フォールダウン
本編第一章になります
太陽もとうに上り、春の柔らかい日差しが世界に恩恵を与え始める午前7時15分。左手に握られた携帯電話が、鈍い音を立てて振動を開始する。それが、朝の合図であると認識されるまでには、毎日六回の振動が必要だった。
一……二……三……四……五……
きっちり六回目の振動が終わったところで、慣れた手つきで携帯電話のボタンの一つを押し、発せられる振動を停止させた。画面に目をやると「4/13 TUE 07:16」の表示。
つい先程まで休止していた肉体の、動く感触を確かめるようにゆっくりとベッドから起き上がる。同時に目を開き、完全に脳が覚醒したことを確認する。いつも通り思考、視界、共にクリア。
ベッドのすぐ横の出窓から広がる見慣れた景色と、雲ひとつなく晴れ渡る春の空を見ながら、
「今日もいい天気だな」
そう言って彼―神谷朱音は立ち上がり、ひんやりとしたフローリングの床の上に朝の第一歩を踏みしめた。スウェットのパンツにTシャツという寝起きの格好のまま、自室のドアを開き廊下へと出て、数メートルのほどの廊下を歩き、突き当たりの階段へと向かう。階段横の、約一メートル四方のスペースに置かれた籠では、毛布に包まった神谷家の飼い猫、ミキが寝ていた。
「ミキ、おはよう」
朱音がそう言うと、ミキは一瞬こちらの方に眠そうな顔を向け、また睡眠に戻った。飼い猫に挨拶を済ませ、自室のある二階から一階へと降り、階段の向かいに位置するリビングへ入る。入ってすぐに、視界の端に捉えた人影へと目をやると、
「おっはよう朱音ちゃん!」
これ以上ないというくらい元気なハイトーンボイスが、リビング中に響いた。声の主は、既にダイニングテーブルで朝食を摂っていた朱音の小学生四年生の妹、樹亜だった。
「おはよう、樹亜。実亜はまだ寝ているの?」
自らもダイニングテーブルの樹亜の右斜め前、いわゆる「お誕生席」にあるイスに座りながら挨拶と質問をする。
「うん、昨日図書館で借りてきた本に夢中になっちゃったみたい。まったく実亜ちゃんたら、いっつもぼーっとしてるのに、本のことになると人が変わっちゃうんだから」
苺のジャムをたっぷりと塗ったトーストを頬張りながら樹亜が答える。実亜は樹亜の双子の妹で、活発な樹亜とは反対に非常にマイペースでおっとりとした性格だ。そんな実亜に樹亜は、
『実亜ちゃんはうっかり屋さんだからしっかり者の私がついてあげないと!』
なんて言って何かと世話を焼いている。口の周りにジャムをたくさんつけた、「自称」しっかり者のお姉ちゃんの姿に微笑みつつ、朱音が自分の分の食パンをトースターに押し込んでいると、背後から、
「ぉふぁよ〜〜」
声になっていない挨拶が聞こえてきた。樹亜と二人、リビングの入り口に目をやると、噂の実亜がパジャマのまま立っていた。
「実亜ちゃん、おはよー!」
「おはよう、実亜」
朱音と樹亜がそれぞれ返す。もう一度、今度はしっかりした口調で「おはよう」と言うと実亜は、トコトコとダイニングテーブル方へと歩き出す。テーブルの奥のイスに座る樹亜の横まで歩いてくると。
「樹亜ちゃ〜ん、あのね〜、昨日はね〜ビリーと一緒に天使さんがいる国に行ったんだよ〜」
そう報告して樹亜の隣の席に座る。改めて横に並んだ姉妹に目をやると、双子だけあってそっくりだ。家族や仲のいい友達以外なら、髪型くらいでしか違いが分からないだろう。ちなみにビリーと言うのは、実亜が最近ハマっている「海賊ビリーの冒険シリーズ」という童話の主人公だ。「一緒に行った」というのは、夢の中でビリーと一緒に冒険でもしたということだろう。
朱音は、実亜の分の食パンも一緒にトースターに入れてやりながら辺りを見回し、気づいたことを口にする。
「そういえば……父さんと母さんは?二人ともこんな朝早くからいないなんて」
リビングの、黒を基調とした壁掛け時計に目をやると、午前7時28分だった。父がいつも仕事に出るのは8時過ぎだし、母に至っては早朝から出かける用事なんて、特にないはず。そんなことを考えていると樹亜と実亜は、顔を見合わせ変な顔をした。
「どうしたの朱音ちゃん?お父さんとお母さんは昨日から二人で旅行でしょ(・・・・・・・・・・・・)?」
