃい! 」
抱擁と頬にキスをされながら、セシリアはいつものように夫を送り出した。
ここは『森』と呼ばれる森林の中に遺跡が点在する
ダンジョンの傍にある街。
ダニエルはその『森』で、魔物を狩り、魔核と呼ばれる魔物の心臓を取って生計を立てている。
行ってきますと手を振る姿を見送ると、彼女は出掛ける準備を始めた。この時間からは、彼女の仕事が始まるのだった。
まずは逃げるブレッドとチャールズを捕まえて、着替えをさせる。算数や文字といった勉強を教えて貰っている教会に預けるためだ。
勉強の嫌いな男の子二人を捕まえて、近くにある教会まで連れて行くのは、毎日の事とはいえ大変だった。
リリーはどちらかと言うと大人しく、まだ枠の付いたベッドの上でその光景を眺めている。
やっと腕白たちを送り出して、今度はリリーを近所の友人であるドロシーに預けに行く。
「かあさん。いっちゃうの? 」
別れ際にリリーがそう言うが、同じ年であるリリアンに誘われてあっという間にお人形遊びに夢中になった。
「ドロシー。ごめんね。今日も預けちゃって…。」
「良いわよ。一人も二人も変わらないって。リリーはお利口さんだし。」
ドロシーにお礼を言って自宅に帰り、子供たちが散らかした玩具や衣服を片付ける。
洗濯は今日はお休みにする事にしていた。
「さて、準備しますか。」
セシリアはそう言うと、お裁縫道具に布地を詰め、貴族が住む街の方へと向かった。
今日は毎週水曜日のお茶会の日だったからだ。
街の中心部にあるお屋敷に着くと、上品な紳士が出迎えてくれる。執事のジョナサンさんだった。
「奥様がお待ちです。」
そういう彼に案内されて、ふかふかのカーペットの上を歩く。木靴で居るのがちょっとみすぼらしいと思ってしまうが、彼女は気にしない事にする。
ジョナサンさんの手で、ドアが開けられると、そこには貴婦人然としたベアトリスさんといかにも職業婦人と言った風な装いのパメラさんが居た。
いつものお茶と刺繍の会の始まりだった。
*
セシリアがベアトリスと初めて会ったのは、セシリアが刺繍を施した布地を買い取ってくれるデイビス商会の一室だった。
出来上がったハンカチやスカーフ。そしてテーブルクロスを納品しに来たセシリアは、商会主のデイビスに直接呼ばれ、何かしてしまっただろうかとびくびくとしながら上機嫌な彼に案内される。
そして着いた部屋に居たのがベアトリスだった。
彼女はセシリアの刺繍を褒めちぎり、是非わたくしにも教えて欲しいと言って来た。
ただ、貴族様とお話しをする事さえおこがましいと言う価値観の中で育って来たセシリアは、恐れ多くて恐縮してしまう。
「私を貴族とは思わず、お友達となってくださいな。」
そういうベアトリスにも最初は何の罠かと思ったが、何度か会って話をするうちに、様が取れ、ベアトリスさまと呼ぶようになっていた。
それはむしろベアトリスが望んだ事だった。
パメラは初めてベアトリスと会った時に、既にその部屋の中にいた。冒険者ギルドで仕事をしている平民ですと言った彼女が、気さくにベアトリスに話しかけているのを見て、セシリアは安心したのだった。
セシリアは子供の頃から刺繍が得意だった。
出来た布地は、村の女性たち皆から褒めてもらえ。それが嬉しくてセシリアはさらに刺繍にのめり込んだ。
そんな刺繍の出来栄えを見たデイビス商会の行商人の目に留まり、セシリアは街に出て働く事になったのだった。
たまに売り子として店を手伝いながら、奥の部屋で刺繍をする。
そんな店番をしている時、夫であるダニエルと知り合ったのだった。
そして結婚した二人は二男一女を得て、豊かではないけれども不自由はしない程度の暮らしをしていた。
*
「セシリアの刺繍はいつ見ても綺麗ね。まるで本当の花がそのまま布に閉じ込められたみたい。」
ベアトリスの言葉に我に返る。
「まだまだです。ベアトリスさまのシロユリも大分形になって来ましたね。…あ、ここはもう少し細い糸の方が良いと思いますよ? 」
