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第三章です
いよいよ佳境と言ったところでしょうか?
だらだらしても良くないので後、2,3章で終わる予定です
日もとうに暮れ、端に立てられた街灯だけが寂しく照らす住宅街の道を、神谷朱音は一人歩いていた。行き先は当然のことながら、彼が日常の大部分を過ごす自宅である。歩きながら朱音はなぜか、時折足を止めては周りをキョロキョロと見渡していた。しかし、道には朱音以外の誰も歩いておらず、そ知らぬ人が見れば不審に思われても仕方の無い様な行動をしていた。
数回それを繰り返した後、朱音は立ち止まると突如、
「ティル、ティルオイレンシュピーゲル?」
そう、中途半端なトーンで誰かの名を呼んだが当然の様に返事は無い。朱音は俯くと、
「無愛想な人だな、ホントにいるのかな?」
名を呼んだ相手を少しばかり蔑む様に呟いた。
「誰が無愛想だ」
突如、耳元に響いた深い声に飛び上がらんばかりに驚く朱音。
(今、どこから?)
「ここだ」
朱音の心の中で起こった疑問に声が答える、と同時に朱音の立っている場所のすぐ隣に人物大の影が姿を現した。影は数秒でその形を明瞭にし、カンバスに彩色でもするかのように色が付くと、真紅のスーツを纏った成人くらいの男性へと姿を変えた。男性を目にした朱音は、
「驚かさないでくれよ、ティル。それにしても……」
そう言って、大きく息を吐き出した。
「何度見てもなれないな、こう……いきなり姿を現すっていうのは。君達の間で流行っているのか、そうゆうの?」
感心しているのか呆れているのか分からないトーンで問う。
「君達、というのは私やキルハ様、それにあの天使達を指しているのか?それならば、そのような事実は無い」
と、問いに対して真顔で返す男。
「返答をしなかったことと、姿を消していたことは任務を遂行する妨げになることを危惧してのことだ。それに、どこに自らその存在を主張する護衛がいる?」
「いや、それはそうなんだけど……」
冗談を真に受けられた朱音は、頭を掻いてバツの悪そうな表情を作る。
(面白い人だとは思うんだけど……)
時間は二十分ほど遡る。
公園にて、自分が現在置かれている状況や世界のことを、ある少女から聞かされた朱音は、その目的ゆえに、一時ではあるが少女と手を組むことを決めた。少女の名はキルハ。スヴァルトヘイムと呼ばれる隔絶された世界から、ある目的を果たすためにヒトの世界へと現れた高名な悪魔である。手を組んだ証としての握手を終えた後、キルハは、
「では、今日のところはお帰りください。色々なことをお伝えしたので疲れたでしょうし。それに……これ以上アカネ君を独り占めしては妹さんたちに申し訳ないですから」
そう言って微笑んだ。朱音はキルハの笑顔を見ていて、どことなく別れるのが惜しいような気持ちになる。しかし、そのまま見つめているのも何なので、
「そうだね、今日のところは帰ってゆっくり休むよ。それじゃあキルハ、また明日」
そう言ってグラウンドを後にしようとした朱音を、キルハが呼び止めた。
「念を押す、というわけではありませんが……」
そう言うとキルハの横に人物大の影が現れ、ヒトの形へと姿を変えていく。
「神谷君が帰宅するまでの間、護衛をお付けいたしますわ」
数秒して現れたのはバラの様に紅いクラシカルなスーツ姿の男性だった。長身痩身で、少し長い緑がかった髪を後ろに流したオールバックに近いヘアスタイル。さらに、同性から見ても美しいと表現できる顔立ちをしていたその男は、キルハの方へと向き直ると、
「お呼びでしょうか、キルハ様」
そう言ってキルハの足元に跪く。その光景に驚きながらも朱音は、跪いた男の顔に目をやる。その顔からは表現されるべき感情というものがほとんど感じられなかった。
(それにしても……女子高生(実際の年齢は不明だけど)が大の男を跪かせるっていう図が、これほど似合う人もいないだろうな)
スヴァルトヘイムではお嬢様だったのかもしれない、なんてことを考える朱音。しかし、その絵柄の見事さに反してキルハは男の行動が「お気に召さない」といった表情を浮かべている。
「もうティルったら、そういうことは止めてくださいと言っているでしょう?」
と、それまでよりも僅かに気安さを表に出したトーンで言う。
「申し訳ありません、ですが私はあなた様に仕える身。主の前で頭を垂れるのは当然です」
それを聞いたキルハは、諦めたような口調で、
「……あなたがどうしてもそうしたいと言うなら止めませんが」
という言葉をため息と共に吐き出した。そんなやり取りをぼーっと目にしている朱音。
(そういえば、何度か言っていたな、「ティル」って。名前だったのか?)
キルハは、特に気に留める様子も無く朱音の方へ向き直ると、
「ご紹介いたしますわ。こちらはティル。彼は私の……そうですね、お友達兼ナイトさんと言ったところでしょうか?ティル、ご挨拶を」
そう言って男の前にそっと手を差し出す。すると男は、
「……ティルオイレンシュピーゲルだ。ティルと呼んでくれて構わない。短い間ではあるが覚えておいてくれれば幸いだ」
「短い間」という部分をやたらと強調して言った。
「えっと、じゃあ僕も。神谷朱……」
続けて、自分も自己紹介を朱音が始めようとした矢先、
「知っている」
「えっ?」
突然、言葉を切られた。
「神谷朱音……生年月日19××年、八月二十二日生まれの16歳。家族構成は両親、双子の妹との五人家族+愛猫が一匹。趣味は読書と散策、インテリアショップ巡り。好きな食べ物、卵焼き、カレー、パスタ、緑黄色野菜。嫌いな食べ物はセロリのみ。得意な科目は理系全般と体育、不得意な科目は保健体育。勉強は全体的に不足が無く非常に優秀。ちなみに高校一年次での全国模試の順位は全国で七位。推定される知能指数―IQはおよそ210。スポーツも得意だが特定の部活動への参加は無し。しかし、中学での全校生徒が参加する市のスポーツ大会では800M走の種目で優勝している。さらに高校入学時の体力測定では・・・」
まるで何かの封印が解かれたかのように、饒舌に朱音のプロフィールを語ってゆくティル。最初は何を言い出したのかと思い呆けていたが、途中から朱音はそんなティルの様子を面白そうにただただ見守るばかりだった。
(それにしても、どこで調べたんだ?好きな食べ物まで……)
「……などの経過を経て今に至る。これでどうかな?」
「いや、僕が言うのも何だけど、完璧って言うほか無いね」
そう言って朱音は苦笑した。そんな二人のやり取りを傍らで見学していたキルハは、
「申し訳ありませんアカネ君。あなたをお助けしたあと、少しだけ(・・・・)ティルにお願いしてあなたのことを調べていただきましたの。私は素性が分かれば良かったのですが、ティルがその……」
本当に申し訳なさそうな顔で言う。しかし朱音は、
「僕は構わないよ、それより……」
朱音はティルの方へ顔を向ける。視線が合うがティルは毛筋ほども表情を変えない。
「面白い友達がいるんだね」
機械的なまでに無表情で無感情な、友達兼ナイトを褒められたキルハは少し微笑んだ後、
「そうですか、アカネ君にそう言っていただけると幸いですわ」
嬉しそうに言った。その表情からはティルとキルハの結びつきの強さが感じられた。
(仲、いいんだな……)
朱音は無意識のうちにティルを羨んでいる自分がいることに気づいた。
「さて、ご紹介も済みましたし、そろそろお開きといたしましょうか。ではティル、アカネ君をお家までお送りしてさしあげてください」
キルハがそう言うとティルは、
「かしこまりました」
そう返してうやうやしく頭を下げた。
「ではアカネ君、また明日学校で……」
キルハの周りに風が巻き起こりキルハ自身を包んだかと思うと、一瞬後には包み込んだキルハごと姿を消していた……
「『メルテッドスノウ』……か」
つい先程までキルハがいた空間をしばらく眺めた後、朱音が、
「それじゃあ僕らも行こうか、ティル」
そう言って振り向いた時には、もう既にティルの姿は無かった……
そんなこんなで、一人残された(正確にはティルは姿を消していただけでそばにいたのだが)
朱音は、途方に暮れていても仕方ないと思い、帰宅の途についた……というのが先程までの経緯であった。
姿を現せても、相変わらず無表情で、その心をまったく読ませない男に対して朱音は言う。
「姿は消していてもいいから、せめて声での反応くらいはしてほしいな」
朱音の横を、音も無く並んで歩くティルは、朱音を表情の無い顔で一瞥すると、
「君がその方が良いと言うなら、そうしよう。キルハ様からは君の希望をなるべく尊重するようにと仰せつかっている」
そう言って再び前へと向き直った。
(素直なんだか、捻くれてんだか……)
「そういえば、ティルとキルハはどういう関係なの?その、使い魔とその主人みたいなものなのかな?」
「……使い魔、と言うには少し語弊がある。使い魔といえば使役し束縛されるものだが、私はそういった契約の類は一切課されていない。私が一方的にキルハ様に仕えている、と言った方が正しいだろう」
「一方的にって言うのは?」
「…………」
無言になるティル。
(不味いことを聞いたかな?)
さっきまでと打って変わって、ティルの対応が気安くなったためか、ついつい事情を聞き出すような形になってしまった自分を恥じる朱音。
「ゴメン……会ったばかりなのにこんなことを聞いて」
「いや、気にするほどのことではない」
そう言うとティルは再び、ゆっくりと闇に紛れるようにその姿を消した。姿の見えない相手に、少しばかり気まずさを感じながら、朱音は帰り道を早足で歩いていった。
数分後、最後の曲がり角を曲がったところで、見慣れた一軒家がアカネの視界に入った。
「やっと着いた……ティル、あそこが僕の家だよ」
そう言って我が家のある方向を指差した。
アカネがそういうと、再びティルがその姿を現した。相変わらずその表情には「感情」の類が、一切見受けられない。
「知っている」
「ああ、そっか」
特に驚く様子も無く朱音が言う。朱音の素性をあそこまで詳しく調べていたのだから、家を知っていたぐらいのことでは、今更驚くことでもないだろう。
「昨日、血を流して倒れていた君をあそこへ運んだのは私だからな」
(えっ、あの状態で連れて帰ったのか?)
