カーテンコール
第六章ですよ
四月十八日の土曜日、午後七時半。神谷家の朝の食卓に四人分の朝食が用意されている。食卓には既に三人が着いていて、誰かのことを待っていた……
「……起きてこないわねぇ……ちょっと起こしてきて〜」
痺れを切らしたように、女性が、彼女の双子の娘達に指令を出す。それを受けた娘達は、
「分かった〜」
と声を揃えて言うとリビングを出て二階へと向かった。二階へ上がり、ある一室の前で止まると、
「起きろ〜」
そう言って、ドンドンとドアを叩く……が返事はない。二人は顔を見合わせると、意を決して、ドアを開いた。すると部屋のベッドに……知らない人間の存在を見つけて驚く。
「あ、あ、あ…………」
二人のうち、活発そうな少女が目を見開き、声にならない声を上げる。もう一人の大人しそうな少女も珍しく驚きの表情を見せている。そこには何と……
「あ、あ、あ、……アカネちゃんの不潔!」
「神谷朱音」という彼女達の兄と、制服姿の同い年くらいの少女が枕を共にして眠っていた。
活発そうな女の子―樹亜はそう叫ぶと、涙目でリビングへと向かった。もう一人の大人しそうな女の子―実亜は走り去っていく姉と、眠る二人を交互に見た後、
「待ってよ樹亜ちゃ〜ん」
そう言って姉の後を追った……
「う〜ん……えっ、ちょっと待ってよ?そこはサ行下二段活用だか…………ってえーーーー?」
寝言の様にぶつぶつ言っていた朱音が飛び起きる。
(えっ、ちょっと待って……えっ何で?)
朱音は自分の顔を確かめるという、映画やドラマで行われている確認法を実践してみる。
(生きている……まさか、今までのって……夢?)
辺りを見回してみる。そこは紛れも無く朱音の自室。なぜかポケットに入っていた携帯を取り出してみると「4/18 07:33 sat」の表示。壁にかけられたデザインクロックはいつも通り、静かに時を刻んでいる……お約束のように頬をつねってみると、
(……痛い)
当然のように痛覚の訴えが帰ってくる。
(……夢……のわけないよな?)
そう思った後、自分の横に寝ている人影に気づいてまた朱音は飛び上がった。
(何だ何だ?一体どうなっているんだ?)
数時間後、朱音はキルハと共に学校の屋上にいた。
ちなみに起きた後は、妹達が母を引き連れて戻ってくる前に、キルハを窓から脱出させ事なきを得た。その後、会社の用事で早くに家を出ていた父を除く四人で、いつも通り(・・・・・)の朝食を取り、学校へと来たのだった。
学校へ来ると、こちらもいつも通り(・・・・・)の光景が朱音を出迎えてくれた。都子に元気な挨拶をされ、ユウキと軽口を叩き合い、ヨシノは話しかけるとどもった。他のクラスメイト達とも、いつもの様に挨拶を、会話を交わした……以前と何ら変わったところは無い様子だった。
……一つ一つを終える度に、朱音が泣きそうな顔を見せた以外は……
「驚いたよ」
先に口を開いたのは朱音だった。
「あの時、確かに自分が貫かれた(・・・・)感触があったんだ……『ああ、僕は死ぬんだな』って……それなのに、なぜか生きていて、起きたらキルハが横に寝ているのだもん……心臓が止まるかと思ったよ」
そう言って朱音は空を見上げて笑った。そんな朱音に対してキルハは、
「あの時……確かに私はアカネ君を貫きました……いえ、貫いたはずでした……」
肩の辺りまで短くなった髪を右手で押さえながら、そう考え込むような表情で言った。
キルハが朱音の胸にクラウソラスを突き立てたその瞬間、目の前で信じられない光景が広がっていた。朱音の体から、「四季」であるキルハでさえ、生まれてより感じたことの無い膨大なエーテルが沸き起こり、クラウソラスの剣先を肉体の表面へと押し戻したのだ。驚くキルハが一旦朱音から離れると、朱音の体は宙に浮き、一瞬、背中の痣が十字を描くかのように強い光を辺りに放った……まるで、貼り付けにされた「救世主」の様に……
痣は徐々に光を失うと朱音の背中から消え、朱音の体は再びゆっくりと地面に降りてきた。
その後だった……朱音の体内にあった「アガペー(神の寵愛)」の反応がキルハに感知できなくなっていたのだ……
「あれには驚かされました……まさか、「アガペー(神の寵愛)」を体内で消滅させるなんて聞いたことありませんでしたから……」
言ってキルハは、少しだけ暗い表情になる。朱音には「アガペー(神の寵愛)」の消滅は伝えたものの、「エーテル」と「痣」については話していない……いや、話せなかった……
「ははは、僕も驚いてるよ……僕の中で眠っていた「謎の力」が働いてくれたのかな?」
朱音がキルハの方ではなく、空を見上げながら言う。
「ええ……きっとそうですよ……」
キルハがそう言うと、二人は笑った……わざと、お互いに気づかないフリをして……
数秒間の沈黙の後……今度はキルハから口を開いた。
「アカネ君、短い間でしたが……ありがとうございました」
突然の別れの言葉に、バッと向き直る朱音。
