エグゼキューター
朱音の、ウルヴァとの三度目の遭遇から数時間後……
怪しげな、妖気とも言うべき空気を纏った森を前にするキルハと、朱音。そこはデルバトスが手紙で、決戦の場に指定してきた場所であった。時刻は午前零時の少し前。藍空市の外れに位置するこの森は、普通に歩けば半日はかかりそうなところ、ティルが手配した車によって、三十分ほどでたどり着いた。
ちなみにティルはキルハたちを送り届けると、「工房」へと戻った。「キルハ様の足手まといになる」とはティルの弁だが、実際には「工房」への襲撃の可能性を考慮しての行動であった。
来るべき決戦を前に朱音は、つい先程キルハから授けられた剣を右手に握り締め、これまでの五日間を改めて思い返していた……
朱音にとってこの一週間は、言葉通り「人生を変えた」ものであった。突如現れた、異世界からの住人に殺されかけ、また別の世界の住人に救われた。自分を救ってくれた彼女の名は、キルハ……とても美しく、戦いの最中ですら笑みを失わないその姿に、自分でも知らないうちに恋に堕ちていた……彼女は朱音に世界の真実を聞かせた。「マナの枯渇」、「ゲート」、「忘却のカオス」に「エインヘリャル」……そして……
『ラグナロク』と呼ばれる「ヒト」の大虐殺計画……
(もし……デルバトスを倒せたとして、その後に普通の日常に戻ることは出来るのだろうか?)
ふと、朱音の頭に、今まで考えないようにしていた疑問が浮かんだ。デルバトスを倒せたなら、朱音には二つ大事なものが戻ってくる……はず(・・)である。自身の「ヒトとしての肉体」、そして彼の「思い出」だ。その二つが戻ってきたとき、朱音は「ヒト」としての生活を取り戻すことが出来る。しかし……
(本当にそうなのか?この一週間にあったことを忘れて、「ヒト」としてのうのうと生きていくことが僕にできるのか?)
朱音は感じてしまった。自分という存在が忘れ去られる恐怖、それによる「カオス」を……
朱音は知ってしまった。この世界の真実を。その絶望的なまでの残酷さを……
突如、先程とは比べ物にならない、禍々しいまでのプレッシャーを感じて朱音は思考を中断された。朱音たちの目の前、十メートル程の所に大量の霧が渦巻くと、それが薄れると共にデルバトスとウルヴァが現れた……
「……ようこそ……逃げずに来てくれて嬉しいわ「メルテッドスノウ」……そして……カミヤアカネ」
そう言うとデルバトスは、片腕を前に出し紳士のように頭を下げる。
「お招きいただき、ありがとうございます。天使からのご招待……というのも中々趣があってよろしいかもしれませんわね……天国以外の場所であれば」
そこまで言うとキルハは辺りを見渡し、
「随分とおもてなし(・・・・・)にも気を使っていただいたみたいで……光栄ですわ」
そう続けて、微笑んだ。
「なんせあの「四季」……中でも「処刑人形」として悪名高い(・・・・)あなたが相手ですもの……これくらいは当然でしょう?」
そう言うと、顔に付けた仮面が揺れ、ケタケタと気味の悪い笑い声を上げる。キルハは珍しく「処刑人形」という単語への不快感を僅かに顔に顕していた……
「では早速だけど、始めましょうか。まずあんたの欲しいものは……あそこ」
そう言って指差したのは遥か上空。そこには、ガラスの様な素材の正立方体が浮かび、中には破られた書物らしきものが入っている。
「あれは、私が死なないと開かない仕掛けになっているの……どう、分かりやすいでしょ?」
視線をキルハに戻し、笑いながら言うデルバトス。
「確かに、分かりやすいですわね……良い趣味をしているとは言えませんが」
そう言って笑い返す、キルハ。二人の間には既に激しい火花が散っているようであった。女達の戦いを横目に、今度は自分の番だと言わんばかりにウルヴァが話し出す。
「お前達の希望通り、神谷朱音の相手は私がしよう」
そういうとウルヴァは一歩前に出た。それを見てキルハは朱音に声をかける。
「アカネ君……短い期間ですが、あなたはとても強くなりました……それこそ、私やティルが驚くほどに。ですがもし、危険だと感じた場合はすぐに逃げること。これだけは約束してくださいね……」
そう言って、朱音の唇に軽く触れるくらいのキスをする。その瞬間、キルハから送りこまれたエーテルにより、朱音の体内に施された「魔導」が発動され、朱音の体が淡く光りだした。以前掛けられたものと同様、「キス」によって発動することを事前に聞かされていたとはいえ、顔を真っ赤にする朱音。
(やっぱ柔らかいな……ってそんなこと考えている場合じゃないだろ!)
呆けていた朱音を見ながら、「フォルテ(強制開放)」の発動を確認したキルハは、
「ご健闘をお祈りいたしします」
そう言って微笑むと、少しだけ朱音から距離をとり、自らも戦闘体制に入るべく、体内のエーテルの開放を開始した。
眼を閉じて、ゆっくりと呼吸をし、「自分」と「世界」との間に存在する「理」をつなげてゆく……「カチリ」とキルハの中で何かのピースがあるべき場所に嵌った瞬間、彼女の周りで暴風とも言うべき風の奔流が巻き起こり、その大きさを増していった!
その体からは視認出来るほどに密度の濃いエーテルが溢れんばかりに放出され、数秒の後に、恐らく限界まで膨れ上がったそれは、さながらそこに巻き起こった小規模な台風のようであった……台風は淡い緑色の輝きを放ちながら急速に収束してゆくと、中心から彼女の正装とも言うべき、漆黒のモーニングクロースに身を包んだキルハの姿が現れた……
すぐ傍で発せられる、膨大な量のエーテルに、感知はできなくとも、朱音が改めて驚く。
(これが……これがキルハの……「四季」の全力のエーテル……)
そんな朱音を見て再び笑顔を見せるキルハ。
「目の前でこの姿になるのは初めてでしたわね。この姿、結構気に入っていますのよ?」
そう言ってスカートの端を摘んで、持ち上げてみせる。しかしその背後では……
「敵の目の前で……」
キルハの臨戦を待たずしてゴングが鳴らされる。いつの間にここまで移動したのか……デルバトスの鎌が、キルハに襲い掛かる!