「えっと……妹達は何て?」
「心配要らない」
少しだけティルの表情が話し相手を安心させるような雰囲気に変わる。
「君の妹達は、友人の家で夕食を共にしたとの事で、不在だった。そのため食事の準備も必要なかった」
「何でそんなこと分かったんだ?」
「デンワという通信手段にそういった内容のメッセージが残されていた。」
(スヴァルトヘイムには電話のような機械の類は無いのかな?)
「そうか……そういえば僕の服とか血だらけ……」
「それについても問題は無い」
無表情の中に少しだけ気安さを混ぜたような表情でティルが言う。
「服は、血を落として破れた箇所は修繕しておいた。体に付着したものはシャワーというもので洗い流した」
「えっ、ちょっと待ってくれよ……」
(それで、ボディソープの匂いが……ってそうじゃなくて!ティルが僕にシャワーを?)
「変な想像をするな」
そういうと、ティルの足元から伸びていた影が突然起き上がり、一人でに動き出した。少しばかり身構えてしまう朱音。
「ドッペル……という私の能力の一つだ。君にシャワーを浴びせたのは「これ」だ」
そう言うと「ドッペル」はティルの足元へと戻り、再びただの影となった。朱音はそれを聞いて一つ大きく息を吐き、
「安心したよティル。君に裸を見られたとなると、今後顔を合わせるのが気まずくてしょうがないからね」
少し笑って言った。それに対してティルは、
「そうか……では私はそろそろ退散するとしよう……」
頑強な岩のように崩れない無表情でそう言って、姿を消そうとしたその時、
「あっ、ちょっと待って」
朱音が呼び止める。それに対してティルは、朱音の方を向き表情だけで「何だ?」と問う。
「色々とその……ありがとう」
アカネが言った。謝礼の言葉になぜか、少しばかり驚きの表情を浮かべるティル。
「どうかしたの?」
ティルの様子に異変を感じた朱音が聞く。
「いや……私はキルハ様から言われただけで大したことはしていない。それに……」
(それに?)
「それに……キルハ様以外の者から礼を言われたのは初めてだ」
そう言うと、ティルは完全に姿を消した。一人残された朱音はティルの驚いた瞬間の表情を思い出して、
(やっぱり面白い人だな……)
少しだけ笑った。
ティルと別れた後、我が家の入り口に立つ朱音。ドアを前にして、深呼吸を行い、心を落ち着けると、意を決してドアを開く。
「ただいまー」
努めて普段の声色で言われたそのセリフに、
「おっかえり!」
「おかえり〜」
という、元気な声と控えめでゆったりとした声のレスポンスがそれぞれ返ってくる。ちなみに前者は神谷家の元気コンビの樹亜と父、冬彦の声。後者がおっとりコンビの実亜と母、瑞希の声だ。朱音を迎える声がした後、ドタドタという四人の足音が廊下に響く。足音の主達は玄関まで来ると一列に並び。
「おかえり!」
と、改めて声をそろえて言った。それを目にして苦笑しながら、
「ただいま」
と朱音も返した。朱音が靴を脱いで家の中に入ろうとすると、
「ったくよ〜、お前はこんな時間までどこほっつき歩いてんだ。瑞希ちゃんが探しに行くって聞かなかったんだぞ!」
声の主は父、冬彦だった。冬彦は怒っているのだか、心配しているのだか分からない表情で、胸の前で腕を組んで立っている。
「こんな時間って……」
朱音はポケットから携帯電話を取り出して、ディスプレイの時間に目をやるとまだ七時を少し過ぎたくらいだった。
「部活とかしている高校生だったらもっと遅いくらいじゃないか。みんな心配しすぎだよ」
そう笑いながら言った。
「でもね、でもね、朱音ちゃん、学校終わった後に寄り道してくる時は絶対にお家に連絡くれるじゃない?でも、今日は無かったし、それに最近物騒だからもしかしたらって思って……」
そう言ったのは、母、瑞希だった。その顔は少しばかり疲れているようにも見える。
「母さん、ゴメン。図書館に寄ったら興味深い本があって、つい夢中になって連絡入れるのを忘れちゃったんだ」
そう、家族を心配させないための小さな「嘘」をつく朱音。
「そう、それならいいの。アカネちゃんももう高校生なのに、私ったら心配しすぎよね……」
本当に心配そうな顔で言う瑞希を見て、朱音は少しだけ心が痛んだ。
「え〜、図書館行ってきたの〜?実亜も行きたかった〜」
一つ前の話題にワンテンポ遅れて反応したのは、おっとり代表の実亜だった。手にはお気に入りの「海賊ビリーシリーズ」の絵本が大事そうに抱えられている。この様子だと既に読み終わってしまったのだろう。
「じゃあ、今度の日曜に一緒に行こうか。実亜の好きなビリーを一緒に読もう」
そう言って朱音は実亜の頭を撫でた。
「ホント?約束だよ〜?」
嬉しそうに言う実亜を見て朱音は表情を緩める。
「もう!いつまで玄関にいるの?早く晩御飯食べようよ!」
そう家中に響く元気な声で言ったのは樹亜だった。どこか不機嫌そうな面持ちをしている。
「そうね、アカネちゃんも帰ってきたことだしお夕飯にしましょう。準備しておくから、アカネちゃんは着替えてきちゃいなさいな」
瑞希はそう言うと、リビングの方へと戻っていく。それに続くように冬彦、実亜、樹亜の三人がリビングへと列を作る。リビングに入る直前、最後尾にいた樹亜が靴を脱ぎ終えた朱音の方へ振り向いた。朱音はそれを見て「どうしたの?」といった顔をする。すると樹亜は、
「日曜日!」
少し怒ったような顔で言う。
「日曜日……私も行くからね!」
そう言い残してリビングの扉を閉めた。どうやら、実亜とは休日の約束を交わして、自分は誘われなかったことが不満だったらしい。そんな可愛らしい妹の一面を見て、微笑む朱音。
(図書館好きじゃないって言ってたくせに……)
微笑みながら玄関すぐの階段を上がり自室へ向かう。自室に入ると疲れていたのか、電気も付けずに仰向けにベッドに倒れこんだ。窓の外から、月と淡い街頭の光だけが差し込む暗い室内で、木目調の天井をじっと見つめながら、
「ホントに……いい家族だな……」
そう呟いて……朱音は数分、眼を閉じた……
十分程が経過して、普段着に着替え終わった朱音がリビングへと入ると、食卓には五人分の夕食の用意がされてあった。五つあるイスには、朱音とまだ最後の一品を調理中の瑞希を除く三人が既に席について待っていた。朱音も、いつもの自分の席である「お誕生席」に着く。それと同時にキッチンに立っていた瑞希が食卓へと大皿を運んできた。
「はぁ〜い、今日のメインはから揚げですよ〜」
そう言うと、大量のから揚げが乗った大皿を食卓の上に置いた
「わぁ〜い、から揚げだ〜!」
「から揚げ〜」
双子の妹達が歓喜の声を上げている。
「よぉ〜し、それじゃあみんな手を合わせろ〜」
父、冬彦が自ら率先して手を合わせながら言う。それに続くように朱音も含めた他の全員も手を合わせた。
「いただきます!」
父が言う。
「いただきます!」
他の全員も声を合わせて言う。こうして毎日恒例の、神谷家の賑やかな晩御飯が始まった。瑞希の作った料理の数々にみんなで舌鼓を打ちながら、両親は旅行での話を、樹亜は学校のテストで百点を取り先生に褒められた話を、実亜は図書委員になって本がたくさん読めるという話をそれぞれ話し始めた。朱音はそれらを、時折相づちを打ち、時折笑い、時折冗談を交えながら聞いていた。聞きながら、頭の奥深くでは、
(楽しいな……)
そう、普段は気づくことのできない「日常のかけがえ無さ」の再認識をしていた。
夕食が終わり後片付けをする母を手伝った後、リビングで一緒にテレビを見ている父と妹達を横目に、朱音は一人自室へと戻った。部屋に入ると、再び電気を付けずにベッドへと倒れこんだ。今度はうつ伏せに。時刻はまだ九時を少し過ぎたくらいであったが、朱音の目蓋はすでに睡魔に襲われていた。
(なんか、家に帰ってきたらどっと疲れたな……色々あったし……今日は……早め……)
そこまで思考を巡らせたところで、朱音の意識は途絶えた……意識の途絶えた朱音の頭の中では、代わりに「無意識」が朱音にある風変わりな夢を見せていた……
……声が聞こえてくる
『本当に引き取るつもりなのかい?あんた達だって大して余裕があるわけじゃないだろうに』
それは、恐らく壮年の女性の声で、どこか咎めるような口調だった。
『もう決めちまったんだ。それに、瑞希ちゃんは「こんな可愛い子なら大歓迎です」って言ってくれたぜ?』
別の、よく聞き覚えのある男性の声が答える。
『……あの気丈な姉さんが、泣きながら「この子をお願い」って言ったんだ……俺も姉さんには迷惑かけたし、弟として最後くらいいいとこ見せとかないと罰が当たるだろ?』
そう、少しだけ泣きそうな声で続けた……
『だからって結婚したばかりのあんた達が、父親が誰かも分からない子供を引き取ることはないじゃないか?その内あんた達の間に子供ができたら、可哀想なのはその子だよ?』
壮年の女性はなおも咎める口調を崩さずに言った。
『いや、多分だけど……分からないんじゃなくて、言えないんじゃねえかな?何となくだけど、弟なんだから顔見ればそれくらい分かるよ。それに……』
そこでやっと、自分が男性の腕に抱かれていることに気づいた。
『子供は三人作ろうって瑞希ちゃんと決めていたんだ。だからこの子含めてもあと二人はいけるだろ?なぁ〜に三人とも満遍なく愛情与えてやるさ。それくらいできなくちゃ、父親になんかなれねぇだろ?』
そう言った後、自分を抱いている男性が笑ったような気がした。抱かれている腕がとても温かくて寝てしまいそうになる。壮年の女性は一つため息をついた後、
『これじゃ、私が悪者みたいじゃないか。まったく……あんたの好きにすればいいよ。私だって別にこの子が嫌いなわけじゃないんだからね。「鈴音」の子供って事は私の孫になるんだからさ、そんなの当然じゃないか』
そう言うと、壮年の女性のものらしき足音が立ち去る音が聞こえた。立ち去り際に女性は、
『たまには私にも、顔を見せに来ておくれ……アカネ』
そう言って再び足音を響かせた……
「ブルルルルルルッ」
突然、枕元で起こった振動に朱音は驚き、飛び起きた。
慌てて振動の発生源である携帯を手に掴むとその中のボタンの一つを押して振動を止める。
(もう……朝か?)