と、早口に言ったのは樹亜だ。
「えっ、そうだったっけ?」
「そうだよ〜、昨日の朝いきなり『温泉に行くから、アカネちゃん、家と可愛い妹達のことヨロシクね〜』とか言って〜、二人とも出てっちゃったじゃない?忘れちゃったの〜(・・・・・・・・)?」
今度はおっとりとした口調の実亜が言う。そう言われて改めて昨日の記憶を脳内で検索してみる。しかし……ヒット数はゼロ。樹亜は残りのトーストを口に運びながら、
「天才児の朱音ちゃんがつい昨日のこと忘れちゃうなんて、疲れてるんじゃない?いつもは結構遅くまで起きてるのに、昨日はすっごく寝るの早かったし。それか実亜ちゃんのボーっと病がうつっちゃったとか!」
なんていいながら笑っている。実亜はのんきにも、
「樹亜ちゃん、ぼーっとびょーってなに〜?」
なんて聞き返していた。朱音は焼きあがったパンにバターを塗って口に運びながら、
「それにしても変なこともあるもんだな」
誰に言うでもなく朱音は呟く。
「これまで、一度も覚えて(・・・・)ない(・・)なんてことはなかったのに……」
……小さな亀裂が走る。それはまだ、気づけないほど小さなもの
兄妹三人で仲良く朝食を摂った後、朱音は三人分の食器をシンクで洗い始める。背後では学校に行く準備を済ませた樹亜と実亜が、リビングにあるテレビで流れていたニュースを見ている。
『……で昨夜未明、自爆テロが……によるものと見られ政府は……現場にはリポーターの……』
キャスターの規則正しい、冷静な声と共に流れてくるのは、同じ世界のどこかで確実に起こっている知らない誰かの「争い」……恐らく、伝えている本人達でさえ実感の沸かない(・・・・・・・)その出来事を目にしながら、妹達は幼い頭で必死に何かを感じ取ろうとしているようだった……
「……ねぇ、アカネちゃん」
画面から目を離さずに、樹亜が口を開く。
「ん、どうしたの?」
「どうして、「あらそい」って無くならないのかな?」
「……どうしてだろうね?」
「なんで「あらそっちゃう」のかな?私は、みんなが平和に楽しく暮らせたらそれが一番だと思うの。でも……このヒトたちは違うのかな?」
「……きっと、そのヒトたちも本当は樹亜が言うみたいに「平和に楽しく」暮らしたいんだ。でも……きっと、そうできない……少しだけ誰かに「優しくできない」理由があるんだよ」
「……そうなの?」
「うん。だから、樹亜はそのヒトたちの分も誰かに「優しく」してあげるといいよ。樹亜が誰かに「優しく」して、樹亜に「優しく」してもらった誰かが、また違う人に「優しく」してあげれば、「争い」も無くなるかもしれない」
「……そっか。分かった、私、優しくなる!」
樹亜がいつものように元気な声で言う。しかし、口では言いつつも、頭では納得出来てはいない様子だ。
当然だろう、朱音が口にしたのは「理想論」。幼い妹を「汚い世界」から欺く(・・)ことはできても、直視して変える(・・・・・・・)だけの強制力を持たない「キレイ事」でしかないのだから……
「樹亜ちゃん樹亜ちゃん、そろそろ学校行かないと遅刻しちゃうよ〜」
暗くなりかけた雰囲気を、実亜のおっとりとした声が振り払う。
「あっ、もうこんな時間か!」
樹亜がそう言ってテレビの前に置いてある、赤とピンクの肩掛け仕様のスクールバックの内、赤い方をつかんだ。それに続いて実亜もピンクの方を持ち上げ、「ヨイショ」という掛け声と共に肩に掛ける。
「実亜ちゃん行くよ!私が一緒な以上遅刻なんてさせないからね!」
玄関に向かって早足で歩きながら樹亜が言う。その後ろを、急いでいるのだか急いでいないのだか分からない実亜がトコトコとついていく。
「待ってよ、樹亜ちゃ〜ん」
「いいから、急ぐの!それに私、今日は日直だから早くいかないといけないんだから!」
姉妹は玄関にたどり着き、それぞれスニーカーを履くと、
「いってきま〜す!」