「イチャイチャしてんじゃないわよ、スヴァルトヘイムの操り人形が!」
そう叫びながら振りぬかれた鎌は、持ち主の意とは反して空を切った。
「何!?」
完全に捕らえたと思ったのか、振りぬいた鎌が一回転して体勢を崩しそうになる。
「まったく……従者もせっかちなら主もせっかち……というわけですか?」
キルハの声が聞こえてきた先をデルバトスが見ると、キルハはデルバトスの後方十メートル程のところにいた。
「何をーーーーーーー!こっちはね、あんたがそのガキにキスしているとこからあんたが着替えるのまでわざわざ待ってやったのよ!それなのに……「せっかち」ですってぇーーーー!?」
キルハはそんなデルバトスにさえ、最上の笑顔を向けると、
「それは失礼いたしましたわ、デルバトスさん。ですが、私嫌いなモノがこの世に三つありますの……一つ目は不誠実な方、二つ目は言葉遣いを知らない方、そして三つ目は……」
そこまで言うと、やりとりを見つめていた朱音の方を一瞥して、
「ヒトの弱みに付け込む方ですわ!」
いつもより少しだけ強い口調で言い放った。キルハは中空に手をかざすと、
「クラウ……ソラス」
そう言って闇の中からその刀身を輝かせる一本の剣を抜き出した。「クラウソラス」と呼ばれた剣を手に、もう一度顔だけ朱音の方へ振り向くと、
「……ご武運を」
そういい残して、キルハは戦いの場へと赴いた……
時間は遡る。ウルヴァとの遭遇の後、朱音は約束どおり、キルハの住まいである『工房』へと向かった。相変わらず来訪者を威嚇するような巨大な門の前に立つと、数秒も経たずにティルが現れた。
「どうしたのだ?少しばかり疲れが見えるが?」
無表情な中に、心配の気持ちを含んだティルが聞く。
「何でも無いよ。いや、何でもなくは無いんけど……」
少しばかり言いにくそうな雰囲気を醸し出しつつ朱音が答える。
「ふむ、まぁ今は君の悩み相談に付き合っていられるほど暇ではないのでな。またの機会にしてもらおう」
そう言うとティルは、いつものように門の仕掛けを解除し中へと進んでいく。中に入り、剣術場ではなく、客間に通されると、既にキルハが待っていた。
「お待ちしておりました、アカネ君。少しは休めましたか?」
そういつも通りの笑顔で聞いてくるキルハ。それを見て、やっと安堵するアカネ。
「うん、この体になってからあまり疲れないし、体調の方はほぼ万全だよ」
眼にクマを作りながらそう答える朱音に「そうですか」と言って笑顔を作るキルハ。
「そういえば、そっちの「準備」っていうのは終わったの?」
今度は朱音が聞く。
「はい、剣術場のほうに既に整っています。その前に……」
そう言うと、キルハは宙に右手を差し出し、何も無い空間から一本の剣を取り出してみせた。その剣は、収められた鞘を見た目だけでも、かなりの時を刻んできたことが分かる。取り出したそれを朱音に差し出すキルハ。
「これをアカネ君にお貸しいたします。なんの「印」も施していない普通の剣ですが、切れ味は保障しますよ」
朱音は受けとると、剣を抜いた。その刀身は吸い込まれそうに美しく、鍛え抜かれたその刃からは、触れただけで何者をも切り裂きそうな気配すら漂っていた。剣を再び鞘に収めると、朱音は「ありがとう」とだけ伝えた。それを見てうなずくとキルハは、
「では、参りましょうか」
立ち上がりドアの方へと歩き出す。
(そういえば、何をするのだろう?)
疑問に思いながらも付いていく朱音。ティルの方を見てみるが、「行けば分かる」とでも言いたそうな視線を向けてくるだけであった。
剣術場の扉を開き中へ入るとそこには、直径六メートルほどの円の中に無数の図形と文字が記された魔方陣が床に描かれていた。そこに書かれている文字は、大抵の言語に精通している朱音でもこれまでに見たことの無い文字だった。
「この文字は、スヴァルトヘイムで主に、「魔導陣」の作製に使用される「キルケー」と呼ばれるもので「対話」という意味を持ちます。今回はこの「魔導陣」で、ある「魔導」をアカネ君に掛けます」
そこまで言ったところで、朱音がキルハの方を振り向く。
「僕に?」
「これからかける「魔導」の名は「フォルテ(強制開放)」……本来であれば、悪魔が他世界へ移動する際に、一時的に封印したエーテルを開放するために使用するものです。今回は、これによってアカネ君の潜在的な能力を引き出したいと思います」
(潜在的な能力?)
「そんな大層なものではありません。アカネ君の体にはまだ残されている「伸びしろ」があります……それを、一時的に開放するということですわ」
話しながら、キルハは少しだけ唇をかみ締めた……
この時、キルハは朱音に一つだけ嘘をついた……
確かに「フォルテ(強制開放)」はその者に元々秘められている、「潜在的な能力を引き出す」魔導である。しかしながら、今回その目的は朱音の「エインヘリャル化した肉体」の能力を引き出すことではない。彼の中に、恐らく、「生まれてより存在する力」を引き出すためのものである……キルハは、その力の正体を掴みかけながらも、朱音に伝えることが出来ないでいた……
「……肉体に影響を及ぼすようなものではないので、掛けること自体には問題はありません。ですが、もしかしたらエインヘリャル化を促進してしまう可能性もあります。これを掛けるかどうかは、アカネ君の意思にお任せしたいと思います……」
それを聞くと朱音は、特に迷うこともなく、
「……分かった」
歩き出し、黙って魔導陣の中央へと足を進めた。
「これでいいのかな?」
キルハが朱音の顔を見ると、朱音はニっと笑って見せた。
「要はエインヘリャルになる前にデルバトスを倒せばいいんでしょ?」
「……はい!」
それ以上は何も言うまいと、キルハも笑顔を作ると、「魔導」を掛けるべく準備に入る。
「ちなみにその魔術って、掛ける時……痛かったりする?」
と、とぼけた顔をして聞く朱音。それを見たキルハは、
「いいえ、その辺り、抜かりはありませんわ」
そう言うと再び微笑んで、詠唱に掛かった。キルハの唄うような詠唱を聞きながら朱音は、ゆっくりと眼を閉じた……
デルバトスとの戦いに赴いたキルハを見送った後、朱音は振り向くと、後ろでずっと待っていてくれた(・・・・・・・・)ウルヴァに向き直った。
「……待たせたね」
十メートルほど先でたたずむウルヴァに声を掛ける朱音。
「ああ、随分と見せ付けてくれるな……神谷朱音」
そう言うと、兜に覆われて見えないはずのウルヴァの顔が笑った様な気がした。
「昔、ヒーローの変身シーンで「何で悪いやつらって今のうちに攻撃しないんだろう?」何て考えたことがあったけど、まさか自分が体験するとは思わなかったな……」
そう言って朱音も笑い、持っていた剣を鞘から抜くと……
両者は爆発的な勢いで相手に切りかかった!
一瞬で間をつめると、丁度中央のあたりで互いの刃を合わせる朱音とウルヴァ。「ギギギ」という鈍い音と共に、擦れあう刃が火花を散らせる。スピードはほぼ互角。力は僅かにウルヴァに分があるようだが、それを何とか足に込めた精一杯の力で迎え撃つ朱音。
「以前の情けない姿とは、まるで別人だな!いや……既に別人か?」
二本の剣越しにウルヴァが嬉々とした声を上げる。
「別人じゃないさ……僕は、『神谷朱音』だ!」
掛け声と共に、ウルヴァを押しやり、一気に十メートルほど距離を取る朱音。ティルとの模擬戦をかなりの数こなしていたとは言え、初めての実戦にしては上出来すぎる出だしであった。
「ふむ、これなら遠慮なく戦うことができるな。心配していたのだぞ……あっさり死なれてはつまらんからな!」
そう言うと再び、見えない顔で笑い、朱音に飛び掛るウルヴァ。今度はそれを動かずに受ける……かと思いきや、振り下ろされた左手を、体を回転させて受け流し、勢いそのまま、ウルヴァの脇腹めがけて剣を振るう朱音。虚を付かれたウルヴァは、それでも焦ることなく、振るわれた剣を、右の肘と膝で挟むことによって止めた。
(マジかよ!)
