不信のとき
お父さんが自殺未遂したのは私のせいだった。
お父さんの不倫を知ったのはまったくの偶然で、放課後に友達とカラオケに行ったとき、たまたま女と一緒にいるお父さんを見かけて、女はお母さんと同じくらいの歳だったけど、お母さんみたいに太ってはなくて、華やかな感じがあって、私は少しいやな気がした。でもお父さんが不倫してるとは思いもしなかった。たまたま会社終わりに女性からカラオケに誘われて、お父さんは優柔不断なところがあるし、断りきれなかったのだと思った。だからホントのことを言うと、女性から誘われるお父さんが誇らしくもあった。
お父さんは私に気づくことなくカラオケ店に入っていって、私はお父さんに気づかれることなくカラオケ店を出た。電車に乗ってるとき、メールすることを思いついて、〈今度の日曜日、お母さんと三人で映画に行かない? もうすぐお父さんの誕生日だし。でも私はおじゃまかな?〉と送った。
お父さんとお母さんは仲がよかった。よく話をしてたし、ソファーで一緒にテレビを見ることもあったし、寝室も同じだったし、激しい口争いをしてるところは見たことがなかったし、たまにはお母さんがふてくされることもあったけど、あくる日には明るいお母さんに戻ってて、娘からすればステキな夫婦に見えた。
家に帰ると、お母さんは料理を作っていた。私はお父さんが不倫なんてするはずないと思いこんでたし、だからお母さんに「もしお父さんが浮気してたら、どうする?」と聞いた。お母さんは何もないように笑って、「浮気なんてできる人じゃないよ」と答えた。私はからかおうと思って、「言いにくいことだけど、お父さんが女の人と手をつないでるところを見て」とまじめに言って、でもそれは失敗だった。大失敗だった。お母さんから真剣な顔を向けられて、私は〈という夢をきのう見たんだけど〉と言うタイミングを失って、あとは流れるように流れた。
お母さんは「本当はずっと秘密にしようと思ってたんだけど」とお父さんの不倫について話しだした。お母さんがお父さんの不倫を知ったのは三年前で、そのときから夫婦の仲は悪くなっていた。でも娘のために離婚をすることはなく、娘の前では仲良くしていた。お母さんはお父さんがいつか不倫相手と別れることを信じていて、離婚をするつもりはないようだった。今はあまりよくないけど、またもとに戻れると。
私はお母さんのためは泣いた。お父さんの裏切りが悲しかったのではなくて、ただお母さんがかわいそうで、だから涙が出てきた。お父さんには不倫相手がいたけど、お母さんには誰もいなかったし、一人でかかえこんでて、そんなお母さんのために泣いた。
その日から私はお父さんを無視するようになった。お父さんは「あの女とはもう会わない」と何度も謝ったけど、私は許す気にはなれなかったし、永遠に許さないつもりでいた。そんな私に、お母さんは「離婚をした方がいい?」と聞いた。私はお父さんが不倫相手と一緒になってほしくなったから、「別に今のままでいいよ。でもお母さんが離婚したいなら、すればいい」とそっけなく答えた。
お父さんとは三ヵ月ほど口を聞かなかった。そしたらお父さんは首をつってしまって、でも無様に失敗した。ひもをカーテンレールにくくりつけて、それに首をつって、カーテンレールが折れて、落ちて、足を捻挫した。机の上には遺書があった。そこには不倫相手のことが書かれていた。私やお母さんのことも書かれてたけど、不倫相手への情熱が中心で、不倫相手は癌になっていて、もうすぐ死ぬので、遺骨の一部をわたしてほしい、そんな内容だった。
お父さんが自殺未遂をしたのは、不倫相手のためかもしれないけど、私のせいでもあった。私が知らなければ、不倫相手は死んで、お父さんとお母さんはもとに戻ったかもしれないのに、私が知ってしまったせいで、私がお父さんを無視しつづけたせいで。でも私はお父さんに同情したけど、許す気にはなれなくて、だからお父さんを無視しつづけた。
お父さんとお母さんは別居を決めた。娘のために同居していた人たちは、娘にために別居することになった。お父さんは家を出ていき、私とお母さんは家に残った。お父さんは生活費をはらってくれて、お母さんはパートタイムで働きはじめて、私はふだんと同じように学校に通った。