一つ伸びをする朱音。何か夢を見ていたような気がする。つい先程まで見ていたそれを思い出そうとするが、再生されることは無かった。
「でも、何となく……あったかい夢だった気がする……」
そう呟くと、思い出した様に携帯のディスプレイに目をやる。時刻はまだ午前六時前だった。画面の上の方に、メールの受信を知らせるマークが付いていることから、先程の振動がアラームではなかったことが分かる。
(こんな朝早くから……誰だろう?)
慣れた動作でボタンを押しメールを開くと意外な人物からのメールが届いていた。
『題名 キルハです』
朱音は眼を疑った。
(何で、キルハからメールが?誰かのイタズラ……いや、僕がキルハって呼ぶ様になったのは昨日、というより出会ったのが昨日だし……)
考えても仕方ないのでとりあえず本文を開く朱音。そこには、
『突然連絡してしまい申し訳ありません。こちらでの連絡手段をどうしようか迷っていたところ、ティルから「ケイタイ」というものがあるのを教えてもらい、早速使ってみることにしました。こちらの「機械」は複雑で、この「メール」というものを打つのにも(笑わないでくださいね)数時間の時間を要してしまいました。お恥ずかしい話なのですが、文字の変換というのが中々出来なくて……ですが結構慣れてきましたので、これからはこの「ケイタイ」で連絡を取ろうと思っていますのでよろしくお願いいたします。あっそうそう、アカネ君の「メールアドレス」というものは、昨日の夜に金原さんにお願いして教えていただきました。私が金原さんに無理を言って教えていただいたので、どうか金原さんを攻めないでくださいね。それと、昨日お話した鍛錬のことなのですが、詳しいお話をしたいと思いますのでお昼休みに屋上へ来ていただけませんか?お待ちしています。
キルハ』
……という可愛らしい内容が書かれていた。全文を読み終えた朱音は、まだ覚醒していない頭で、
(……あっちには機械はないのか……?)
そんな的外れなことを考えていた……数秒が経過して、頭の中もはっきりしてきたところで朱音は、改めて携帯のディスプレイに目をやると、メールボックスに「KIRUHA」というカテゴリーを新設し、メールを移した。
いつも起きている時間まではまだ余裕があることもあり、朱音は二度寝を試みる……が二度寝の出来ない体質なのか、それとも昨日早めに寝てしまったからなのか、目を瞑っても布団を被っても、すでに冴えた目と頭が眠ることを許してくれない。一通り試行錯誤した後、仕方なさそうにベッドから起き上がり自室を出る朱音。いつもの様に飼い猫に挨拶をして階段を下り、リビングへと入る。入ると、既に起きて朝食の準備をしていた、母、瑞希が朱音の方を見た。見て、
……一瞬怪訝そうな顔をした……
しかし、瑞希はすぐにいつもの表情に戻ると、
「あら?アカネちゃん、今日は早いわね〜。何か用事でもあるの?」
そう言って笑顔を作った。その笑顔を見ながら朱音は、
「いや……何か目が冴えちゃってさ。昨日早く寝すぎたのかな?」
そう言っていつもの自分の席に着いた。胸に僅かばかりのしこりを残したまま……
「ちょっと待っててね、すぐに朝ごはん用意するから」
瑞希は、キッチンに向き直ると朝食の準備の続きを作り始める。フライパンや包丁が立てる音を耳に、朱音が新聞に目を通しながら待つこと数分、瑞希が朱音の前に朝食のプレートを置いた。上には目玉焼きとサラダに、焼いたベーコンが二枚乗せられていた。
「コーヒー?紅茶?」
瑞希が飲み物を聞いてくる。
「ん〜、じゃあコーヒー」
朱音が答えると、用意してあったポッドからマグカップにコーヒーを注いで朱音の前に置く。「いただきます」
「はい、召し上がれ〜」
朱音が食べ始めるのを見届けると瑞希はキッチンへと戻った。今度は弁当の作製に取り掛かるようだ。
(さっきのってやっぱ……フォールダウンの影響なのかな?)
瑞希の後姿を眼にしながら、朱音は出された朝食を、ゆっくりと噛み締めるようにして平らげた……
朝食を済ませたところで、時間は七時十五分……朱音がいつも目を覚ます時間になっていた。特にすることもないので、もう学校に行ってしまおうか?そんなことを考えていると、パジャマ姿の樹亜と実亜が一緒に起きてきた。
「おはよー!」
「おはよ〜〜」
元気な声と、おっとりした声でそれぞれ言う姉妹。実亜の方は目を瞑り、まだ寝ている様な顔をしていた。
「おはよう、実亜、樹亜」
「おはよ〜、もう朝食できてるから座っちゃって〜」
「はぁ〜い」
瑞希に言われて自分達の席に着く実亜と樹亜。それとは逆に朱音は席を立つ。
「あれ?アカネちゃん朝ごはんは?」
樹亜が尋ねる。
「もう食べちゃったよ。今日は何か早く目が覚めちゃったんだ」
「え〜、もう食べちゃったの〜?」
返答に対して不満そうな声を漏らす樹亜。
「うん、一緒に食べられなくてゴメンね。それじゃあ僕はシャワー浴びるから」
そう言って、いつものように下着とバスタオルを手に取ると、リビングを出て廊下を浴場の方へと向かった。向かう途中、
(樹亜と実亜はまだ大丈夫みたいだな……でも母さんは……)
母が一瞬見せた、まるで「知らないものを見る」様な表情を思い出して僅かに体を震わせる。(忘れられる……って、こんなに……こんなに怖いものだったのか……)
浴場に着き洗面台の上に設置された鏡の前に立つ。鏡の中に映る自分の表情が、どことなく怯えを纏ったような情けないものに見えて朱音は「パンッ」と両手のひらで自分の頬を張った。
鏡の中の自分に活を入れるべく、睨みつける。朱音は、シャワーの温度設定を操作し、
「大丈夫さ……キルハがついているんだ」
いつもより熱い湯を体に浴びながらそう呟いた……
シャワーを浴びた後、直接自室に戻り学校へ行く準備をする。準備をしている間、したの階からは「やっべぇー!寝坊したー!」という父の大声とドタドタと廊下を走り回る音が響いていた。大分余裕があるので、ゆっくりと仕度をする。仕度が済み、壁にかけられたデザインクロックに目をやると、七時四五分を指していた。
(まだ早いけど……たまにはいいか)
朱音は机の上に置かれた鞄を手にすると、学校へと向かうべく自室を後にする。リビングに顔を出して瑞希から弁当を受け取った後、玄関で靴を履いていると、後ろから、
「うをーーーーー!遅刻だーーーーーー!」
そう叫びながら、父、冬彦が廊下を走ってきた。
「おはよう父さん、今日は何かあるの?」
振り返り、父の姿を視界に捉えながら朱音が言う。スーツ姿の父は朱音の横に並ぶように座り自分の革靴を手に取ると、
「おう、おはよう朱音。それがよ〜、朝からプレゼン入ってるの忘れててよ。資料とか色々準備することがあるのに目覚ましが役立たずですっかり遅刻だぜ」
そうぼやくように言った。ちなみに冬彦は広告会社に勤めており、「クリエイティブ」という部門の、CMなどの製作に直接関わる仕事をしている。こう見えて仕事は出来るようで、部下や上司からの信頼も厚く、若くして大きな仕事を任されている(同僚談)とのことだった。これでそそっかしいところさえなければ出世間違い無し、とも言われているようだが……
「ははは、何か父さんらしいね。昨日も遅くまで資料でも作っていたんでしょ?」
「まあな、どうしても作り直したいところがあってよ」
そこまで言うと靴を履き終え立ち上がり、
「そんじゃあな、朱音。今日もしっかり勉強しろよ!」
そう言って玄関を飛び出していった。ドアも閉めずに、カツカツと地面を靴底で叩きながら走り去っていく父の後ろ姿を見送り、自らも玄関を出る朱音。空を見上げると、昨日に引き続き雲ひとつ無い青空が広がっていた。空から視線を正面に戻したところで、朱音は驚いた。
「え……何で?」
数メートル先にある門の向こうに……一人の少女が立っていた。
朱音は少女の元へと駆け寄ると、
「キルハ、こんな朝早くからどうしたの?」
そう、声を掛けた。朱音に気づいてパっと顔を明るくするキルハ。
「お早うございますアカネ君。今日も良いお天気ですね」
「ああ、そうだねいい天気……ってそうじゃなくて!どうしてここに?」
キルハのペースに乗りそうになった朱音が問う。するとキルハは少し恥ずかしそうな表情で、
「……メール」
そう囀るような小さな声で言う。
「メール?」
不思議そうな顔で聞き返す朱音。
「メールが……その、ちゃんと届いたかと心配になりまして……」
言われて朱音は、朝届いたメールを思い出す。
「そうか!メールか!うん、ちゃんと届いたよ。というか、返信をしておくべきだったね」
朱音はペコリと頭を下げる。
「そんな、頭なんて下げないでください。私が一方的に送っただけですし……」
そう言うと、少しだけ困ったような表情になるキルハ。そんなキルハの姿を見て少しだけ笑う朱音。
(戦っている時はあんなにカッコいいのに……)
笑っている朱音を見て今度は、キルハが不思議そうな顔をする。
「あの、アカネ君?どうかなさいましたか?」
「いや、ゴメン何でも無いよ。それより、いつから待ってたの?僕が何時に家を出るかなんて分からなかったでしょ?」
「え〜と……」
上方に視線を向け思索にふけるキルハ。
「大体……七時より少し前くらいからでしょうか?」
(七時前!?)