セシリアが縫っていたのは、ダニエルに持っていて貰うためのハンカチ。白い布地の四隅には、幸運を願うクローバーがあしらわれている。
ベアトリスは、生まれたばかりの娘の花嫁衣裳の刺繍は自分で縫いたいと思って、誰に習おうかと思っていたらしい。
そして、デイビス商会で見たセシリアの刺繍に一目惚れしたのだった。渋る商会主に何とか頼み込んで、セシリアと会わせてもらったのよと笑う。
セシリアと同じく、上二人が男の子、一番下が女の子だった事もあって、二人は話が良く合った。腕白ざかりの男の子に手を焼くのは、貴族でも変わらないんだなとセシリアは思う。
ベアトリスの刺繍は、最初はお世辞にも上手いとは言えなかったが、今縫っているスカーフのシロユリは、セシリアから見ても綺麗だなと思える物になっていた。
パメラも頑張ってはいるが、彼女は中々上達しない。
彼女はセシリアとベアトリスの会話を聞いて、微笑んでいる時間が長かった。
*
「今日はね。ベアトリスさまの刺繍が完成して、みんなでお祝いをしたのよ。」
家に帰って来たダニエルに嬉しそうに話すセシリア。
家族の誰もが、顔は見た事が無くともベアトリスの事を知っていた。セシリアが本当に楽しそうに彼女との時間の事を話すからだった。
「それでね。この前出来たネーム入りのハンカチをご主人にプレゼントしたら、有名なお店の香水を買ってもらったらしいの。」
「そうなんだ。」
「それがね。デイビスさんに聞いたら、小さな瓶で金貨二枚もするんですって。ちょっと嗅がせてもらったんだけど、女の私でもうっとりするような香りだったのよ。」
「へえ…。」
なんの他意も無く、セシリアは話し続ける。
その時、ダニエルの笑顔がほんの少しだけ曇った事に、その時の彼女は気が付かなかった。
*
「今回の仕事は、ちょっと長くなるかも…。それでも五日くらいかな? 」
それから三日ほど経って、ダニエルからそんな話が告げられた。
「今までそんなに長いお仕事なんて無かったじゃない…。大丈夫なの? 」
「なに…。今までと変わらないよ。ちょっと『森』の奥まで行くから、時間が掛かるってだけさ。」
今まで聞いた事が無い話に心配をするセシリアに、ダニエルはそう言って笑う。
ダニエルは、普段は安全過ぎるほど安全な狩りしかしない事にしていた。
だから、ギルドに頼まれて初心者を教える教官としての仕事を受ける事も多く、そんな彼をセシリアは誇りに思っていた。
そんな彼が、危険だとされる『森』の奥まで行くと言うのだ。
たとえ仲間が良く一緒に組んでいるベテランぞろいのメンバーだったとしても、セシリアは一抹の不安を覚えない訳には行かなかった。
翌日、準備を整えたダニエルに、セシリアは出来たばかりのハンカチを渡す。危ない事があっても幸運に護られますようにと願いを一針一針込めたクローバーが刺繍されているものだ。
「ブレッド、チャールズ、お母さんの言う事はちゃんと聞く事。リリー、行ってくるよ。…それじゃ、俺が居ない間は頼むよ。セシリア。」
笑顔で子供達を撫で、セシリアを抱きしめて頬にキスをすると、行ってくるよと出掛けるダニエル。
「行ってらっしゃい。あなた。」
セシリアはその背中に、何故か胸騒ぎを覚えるが、彼を止める事はしなかった。
*
四日ほど経ち、子供達にお昼ご飯を食べさせ終わった頃、家にパメラさんが駆け込んで来た。
「どうしたの? パメラさん。」
息を切らせたまま、呼吸が落ち着くのを待っているようなパメラに、セシリアはブレッドに言いつけて水を持って来させる。
「…セシリアさん。驚かないで聞いて欲しい。……ご主人のパーティが行方不明になった。」
セシリアの視界は真っ暗となった。
*
長椅子に寝かされて、意識がはっきりして来た頃、他にも家を訪ねてギルド職員たちが来ている事に気が付く。
――ご主人は、『森』の奥にある遺跡の探索をされていましたが、その遺跡から突然バジリスクが出現し、複数のパーティが散り散りになってしまったようなのです。