「ねえ、お母さん、竹下舞って知ってる?」
「知らない。誰?」
「小説家」と私は言った。「私もよく知らないんだけど、小説の中に〈恋愛は当事者にしかドラマがないが、不倫は当事者以外にもドラマがある。父が不倫していることを知ると、子供、母、祖父母、それぞれにドラマが生まれる。たぶん不倫の話は書きやすいのだろう。だから不倫の話ばかり書いている作家は信用できない〉とか書いてて、しかもその短編集はぜんぶ不倫のお話で、おかしいよね」
「まだお父さんのこと、許さないの?」
「許すとか許さないとか、もうそういうことじゃないし。お母さんがお父さんに会いたいなら、別に会ってもいいよ。でも私は私がしたいようにするから。ただ小説を読んで、なんとなくいろんな立場を考えてみただけ」
「余計なおせっかいかもしれないけど――」
「ごちそうさま」と私は手をあわせた。「好きから嫌いになるのは簡単だけど、嫌いから好きに戻るのは難しいし、私は今のままでいいから」
私は洗面所に行って、歯をみがいた。これまではテレビドラマで不倫の話があっても何も思わなかったけど、あの日から不快な感じになって、だからチャンネルを変えるようになって、でも小説だとなぜか最後まで読めた。安っぽい話でも妙に感動したりして。歯みがきを終えると、カバンをとった。
「行ってきます」と私は言って、玄関をあけた。
家の前に知らない女の子が立ってて、少しびっくりした。彼女は私と同い年くらいで、背はとりわけ高くないけど、足がとてもキレイで、でも郵便受けを見つめてる姿は不審者っぽくて、かかわりたくない感じだった。
「えっと、なにか用ですか?」と私はたどたどしく言った。
「いえ、まさにインターホンを押そうかと思いまして」
「はい、それで、なんの用事で?」
「佐藤英治さんのおうちはこちらですか?」
「佐藤英治は私のお父さんですけど」
「やっぱりそうだったんですね」と彼女は言って、郵便受けを指さした。「ここには佐藤貴子と千春しか名前がなかったから違うかと思ったんですけど、でもやっぱそうだったんですね。ここ、佐藤英治さんのおうちなんですよね」
「よくわからないんだけど」と私はいぶかしげに言った。「私はもう出かけるから、用があるなら家にお母さんがいるから」
「いえいえ、お母様ではいけません。こういうことは娘同士の方がいいですし。千春さんは部活動に行くんですよね?」
「まあ、そうだけど」
「でも、なんか運命ですよね。同じタイミングに亡くなるなんて」
「よくわからないんだけど」と私は言った。でもなんとなく見当はついてて、落ち着くためにちらりと空を見上げた。「で、なんなの?」
「吹奏楽部ですか、それ?」と彼女は私のクラリネットのケースを指さした。「かわいいですね、その入れ物。なんの楽器ですか? 組み立てるやつですよね? クラリネットとかですか?」
「オーボエ。で、あなたは誰?」
「私は土岐静香と言います」と静香さんは私のとなりを歩きながら言った。「母と英治さんはお付き合いをしていて、それで母も亡くなったので、遺灰を持ってきたんです。私、あまり信じてなかったんですけど、やっぱ運命ってあるんですね。母が亡くなったときは悲しかったけど、遺書を見つけて。でもステキですよね」
「ちょっと待って」と私は立ち止まった。「なんでステキなの? 運命って?」
「そうだ! 部活動はサボれませんか?」と静香さんは言い、ショルダーバッグから小瓶をとりだした。「これ、母の遺灰です。これから遺灰をまきに行きませんか? どこがいいですかね。やっぱ海がいいのかな。二人はあの世で結ばれるんですね」
「ちょっと人の話を聞いてよ。静香さんだっけ? そうやって一人で話をすすめないで。私にだって言い分はあるんだから」
「はい、聞きます」と静香さんは私の目を見つめた。
私は何も言わずに歩いていった。空は秋晴れで、遠くの山はなんとなく紅葉してて、風はなくて、でも私の気分は最悪で。なんでこんな女と一緒に歩かないといけないのかわからなかったし、何も聞きたくなかった。それに、なんで母親が死んだのにこんなに明るくなれるのか、とにかく気分は最悪だった。
「英治さんはなんでお亡くなりになったんですか?」