朱音がそんなことを思った瞬間にも、既に右後方から次の斬撃か繰り出されようとしている。見えない危機を全身で感じると、朱音はとっさに剣を離し、しゃがみこんでウルヴァに足払いをいれる。予期していなかった打撃にウルヴァが体勢を崩すと、その一瞬の隙を突いて、挟まれていた剣を抜き距離を取る。距離を取った朱音を見て、僅かに驚きを浮かべるウルヴァ。
「……まさか打撃も備えているとはな」
どうやら、朱音に対しての感嘆の声のようである。そんなウルヴァに朱音は、
「またその左手を体に突っ込まれるのは嫌だからね……色々と準備はしてきたつもりだよ」
そう言って再び、剣を構える。
「ふむ、そう来なくては」
自らを奮い立たせるべく「うぉぉぉぉぉぉぉっ!」と咆哮を上げるウルヴァに朱音は、
(おいおい……こっちはこれが精一杯だぞ)
そう思いながらも、不思議と負ける気はしなかった。そして、その根拠でもあるかのように朱音の背中には……何かを模ったような痣が浮かび、淡い桜色の光を放っていた……
「でりゃぁぁぁぁぁぁぁっ!」
女性とは思えない怒号を撒き散らしながら、手にした鎌を再三に渡ってキルハへ振るうデルバトス。振るうと同時に周りの木がバタバタと倒れるが、キルハはそれらを全て手にした剣で、受け流すか涼しげな顔で交わす。その足運びは、まるでワルツでも踊っているかのように流麗なものであった。最後の大降りをゆったりとした動きでかわすと、キルハは、
「……あなたは、近接戦闘は苦手なようですわね。本来であれば、肉弾戦は「ウルヴァ(従者)」に任せて、「魔導」による後方支援、というのがあなたのスタイルの筈です……慣れないことはなさらずに、本来の力を見せてはいかがですか?」
そう、笑顔で言う。それを聞くとデルバトスは、体を十メートルほどの高さまで浮かせた。
「くっくっくっ……随分と舐められたものね……終わった後で命乞いをしても遅いわよ!」
そう言うと、デルバトスの周りに大量の霧が発生し、無数の宙に浮く黒い剣となった。
キルハはそれを見て、剣を構えなおす。
「グレイブドリーズ(嘆きの霧)!」
デルバトスの声と共に、百をゆうに超える霧の剣が一斉にキルハに降り注ぐ!
それを次々と剣で弾いていくが、数が多すぎたのか?捌ききれなかった数本がキルハの衣服や肌を掠めた。直撃こそ受けなかったものの、足に少しばかり深い傷を負って、痛みに顔を歪めるキルハ。
「あらあら、せっかくお着替えしたのに綺麗な衣装が台無しね「お人形さん(ベイビードール)」?でも、怖がることは無いわ……もうすぐ本物の……「屍」に変えてあげるからね!」
そう言うと、先ほどよりも多くの「グレイブドリーズ(嘆きの霧)」を宙に発生させた。
デルバトスを見上げるキルハ。その顔には、珍しくいつもの様な微笑ではなく、敵に対する闘志に満ちた表情が浮かんでいた。キルハは、剣を持ち直すと、僅かにエーテルを込め軽く振るった。すると、キルハの周りに風が起こり、瞬く間にそれはキルハを覆う「風の壁」となった。それを見て、気味の悪い笑みを浮かべるデルバトス。
「まずは防御から、ってことかしら?あなたの「盾」は私の「矛」よりも頑丈だといいわね」
「焦らずともすぐに分かりますわ……それに……『フレイア(断罪の風)』……」
再び、今度は短い詠唱と共に剣を振るう。すると……今度は巻き起こった風が刃の様な衝撃波となってデルバトスに襲い掛かった!
「なっ?」
慌てて、展開していた「グレイブドリーズ(嘆きの霧)」を自分の前に集め、何とか勢いを殺すことで難を逃れたデルバトス。仮面の表情が「焦り」に変わっている。
「……私もちゃんと「矛」を持っていますのよ?」
そう言ってキルハはデルバトスに笑いかけた……
拮抗状態の続く、朱音とウルヴァ。つい先日は簡単に殺すことの出来たはずの相手の成長ぶりに感心しながらも、同時に疑問を心に浮かべるウルヴァ。
(……「アガペー(神の寵愛)」を受けたのだ……それに先程発動された「魔導」による肉体の強化にもまだ説明がつく、しかし……)
朱音の斬撃を左手の剣で受け流し、そのまま朱音を体当たりで突き飛ばす。
「うわっ!」
朱音は五メートルほど吹っ飛ばされたところで、転がりながら立ち上がると引いた右足に力を込め、一歩でウルヴァの前へと戻り、切りかかる。
(あのエーテルは何だ?エインヘリャルは元々「ヒト」……エーテルなど持たないはず!)