驚く朱音。今の時刻が大体七時五十分。単純に考えて一時間近く待っていたことになる。
「……そんなに待っていたの?」
「はい、でも私待つのは嫌いじゃありませんので」
そう言っていつもの、百合の花の様な笑顔を見せるキルハ。何度見ても見とれてしまうのはそれだけこの笑顔に魅力が秘められているからだろうか?
「用件は済みましたし、私はこれで……」
そう言って会釈をして、歩き出そうとするキルハ。それを朱音は慌てて引き止める。
「どうせなら一緒に学校に行こうよ。せっかく待っていてくれたんだしさ」
朱音がそう言うとキルハはまたパッと顔を明るくし、
「はい!」
と言って微笑んだ。
肩を並べて神谷家の前から歩き出す二人の姿を、玄関から見つめる小さな影が二つ。それは、朱音の双子の妹、実亜と樹亜のものであった。二人は早めに学校へと向かう朱音と一緒に登校するべく急いで仕度を済ませてきた所で、先程の現場に遭遇したのであった。朱音とキルハを見えなくなるまで見送った後、顔を見合わせる実亜と樹亜。先に声を掛けたのは樹亜だった。
「実亜ちゃん実亜ちゃん!あの女の人誰!?」
「ん〜、誰だろうね〜樹亜ちゃん?」
いつものようにゆっくりとした口調で返す実亜。
「何かニヤニヤしちゃって……あんなだらしない顔したアカネちゃん初めて見たよ!?」
「制服が都子ちゃんと一緒だから学校のお友達じゃないかな〜?」
ひたすら、落ち着かない樹亜とは逆に、実亜はひたすら冷静なままだ。
「でもでも、都子ちゃんみたく幼馴染とかじゃないただのお友達が一緒に学校行くかな?」
自分でも知らず知らずのうちに、声を張り上げる樹亜。
「ん〜、じゃあ〜ただの友達じゃないんじゃない〜?」
珍しくイタズラな顔つきをする実亜。取り乱している樹亜は、それにはまったく気が付いていない。
「あ〜、もしかして……アカネちゃんの彼女だったりしてね〜」
実亜が樹亜とほとんど同じ声でそう続けると樹亜は、
「か、か、か、かのじょーーーーーーー!?」
そう叫んだきり放心状態となった……放心状態となった同じ顔の姉を見ながら実亜は、
(冗談なのにな〜……「おくて」なアカネちゃんに彼女なんて出来たら分からないわけないのにね〜)
そう思った後、姉の手を引っ張り、いつもの様にゆっくりとした足取りで学校へと向かった。
高校までの通学路を、肩を並べて歩く朱音とキルハ。朱音は、はたから見ていても少し緊張していることが分かる。
(……よく考えると、都子以外の女の子と登校するのなんて初めてじゃないか?)
そんなことを考えつつ、キルハの方へと目をやると、キルハの人形の様に整った美しい横顔が目に入る。その視線の先には春の日差しに照らされて咲き誇る桜の木があった。
「本当に美しいですわね、この花は……」
朱音の視線に気づいたのか、突然キルハが言う。
「うん……そうだね」
道の両端に咲いた桜に目をやりながら、朱音も素直に同意する。
「こちら(・・・)での苗字に使っているくらいだし、やっぱり桜が好きなの?」
「はい、一番好きな花です」
「ふ〜ん、やっぱりキレイだから?」
「ええ……美しさもそうですが、桜って花を付けている時期がとても短いでしょう?多くは開花から二週間ほどで花を落としてしまいますよね?」
花見などの際に良く見られるソメイヨシノなどは、早ければ一週間ほどで散ってしまう。
「……もし私が花だったら、一度花を付けたらいつまでも綺麗に咲き誇っていたいと思うのです。ですが、桜はとても潔く散っていくでしょう?自らを省みずに、見るものを楽しませ……散る間際でさえ美しく凛としている……そんな姿が私はとても好きなんです……」
朱音は話を聞きながら、同時に楽しそうに話すキルハの横顔に、見惚れていた。
「なんて、桜の気持ちが分かるわけではないのですが」
そう言って恥ずかしそうな顔をした後キルハは、少しだけ……少しだけ悲しそうに笑った。
「そっか……」
どこか悲しげなキルハの姿を目にして朱音はそう返すことしか出来なかった。普段はとても綺麗に笑う少女が、時折見せる暗い表情。朱音は、
(この子に……こんな顔をさせたくない)
出会ってからの時間に関係なく、そんなことを思い始めていた……
学校に着いて、校舎入り口の下駄箱へと入る朱音とキルハ。するとそこには、靴を履き替える朱音のクラスメイト、秋川ヨシノの姿があった。ヨシノはこちらに気づくと、
「あっ、神谷君、桜井さん、おはよう」
と挨拶をしてきた。
「おはよう、秋川さん」
「おはようございます」
それぞれ挨拶を返す朱音とキルハ。
「神谷君、今日は早いんだね?いつも来るの遅めなのに」
笑顔で話しかけてくるヨシノにどことない違和感を覚えながらも、
「昨日早く寝すぎて、目が冴えちゃったからたまには早めに来てみようかと思ってさ」
と普通に返答する朱音。
「ふ〜ん、桜井さんはいつもこの時間なの?」
「私はいつもより少し遅いくらいでしょうか。通学途中で神谷君にお会いしましたので、一緒に登校させていただいたんです」
「神谷君」という部分に少しだけ引っかかる朱音。
(……僕もみんなの前では「桜井さん」って呼んだほうがいいのだろうか?)
そんな朱音をよそに二人は会話を続ける。
「へぇ〜、昨日の今日で一緒に登校なんて仲いいんだね〜?やっぱあの噂本当だったのかな?」
「噂と言われますと?」
ヨシノは少しだけ意地の悪い表情になった後、
「うん、何かね昨日の放課後に都子ちゃんが「アカネちゃんが桜井さんに惚れちゃったかもしれない!」ってすごい勢いで言いに来て、うちのクラスで噂になってたの。それ以外にも二人で歩いているとこを見たって言う子がいてメールが回ってたからさ」
ヨシノの爆弾発言を聞いて呆然とする朱音と、イマイチ状況の飲めていないキルハ。
「ふふふ、何気に神谷君人気あるから泣いちゃう子が多いかもよ?それじゃあ私先に行くね」
そう残してヨシノは、足早に教室の方へと向かった。残された朱音は言うべき言葉が見つからずに口をパクパクさせている。それを見た、キルハは、
「神谷君は私に『ほれて』いらっしゃるのですか?」
と、止めを刺すような質問をする。それを聞いて力が抜けたのかヨロヨロと下駄箱に寄り掛かる朱音。
(「惚れたかもしれない」か……確かにはたから見れば、そう考えなくもないよな……知り合ったばっかの女の子の行き先を知りたがるし、一緒に歩いているところは見られるし……今日に至っては一緒に登校しているし……)
横で、事情も良く分からないまま、自分を心配そうに見ているキルハの方を一瞥する。
(まぁ……あながち間違っていなくもないんだけど……)
力の戻ってきた二本の足でしっかりと立つと朱音は、
「ゴメン、行こうかキルハ。突然変な事言われたから驚いたよ」
と言って笑った後、上履きに履き替え教室へと歩き出した。キルハも、それに続く。
「……ちなみにだけどさ、キルハ」
「はい?」
「……『惚れた』の意味って分かってる?」
「いいえ、分かりませんわ」
……心なしか朱音の背中が元気を取り戻したようであった……
A組の教室の前でD組に行くキルハと分かれた後、教室に入ると、教室にいた生徒の視線が一斉に自分へと向いたのを朱音は感じた。理由は言わなくとも分かるだろう、キルハとのことだ。学年一の優等生で女子からの人気も高い(らしい)朱音が、新学期に転向してきた謎の美少女に「惚れているかもしれない(・・・・・・)」ともなれば噂にもなるだろう。クラスメイト達の視線から発せられる「事情を聞きたい」光線を必死に無視しつつ自分の席へと向かう朱音。すると、向かう途中で珍しいものが目に入ってきた。いつもは遅刻常習犯で、早くとも開始のチャイムギリギリにしか来ないはずのユウキが、既に席に着いていた。ユウキは音楽プレイヤーか何かのイヤホンを耳にしたまま、机に突っ伏して寝ているようだった。
(珍しいこともあるもんだな)
自分の席に着き、机の横のフックに鞄をかけると朱音は、
「おはようユウキ」
と声をかけた。するとユウキはのっそりと冬眠から目覚めた熊の様に起き上がり朱音の方を向いた。向いて……
「お前……アカネ……だよな?」
初めて会った時の様な目でそう言った。一瞬、心臓が凍りつくような感覚に襲われる朱音。しかし、ユウキはすぐに視線をはっきりさせると、
「……あれ?何言ってんだろうな俺?」
と言って笑い出した。アカネもそれに続くように無理やり笑い声を出した。
「そうだよ、何言ってんだよユウキ。僕は僕以外の何者でもないよ。それとも寝ぼけていて美女か何かにでも見えた?」
「いや〜、わりぃわりぃ。何か知らねえけど、お前が一瞬そこにいるのにいない(・・・・・・・・・・)ように見えてさ……そんなわけないのにな!」
「……何それ?実は僕のことあんまり好きじゃなかったとか?」
「あっ、気づいた?実は俺お前よりも……女の子の方が好きなんだ!」
ユウキがそう言うと、二人は笑った。昨日と同じように隣の生徒が不思議そうな顔をしていたが二人は構わずに笑っていた。まるで、気づきたくない事実があるかのように……
四時間目の授業が終わると同時に、朱音は誰にも見られないように気を配りつつ屋上へと向かった。屋上は鍵こそかかっていないものの、基本的に生徒の使用が許されておらず、教師に見つかれば内申に響くという噂もあることから、利用するものはほとんどいなかった。(それでもユウキなどは授業をサボる際によく利用しているそうであったが)
屋上の扉を開くと既にキルハが来ていた。キルハは開いた扉の奥に朱音の姿を見つけると、
「お待ちしていましたアカネ君。今日は「風」もそんなに強くありませんし、外で食事を取るには良い日ですよ」
そう笑顔で言った。二人は数時間ぶりの再開の挨拶を済ませると、念のため校舎から見えない屋上の奥の方に場所を取り、昼食を開始した。朱音は瑞希に作ってもらった弁当を、キルハはコンビニか何かで買ってきたと思われるサンドイッチを、それぞれ口に運ぶ。他愛も無い話をしながら昼食を済ませるとキルハは本題へと入った。
「まずは……そうですね、何か変わったことはありませんでしたか?」
そう言われて朱音は今日の先程までにあった一連の出来事を思い浮かべる。
「母さんが……朝なんだけど、僕のことを知らない人を見るような目で見た。すぐにいつも通りに戻ったけど……ユウキにも影響がでているみたいだったな。僕を見て『そこにいるのにいないように見えた』って言ってた……」
言葉では平静を装いつつも、一言話す度、心は鉛を流し込まれたように重く沈んでいく。
「あっ、あとは秋川さんかな?いつもは僕と話すときはどこか身構えている感じなんだけど……今日は、それが無かったかな?」
そこまで聞くと、キルハは、
「そうですか……これからの数日間で今以上に「記憶の忘却」の進行が進むと思われます。親しいものほど、その兆候をはっきりと見せるでしょう……ですが全ては神谷君がデルバトスを倒せば元に戻ります。それまでは、どうか強く心を持ってください」
そう言って、キルハは朱音の右手を自らの両手で包み込むように握った。朱音はそれにうなずくことで応える。手はすぐに離れたが、その暖かさはしばらく朱音と朱音の心に残っていた。
「それでは、鍛錬の話に参りましょうか。アカネ君には今日から、ある場所で鍛錬を受けてもらいます。実際には「鍛錬」、というよりは「使用方法の教授」になりますが」
少しだけ、「含み」を持った口調でキルハが言う。それに対して朱音は、
「質問なんだけど、その鍛錬を行えば僕にも「魔導」っていうのが使えるようになるのかな?」
珍しく、顔を少年の様に輝かせながら聞く。キルハの返答は、
「……残念ですが、エーテルを持たないアカネ君には「魔導」を使役することはできません。何より、ヒトはその体に「理」を宿していませんから」
という淡々としたもの。それを聞いて朱音は落胆する。誰でも一度は異能の力に憧れることがあるだろう。朱音もその例に漏れず、「ヒトを超越した能力」というものに憧れたことがあったというわけだ。
「さて、鍛錬のお話しに戻りましょう。内容については、実際にうけていただきながらお話しいたしますが、最終的な目標は、あのエインへリャル「ウルヴァ」と一対一で斬り結べるようになることですね」
(ウルヴァ……僕を貫いた天使の従者……)
朱音は、全身に甲冑を身に纏った巨大な男の姿を頭に思い浮かべ、僅かに身を震わせる。
(今日からのたった数日で、あんな化け物と戦えるようになるのか?)