私は無視して歩いていった。静香さんは私のすぐ後ろをついてきて、足音だけが聞こえてたけど、それも無視して、少しずつ速足になっていった。バス停につくと、時刻表を見て、あと十五分もあったから、次のバス停まで歩くことにした。静香さんは何も言うことなく後ろをついてきて、私は足音だけを聞いて、私たちはバス停で立ち止まった。
「ごめんなさい」と静香さんは深々とおじぎをした。「何か癪にさわることを言ったんですよね? ごめんさない」
「別に怒ってるわけじゃないよ。ちょっとびっくりしただけ。で、静香さんはどこまで知ってるの?」
「うち、母子家庭だったんですよね。だから親子の絆は強くて。でも何も知らなかったんです。うすうすは母にお付き合いしてる人がいるとはわかってたけど、暗黙の了解というんですかね。だから母の遺書を見たときには、もうドキッとしました。びっくりもしましたけど、それよりもドキドキで」
「私のお父さんは結婚してんだよ。そのことは知ってる?」
「はい」
「それなのに、それなのに、なんでそんなに楽しそうなの? 私の気持ちは考えてみた? 私のお母さんの気持ちは?」
「だって好きになったんだから、しょうがないじゃないですか?」
「なんで? そんな開き直られても」と私は言った。とにかく腹がたってしょうがなかった。「しょうがなくないよ、ぜんぜん。犯罪だよ、犯罪。不倫は犯罪。腹がたったから殺して、しょうがないなんて言わないでしょ、普通? それと同じで、不倫しておいて、好きになったからしょうがないなんて」
「母も悪いかもしれないけど、英治さんも悪いじゃないですか?」と静香さんはかよわい声で言った。「私だって悲しいんです。千春さんにはお母さんがいるけど、私は母と二人暮らしで、だから」
老婦人がこちらに歩いてきて、私たちの後ろに並んで、だから会話は中断した。バスが来た。私は乗りこむのに躊躇したけど、後ろに老婦人がいたから、しかたなく乗りこんだ。静香さんもついてきて、私に断ることなく、となりに座った。私は学生服で、静香さんは私服で、少し居心地が悪くて、窓の外をずっと見て、バスに乗ったことを後悔して。静香さんは黙ったままで、手には小瓶を持っていた。遺骨が入った小瓶を。
「遺書になんてあったのか聞いてもいいかな?」と私はしのびやかに言った。
「もちろんです。今日、持ってきたんです」と静香さんはショルダーバッグから封筒をとりだした。「たしかに母は悪いですし、千春さんのお母様も悲しい思いをしたかもしれません。でももう起こったことなんですから、受け入れるしかないんですよ」
私はウンザリしたけど、とりあえず遺書を読むことにした。そこにはお父さんの遺書と同じようなことが書かれてて、私は遺書を封筒におさめて、静香さんに返した。静香さんはそれを大切そうにショルダーバッグに戻した。
「母は乳癌で亡くなったんですけど、なんというか、デリカシーのないことを聞きますけど、英治さんはなんの病気で?」
「残念なお知らせだけど、お父さんは生きてるよ」
「でも、郵便受けには名前は――」と静香さんは言った。「今は病院ですか? もしかして病院に向かってるんですか?」
「捻挫はもう治ったみたい」
「どういうことですか?」
「郵便受けの名前がお母さんと私のしかないのは別居したからで、だから英治という名前はなかった」と私は丁寧に言った。「お父さんは自殺未遂をした。一ヵ月くらい前のこと。遺書には〈土岐静江さんに私の遺骨を少しでいいので届けてください〉と書いてあった。で、お父さんとお母さんは別居することになった。お父さんはもう死ぬつもりはない。私が知ってることはそれだけ」
「よかったですね、生きてて」
「なんで? なんで生きててよかったの? 死んだ方がよかったかもしれないし、静香さんのお母さんも亡くなったんでしょ? 死んだ方がよかったじゃない?」
「英治さんのこと、嫌いになったんですか?」
「別に」
「わかります、その気持ち」
「そう」
「ごめんなさい」
「別に静香さんが謝らなくてもいいよ」
「でも母は悪くないです。英治さんは自殺してもしかたがない人なんです」
そのあと静香さんは黙ったままで、何も言わなくて、窓の外には見慣れない景色が続いてて、私はバスの停車予約ボタンを押した。お母さんが言うにはアパートはバス停から歩いてすぐで、私は早くつきたかったけど、でもずっとつきたくなくて。