――他のパーティは何とか合流出来たようなのですが、ご主人のパーティだけはその姿を見失ってしまったようでして…。
ギルド職員は、そう説明するが、セシリアの頭には上手く言葉が入って行かない。
子供達も心配そうにセシリアの顔を眺める。
「何故…そんな危険なところに…。」
『遺跡の中は危険だから絶対に入らない。』
ダニエルはそう言っていたはずだった。
――言いにくいのですが…。奥様にプレゼントしたいものがあると言って、普段は受けられないような仕事を探して欲しいと受付の者に言っていたようでして…。
『それがね。デイビスさんに聞いたら、小さな瓶で金貨二枚もするんですって。ちょっと嗅がせてもらったんだけど、女の私でもうっとりするような香りだったのよ。』
そんな事を言った時、彼の顔がほんの少しだけ曇った事を思い出す。
「私の…せいだ…。」
泣き崩れるセシリア。
「セシリアさん。いらっしゃる? 」
そんな時、家の玄関からベアトリスの声がする。
話を聞いて、パメラと共に直ぐに駆け付けたという事だった。
パメラにお願いして、子供達を別室に連れて行ってもらう。
「大丈夫だから。きっと大丈夫。私のせいで…本当にごめんなさい…。」
セシリアの手を取りながら、励ますベアトリス。
一連の話を聞いた後、励ましながら謝り続ける。
「…今日からしばらくはこちらにお邪魔しますわ。」
「いえ。ベアトリス様をお招きするなんて、恐れ多くて…。」
「こんな時はね、一人で居ちゃダメですの。それは間違いないわ。」
泣きはらした目の二人は、そう言いあうが、結局セシリアは折れる事になった。
*
次の日から、冒険者を探すものとは思えぬ大規模な捜索隊が組まれた。
どうやらベアトリスが手を回してくれたらしい。
セシリアはどうやって感謝したら良いか解らなくなる。
だが、二日経ち、バジリスクは発見されて捜索隊によって討伐されたものの、ダニエル達のパーティの行方は杳として解らないままだった。
「あいつらもうダメなんじゃないか…? 」
そんな声もちらほらと聞かれるようになって来たらしい。
セシリアは食事すら喉を通らないでいた。
子供たちは、今日は教会へと既に送り出していた。
リリーだけはしばらくうちで預かるわねとドロシーが預かってくれている。
心配してくれるベアトリスとパメラにも申し訳無かった。
もう、大丈夫ですから…。そう言おうとした時、乱暴にドアが叩かれて、ギルド職員がセシリアの家に入って来る。
「き…北門に…冒険者の…グループが来…ていて…顔が解らない…と。」
息を切らせながら駆け込んで来たギルド職員の話を聞き終わるか否かのタイミングで、セシリアは北門へと向けて走り出す。
もし彼が居なかったら…。もし彼が居なくなってしまっていたら…。
そんな思いを抱えながら、一マイルほどの道のりを駆けた。
息が切れ、足がもつれそうになってもセシリアは走るのを止めない。街行く人々もどうしたのかと驚いて振り返るが、そんな事も彼女は気にならなかった。
*
そこには、少しやつれた顔をしながらも、元気そうなダニエルが手を振っていた。
「なんで…なんで…そんな危ない事したのよ! 」
抱き着きながら、セシリアは本気で怒る。
「君が…セシリアが不自由な思いをしてるんじゃないかって思って…。」
「それで勝手にそんな危ない思いをしたって言うの! 私はあなたと居て不自由なんて思った事なんて無いわ! あなたさえ居てくれたらいいの…。」
言葉の最期が溶けるように消えると、セシリアは泣きじゃくる。
そんな彼女にダニエルは懐からハンカチを取り出す。
泥に汚れてしまっているものの、セシリアが縫ったクローバーの刺繍は、しっかりとそのハンカチに残っていた。
「何度ももうダメだと思ったけど、これを見て絶対に生きて帰らなきゃ。そう思ったんだ。」
そんな彼に泣きながら抱き着くセシリアを見て、後を追って来ていたベアトリスもパメラも涙を流すのだった。
*
念のための聞き取りが終わり、セシリアとダニエルは自宅へと帰る事にする。
ベアトリスとパメラは、また今度お話を聞かせてと言って、その場で別れた。