その考えをあざ笑うかのように、朱音の正体不明の「エーテル」に呼応して刀身を紅く輝かせる剣がウルヴァに襲い掛かる。ウルヴァは後ろに飛びのくことで間一髪それをかわす……が剣圧によるものか、胸の辺りに鎧を貫通しない程度の深さの傷が出来上がっていた。
数メートルの間隔を挟んで、互いを見据えるウルヴァと朱音。
「……ここまでとはな……この短期間に一体何をした?」
「……何もしていないよ。強いて言うなら…………愛の力?」
……一瞬両者が動きを止める。ウルヴァは、兜が無かったら口を開けて呆けている間抜けな顔を晒していたことだろう。一方の朱音は……自分のセリフに自分で照れていた……
「……ぶわっはっはっはっはっは!」
突如、大きな笑い声を上げるウルヴァ。
「成る程、アガペー(神の寵愛)を受けたものが「愛の力」を語るか?面白いジョークだ!」
ひとしきり笑った後、再び左手を構え直し、戦闘体制へと戻る。朱音は、剣を構えつつも、赤面し恥ずかしそうにウルヴァを睨む。
(「敵が何者か?」など、戦いの最中に考えることではない・・・集中しなければ)
そう思いながらも、ウルヴァの頭の中には一つの疑問が消えることなく、グルグルと旋回を続けていた。
デルバトスの放つ「グレイブドリーズ(嘆きの霧)」を自らの前に展開した「アイギスフラウ(隔てる華)」で受けながら、「フレイア(断罪の風)」を放ち応戦するキルハ。しかし、どちらの攻撃も決定打に欠け、こちらもウルヴァと朱音同様、膠着状態にあった。
「流石にこの距離はお得意のようですわね」
「フレイア(断罪の風)」を放ちながらキルハが言う。
「はっ!あなたからお褒めの言葉を頂くなんて……光栄過ぎて耳が腐り落ちそうだわ!」
「フレイヤ(断罪の風)」を宙で大きく交わした後、デルバトスが、放つ霧の剣の数を増やしながら叫ぶ。しかしながら、「グレイブドリーズ(嘆きの霧)」はキルハの「アイギスフラウ(隔てる華)」にぶつかると多くのものは霧散し、貫通したいくつかはキルハの剣によって叩き落とされていた。
(このままじゃ、埒があかないわね)
僅かに、内に焦りを見せるデルバトス。無傷ではあるものの、少しずつ「フレイヤ(断罪の風)」への対応の遅れが増していっていることに気づいていた。
(しかし……「あの場所」まで誘導できれば……)
その瞬間、今まで以上に大きなエーテルを感じて身構えるデルバトス。見ると、キルハの振るった剣から、特大の「フレイヤ(断罪の風)」が彼女の体を砲台に発射されるのが見えた。
「くっ!」
展開していた霧を全て集め迎え撃つ……が、耐え切れずに吹き飛ばされる。体勢を立て直すべく、宙で一回転してキルハの方を向いた……が、
「チェック……ですわ」
次の瞬間……その身に風を纏う少女は、空を駆けていた……
目の前に現れたキルハの剣によって地面に叩きつけられるデルバトス。同時に激しい激突音が森を震わせる。倒れ伏したデルバトスを目にしながら、キルハは音も無く着地すると、
「……まだ続けますか?」
そう……悲しそうな顔で聞いた。デルバトスは答えない。意識を失ったのか?そう思ったキルハはデルバトスの方へと歩き出す……すると、
「くっくっくっ……まだ「動ける」相手を目の前にして踊る(戦闘)のを止めるなんて……失礼にも程があるんじゃなくて?お人形さん(ベイビードール)!」
デルバトスが笑う。キルハは倒れている相手を前に剣を構えなおす。
「チークトゥーチーク(ダンスタイム)は……これからよ!」
笑いながら言うと、デルバトスは起き上がって、鎌の先を地面に勢い良く突き刺した。
「!?」
デルバトスの鎌が地面に刺さった先から、突如光が迸り、その場に仕込まれていた(・・・・・・・)一つの巨大な魔導陣が浮かび上がる。瞬く間にそれは半円形の霧のフィールドを形成するとキルハを包みこんだ。同時に体の回りに展開していた「アイギスフラウ(隔てる華)」が掻き消える……一方のデルバトスはいつの間にかフィールドの真上に位置し、笑いながら自らの発動した魔導を見下ろしている。
(目くらまし?……いえ、この霧は……)
霧に触れたキルハの長い髪が、チリチリと音を立てたかと思うと……突如爆発を起こした!
「きゃあっ!」
悲鳴と共に、キルハの長い髪の一部が吹き飛ぶ。宙に舞う自らの髪を目にして、初めて「怒り」の表情を見せるキルハ。しかし、目の前には黒い霧が立ち込めているばかりで、その視線を向けるべき相手の姿を目にすることはできない……
これこそ、「霧」使いたるデルバトスの最終にして最高の魔導「マッドエフェクター(狂気への招待)」。
展開されたフィールドの中に充満した霧は、触れれば爆発を起こしさらには、時間と共に中にいるもののエーテルを「搾取」していくという、デルバトスらしい「悪意」に満ちたものであった。
「まさか、こうも簡単に引っかかってくれるとは思わなかったわ……誘導されていることにも気づかないなんて・・・足元がお留守よ?お・ば・かさん」
そう言うとデルバトスは気色の悪い笑いを上げた。
「粉塵爆発・・・って知っているかしら?原理はあれと一緒よ。私の操る「霧」には発火性をもつ金属が混ざっているの。これは場所が狭ければ狭いほど高い威力を発揮するのよ……いつもは発動したらすぐに「ドカンっ」で、終わり(フィナーレ)なんだけど、今日は特別……あのガキへの見せしめとしてゆ〜っくりと嬲り殺してあ・げ・る」
そう言うと今度は、デルバトスの仮面がケタケタと気味の悪い笑い声を発し出した……
一方のキルハはというと、デルバトスの発言に不快感を顕にしながらも、焦りらしき感情を見ることはできない。
「もう……せっかく伸ばしていましたのに……」
腰まであった髪がセミロング程になってしまったことを嘆くとキルハは、
「……で、これで終わりでしょうか?」
そう言って見えない敵に笑いかける。
「ひゃ?」
予測していなかった、相手の発言にマヌケな声を発してしまうデルバトス。
「ですから、これであなたの「チークトゥーチーク(ダンスタイム)」とやらは終わり、ということでよろしいのでしょうか?」
もう一度、確認の意味を込めて聞くキルハ。
「・・・・ふざけたこと言ってんじゃないわよ!あんた、今の自分の状況分かってんの?私がその気になれば、あんたはジルバでも踊りながらニーズヘッグ(ユグドラシルの根)の所まで吹き飛ばされるのよ?」
声を荒げて、キルハを睨みつけるデルバトス。今まで、「マッドエフェクター(狂気への招待)」を前にして命を請わないものはいなかった。それどころか、周りを飛ぶ羽虫程度にも気にならない、とでも言うような態度を見せるキルハに、憤りを感じずにいられなかった……大きく息を吸って呼吸を整えるとデルバトスは、
「まあいいわ……今のうちに強がりたければ、強がりなさい……その憎たらしい笑みが苦痛に歪む様を「楽しんで」あげるわ…………踊りなさい(・・・・・・)!」
そう言うと、「マッドエフェクター(狂気への招待)」に僅かにエーテルを込めた。同時に小規模な爆発がその内部で立て続けに起こる。
「ひゃひゃひゃひゃひゃひゃひゃ!そら!右足!左足!右腕!左腕!今度は胴体行くわよ!」
轟音と共に次々と爆発が起こる。「マッドエフェクター(狂気への招待)」内から確実に感じる「肉が弾け飛ぶ」手ごたえにデルバトスは、勝利への確信を深めてゆく。口からは、堪えきれないほどの笑みがこぼれ出ていた……
爆発を開始してから数分……デルバトスには「目標を跡形も無く吹き飛ばした」という手応えと、満足感……それに「後悔」だけが残っていた……
「……私としたことが、「デスクライ(断末魔の叫び)」すら聞き忘れるほど夢中になるなんて……しかも、あのガキに吹き飛ぶところを見せ付けて楽しむはずだったのに……」
そう言って「落胆」といった表情を仮面に浮かべる……
……しかし、それは杞憂だったことに数秒後気づかされることとなる。
「さ〜ってと、服か髪でも残っていたら、あのガキに見せ付けて楽しめるのだけど……」
そう言って、「マッドエフェクター」を解除しようとしたその時……
ゴァァァァーーーーーーーーー!