「母は乳癌が見つかったとき、すぐには治療しなかったんです」と静香さんは言った。そのときバスが停車した。
バスをおりると、右に歩いていった。でも左のような気がして、立ち止まった。たとえバス停の近くだとしても、知らない場所に行くのは難しいと思った。太陽はちょうど小さな雲に隠れてて、地面にはぼやけた影があって、私は気をとりなおして、右に進んだ。静香さんは少し後ろをついてきた。
「となりを歩いたら?」と私はうながした。
「いいんですか?」と静香さんは明るい声をだして、私のとなりまで来た。
「で、なんで治療しなかったの?」
「英治さんは――」
「待って。もしかしてお父さんと会ったことがあるの?」
「ありません。〈千春さんのお父様〉と言った方がいいですか?」
「別に好きに呼んだらいいよ」
「それなら〈エイにゃん〉と呼びます」
「ふざけてんの?」と私は静香さんの顔を見た。
「ごめんなさい」と静香さんはうつむいた。「話を戻しますと、えっと、そうそう、英治さんは母に〈娘が小学校を卒業したら結婚する〉と約束をしたんです。あっ、私と千春さんは同い年なんですよ。私も中学二年生。だから一年半前に英治さんは離婚しないといけなかったんです。だって約束したんですから」
「ちょっと待って。どうしてそんなこと知ってんの?」
「どうしてって、母から聞いたからです」
「でも、さっき〈遺書が見つかるまで知らなかった〉って言ってなかった?」
「少しは知ってたんです」と静香さんは言った。「英治さんが離婚しなかったから、母は自暴自棄になったんですよ。ちょうどそのとき乳癌が見つかって、それで治療しなかったわけです。もしすぐに治療してたら今でも生きてたかもしれないし、だから英治さんが自殺しようとしたのは母が悪いかもしれませんけど、母が死んだのは英治さんが悪いんじゃないですか?」
私は何も返せなかった。お父さんのために弁解したかったけど、静香さんの母親はもう亡くなってしまったのだし、何も言えなかった。アパートはなかなか見つからなかった。アパートらしきものは一つあったけど、名前は違った。
「どこに行ってるんですか?」
「どこでもいいでしょ」
「部活動は?」
「ホントは部活なんてしてない」
「でもそれは――」と静香さんはクラリネットのケースを指さした。
「どうでもいいでしょ」
「英治さんってクズですよね」と静香さんは言った。私は立ち止まって静香さんの顔を見た。「やっぱ好きなんじゃないですか? 嫌いだったら一緒に悪口を言って楽しめるはずですし。でも私も英治さんのことをクズだとは思ってません。でもやっぱりクズですよ。なんで自殺しようとなんてしたんですかね」
「知らないよ、そんなの。本人に聞いたら?」
「どこにいるんですか?」
「知らない」と私は言った。「その遺骨はどうするつもり?」
「遺骨というか、遺灰です」と静香さんは小瓶をふった。「ほらっ、灰ですよね? 最初は形があったんですけど、ぼろぼろになって」
角を曲がると、アパートが目について、近づくと、お母さんが言ってた名前と同じだった。それは二階建てで、上と下にそれぞれ六部屋あって、私は一部屋ずつ名札を見ていった。一階はすべて違って、二階の一番右に〈佐藤〉とあった。
「ここ、お父さんの家」と私は言った。「土曜だからたぶんいると思う」
「どうしてですか?」
「何が?」
「私のこと嫌いなのに、どうしてつれてきてくれたんですか?」
「別に」と私はそっけなく答えた。「別に嫌いじゃないし、せっかく遺骨を持ってきたんだから。私にだってそれくらいの情はある」
「じゃあ、行きますよ」と静香さんはインターホンを押して、なぜか階段をかけおりていった。
私は一瞬とまどったけど、すぐに静香さんのあとに続いた。静香さんは足が速くて、私も全力で走って、角を曲がると、二人でアパートの方を観察した。二階の角部屋のドアが開いて、男の人が出てきて、でもそれはお父さんではなかった。三十歳くらいで、少し長めの髪を茶色に染めてて、もしかしたら四十歳くらいかもしれないけど、とにかくお父さんではなかった。佐藤さんはあたりを確認したあと、ドアを閉めた。
「けっこうオシャレな人ですね」