「書物も取り返せましたし……もう、ミズガルズにいる理由はありません」
キルハはわざと感情を込めずに言い放つ。それを「理解」し、黙って聞いている朱音。
「今から……もう一度だけアカネ君に魔導を掛けます……眼を閉じていただけませんか?」
言われるまま、目を瞑る朱音。数秒の後、キルハのエーテルを僅かに感じた。
「眼を閉じたまま聞いてください……今掛けたのは『ハウルト(欠ける月)』……忘却の魔導です」
「!」
朱音は目を開けようとして、
「開けないでください!お願いです……」
ぐっと堪えた。
「……数分後、アカネ君には、私……そしてこの五日間にあった私に関する出来事を全て忘れていただきます……私達の都合で巻き込んだのですから、それが一番だと思うのです……」
朱音が口を開く。
「そんなの……そんなの嫌だよ!キルハ、別れるだけじゃなく……記憶も失うなん……」
朱音は言いながら気づいた、キルハが泣いている事に……朱音は「日常」を取り戻せたことによってすっかり忘れていた、自分という存在を「忘れられる」恐怖と悲しみを……
「私だって……私だって辛いのです……あなたと別れるのは!あなたに忘れられるのは!でも……アカネ君がこれから、「平穏な日常」を送るには、覚えていてはいけないんです……私のことなんて……」
泣きながらもキルハは続ける。
「だから……お別れです。涙なんて見せたくないんです。別れる時くらい笑って……桜のように最後まで、凛と咲き誇っていたいんです」
目蓋の裏に広がる暗闇の中で、彼女の鳴き声だけが朱音の耳に届いていた……
何秒が経過したのだろう?キルハは泣き止むと、
「アカネ君、最後に私のお願い事を聞いてくれませんか?」
そう言って恥ずかしそうに笑った。朱音は眼を閉じたまま頷く。
「一つは……もう一度だけ、今度はアカネ君の方から口付けをしてくれませんか?」
言われて朱音は顔を赤らめる。赤らめながら、
「お安い御用です、お嬢様」
と、とぼけた口調で言ってみせた。キルハはフフフと可愛らしい笑い声を上げる。
「二つ目は……嘘でもいいんです。恋人の様に(・・・・・)私のことを抱きしめてください」
そこまで言うとキルハは、目を開けてくださいと言った。朱音がゆっくりと目を開くと、目の周りを赤くしながらも、いつもの百合の様な笑顔で笑うキルハの姿があった。
「ありがとう、キルハ……何度お礼を言っても言い足りないくらいだけど……ありがとう……」
朱音はそう言うと、キルハの唇に、自分の唇を重ねた……五度目のキスは今迄で一番、朱音の体温を上昇させた。自分からするのは初めてではないが、あの時は無我夢中でどうやったかなんて覚えていない。唇が、ゆっくりと離れると、今度はキルハを力一杯抱き締めた。キルハの肩辺りで揃えられた髪が、頬にくすぐったい。
朱音の五感がキルハの体温を感じる、キルハの吐息を感じる、キルハの鼓動を感じる……
「キルハ……好きだよ……嘘なんかじゃなくて、本当に……大好きだよ!」
あと数十秒後には、確実に、そして恐らく永遠に(・・・)忘れてしまうであろうそれらを、本当に心から惜しむ様に、そして慈しむように、朱音はキルハの華奢な体を強く、強く抱き締めた……
『ありがとうございます・・・私も、アカネ君のことが……大好きです』
声と共に……キルハは春風の様にそっと……朱音の腕の中から消えた……
「……キルハ?」
答える者は……もういない。
「……キルハ…………キルハ!」
キルハが消えてから記憶を失うまでの数秒間、朱音は叫び続けた……叫んだところで何が変わるわけではない。しかし……彼にはそうするくらいしか彼女を送る術が無かったのだ……
何度彼女の名を叫んだだろうか?
突如、朱音の中で「パリン」とガラスが砕けるような音と共に、かけがえの無い記憶が……風に吹かれて掻き消えた……それは、彼が始めて愛した「悪魔」との悲しく、儚い……しかし美しい恋の物語……
一人になった朱音は、なぜ自分が屋上にいるのかを考えながら、ある童話の一説を思い出していた……
『風はいろいろなところへ私たちの思い出をのせてふきます。そしていつか、私たちの大切な人たちが、その風にふかれたときに、私たちのことを少しでも思い出してくれるように、私たちはいつまでもここでおいのりしているのです』
思い出して、空を見上げると……自分でも気づかないほど静かに、涙が頬を流れ落ちた……そんな朱音の横を、突如風が吹きぬける。それは、すれ違いざまに彼の髪を揺らし、
『……ありがとう』
そう言って去っていったような気がした。
たった今すれ違った風と、再び出会うことはもう二度とないだろう。
彼ら「ヒト」という生き物はきっと……そういう世界に生きているのだから……
読んでいただいた方々、ありがとうございました
一旦、話は終幕しますが、最終話というわけではなく、ストーリーの中の大きな枠組み、小説で言えば一巻が終わったという感じです。
近いうちに二部を書いていきたいと思っています。