突如、デルバトスの目の前で、「マッドエフェクター(狂気への招待)」を包むように巨大な竜巻が発生した。それは、轟音と共に展開していた「空間」と、それ自体を構成する黒い霧を吹き飛ばすと、急速にその大きさを縮め、中からは……
(何なの!何が起こっているの?今まで私の「マッドエフェクター(狂気への招待)」から逃げたものなんていなかった……それを……)
「それを……何で平気な顔してそこにいるのよ!?」
無傷のキルハが現れた……その顔には、相変わらずの微笑を浮かべて……
デルバトスが、驚くのも無理は無かった。先程も述べたように「マッドエフェクター(狂気への招待)」はデルバトスにとっては「必殺」とも言うべきもの。しかし、その所以は、霧の接触による爆発でも、エーテルを奪うことでもない。その名の通り、相手の「理」を「狂わせる」という点にあった。相手の体に付着した霧は、エーテルの放出を阻害し、魔導の発動を困難にさせる。事実、キルハはその影響によって「アイギスフラウ(隔てる華)」を失い、自身を守る術を失った。さらには、物理的な方法では脱出不可能な「マッドエフェクター(狂気への招待)」は、入れば最後、魔導の使えない相手をエーテルの搾取と霧の「粉塵爆発」により、じわじわと弱らせ死に至らしめる……筈だった……
体に僅かに残った霧を風で払いながらキルハは、デルバトスの姿を確認すると、
「あら?そこにいらしたのですね……お姿が見えなかったものですから……ダンス(・・・)はお断りされてしまったのかと思いましたわ……」
そう、普段友達にでも話しかけるかの様なトーンで言った。
「ななな、何で?何で「マッドエフェクター(狂気への招待)」の中で魔導の発動が出来るのよ!?」
取り乱した声でデルバトスが叫ぶ。仮面の表情はもはや、装着主の感情を表現できずにコロコロと表情を変えるのみであった。
「簡単なことですわ……要するに、『霧の干渉さえなければ発動は可能』ということでしょう?」
「そんなことができるわけ……」
言いかけて、デルバトスはキルハの腕の辺りにある十センチほどの傷に気づいた。
(そんな……まさか…………自分の体内で!?)
デルバトスの表情を見たキルハは、
「ご名答」
そう言って、腕の血を拭うと、デルバトスに向けて差し出した指から、風を起こして見せた。
一回目の爆発の後、「マッドエフェクター(狂気への招待)」の持つ特性を瞬時に理解したキルハは、すぐに打開策を見つけた。
『エーテルを放出することが出来ないのであれば、放出しなければいい』
そう考えたのであった。しかし、それは口で言うほど簡単なモノではない。体内で精製されるエーテルというのは、言わば「原液」。それが外に放出される過程で体内に備わった「理」が、「原液」を様々な形に作り変えることで魔導は発動される。「マッドエフェクター(狂気への招待)」はその「理」の働きを阻害することで、魔導の発動、並びに放出を行えなくするというもの……
キルハはクラウソラスを自らの腕に突き刺すと、それを媒質として体内で無理やりに「理」を繋げ、エーテルの原液を加工も何もせずにイキナリ「魔導」という名の完成品を作り上げて見せたのだった……
相手がいとも簡単にやってのけたウルトラC難度の業に驚きを隠せないでいるデルバトス。
「中々の質の高い「理」をお持ちですわね……少々驚きましたわ……過程を無視しての魔導の発動は、美しくないのであまり好きではないのですが……これ以上髪を短くされてしまうよりは良いでしょう?」
そう言うと、キルハはデルバトスに笑いかける。
「それに……あなたが私の「過去」をどこまでご存知かは知りませんが……「お人形さん(ベイビードール)」と呼ばれるのは…………」
一瞬、キルハの瞳が「人形」の様に……闇を映し出す……
「……髪を短くされる以上に『赦し難い』ことですの」
翡翠の様なキルハの瞳に映る自らの姿を見ながら、最大の奥義をいとも簡単に破られたデルバトスはしばし放心していた……それは彼女自身の存在を否定されるにも等しい、まさしく「屈辱」であった……
「ギインっ!」という乾いた金属の音が響く。最早、何度目か分からない剣同士の拮抗状態の最中、ウルヴァは動揺を隠せないままでいた……斬り結ぶたびに、その威力を増してゆく朱音の剣。命を掛けた「死合い」の中で。その成長のスピードはは凄まじく、数百年の長きを戦い抜いてきたはずのウルヴァを圧倒するまでとなっていた。しかし、そんなこと(・・・・・)よりもウルヴァを動揺させる原因となっているのは、夜の闇の中、時間と共に速く、強くなって行く朱音に呼応するかのように、光を強めるその背中……
(この感じは……いや、そんなはずは無い……しかし、あの光は……)
剣先を交える度に、朱音から発せられる「エーテル」に、知った(・・・)者を感じて、僅かに剣先を鈍らせる。
(これは……「獅子」?いや、しかし彼は…………まさか!?)
「うおおおおおおおおおおおおおおおおっ!」
ウルヴァの気が一瞬別のことに逸れた瞬間を見逃さず、今まで以上に大きな掛け声と共に、朱音の剣が振り下ろされる。
(しまった!)