ダニエルに何があったか話を聞かせてもらう。
バジリスクが出た後、何とか合流出来た彼らは、そのバジリスクの追跡を受けていた。
一度狙いを定めると、バジリスクは完全に見失うまで追って来る。
怪我をした仲間が居た為、中々ペースが上げられなかった。
このまま街へ戻っては、バジリスクを連れて帰ってしまうと思ったダニエル達は、ダンジョンの西側にある山を越える事を選択する。
超えた辺りには小さな村があり、バジリスクの追跡を振り切る事が出来れば、その村まで逃げ込む算段を立てた。
何とか山を越えて麓まで降り、バジリスクの姿が見えない事を確認した。
そして、村へと向かう道の途中、突然今度はオーガに遭遇してしまう。
――マズい。他の人間の姿を見たオーガが何をするか解らない。
慌てて村まで走り、オーガが出た事を伝えた。
――何も言わず、オーガを村に押し付けてしまえば逃げられる。そう思ったけど、そんな事をして生き残っても、君たちには二度と胸を張る事は出来なかっただろう。
そうして、皆を避難させる準備が出来た頃、ある老夫婦から足の不自由な娘が居なくなった事を告げられた。
きっと西の森に行っているはずだと言われて、自分達が逃げて来た方だと気が付いたダニエル達は、慌ててその森へと向かう。
この時ばかりは死を覚悟して向かったが、オーガは既に倒されていた。
傷ついた農夫と精も根も尽き果てて動けなくなっている娘。
その二人を手分けして運び、村へと着く。
オーガを倒したのはその娘だった。
驚くダニエル達だったが、娘が騎士団に居た女騎士だと知って納得する。
「…そうして、後は峠を越えて街に帰って来れたんだ。」
ダニエルは、心底ホッとした表情で、家族の顔を眺める。
いつもは父親の膝にどちらが座るか揉めるブレッドとチャールズも、今は大人しく話を聞いていた。
「ただ、逃げる時に装備をほとんど捨ててしまって、今回の戦利品は何も無いんだ。だけどね。俺の話を聞いた農夫と女騎士が、これを贈ってくれたんだ。貴方たちがオーガの事を知らせてくれなかったら、きっと大事なものを失っていたって言われてね。」
ダニエルはそう言うと、粗末な木の小瓶をセシリアに渡す。
「だから、これだけが君に渡せるプレゼントなんだ。」
ダニエルはそう言って項垂れる。
「何を言ってるの。あなたが生きて帰ってくれたじゃない。それが私たちにとって一番のプレゼントだわ。」
そう言うと、セシリアはダニエルに口づけた。
*
ダニエルが持って帰って来た香水は、ひどく優しく、そして心まで落ち着くような香りがした。
誇らしげに首筋に付けて、いつもの刺繍とお茶の時間に向かう。
抱き締めてくれたダニエルにも喜んでもらえた。
セシリアにとってはそれだけで良い。それだけが良い。
ベアトリスの屋敷で、彼女に会う。
「ベアトリスさま…。本当にありがとう。もう…なんてお礼を言ったら良いか解らないの。」
彼女にはどれだけお礼をしても足りない。
「じゃあ、ご主人に何があったか聞かせてくださる? お礼はそれだけで良いわ。」
セシリアは、ダニエルに聞いた話をベアトリスに話した。
「本当に…。あなたが居なかったら私どうなっていたか…。ありがとう…。」
セシリアはベアトリスを抱きしめる。
友人だとは言っても、今までは貴族に抱き着くなんて出来なかった。
ただ、どうしても感謝と友情をセシリアは示したくなったのだった。
セシリアが付けていた香水の香りにベアトリスは気が付く。
「その香水は、女神の涙と言って、各国の王族位しか手に入らない希少なものなの。使い差しでも天井知らずの値段が付くものだから、貴族の居るようなところでは付けない方が良いわ。」
彼女はそう言って笑うのだった
いかがでしたでしょうか。
楽しんでいただけたなら幸いです。
拙作の『月待草の香水瓶』も併せて読んでいただけると嬉しいです。
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