「まあね」と私はウソをついた。静香さんはアパートの方に歩いていった。「ねえ、さっきのは何? ねえ、ちょっと待って。どこ行くの?」
「遺灰をわたすんです」と静香さんは振り向くことなく言った。
「待ってよ、ねえ。意味わかんないんだけど。さっきのはなんだったの?」
「あれは私流のコミュニケーション術です。初対面ですし、きっかけがあるとお互いにリラックスできると思って」と静香さんは言った。すでに佐藤さんの部屋の前まで来ていて、静香さんはインターホンを押そうとして。
「ちょっと待って」と私は静香さんの手をとって、左に歩いていった。
「どうしたんですか?」
「あれは別の佐藤さん」
「なんですか、別の佐藤さんって?」
「あった。これだ」と私は立ち止まった。名札には〈佐藤〉とあり、それは手書きの文字で、お父さんの筆跡らしかった。「こっちが本物の佐藤英治」
「あっちは?」と静香さんは右を指さした。
「別の佐藤さん」と私は言った。静香さんが笑うと、私も笑ってしまった。「私は向こうで待ってるから。よく考えると、私がいない方がいいと思うし」
「一緒にいてください」
「でも」
「お願いします」と静香さんは私の手首をつかんで、インターホンを押した。「私だって怖いんです。何を話せばいいのかわかりませんし、それにパニックになりそうで」
ドアが開いた。私はすぐにうつむいた。お父さんの姿を見たのは一ヵ月ぶりで、でも何も変わってなかった。髪の毛はぼさぼさではなかったし、不精ヒゲもなかったし、服も見たことがあるもので、でも何も言わないことにした。お父さんも何も言わなくて、静香さんまで黙ったままで、いつのまにか静香さんは私の手首を放していた。
「ひさしぶりだな」とお父さんは沈黙をやぶった。
「こんにちは」と静香さんは言った。
「こんにちは」とお父さんは返した。
「じゃあ、私はあっちで待ってるから」
「いえ、まだいてください」と静香さんは私の手首をつかんだ。
「でも二人の方が――」
「えっと、私は土岐静香と言います。土岐静江の娘です。母は死にました。月曜日に死にました」と静香さんは早口でまくしたてて、一息ついて続けた。「私は遺書を見て、母の遺書ですね。それを見て、それでここに来ました。いえ、そうじゃなくて、まずは千春さんの家に行って、千春さんがつれてきてくれたんです。それで、これが母の遺書です。せっかくなのでお読みください」
お父さんは封筒を受けとり、遺書をとりだした。お父さんが遺書に目を落としたから、私はさっきよく多く盗み見た。お父さんは顔面蒼白にはなってなく、たんたんとした感じで、私の緊張はちょっとだけゆるんだ。となりから鼻水をすする音がしてて、静香さんの瞳はうるんでて、涙がぽたりと落ちて、私も悲しくなってきた。
「ごめんな」とお父さんは言って、遺書を封筒に戻した。
「でも生きてるってすごいことです。奇跡です」と静香さんは明るく言ったけど、声はうるんでいた。「ぜひ母の遺灰を受けとってください」
「遺灰は受けとれない」とお父さんは封筒を静香さんに返した。「申し訳ない」
「どうしてですか?」
「ねえ」と私は言った。「もしここに私がいなかったら受けとった?」
「受けとってない」とお父さんはきっぱりと言った。
「じゃあ、母はどうなるんですか?」と静香さんは強い声で言った。「約束したんじゃないですか?」
「申し訳ない」
「でも自殺しようとしたんじゃないんですか? 母のために遺書を書いたんじゃないんですか? さっき千春さんから聞きました。それはどうなんですか?」
「あのときはどうかしてたんだ」
「もう母のことはどうでもよくなったんですか?」
「そんなことはないよ」とお父さんはさとすように言った。「決して君のお母さんが好きじゃなくなったわけではない。癌だと知ったときにはショックだった。いや、千春、僕はあれからあの女には一度も会ってないよ。手紙が来て、そこに〈一緒に死んでほしい〉と書いてたんだ。でもそれは約束ではないし、たぶんあの女も僕と一緒に死にたいと本気で思ったわけではない。ただそういうことを書いてしまいたがる女性だった。それで、僕はどうかしてたから自殺未遂をしてしまって、だけどあれは間違いだった。あんなことはすべきじゃなかった。それでもそれに気づいたときには手遅れで。千春、ごめんな。いろいろ気がめいることがあったんだよ。ごめんな。それに、君のお母さんにも申し訳なく思ってる。心から申し訳なく思ってる。だけどそれは受けとれない。僕はもう別の道を歩むことを決めたんだから」