後悔した時にはもう遅かった。朱音が地面に叩きつけるように振り下ろした剣は、瞬間輝きを増し……ウルヴァの左の肩から先を斬り落とすと、勢いあまって地面に突き刺さった。
……再び、しかし今度は肩ごと斬り落とされた左腕を目にしてウルヴァは、
(衰えたものだな……死合いの最中に考え事にかまけるなどとは……)
膝を突いてうな垂れた……
「……私の負けだ、神谷朱音」
そう言ってウルヴァが見上げた先には、
「……どうした?勝者がそんな顔をしてどうする?」
辛そうな顔でウルヴァを見下ろす朱音の顔があった。
「まさか、同情しているというなら、そんなものはいらんぞ……勝者が勝者らしく振舞うことが、時に敗者にとって救いになることもあるのだからな」
朱音がゆっくりと口を開く。
「どうして……どうして……あんたみたいなヒトが!?」
「……事情を知りもしないで聞くことではないだろう?」
「何があったかは知らない……知らないけど!何か……別の選択肢があったはずじゃないのか?」
その声は怒りに震えていながらも、朱音が支配されているのは悲しみという名の感情だった。拳を握って、歯を食いしばり、先程まで命の奪い合いをしていた相手に「悲しみ」をぶつける朱音。それを見たウルヴァは、
「言っただろう、「意味の無いことだ」と……デルバトス様に仕えることを選んだ(・・・)時から、私は「ヒト」ではなくなったのだ。私は「ヒト」が憎い……今でもそれに変わりは無い……」
朱音は眼を真っ赤にして、ウルヴァの言葉に聞き入っている……
突如、百メートル程離れた場所で、轟音と共に巨大な竜巻が巻き起こった。
「……どうやら、あちらも決着が付いたようだな」
そう言うとウルヴァは立ち上がり、
「行こうか……我が主はどうやら敗北したようだ……止めを、刺すのだろう?」
そう言ってゆっくりと歩き出し、朱音も黙ってそれに続いた……その背中には、戦いを終えても光ることを止めない痣が虚しくその輝きを増していた……
遠くからこちらに向かって歩いてくる見慣れた人影を発見して、キルハは安堵の表情を浮かべる。しかし、次の瞬間、人影が二つに増えたことを知って、一気に表情を険しいものへと変える。そんなキルハには気づかず、朱音はのん気にも手を振りながら、ゆっくりと歩いてくる。朱音の様子に、痺れを切らしたのか、迎えに行くべくキルハが走り出した。月明かりだけが照らす暗闇の中でも、互いの顔が確認できるまで近づくと、三人は足を止めた。向かい合う、キルハと朱音、そしてウルヴァ。片腕が無いウルヴァの様子を目にしたキルハは、そこでやっと警戒心を解くと、朱音に抱きついた。朱音はキルハを受け止めながらも、腰が引けてしまっている。
「良かった……勝ったのですね?」
そう言って、朱音を見つめるキルハ。吐息を感じるほどに近くにあるキルハの顔から、必死に顔を逸らすようにして、朱音は、
「う……ん、本番に強い体質みたい」
そう言うのが精一杯であった。
「それより、キルハ……ケガ……」
キルハは、衣服は所々破れ肌が顕になり、髪は一部分が焼け焦げているという、一見すれば満身創痍の状態であった。しかし、キルハは朱音から離れると、
「大丈夫です、髪を焼かれてしまった以外は全部かすり傷ですから」
そう言うと、ヒラリとその場で回って見せて健在をアピールした。そんな二人の様子を傍らで見ていたウルヴァは、「やれやれ」とでも言うように片方だけの肩を竦めている。
再開の抱擁を交わし、お互いの無事と勝利を確認した後、キルハはウルヴァに向き直ると、
「あなたの主は……あちらです……」
そう言って手を差し出した先には、風の檻に捕らわれて、放心状態のデルバトスの姿があった。ウルヴァは、そんなデルバトスの姿を見て、少し笑った後、
「……あんな主は初めて見たな」
そう言って背を背けた。
「何か……最後に言うことはありませんか?」
ウルヴァの背中にキルハが問う。
「ない……主も、最後の最後に、敗者の弁など聞きたくはなかろう?」
そう言うとそれっきり黙ってしまった。
「そうですか……ではアカネ君……」
キルハは、朱音を伴ってデルバトスの前まで歩いて行く。放心状態のデルバトスを前に、散々言ってやりたかったことがある筈の朱音の口からは、不思議なことに一言も言葉が発せられることは無かった……
「…………止めを」
キルハに言われて、持っていた剣を構える朱音……しかし、その剣を中々振り下ろすことはできない。当然のことだろう。「止めを刺す」ということは、「相手を亡き者にする」ということ……一介の高校生である朱音に、虫でも殺すように誰かの「命」を奪うことが、簡単に出来るはずは無かった……
「…………」
キルハが見守る中、朱音の柄を握った掌からは、汗がじんわりと滲み出している……そのまま、一分ほどが経過したその時、
「どうしたのよ!?さっさとやりなさいよ!」
突如として意識を取り戻したデルバトスが、朱音に罵声を浴びせる。
「それとも何、「僕にはやれません」とでも言うわけ?はっ!そういう偽善って反吐がでるわね!普段は平気な顔して他人を傷つけておいて、いざとなったら良心のご登場だなんて……セイントリー(聖人気取り)もいい加減にしなさいよ!だから……あんた達「ヒト」は醜いって言うのよ!」
まるで、さっさと終わらせたいとでも言うように朱音を挑発する。それを黙って聞いていた朱音は体を震わせる……それは手にした剣からも分かるほど大きなものだった。
「お前に……」
朱音が吐き出すように呟く。
「はっ?何言ってるのか聞こえないんだけど?」
尚も朱音を挑発するデルバトス、朱音の怒りは頂点に達していた。
「お前なんかに……「ヒト」の……「人間」の何が分かるんだあぁぁぁぁぁぁぁぁ!」
怒声とともに、振り下ろされる剣。それを瞬きすることも無く見つめたままデルバトスは、
「分からないわよ……だって私…………「天使様」なんですもの」
朱音の剣が振り下ろされた瞬間、デルバトスはその姿を霧へと変えた!
手ごたえの無さに驚いて、体勢を崩しそうになる朱音。そんな朱音を黒い霧が包み込みチリチリと嫌な音を立て始めた。
「アカネ君!」
キルハが飛び出して朱音を庇うように抱くのと同時に、霧が爆発を起こした!
霧の爆発はキルハの背中を焼き、更には仕込まれていた無数の霧の剣が、追い討ちを掛けるようにその白い肌に突き刺さった。咄嗟に「アイギスフラウ(隔てる風)」を発動したものの、間に合わず、至近距離での直撃をまともに受けてしまった……倒れこむキルハと朱音の頭上には、どこから現れたのか、デルバトスの姿があった。
「我ながら絶妙のタイミングだったわ……」
顔に付けた仮面の表情が恍惚へと変わる。
デルバトスは放心状態となったその瞬間、自らの分身である「デコイ」と入れ替わっていた。それはキルハにも気づけないほどの超高速の業……朱音がデルバトスに止めをさす際に、「デコイ」はその本来の役目である「トラップ」の領分を発揮した。さらには、デルバトスにはキルハが朱音を庇うべく飛び出してくることも予測済みであり、その標的に対し見事なまでのダメージを与えることに成功したのだった。まさしく、相手の裏を取ることに長けた、デルバトス一流の「策」であったと言うほかに無いだろう。
朱音に覆いかぶさりながら、苦しそうな声を上げるキルハ。そんなキルハを見て、朱音はすぐに状況を理解すると、起き上がりキルハを抱きかかえた。
「キルハ……キルハ!」
眼を閉じたまま、鈍痛に顔を歪めるキルハ。朱音は、初めて見るキルハの表情に焦りを隠せないでいる。背中に手を回した左手からは、ヌルリと血の嫌な感触が伝わってきた。
そんな二人の様子を眼下に見据えながらデルバトスは、
「あ〜ら、死ななかったの?二人仲良く逝かせてあげようと思ったのに……残念ね」
そう言うと、仮面をケタケタと笑わせながら、ウルヴァの方を向く。
「ウルヴァ……あんた負けちゃったのね……本当なら負け犬は用済みなんだけど……」
言いながらデルバトスは、一本の剣をウルヴァの前に投げる。
「あんたは、私に一番長く使えてくれたし、それに私は優しいからね。それで「メルテッドスノウ」とそのガキを殺りなさい……そうすれば、また使ってあげるわ」