「そんなに心配なさらずとも大丈夫ですわ。時間は十分にありますし、それに……」
(それに?)
「不幸中の幸いですが、アカネ君の肉体は以前とは比べものにならないほど強化されていますから」
朱音の頭にハテナマークが浮かぶ。自分の体を見渡してみるが「強化されている」所は特に見当たらない。
「朱音君ペンか何かお持ちですか?」
そう言われて朱音は、学ランの胸ポケットに入っていたボールペンを渡した。それを受け取るとキルハは、朱音に袖をまくるように言った。言われるがまま、袖をまくると、キルハはその腕を掴み、
「言葉で言うよりもお見せした方が分かりやすいでしょう……」
そう言うと、持っていたボールペンを……勢い良く腕に突き立てた!
反射的に腕から目を背ける朱音。しかし結果は、朱音の予想に反して意外なものであった。
……バキィ!
朱音がキルハを静止する間もない程の勢いで突き立てられたボールペンは、朱音の腕には刺さらなかった。それどころか、鈍い音と共に折れ、その半身を勢い良く飛ばしたのだ。2メートル程横で転がっているボールペンの半身を見て信じられないという顔をする朱音。そんな朱音の様子を見てキルハは、
「外見では判断できませんが、「アガペー(神の寵愛)」によるエインヘリャル化の進行でアカネ君の肉体は、普通のヒトのそれよりも遥かに硬く、強く、柔軟で俊敏性の高いものに創り変えられています(・・・・・・・・・・)。今のアカネ君は……例えば、この屋上からグラウンドへ飛び降りたとしても擦り傷で済むでしょう。つまり、ウルヴァと肉体的な差はほとんど無いと言っても過言ではありません。後は「戦い方」さえ身に付けることさえできれば「魔導」が使えなくとも、十分戦えますわ(・・・・・)」
そう言い、「あまり、手放しで喜べることではありませんが」とも続けた。それ聞いた朱音の心の中には二つの思いが浮かんでいた。一つは、自らの肉体の変化により、「これならウルヴァと戦える」ということを認識できた(・・・)大きな「希望」。一つは、自らの肉体の変化により、「既にヒト在らざるものになりつつある」ということを認識してしまった(・・・・・・)、僅かな「絶望」……
朱音は後者の気持ちを、自分の中で必死に押さえ込むと……空を見上げた。
(下を向いていても……今更後悔しても仕方が無いんだ……それなら今は……)
朱音は大きくと息を吸うと「よしっ!」と大きな声で空に向かって叫び、
「キルハ、改めてお願いするよ」
そう、公園の時以上に決意に満ちた表情でキルハに伝えた。
屋上でのやり取りから、四時間ほど後……朱音は町外れにある一軒家の前にいた。いや、それは「家」というよりも「館」と表現する方が正しい様な大きさと風格に満ちたものだった。
「こんな所に二人で住んでいるのか?」
手に握られた、地図らしき絵の書かれたメモ帳と、絡み合うバラの蔦をモチーフにしたと思われる大きな門を交互に見ながら、そんなことを考える朱音。言うまでもないが、朱音が目の前にするこの立派な建物は、キルハが「ミズガルズ」で過ごすための「工房」である。「工房」とは「魔導」を使役する者の研究所のようなものだそうで、簡単に言うと「隠れ家」だ。招待したのも当然キルハで、彼女が言うには、「広くて、鍛錬には持って来いの場」とのことだった。
「いや……広すぎだろうこれは」
家の中を想像してそう呟いた後、朱音が門の横にあったインターホンらしきボタンを押そうとすると、突然朱音の横に黒い影が現れた。
「うわっ!」
驚いて変な姿勢で飛びのく朱音。影はすぐに人の形に変わると、赤いスーツを着た男性―ティルへと変わった。
「早かったな」
現れたティルは開口一番、そう言った。相変わらず仮面でも付けているような無表情さで。
「……前にも言ったけどその登場の仕方はどうにかならないかな、ティル?」
ため息をつき、鼓動の一気に高まった心臓の辺りを押さえながら朱音が言う。
「慣れれば、気にならなくなる。それより中へ案内しよう」
そう言うと、門の方へと向き直り手をかざした。
(あまり慣れたくは無いけど……)
ティルが手をかざすと、門が一人でに開いた。ちなみにだがティルの手は門には一切触れてはいない。少しだけ驚きの表情を浮かべる朱音にティルは、
「この辺りには少しばかり特殊な結界が張ってあり、門が侵入者を選別するようになっている。普通の人間が普通に門を開いて入ると多次元空間へと飛ばされ、自力では帰ることが出来なくなるので、気をつけるように」
と、平然と物騒なことを言ってのけた後、
「ようこそ……我が主の『工房』へ」
そう言って、足音も無く中へと歩き出した。黙ってそれに続く朱音。門の時と同様、建物の扉にも手をかざして開くティル。「ギィィ」というあまり快くない音を立てて開かれた扉の先には、写真や映像でしか見たことが無いような豪奢な造りの内装が広がっていた。広いホールに長い階段、煌びやかな調度品の数々。吹き抜けの高い天井には、まるであるのが当然とでも言うように巨大なシャンデリアがぶら下がり、その輝きを惜しみなく放っている。
朱音がそれらに目を奪われている間にもスタスタと歩を進めていくティル。数秒のタイムラグの後にそれに気づいた朱音は、慌ててティルを追いかけた。
広い館の中をしばらく歩くと、一つの部屋へとたどり着いた。そこはどうやら客間に使用されている部屋らしく、美しいガラス製のテーブルを挟んで、二人掛けのソファが二つ向かい合うように置かれていた。入り口から見て手前のソファに座るように言われる朱音。座ったソファが、今までに味わったことがないような感触でお尻が落ち着かない。ちなみにティルは、座らずにテーブルの横辺りに立っていた。
「そういえば、キルハは?」
思い出したように聞く朱音。ティルはアカネの方に顔だけ向けると、
「キルハ様は、エアルズへの報告をされている。少し時間がかかるそうなので二十分程君の話し相手をするように言われている」
そう感情の無い声で言った。
「……とはいえ」
「?」
「……何を話していいか分からない、というのが正直なところではあるのだが」
それを聞いて吹き出してしまう朱音。ティルは「何が可笑しいのか?」とでも言いたげな、少しばかり怪訝な表情を作る。それに気づいた朱音は、
「ゴメン、そんなに構えることないのに、って思ってさ。でも、確かに僕とじゃあ共通の話題も無いし困るのは仕方ないよね。う〜ん、それじゃあ……」
謝罪をした後腕を組み、考える仕種をみせる。
「キルハのことなんだけど……あっちではどんな娘だったんだ?」
キルハが自ら「悪魔」と「ヒト」のハーフであることを話したときのことを思い出しながら朱音は言った。ティルの視線が朱音の方に向く。
「詮索するのはあまり趣味じゃないんだけど、一緒に戦う以上、少しは知っておきたいんだ。彼女と……君のこともね」
「…………」
考え込む仕種をするティル。その様子に朱音は言葉をかけることができない……数分、沈黙が続き、朱音が話を聞くのを諦めかけたその時、ティルがおもむろに口を開いた。
「……暇つぶしに一つ……昔話をしよう……ある血塗られた人形の話だ」
朱音は顔を上げ、ティルのほうを見る。ティルは前を向いたまま話を続ける。
「その人形はスヴァルトヘイムでも屈指の人形遣いによって創られた、人形遣い自身の最高にして最悪の傑作……」
感情のないティルの目が、どこか見えない場所を見つめるように宙に向けられると、彼は語り始めた……
その人形は、それまでのものとは明らかに「異質」であった。まるで生きているかのように精巧に創られたそれ(・・)は、いつしか自分を「生きているモノ」であると勘違い(・・・)した。突如、意志を持った人形を見て、創造主たる人形遣いは嘆いた。
「人形は「人形」であるからこそ美しいのだ!それが生き物同然に意志を持とうだなど……なんと浅ましい!」
そう言うと人形遣いは人形を家の地下にある倉庫へと幽閉した。しかし、人形も意思を持っている。閉じ込められることに快感を覚えるものなどいないだろう。人形は何度も脱出を試みた。しかし、意志が芽生えたばかりで、知識も無く知恵も働かない人形の脱出はことごとく阻まれ、十年の月日が流れた……
ある日、人形はいとも簡単に倉庫からの脱出を果たした。驚く人形遣いを前に人形は、薄笑いを浮かべると、手にしていた数冊の書物を人形遣いの前に放り投げた。人形が閉じ込められていた倉庫には様々な分野の内容が記された大量の書物と紙が納まっていた。人形は十年の間に、そこにあった全ての本を読破し理解していたのだった。最初は文字の読み書きから始まり、スヴァルトヘイムの歴史、魔導学、政治学、その他の教養から果ては医学の分野に至るまで全ての知識を、空白だったその頭部に詰め込んだ。人形は幽閉されてから一年後には脱出する術を持っていた。しかし、その貪欲なまでの知識欲と、生を手に入れた者としての執着が、脱出を最優先事項から引きずりおろしたのだ。まさか、意志を持ったとはいえ人形が「学ぶ」などということを、人形遣いは露ほどにも思っていなかった。それは、人形が投げた書物を目にしたときの人形遣いの反応からも分かるだろう。
倉庫から出た人形が、創造主たる人形遣いに向かって初めて口にした言葉は……
「オハヨウゴザイマス、マスター、ソシテ……サヨウナラ」