「別にいいんです」と静香さんはあっさりと言った。「母はもう死んだし、母は英治さんのことを思って安らかに眠りました。それでいいじゃないですか? もういいんですよ。じゃあ、私は帰りますので。千春さんはどうします?」
「私も帰るよ、そりゃあ」
「さようなら」
「さようなら」
私は何も言わなかった。あいさつをしたい気持ちはあったけど、口にだすことはなかった。私は静香さんと並んで歩いていった。背中には少し汗をかいていた。恥ずかしさもあったけど、空は高く、すがすがしい気分だった。
「英治さんっていい人ですね」
「そうかな」と私は照れた。
「いい人ですよ。私はクズです。母もクズです」
「そんなことないよ」
「いえ、本当にクズなんです。誠実さの欠片もありません」と静香さんは沈んだ声で言って、ちらりと空を見上げた。「自転車は誰でも乗れる。でも凧あげは誰でもできるわけじゃない。まあ、そういうことよ」
「何?」
「母がよく言ってたんです、〈自転車は誰でも乗れる。でも凧あげは誰でもできるわけじゃない。まあ、そういうことよ〉って。おこづかいが欲しいときとか、学校で何かがあったときとか、私が不満を口にしたら、いつもそう言って、でもそんなこと言われても意味がわからないし、でも結局それで問題はなかったことになるんです。母はそういう人です。ごまかすのが上手なんです」
「みんなそんな感じじゃない? 私だってごまかすことがよくあるよ」
「あのう、一緒についてきてほしい場所があるんですけど」
「どこ?」
ちょうどバスが来ていたので、私たちは走った。席についても、静香さんは何も言わなかった。手には小瓶を持ってて、爪には黄緑色のマニキュアがぬられてて。汗が冷えたためか、窓越しの光はとても暖かかった。
駅につくと、静香さんはさっさと二人分の切符を買って、無言のままプラットホームに行って、そして電車に乗った。二人はドアのそばに立った。静香さんは何も言わなくて、ただ小瓶を見つめてるだけで、その姿には哀愁があった。窓の外には普通の風景があって、少し申し訳なくなってきた。
「正しさってなんなんですかね」と静香さんはぽつりと言った。
「そういう難しいことは苦手」
「そうですか」
「どこに行ってるの?」と私は窓の外を見たまま言った。
「もうすぐつきますよ。私、電車はけっこう好きで。バスはそんな好きじゃないんですけど、バスの中では眠れないし、でも電車だったら眠れるんです。立ってても、こうやって少しもたれてると、うとうとしてきて」
「ゆりかごみたいなのかな」
「ああ、そうかもしれません。バスは信号待ちがありますけど、電車は規則正しいし。駅についたら、お手洗いに行ってもいいですか?」
「うん、いいよ」
電車をおりると、静香さんは私に小瓶をあずけて、トイレに行った。そのあと、なかなか戻ってこなかった。小瓶があったから、私はベンチで待ちつづけた。人がたくさんいて、スーツを着てる男の人も何人かいて、お父さんのことを少し考えた。お父さんのことを許してもいいように思えた。でも許したくもなかった。お父さんがかわいそうで、でもお母さんのことを考えると、少し憎らしくもあった。
静香さんはようやく戻ってきた。
「おまたせ。だいぶ待ちました? ごめんなさい。でもレディーなので」
「いや、大丈夫だよ」と私は立ち上がり、小瓶をわたした。
「これって燃えないゴミですよね」と静香さんは小瓶をふった。
「まあ、そうかな。でももう燃えてんじゃん?」
「そうですよね」と静香さんは笑った。そしてゴミ箱まで歩いていって、小瓶をそこに投げ捨てた。
「何するの!」
「だからクズだって言ったじゃないですか?」と静香さんは沈んだ声で言った。「行きたい場所というのは、この近くです。雑貨屋さんです」
「なんで雑貨屋さんに行くの?」
「一つお願いしてもいいですか? 千春さんは少しのあいだ何もしゃべらないでくれませんか? ややこしいことになりそうなので、絶対にしゃべらないでください」