何が楽しいのか、一人で愉快そうに笑うデルバトス。そんな主の姿と、自分の前に置かれた剣を交互に見ながらウルヴァは、やっとのことで口を開くと、
「もう、決着は付きました……あなた様の勝ちです、デルバトス様……」
価値の見出せない勝利を虚しく讃えた……ウルヴァはなおも続ける。
「これで、「メルテッドスノウ」はしばらく動けません……神谷朱音にも、我々に手を出すほどの力は無いでしょう。それに……恐らくですが奴は「獅子」の「器」を受け継いでいます……後は、あなた様が「あれ」と神谷朱音を連れて、アスガルズへとお戻りに……ッ!」
不自然な所で言葉を切るウルヴァ……いや、それは無理やり切られたのだった。ウルヴァの胸元辺りから、月明かりに照らされて鈍く光るものが突き出ている。言うまでもなくそれは……デルバトスの鎌であった……
ゆっくりと前のめりに倒れるウルヴァを目にしながらデルバトスは、
「可哀想なペットちゃん(ウルヴァ)……せっかく可愛がってあげたのに、こんな見ず知らずの「ヒト」と、「悪魔」なんかのために「ビトレイドドッグ(飼い主の手をかむ)」に成り下がるなんて……」
ウルヴァの背中から勢い良く鎌を抜いた。痛みからか僅かに呻き声の様なものが上がる。
「でもそんな可哀想なあなただから……最後にいいこと教えてあげるわ……」
そう言うとデルバトスは這いつくばるウルヴァの背中に腰を掛けた。すると半径百メートルは響き渡りそうな気味の悪い高笑いを上げた後、
「あんたが愛したあの悪魔……密告したのは……私よ」
そう、耳元で囁いた……それを聞いた瞬間、閉じかけていたウルヴァの眼がカッ!と見開かれる。
「私、この世で一番好きなものがあるの……それは、女の断末魔のさ・け・び」
うっとりとした表情で宙を見つめるデルバトス。
「……特に美しい女の「デスクライ(断末魔の叫び)」を聞くだけで私、軽くイッちゃうくらいなのよ……その点あの女は最高の素材だったわ……美しいだけでなく、「悪魔」だなんて!だけど……」
言って今度は、少し憂鬱そうな表情に変わる。
「せっかく舞台を用意してやったにも関わらずあの女……あんたの名前を呼んだ以外は一言も声を上げなかった……私、あれほど落ち込んだ日は無かったわ……」
そこまで言うと、今度はパッと明るい表情に変わる。
「でもね、ウルヴァ、変わりに彼女は面白いものを残して逝ってくれたの……それは、あ・な・た」
ウルヴァの背中を指でなぞりながらデルバトスは続ける。
「私がこの世で二番目に好きなもの……それは……男の絶望した時の表情……あの時から、私この瞬間を待ちわびていたわ……自分が信じて使えている人間が、実は自分の最愛の人間を奪った張本人だなんて知ったらどんな顔をするかしら?そればかり、考えていたの。ねぇ、だからあなたの今の顔、私に……見・せ・て」
そう言うと、デルバトスはウルヴァの兜を脱がせる。その下からは……既に息の耐えた、ウルヴァの悲しみにくれた表情が現れた……瞳からは涙が溢れ、息絶えてもなお頬を濡らしている……ウルヴァの亡骸は素顔を晒すと同時に、霧となって消え、跡形も残らなかった……
それを見たデルバトスは体をブルブルと震わせ、恍惚の表情を浮かべる。
「あっはぁ……たまらないわぁ、あの情けない表情!六百年以上も待った甲斐が……」
「……黙れ」
突如、それまで黙っていた朱音が言った。その背中では、痣が今まで以上に強い光を放っている。デルバトスは、その光に多少の戸惑いを見せながらも、
「あら、いたの?てっきりその「死にかけのお人形さん(リビングデッドドール)」と一緒にヒーヒー逃げ出したものだとばかり思ってたわ」
と皮肉を言うことを忘れなかった。朱音はそれには答えず、丁寧にキルハを地面に寝かせると、ゆっくりと立ち上がった。皮肉を無視されたデルバトスは心底面白くなさそうな顔をする。
「……ふ〜ん、強がるじゃない?まぁいいわ、すぐに後を追わせてあげるから……」
そこまで言ったところでデルバトスは異変に気づいた。
「……えっ?」
自分の視界が段々と右方向に傾いていく。それを止めようと右足を踏ん張ろうとするのだが……レスポンスが帰ってこない。そのまま、地面に倒れこむデルバトス。そこで初めて……右の膝から下が無いことに気づいた。
……全ては、刹那の間の出来事であった。立ち上がる前、朱音は腕に抱いていたキルハの唇に自らの唇を重ねた。それは戦いの前にキルハから禁じられていた、「奥の手」……朱音に、魔術の発動の説明をする際に、キルハはこう言った。
『「フォルテ(強制開放)」はその気になれば何回でも発動が可能です。また、二度目、三度目と繰り返せば限界値は跳ね上がり、前回の発動以上の力が出せるようになるでしょう。しかし、同時に肉体への負担も大幅に増えます。それに、「潜在能力を引き出す」という行為は、先程も言いましたが、「アガペー(神の寵愛)」の活性化に繋がる可能性もあります……もし、フォールダウンが完了してしまったら、その後にデルバトスを倒しても「アガペー(神の寵愛)」は残ったままです……ですから、発動は一度だけ……約束していただけますわね?』
そう言って笑った後、
『まぁアカネ君が無理やり私の唇を奪いでもしない限りは大丈夫でしょうけど』
とも続けた。
「ゴメン、キルハ……約束破っちゃった……」
キルハへの謝罪を述べた後、そこで……「朱音の意識」は一度途絶えた……
デルバトスは仮面の表情を「恐怖」へと変えている。
(な、何なのこいつは?)
目の前の、背中を真っ赤に輝かせながら自分を睨みつける少年の正体を掴めず、ひたすらに焦るばかりのデルバトス。
(何で、ヒトが……いや、エインヘリャルになっているとしても、この「エーテル」、そして背中に輝く「聖痕」……まるで……)
朱音の背中に輝く、「自らの体にもあるモノ」と同じ光に動揺を隠せないでいる。
慌てるデルバトスを前に悠然とたたずむ朱音……輝きを増す背中の痣とは対照的に、その目に力は無い……当然のことだろう。彼は今、解放されたもう一つの「器」に自我を押し出されていたのだから……
微動だにしない朱音にデルバトスは、
「ちょ、ちょっと待って。私の話を少しだけ聞いてくれない?」
命乞いとも言えるセリフを発した。
「聞かないと……メルテッドスノウが死ぬことになるわよ?」
それを聞いて朱音の体が、自我は無くとも僅かに反応する。
「あの通り、今あの女は危険な状態よ……そうね、十分も持てばいい方じゃないかしら?」
顔だけをキルハの方に向ける朱音。キルハの呼吸は荒く、その反面弱々しくなっているようにも見える。
「そこで、提案よ……私を見逃してくれたらあの女の治癒をしてあげるわ。それに、あの書物もあげる……悪い条件じゃないでしょ?」
朱音は黙ったままでいる。相手が自我を失っていることに気づいていないデルバトスはそれを「イエス」と受け取り、
「そう、それでいいのよ……優しいのね?ホント……」
笑顔を作った後……
「……殺したいくらいに!」
怒声と共に「グレイブドリーズ(嘆きの霧)」を発生させ、朱音に向かって放出しようとした……次の瞬間、デルバトスの視線の先には空があった……
(……あれ?ちょっと……ちょっと待ってよ!何で……私の……)
ゆっくりと視線が空から遠ざかっていくと、ドサッと言う鈍い音、そして最早感じることの出来ない(・・・・・・・・・・)鈍い衝撃と共に……首が地面に転がった……
首の無い自らの体を、僅かに残った視覚と思考で地べたから確認してなお……自分の置かれた状況を理解できない。
(……あれは……誰?私の……体?体の私がそこにいて……でも、私も私で……)
体が、首が……ゆっくりと黒い霧へと姿を変え散っていく。暗闇の中散ってゆくその向こうにデルバトスが見たのは……
血の様に紅い眼でこちらを見つめ、口元には笑みを浮かべながら……
その、背中には透き通る様に美しい翼を生やした「天使」の姿……
天使はゆっくりと剣を前に突き出すと、その先に紅い「エーテル」が凝縮されてゆく。見ているだけで気の触れそうな(・・・・・・・)、禍々しい光……数秒後には自分を「否定」するであろうそれを目にしながら、デルバトスは、
「……キレ……イ」
先程までの騒ぎようが嘘の様に静かに呟き、そして……閃光とともに、静かに消えた……
何が一体起こったのか?朱音は何をしたのか?