そう言うと人形は狂乱しながら逃げ惑う創造主をじわじわと追い詰め……嬲り殺した。自らが手に入れた知識を総動員して時間を掛けてゆっくりと……人形は、創造主たる人形遣いを殺した後、奇妙な感覚に包まれた。それは、人形に生まれた彼が始めて味わう「快感」という名の感情。
「ああ、キセキトモいうべき偶然でサズカッた生と、自ら手にイレタチシキで誰かの生をウバウトいうのは、なんと気持ちがヨイことか……」
人形遣いの家を離れ、旅に出ることを決めた。倉庫に幽閉されている間はボロ切れのような布をずっと着せられていたが、旅に出るにはキレイな格好をする必要がある。そう考えた人形は人形遣いのクローゼットを開けると純白の美しいスーツを見つけ、
「これこそ、ムから生まれた私にフサワしイ」
そう言ってスーツを見につけると、何も持たずに人形遣いの家を飛び出した。血と欲に塗れた旅をするために……
人形遣いは行く先々で、生の略奪を行った。ある街では酔ってぶつかってきた男を、ある街では誘いをかけてきた娼婦を、ある街では老人を襲って金を巻き上げていた子悪党を……略奪を繰り返す内に純白だったスーツは返り血で真紅のバラの様な色合いになっていった。人形は、少しだけ残念だった……が、
「生をマットウする今の私にハ、この真紅の血の色コソ相応しい」
そう言って旅を続けることにした。
そんなある時、人形は一人の少女に出会った。少女は人形を見ると、開口一番、
「あなたも、一人ぼっちなのですね」
そう言った。人形にはその言葉の意味が分からなかった。確かに人形は常に一人で行動していたがそれが何だというのか?少女はこうも言った。
「一人は……寂しいでしょう?ねぇお人形さん、私とお友達になりませんか?」
と……そんなことを人形に言った者は今まで存在しなかった。大抵は慈悲を求めるセリフか、断末魔の叫びでしかなかったからだ。人形は単純な好奇心から、少女と「友達」というものになることにした。
「こんなかヨワイ命、いつでも奪うことハデキルし、暇つぶしくらいニハナるだろう……」
そんな考えからの「奇行」であった。
それからしばらく、少女と人形は一日の内の数時間、行動を共にするようになった。
ある時は川で水遊びをし、ある時は少女の唄う歌に耳を傾け、ある時は二人で草原を駆け回った……最初は、ただ少女に言われるがまま行動していた人形は、次第に自分の中にある感情が芽生えていくのを感じた。それは恐らく……「慈愛」と呼ばれるもの。いつしか、人形にとってこの「か弱い」少女は、愛おしく、何にも変えがたい存在となっていた……この時間がいつまでも続けばいい……そう人形が思い始めていた矢先、事件は起こった。
人形の目の前で何者かに少女が連れ去られた。少女の父はスヴァルトヘイムの高官であり、敵も多かった。また少女の生い立ち(・・・・)と、名家の出という恵まれた環境を快く思わない者達が少女を誘拐し、亡き者にしようとしたのだった。
人形は、心の中にまたしてもある感情が沸くのを感じた。それは少女を自分から奪おうとしている者達への「怒り」と、少女を失ってしまうことへの「恐怖」……我を忘れて誘拐犯達を追った人形は、彼らを少女の目の前で……一人を残して全員殺した。一人だけ残った(・・・)のは、人形ではなく少女の意思だった。人形が最後の一人をその手に掛けようとした時、捕らえられていた少女が、突然人形の手を、飛びつくように掴んだ。人形が少女の方へ目をやると、少女は顔を左右に何度か振り、その目からは大粒の水が流れ出していた。人形が始めて目にしたそれは、書物の中でしか読んだことのなかった「涙」という名の感情の結晶。人形は、生あるものが涙を流すのは「悲しみ」に心が支配されているときだ、ということを知っていた。しかし、実際に「悲しんで」いる少女を前に戸惑うことしかできない人形。人形には、なぜ少女が悲しんでいるかがわからなかったのだ。
戸惑いながらも掴まれていない方の手で少女の涙をそっと拭う人形。その仕草は生き物のそれと変わらなかった。少女は掴んでいた腕を放し、涙を拭ってくれている手に自らの両手の平を重ねると、目を瞑り、
「助けてくれて有難う、お人形さん……でも、無闇に命を奪ってしまうことは……いけないことなんです」
そう、震える声で言った。
「命は……尊いものです……『命あるものはみな、何かを成すために生まれてきた。だから誰にもそれを奪う権利なんて無い』亡くなったお母様がそう言っていました……」
そこまで言うと少女の頬を再び涙が伝う。
「私、すっごく怖かったです。このまま殺されてしまうのかなって、誰か助けに来てって、ずっと心の中で思っていました……そうしたら、お人形さんが助けに来てくれて……でも、いつも優しいお人形さんがとっても怖くて、私のために誰かの命を奪っている、って思ったら私……悲しくて……」
そこまで言うと少女は、声を上げて泣き出した。気丈に振舞ってはいてもやはり少女だ。せき止めていた堤防が壊れたように感情を吐き出す。
「うわぁーーーーん!怖かった!怖かったよー!」
泣き出した少女を見ると人形は、少女の前に跪き、触れるだけで壊れてしまいそうな物を触るように、そっと……そっと、胸に抱きしめた……同時に人形は、これまで自分が奪ってきた命のことを考えていた……
どれくらいの時間が流れたか……人形の胸の中で泣きじゃくる少女は、フッと泣き止み、人形の胸から離れ、自ら涙を拭うと、
「お人形さん……私のお願いを聞いてくれませんか?」
そう言って小指を差し出した。
「一つ目は、もう命を奪わないで。私は、お人形さんのあんな姿を見たくないです。何よりいつも優しいお人形さんでいてほしいの……」
人形は黙って少女を見つめる。
「二つ目は……命の恩人のお人形さんに、こんなことを頼むのも変なのですけど、私とこれからも……お友達でいてくれませんか?」
少女は泣きはらした顔で照れたような表情になって言う。
「私……お友達が一人もいないんです……だからお人形さんがお友達になってくれた時、すごく嬉しくて……お人形さん、これからも私の初めてのお友達でいてくれませんか?」
そう言うと、少女は百合の花のように、可憐に微笑んだ。それまで無言で通していた人形は、口を開くと、
「もし君が今回のヨウに危険な目にあったときハ、一つ目の約束は守れないかもシレナい……それでもいいか?」
そう聞いた。すると少女は、
「大丈夫です。私、お人形さんに守ってもらう必要が無いくらい強くなりますから!」
そう言って、再び微笑んだ。それを聞いた人形は、自分の小指を少女の小指に無言で絡める。絡めた瞬間、人形の心の中に、何か暖かいモノが流れた。それはつま先を、胸を、指先を駆け巡り頭に到達すると、「涙」となって人形の目からあふれ出した。少女はそれを見ると、先程人形がそうしたように人形の頬を伝う「涙」を拭った。拭われた人形は、あるはずの無い(・・・・・・・)心臓のあたりで感情という名の洪水が起こるのを感じて、思わず少女を抱き締めた。
……先程よりも少しばかり強い力で。
「二つ目の約束は……死んでも破らない……」
そう胸の中の少女に告げる……少し苦しそうにしていた少女は、それを聞くと、
「ふふふ、私より先に死んじゃったら……許しませんから」
そう言って人形の腰に手を回した。
(この子を……この子を一生守る……)
回された腰の手の暖かさを感じながら人形は……心の中でそう誓いを立てた。
「……その後少女は、人形との約束を守るように自らを厳しく鍛え、戦う術を手に入れ、ついにはスヴァルトヘイムでも、特に高位の四人にしか与えられない「四季」の二つ名を与えられるまでになった。人形は、今でもそんな少女を愛し、尊敬し、つき従うことを自らの喜びとしている……ということだ」
一通り話し終えたところで、キルハが部屋の中に入ってきた。自宅ということもあり制服ではなく淡い青を基調とした花柄のワンピースにペールグレイのカーディガンを羽織っている。手にティーポッドとカップ、それにクッキーの皿を載せたトレンチを持って、ソファの横まで来ると、
「あら、何のお話をなさっていたのですか?」
キルハは、そう二人に聞いた。
「ちょっと、ティルにスヴァルトヘイムの話をしてもらってね……中々興味深かったよ」
そう言うと、朱音とティルは軽いアイコンタクトを交わした。
「ふふふ、そうですか。お二人に仲良くなっていただければ、私も嬉しいですわ。」
キルハがトレンチをテーブルに載せ、自らもソファの朱音の正面の席に座りながら言う。
「アカネ君遅くなりまして申し訳ありません。少しスヴァルトヘイムとの連絡に戸惑ってしまいまして」
言いながら、ポッドを持ち上げると、カップへと褐色の液体をゆっくりと注いだ。紅茶に関する知識をそんなに持ち合わせていない朱音にも、カップから漂う香りから、それが上等なものであることが想像できた。下に敷かれたソーサーごとカップを受け取ると、
「いただきます」
と言って紅茶を一口飲む。花の様な薫りとタンニン、そして僅かな甘味が口の中でふんわりと広がる。
「……美味しい」
朱音は思わず感嘆した。それを聞いて笑顔になるキルハ。
「今日は、いつもとは違う茶葉を使ってみたのですが、お口に合って良かったですわ」
(いつもと違うってことは、僕のために?)