「うん、いいよ。でもなんで?」
「言葉で説明するのは難しくて。とにかく行きましょう。行ったらわかります。本当にしゃべらないでくださいね」
お店の中には特に何もなく、普通の雑貨屋だった。静香さんは品物を手にとったりしてたけど、私は少し不安で、周囲ばかり気にして、品物には集中できなかった。
ふと、見覚えのある中年女性が目について、とてもびっくりして、すごく混乱した。中年女性はこちらに気づくと、笑顔で右手を軽くあげて、近づいてきた。それはお父さんとカラオケ店に入っていったあの女で、つまりお父さんの浮気相手で、乳癌で死んだはずの人だった。
「しゃべっちゃいけませんよ」と静香さんは私の耳もとで言った。
「けっこう早かったのね」と静江さんは言って、私を見て、また静香さんを見た。
「あっ、この人はお友達で、さっきたまたま会って。このあと一緒にお昼する予定だから。で、あのことだけど、いろいろ予定外のことが起きて、もう大変だったんだから。ママ、本当に危ないところだったのよ。詳しくはおうちに帰ってからするから。じゃあ、私たちはお昼にするから」
「今してよ。あっ、ごめんさないね。大事な用事なの」
「でも」と静香さんは言った。
「ちょっと向こうに行ってますから」と私は約束を破ってしまった。
「待って」と静香さんは私の手首をつかんだ。「お昼は一緒だからね。いい? じゃあ、あっちで待ってて。ママと大事なお話があるから」
私はお店の奥に行った。
静香さんと静江さんは熱心に話をして、私はそわそわして、視線のやり場に困った。何もわからなかった。なんで静江さんがここにいるの? 乳癌というのはウソで、でもなんのために? お父さんは静江さんがまだ生きてることを知らない? 何もわからなかったけど、静香さんが言った〈私はクズです。母もクズです〉という言葉を思いだして、なんとなくわかった気になった。でも何もわからなかった。私は混乱して、逃げたい気分で、でもちゃんと知りたくて。
話を終えて、静香さんはこちらに歩いてきた。静江さんはお店を出ていった。
「おまたせ」と静香さんは言って、頬を手のひらで二秒ほど挟んだ。「ああ、疲れた。ずっと緊張しっぱなしだったから、もう疲れた」
「どういうことなの?」
「だから言ったじゃん? クズなんだよ、私もママも。でも私たちを責めないで。不幸な人間はクズになるんだから。責めるなら社会を責めて」
「全部ウソだったの?」
「そう、ママは癌ではないし、ごめんね。だますつもりはなかったんだけど」と静香さんは言った。「簡単に説明するとね、英治さんは突然ママと会わなくなったみたいで、それでママは気をひくために手紙をだして、〈癌になってもうすぐ死ぬ〉って。でもまさか本当に自殺しようなんて思わなかったみたい」
「もしお父さんが死んでたら?」
「でも生きてるじゃん? それでいいじゃん? まあ、もし死んでたら、自分のために死んでくれて嬉しく思うかも。ママは自分勝手だもん」
「なんで? なんでなの? じゃあ、今日のことは?」
「ママが〈癌になってもうすぐ死ぬ〉と手紙を書いて、でも英治さんは返事をださなかったみたい。でね、今度は遺灰を届けて英治さんがどう反応するか知りたくて、だから私が遺灰を届けに行って、それが今回の件」
「静香さんって最低ね」
「だからクズだって言ったじゃん?」
「じゃあ、今日はどうもありがとう」と私はなぜかお礼を言って、歩きだした。
「もう少しお話できない?」と静香さんはついてきた。私は無視した。「浦島太郎って知ってるよね? 昔話のあれ。太郎は海辺で子供たちにいじめられてたカメを助けてあげて、カメに竜宮城につれていってもらって、それから竜宮城で楽しんで、おみやげに玉手箱をもらって、そのときに〈絶対にあけてはならぬ〉と言われて、でもそれをあけて、中から煙が出てきて、おじいさんになって、めでたし、めでたし」
「その話がどうしたの?」と私はしかたなく聞いた。
「千春さんにお手紙を書いて」と静香さんは四つ折りの紙をふった。「さっきお手洗いに行ったでしょ? あのときに。これを読んだらおばあさんになると思うけど、まあ、おばあさんになりたくないなら捨てて」
「なら、いらない」