……結論から言うならば「朱音」は何もしていないし、何も起こしてはいない。ただ一つ確かなことがあるとすれば……今この瞬間、「神谷朱音」という「ヒト」は存在せず、同じ体に別の「器」を持った一人の「天使」が存在したと言うだけの話。
この世界で唯一「理」を持たない「天使」は、自身の凶悪なまでのエーテルを、幼い子供の様に無邪気に手玉に取ると笑顔で……同胞が跪くことを「強制」し、生きていることを「否定」した……それは、全てを拒む絶対的な力……向けられた相手に逃れる術は無く……唯々……光の美しさを目にしながら、消滅してゆくことしか許されない……
デルバトスが消えた後、朱音は少しずつ意識を取り戻していった。手には、間接的にせよ何かの命を奪った感触だけが生々しく残っている。力が抜けたのか、手を離した剣が地面に突き刺さり、次の瞬間には蒸発するように跡形もなく姿を消した。デルバトスのいた、辺りを見ながら朱音は、
ドクンっ!
「がっ…………!」
不意に全身を焼くような熱さに包まれて、完全に自我を取り戻す。
(……息が出来ない!……頭が割れる!)
突如襲われたこの世の終わりの様な苦しみに頭を抱えて倒れこむ。
(誰か……助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて!)
胸を、喉を掻き毟り、地面の上を足掻く!それは、自分という存在が別の存在へと書き換えられていくのを、ただ受け入れることしかない絶望感と喪失感……しかし……
しばらく地面をのた打ち回った後……朱音は眼を閉じると、足掻くのを止め、それらを自ら受け入れた……
後悔は無かった……二度目の「フォルテ(強制開放)」を発動した時点で、自分が堕ちることは分かっていた(・・・・・・)……それでも、キルハを傷つけたデルバトスを、そして何より「自分自身」を許すことが出来なかったのだ……
灼熱に焼かれているような熱さの中で、朱音は、
「ゴメン……キルハ……」
そう呟いて再び意識を失った……
朱音が次に眼を開いた時、目の前にはキルハの顔があった。キルハは朱音が眼を開けたのに気づいて顔をパッと輝かせた。
「アカネ君……良かった」
そう言うとキルハは朱音を抱きしめた。
「キルハ……ケガは?」
朱音は顔に当たる胸の感触を感じて、すぐにでも離れたい気持ちになったが、体が言うことを聞いてくれない。
「はい、残っていたエーテルを全て治癒に回したので……デルバトスは、倒せたのですね?」
相変わらず、朱音の顔に胸を押し付けたままでキルハが言う。
「うん、でも……」
やっとのことで起き上がる。顔にはまだ胸の感触が残っていた。
「間に合わなかった……」
「えっ?」
「……間に合わなかったんだ……デルバトスを倒した時には、もう既に「堕ちた」後だったんだ……バカだよね?約束破って……その上堕ちちゃったなんて……」
以前よりも確かな、存在の失われた「感覚」に打ちのめされながらも、努めて笑顔を崩さずに言う朱音。しかしキルハは、そんな朱音を見て、次々と大粒の涙を流し始めた。涙の理由が分からず慌てふためく朱音。そんな朱音の様子を見ながらキルハは自分で涙を拭うと、
「スイマセン、アカネ君……私が泣いてはいけませんよね……でも、私の前ではそんなに気丈に振舞わないでください……・」
そう言った。キルハの流す涙の意味を理解した朱音。
(そっか、僕のために……)
自分のために目の前の少女が泣いてくれている。それだけで朱音は何か胸に熱いものが込み上げてくるのを感じた。朱音はおもむろに顔を上に向け、
「あ〜、クソ……悔しいな。「君を悲しませたくない」って……そう思っていたのに……」
本当に、悔しそうに……空に向いた目に涙を溜めながら言う。
「キルハ……お願いがあるんだ」
「……はい、何でもおっしゃってください」
朱音は目に溜まったものを拭うと、決心した表情で、
「僕を……僕を殺してくれないか?」
そう、力強い声で言った……
キルハは呆然としている……
「そんな……そんなこと……出来ません……」
やっとのことでそう言うキルハ。目からは先程以上に大粒の涙が溢れている。
「キルハは優しいね……でもお願い……これ以上かっこ悪いところを見せたくないんだ……」
そこまで言うと、朱音の目からも涙が溢れ出した……
「僕は弱虫だから…………この先、死ぬまで「一人」で生きていくのは、耐えられないんだ……だからお願い、僕を……「一人」にしないで……」
切れ切れに発せられる言葉の合間に嗚咽が混じる。
「一人じゃありません!一人じゃ……私がこれから!」
キルハは言葉を切る。彼女の唇には、以前彼女自身がそうしたように指が当てられている。
指の主―朱音が、静かに首を振る。それは、死を覚悟した人間の最後の強がり……その強がりを受け止めると、キルハは無理やりに笑顔を作った。
「……ゴメンナサイ……ゴメンナサイアカネ君……せめて……せめて私だけは、最後まであなたの傍にいますから……」
そう言って、朱音に最後のキスをした……それは、命を救うためでも、力を解放するためでもない……それは……愛し合う者達にのみ許された「神聖な好意」。
(ああ……このまま一生こうしていられたら良かったのにな……)
唇に当たる、数度目の感触。しかし、朱音は今までとは比べモノにならないほど、心臓の鼓動が高鳴るのを感じていた……長い……長いキスの後、キルハはゆっくりと唇を離し、立ち上がった。立ち上がったキルハに、朱音は唇の動きだけで
(あ・り・が・と・う)
そう言って、彼の短い人生の中で、恐らく最高の笑みを浮かべた……
キルハもまた、全てを赦すような、優しい笑顔で頷くと、
朱音の胸にクラウソラスを突き立てた……