そんなことを考えて、顔がニヤついている朱音を、ティルが咳払い一つで戒める。二人のやり取りを見て、不思議そうな顔をするキルハ。朱音は笑って紅茶を口に運ぶしかなかった。
お互いに、一杯ずつ紅茶を飲み終えたところでお茶会は終了となった。終了後、今度はキルハの案内で剣術場という場所に連れて行かれる朱音。扉を開くと、先程いた客間を四つほど合わせたような、かなり広いホールが広がっていた。
「ここはその名の通り、剣術の鍛錬を行う場所になります。アカネ君には主にここで鍛錬を行っていただくことになります。」
「へぇー、家の中にこんなところが……」
剣術場を奥まで見渡して感嘆する朱音。埃一つ見当たらないことから頻繁に使用されていることが分かる。
「キルハも、ここで剣の練習を?」
「ええ、ほぼ毎日ティルと。ティルはとても強いのですよ。私でもたまにしか勝てませんの」
そう言ってティルの方を見る。ティルは、
「恐縮ですキルハ様」
などと言って、無表情の中にも少しだけ、照れが混じっている様に見えた。
剣術場の中央に、二人と一体が内を向くように集まる。
「いきなり実戦……というわけには行きませんので、まずはアカネ君には二時間ほどで体の使い方を覚えていただきます」
「体の使い方?」
朱音の方をみて小さく頷くキルハ。
「アカネ君の体は昼にも言いました様に、純粋なヒトであった時よりも遥かに強靭なものとなっています。そのため、まずはしっかりと使い方を身につけることで力の無駄遣いをしないように、というわけですわ」
(なるほど、最大能力値は大幅に上がったけど、その分調節が難しいから、その調節をしっかり出来るようにってことか)
「分かったよ。何から始めればいいかな?」
するとキルハはティルの方を見て一瞬視線を交わす。
「ティルと幾つかのゲームをしていただきます。」
そう言うとキルハは剣術場の端に向かった。端までたどり着くと、
「今から、全力で逃げるティルの「ドッペル」を追いかけてもらいます。制限時間は二十分、ですが、そのまえに捕まえることが出来ればそこで終了となります。力の調節を気をつけないと、すぐに壁に激突してしまうので注意してくださいね」
(要するに鬼ごっこか)
「では、スタート!」
そう言って、手を振ると同時に鬼ごっこが開始された。
かなりのスピードで走って逃げ出すドッペルと、猛然と追いかける朱音。両者ともヒトを遥かに超えるスピードだが、僅かばかり朱音が上のようだ。すぐに背中に手が届きそうな位置に近づく。
(これなら、すぐに……)
朱音が手を伸ばした瞬間、ドッペルは直角に曲がって朱音の手をスルリと抜けてしまった。朱音は、自分も続こうと方向転換を試みるのだが、スピードのですぎた足は止まってくれずそのまま頭から壁に……
「ドーン!」
大きな音と共に、激突し壁が凹む。朱音は頭をさするが傷一つついていない。
(あんなに勢い良くぶつかったのに、痛みもほとんど無いぞ。さすが人外の肉体……)
のん気に自分の体に感心する朱音にキルハから、
「アカネ君の体は今、乗用車にジェットエンジンを積んでいる様なものです。スピードを出すことよりも、出しすぎないこと、そして上手く方向転換することを重視してください」
というアドバイスが飛んでくる。
(そうだよな、減速は何とかなるから問題は方向転換だ。力の入れる場所と方向さえ掴めれば)
朱音は立ち上がると、再び鬼ごっこを開始した。今度は何とか壁にはぶつからないようになったものの、方向を変えるところでバランスを崩し、その間に離されてしまう。しかし、
(段々、分かってきたぞ。力で無理に曲がろうとするからバランスを崩すんだ、もっと曲がる瞬間に力を抜かないと。それに、相手が「曲がった」と意識してから曲がろうとすると追いつけない。相手が曲がる瞬間をもっと感覚的に察知できれば……)
朱音には確かな手ごたえが生まれていた。
(相手の挙動を良く見て……ここだ!)
相手の、足が方向を変えるべく足の挙動を代えた瞬間を見計らって、朱音も同じ方向へと方向を帰る……が、力が上手く抜けていなかったのか僅かにバランスを崩してしまう。
それでもあと少しで背中に触れるというところまで朱音の感覚は研ぎ澄まされていた。
「後、三分ほどで二十分になります」
いつから持っていたのか、ストップウォッチを見ながらキルハが残り時間を伝える。
(よし……絶対に時間内に捕まえる!)
時間的にチャンスはあと一度か二度。しかし朱音の感覚は、今日一番研ぎ澄まされている状態だった。
(よし、動きも段々見えてきた……)
追いかけながら、相手の一つ一つの挙動に注意し、なおかつ自分の足の神経にも気を配る。
「……ここだ!」
相手が曲がった瞬間を見計らって、体の力を抜き、方向を変える。方向が変わった瞬間再び足に力を送り込むと、今度は相手の真横に並んだ。真横に併走するドッペルを見てニィっと笑うと、
「捕まえ、た!」
と言ってドッペルに飛び掛る。朱音が捕まえた、そう思ったその瞬間ドッペルは姿を消し、朱音はそのまま壁に激突した・・・激突の衝撃からか、壁の横に倒れたまま、僅かに痛んでいる朱音の元へ、キルハが駆け寄ってくる。一メートル程の距離まで近づくと、キルハは朱音に抱きついた。
「凄いですよ、アカネ君!こんなに早く捕まえるとは思いませんでしたわ!」
そう言って朱音が見せられたストップウォッチには、「19:27」と表示されていた。
「良かったよ、時間内に捕まえられて。でも……」
朱音は壁に開いた二つの穴を見る
「こんな綺麗な部屋に二つも穴を開けちゃったよ……」
「いえ、お気になさらないでください。このくらい、すぐに修繕できますので」
そういって微笑んだ。心なしか、遠くで悔しがるティルの姿が見えたのが、朱音には印象的だった……
「さて、それでは早速次のゲームに参りたいところですが……休憩などはいりますか?」
(そういえば……)
二十分近く全力疾走を続けていたにも関わらず、朱音の体はまったく疲れていなかった。それどころか、良い感じに暖まってきて、一層俊敏に動けそうな気分であった。
「その様子ですと大丈夫そうですね、では続きを……」
その後は同じように体の使い方を覚えるゲームをいくつか行った。
次々落ちてくる無数の、薄いガラスで出来たボールを、割らないように、尚且つ素早く掴むゲーム。数人のドッペルが投げるボールを、一メートル程の感覚で引かれた線の間のみを移動して避けるゲーム。ランダムに現れるドッペルの体に作られた小さな穴を、棒で的確に突くゲーム。どれも、はたから見れば遊んでいるようにしか見えないものだった。しかし、朱音はどのゲームにも真剣に取り組み、数分でコツを掴むと瞬く間に腕を上げて言った。
しかし、朱音はゲームの一つ一つをこなすたびに、自分の体に感覚がフィットしていくことに、僅かな違和感を覚えていた……
全てのゲームこなした後、キルハは朱音に質問をする。
「朱音君、感覚は掴めてきましたか?」
「うん、大分掴めてきたよ……それにしても、スゴいねこの体は!まったく違和感が無いんだ(・・・・・・・・)」
朱音は自分の体を見る、表面上は変化が無いものの、以前よりもはるかに鍛えられた肉体であることが今は感じ取れた。
それを聞いて……少しだけ「不安」な表情を見せた後、首を振るキルハ。
「いいえ、凄いのはアカネ君の体ではなく、アカネ君自身ですわ。正直なところ、今日でここまで進歩するとは思っていませんでした」
キルハに褒められて、照れる朱音。そんな朱音にティルが、
「いい気になってはいかんぞ、神谷朱音。キルハ様はこうおっしゃっているが、実戦ではまだまだ役に立つレベルでは無いのだからな」
と釘を刺す。
「分かっているさティル。このままじゃあ、まだまだウルヴァと戦えるレベルじゃないってことぐらいはね」
と言って朱音は笑い返した。
(嫌味を言っているのにこの男は……少しは悔しそうな顔くらいしたらどうだ?)
「分かっているなら良いのだがな。それよりも喜びたまえ、次はお待ち兼ねの……」
ティルはそう言うと胸元に手を入れ、どうやったのか模擬剣を二本取り出した。
「実戦だ」
そう言ってティルは、初めて……ニヤリと笑った。
「まあまあ、二人とも仲がよろしいのですね?」
と言って笑ったのはキルハだった。
(……どこらへんが?)