「はい」と静香さんは私のポケットに手紙を押しこんだ。「いらないなら捨てて。たぶん捨てた方がいいよ。さよなら。あっ、そういえば、私、高一だから。同い年じゃなくて、私の方が二つ上。じゃあ、さようなら。元気でね」
静香さんは向こうに歩いていった。私は立ち止まって、静香さんは一度も振り返らなくて、後ろ姿は足がキレイで、あらためて見ると年上っぽくて。
私は改札口を通って、プラットホームに行って、電車が来ると乗った。ポケットに手を入れることはなく、ただお父さんのことを考えた。お父さんに浮気相手が死んでないことを伝えた方がいいのか? お父さんはそれを知った方がいいのか? それを知りたいと思ってるのか? 浮気相手はまたお父さんに近づくのか? でもお父さんは別の道を進むことを決めたと言ってたし、それなら? 何も答えは出ないまま、電車はついて、歩いていった。何も知らないお父さんがかわいそうで、胸がじんとしてて。
なにから書けばいいのかわかりませんが、とにかく書いていきます。
母は英治さんのことを心の底から大切に思っています。それは確かなことです。英治さんは母のことを心の底から信頼しています。それも確かなことです。証拠があるのです。でも違うかもしれません。なにから書けばいいのか。
今回の計画をたてたのは母ではありません。私でもありません。英治さんです。英治さんが千春さんとの関係を修復させるために計画をたてたのです。今日のことはすべて演技でした。三人も演技をして、千春さんをだましていたのです。もちろんそれは千春さんと英治さんの関係修復のためです。
英治さんは母に計画に参加するように頼みました。こんなバカげた計画に参加するように頼んだのです。それほど母のことを信頼していたのです。母は英治さんのために悪役を演じることを引き受けました。それほど英治さんのことを大切に思っていたのです。母は計画に私を入れました。私はそれほど母から信頼されていたのです。私はそのことをうれしく思うし、だからこんなものを書いたらいけないのです。これによって計画はハタンしてしまうのですから。
私は母から計画を知らされたとき、英治さんのことをすばらしい人だと思いました。千春さんからすれば、自己中心的な人に思われるかもしれません。でも私はすばらしい人だと思いました。計画が成功すれば、円満になるのです。親子の信頼関係が戻るだけでなく、さらに強くなるのです。
計画を知らされたときにはそう思い、計画に大賛成だったのですが、実際に千春さんに会って話しているうちに、なにか違うのではないかと思えてきました。千春さんをだますことに違和感があり、計画の正しさを疑りだしたのです。英治さんと対面したときはそんな心境の中で演技をしました。混乱のためか、涙まで出てきました。
今、トイレでこれを書いています。これを千春さんにわたすかどうかはまだ決めていません。これをわたすことは母や英治さんの誠意を裏切ることです。もしかすると、すべてを壊すことになるかもしれません。
英治さんは離婚をして、私と母と三人で暮らすこともできたのですが、それはしませんでした。こんなバカげた計画にかけたのです。もちろん計画が失敗しても、英治さんは私たちと一緒になることはありません。英治さんは私たちを選ぶことはありませんでした。リスクをおかしてまで千春さんたちを選んだのです。
英治さんは千春さんのことを愛しています。その愛の形が正しいかどうかは私にはわかりません。それはきっと千春さんが決めることなのでしょう。
英治さんは千春さんの性格をよく知っています。私がどういう風にふるまえば、千春さんがアパートまで行くか知っていたのです。もし私が千春さんに礼儀正しく接していたら、アパートまでつれていくことはなかったのではないでしょうか? 私がいい子であるほど、私と英治さんを会わせたくないと思ったのではないでしょうか? 英治さんはそう思っていたようで、だから私は身勝手な女の子を演じました。
ふと思ったのですが、本当のことなんてないのかもしれません。本当だと思われることしかないのかもしれません。この手紙だってどこまでが本当なのかわかりません。ウソは書いてはいませんが、ただ私が本当だと思っていることを書いているだけで、本当のことを書いているわけではないのかもしれません。ふとそう思いました。