二人は同時に同じ事を思った。
数時間後……日も暮れて、街頭のみが地面を照らす道を朱音は一人歩いていた。
(クソー、ティルの奴……遠慮無しに叩きやがって……)
ゲームの後、少しの休憩を挟んで行われたのは、ティルとの模擬戦だった。試合形式ではなく、広い場所で戦うことを想定しての乱戦だった。
ゲームを終えて「自分の体」に、少しは手ごたえを感じていた朱音は、予想に反してまったく歯が立たなかった。数時間打ち合って、際どい打ち込みをするまでにはなったものの、終了まで結局一撃も入れることは叶わなかった……
「明日こそは……必ず」
口では悔しがりながらも、朱音は冷静に、自分の動きやティルの動き、そしてティルのアドバイス(の様な罵倒)を思い出しイメージトレーニングを行いながら歩いていた。
(「相手から目を逸らすな!」「すぐに下がるな!」「避ける時は小さく避けろ!」「そんな大振りが当たるか!」……か)
ティルに言われた言葉(の中で良いことを言っていると思った部分だけ)を思い出しながら、同時に……自らの体に対する、僅かな疑問を感じていた。
(確かにフィットしている……でもこれはフィットしているというよりも……)
元に戻っている?
そう思った。根拠は無いが、この強靭な肉体に、普段はヒトとして過ごして来た(・・・・・・・・・・・)はずの(・・・)朱音が、急に馴染むというのはどんなに良い運動神経を有していても難しいことのはずだった……
朱音は黙り込むと、思考を無理やり中断した。
(今は考えていても仕方ない……それより……)
歩きながら、別のことを考えようとして今度は、傍らで朱音に声を掛け続けるキルハのことを思い出した。ずっと傍で朱音の応援をしてくれていた姿を思い出して、僅かに顔が緩む。
(こんな時に考えるのも変だけど、私服姿も可愛かったな……)
動くたび、華やかに揺れるワンピースを思い出しながら、朱音は心臓の鼓動が早まっていくのを感じていた。
(いつからだろう……こんな気持ちになったのは)
キルハと、過ごした場面を少しずつ巻き戻してみる。振り返っていくと、結局たどり着いたのは、
(何だ、そうか……)
……公園での彼女の姿だった。記憶の上では違うのかも知れない。朱音が今の「記憶」の上で先に出会ったのは桜井季流葉という女の子……しかし、朱音が惚れたのは「季流葉」ではない……事実として先に出会っていた「キルハ」にだった……
「あの時、既に……」
霧に包まれた空間を、可憐に、しかし力強く駆ける少女……きっと、その時点で自分は心を奪われていたのだ……
「半分、悪魔の血の流れる女の子……か」
そう呟きつつ、曲がり角を曲がったところで朱音は……突如、数メートル先から発されている殺気に気づいて、身構える。
道の真ん中にたたずむ左手の無い(・・・・・)二メートル近い人影。全身を銀色の甲冑に包み、頭部に装着された鷲を模った兜からは相変わらずの禍々しさが漂っている。
「……ウルヴァ」
吐き出すように相手の名前を呼ぶ朱音。伝えていないはずの自分の名を呼ばれたことに驚くことも無く、ウルヴァは、
「メルテッドスノウの「工房」から出てきたということは……我らに敵対するということか?」
そう聞いた。朱音はそれに、ウルヴァを必死に睨みつけることで答える。
「やめておけ」
そんな朱音の意思を断とうとするかのようにウルヴァが言い放つ。
「……今ならまだ取り返しがつく……悪いことは言わん……我々と来い……」
朱音は、ウルヴァに、この場で戦う気が無いことを察して構えを解く。
「『勝てるわけが無い』……そう言いたいんだろう?そんなのやってみないと分からない……それに……このままじゃ、「エインヘリャル」になってしまうんだ。あんたには申し訳ないけど、僕はヒトでありたい」
朱音が強い決意を持って自分の意思を伝える。するとウルヴァは、
「……忠告はしたぞ」
そう言って、ゆっくりとその体を霧へと変え、姿を消した。ウルヴァがいなくなると朱音は、急に力が抜けたのかその場に座り込んでしまった。
(フゥ〜、あんなのと戦うのか……)
再び相見えた、今度は、自らが「戦わなくてはならない敵」に精一杯の虚勢を張っていたためか、朱音はしばらく立ち上がることすらできなかった……
朱音がウルヴァとの遭遇を終えた頃、キルハは私室でお茶を飲んでいた。傍らには当然のようにティルが控えている。
「どうですか、アカネ君は?」
熱々の紅茶が注がれたティーカップを上品に口に運びながら、キルハがティルに尋ねる。
「ええ、認めたくありませんが……あれならば天使どもとの戦闘までには十分モノになるでしょう」
本当に認めたくなさそうな表情でティルが返す。
「そう、良かった……」
心底安心したような表情になるキルハ。それは「巻き込んだ者としての責任」か、はたまた別の「私意」か……いずれにしてもティルはそれを目にして、穏やかではない。そして、その心情のまま一つの疑問を口にした。
「ただ……少し気になることも」
「何でしょうか?」
カップをソーサーの上に戻しながらキルハが返す。
「ええ、早すぎる……と言いましょうか。「ヒト」にしては異常な上達のスピードなのです。『元々才能があった』……などという言葉では説明が付かない程に」
「どういうことですか?」
少しの間の後、ティルが話し始めた。
「以前、彼の情報を調べた時に少しだけ気になるものがありました。彼は学校の体力測定で、全校生徒の中で一位を獲得しているのです」
「あら、それは凄いですわね」
「問題なのは「結果」ではなく「内容」です。彼はトータルの結果では一位でしたが……全ての種目で二位以下を取っているのです。それも、全てその種目の一位の者と僅差で」
それを聞いて、僅かに目を見開くキルハ。
「偶然……というには出来すぎですわね」
「ええ、このことから推測されることは一つ……神谷朱音は「意図的に一位にならないようにしていた」ということです。意図的に「ならない」ことができるのなら、意識すれば一位に「なる」ことは簡単でしょう。ヒトの世界、ましてや彼らの世代での話ではありますが、本気を出せばかなりの能力を秘めていたことが考えられます」
そこまで言うと、聡明な主の理解と返答を待つティル。
「つまり、アカネ君は元々今の状態に近い能力を備えていた……そう言いたいのですね」
ティルが頷く。キルハは朱音の言葉を思い出していた。
『頭の中にスイッチがあることに気づいたんだ』
(つまり、「スイッチ」を切り替えた時が本来のアカネ君の力量?)
顎の辺りに手を当て、考え込むような仕種を見せるキルハ。
(「スイッチ」は力を発揮するためではなく……抑えるため?)
「……それが本当なら、確かに不思議ですわね。人並みはずれた力量、それを隠す理由……何か心当たりはありますか?」
「分かりません……しかし……」
「しかし?」
「神谷朱音は今の両親の実子では無いそうです。母親は彼が幼少の頃に他界。そして父親は……不明だそうです……」
そこまで聞くと、キルハは、話題の主である少年のことを考えながら、再びティーカップを口に運んだ。ティーカップから立つ湯気が、まだ紅茶が冷えていないことを伝えている。
「そうですか・・・…ここまでにしておきましょう。これ以上は、アカネ君がいない場でお話しすることではありませんもの。それに……」
そこで言葉を切った。キルハは朱音の笑った顔を思い出しながら僅かに顔を赤らめ、胸には自分の中に芽生えたある「感情」への戸惑いが、浮かんでは消えていた……
「……ところでティル……?」
ティーカップをソーサーに戻しながら話題の転換を図るキルハ。
「何でしょうか?」
いつもの様に厳かな声で言うティル。
「アカネ君に……話しましたね?……私の昔の話……」
ティルの無いはずの心臓が、ドクンと大きく脈打った。
「お話しするのは別に構いませんのよ?聞かれて困るものでもありませんし……ただ……」
(ただ……?)
「私に一言ぐらい断りを入れてくだされば、もっと良かったのだけど……」
そういうと、ゆっくりとティルの方を向き、最上級の笑顔を見せる。
(この方の笑顔は……時にとても恐ろしく感じる……)
ティルは、話の後の十年ほどで力関係が完全に逆転してしまっていることを感じていた……
幕間
朱音がウルヴァとの遭遇を終えた頃、神谷家では彼の双子の妹達が、二人の自室で朱音の帰りを待っていた。樹亜は机で宿題を、実亜はベッドで寝転んで読書をしている。先に口を開いたのは樹亜だった。
「ねえねえ、実亜ちゃん?」
机の上に広げられた宿題からは目を離さないままで言う。
「なぁ〜に〜、樹亜ちゃん?」
こちらも、開いた本から目を離さずに答える。
「アカネちゃん……帰り遅いね?」
「そうだね〜」
「……何してるのかな?」
「お母さんは、『友達の家に行くって言って出ていっちゃったの』って言ってたよ〜」
「友達って誰かな?ユウキ君かな?それとも都子ちゃんかな?」
「う〜ん、朝の人かもしれないね〜」
それを聞いた途端、ばっと振り向いて実亜の方に絶望的な顔を向ける樹亜。
「やっぱりそう思う?」
「うん、何か仲よさそうだったし〜。お泊りしてきたりしてね〜」
「お、お、お、お、お泊り〜〜〜〜〜〜〜!?」
そう叫んで、樹亜の意識が別次元へ飛ばされそうになった瞬間……
二人の中で何かが割れた……
「……あれ?」
そう言うと樹亜は自分が座っている机の上に目を落とした。机の上には算数の教科書とノートが広げられている。
「そうだ、宿題してたんだ!あ〜も〜、八時になっちゃったよ〜。見たいテレビあるのに〜」
部屋の壁に掛けられた時計を見て悲鳴を上げる樹亜。それにはお構い無しで、鼻歌を歌いながら読書の続きをする実亜。
「……実亜ちゃんは宿題終わったの?」
「うん、帰ってきてすぐやっちゃった〜」
(……実亜ちゃんて、何気に私より頭良かったりするのよね)
樹亜が実亜の方をチラリと見ると、実亜は本を閉じた。どうやら読み終わったようだ。
「ねえねえ、樹亜ちゃん。明日図書館行かな〜い?」
「え〜、一人で行きなよ……ってあれ?実亜ちゃん、誰かと図書館に行く約束してなかった?」
「そうだっけ〜?そういえば、そんな気が……ん〜、思い出せないな〜」
「まったく、実亜ちゃんは物忘れが激しいな〜」
「え〜、そんなおとしよりみたいに言わないでよ〜」
仲睦まじく会話をする二人の中から、二人が愛して止まない兄との、楽しい思い出や嬉しい思い出が音を立てて崩れた。崩れたそれは宙を舞い、最初から「無かったもの」のように、その存在を静かに消されていった……