とキレイに声を重ねて言い、玄関を出ていった。一人残された朱音は妹達がつけっぱなしにしていったテレビに目をやると、今度は別の場所で行われている「争い」を、先程と変わらぬトーンで伝える女性キャスターが映っていた……朱音はそれを、特に気に掛けることもなく(・・・・・・・・・・・・)消すと、バスタオルと新しい下着を手に、風呂場へと向かった……風呂場横の脱衣所に着き、Tシャツを脱ぐ。まだ四月の前半ということもあり、晒された素肌に触れる空気は、少し冷たさを残していた。下も全部脱ぐと、ガラス張りの戸を開き風呂場の中へ。入ってカランを回すとシャワーノズルの先からまだ温まっていないぬるい水分が朱音の裸体に降りかかる。十数秒も経つとぬるかったお湯は人肌をわずかに超えるところまで温まり、丁度いい湯加減となった。
「そういえば……」
朱音は顔にかかったお湯をぬぐいながら隅の棚にある洗顔フォームへ手を伸ばす。
「昨日は風呂に入ったっけ(・・・・・・・・・・・)?」
洗顔フォームを取り、プラスチックのチューブから白いクリーム状の固体をひねり出して、手のひらで泡立てながら独り言のように呟く。神谷家の、お湯が張っていれば24時間いつでも入浴可能なシステムバスからは、白い湯気が上がっていた。先程ベッドから起き上がったとき、自身の体から、神谷家で使われているボディソープの香りが微かに漂ったのを思い出した。
……しかし、朱音は風呂に入ったことを覚えて(・・・・)いない(・・・)。
「…………」
朱音は黙って、泡立てた洗顔フォームで顔をこする。風呂場には、一定のリズムを刻みながら放出される、シャワーのお湯の音だけが流れている。
(深く考えても仕方ない、「人間」なんだからたまにはこういうこともあるさ)
言い聞かせる様に無理やり思考を切り上げると、顔についた洗顔フォームを洗い流した。
……亀裂がその大きさを広げる……少しずつ、ゆっくりと。
風呂場から出て体についた水滴をバスタオルでふき取り、服を着る。脱衣所にある洗面台で歯を磨きドライヤーで髪をセットすると、再び二階の自室へと戻る。壁にかけてある、高校の進学祝いに母がくれたデザインクロックに目をやると、時刻は8時8分だった。クローゼットにしまってある黒の学ランに着替えると、いつもの様に机の上に置かれた鞄を手にして自室を後にし、玄関で靴箱の中から、黒い男物のローハーを取り出して足を通した。
「いってきます」
立ち上がり、自分以外誰もいない神谷家の玄関で一人呟くと、ドアを開けて外に出た。ドアの外では、春特有の暖かく柔らかな日差しが降り注いでいた。玄関ドアから数メートルの門まで歩き、門に手を掛けたところで、朱音は何となく神谷家を振り返った。
……一瞬、ぎゅっと胸を締め付けられるような感覚が走ったのはなぜだろう(、、、、、)?二階建ての神谷家の赤い屋根を見上げながら朱音は、
「行ってきます」
もう一度、かみ締めるように呟いて学校へと向かった……
私立藍空西高校は、朱音の家から徒歩で十分ほどのところにある男女共学の学校だ。朱音が住む藍空市では大学進学率ナンバーワン、しかし学業だけでなくスポーツにも力を入れている文武両道の進学校だった。朱音はこの高校に通う高校生で、最近無事に二年生への進級を果たした。とはいえ、朱音は学業方面では非常に優秀で、落第の心配などはこれっぽっちもないのだが。
『朱音ちゃんはすっごく頭いいんだから、少しでも勉強できる学校行かないとダメだよ!』
通学路をゆっくりと歩きながら、突如、活発な妹に言われたセリフを思い出す。
「あれは、いつだったっけ?」
中学三年生の秋頃、朱音は自分の進路を迷っていた。というのも、朱音は非常に頭が良かった、いや良すぎた(・・・・)のだ。小学生の時行われた知能指数を計るテストで、かなり高い数値を記録したそうで、中学に上がってからは有名な学校からの誘いが耐えず、最終的には海外の大学への飛び級の話しまで出たほどだ。レベルの高い環境で学べることは、朱音にとって確かに魅力的ではあった。しかし朱音は、「普通の環境」に魅力を感じないということはなかった。確かに人よりも覚えることは遥かに多く早かったが、それだけだ。周りの同級生達は彼より遥かに幼かったが、同時に彼にないものをたくさん持っていた。それに人というものは、知識量や頭のよさだけで測れるものではない。人はそれぞれ個性というものを持ち、誰にでも良いところがあり悪いところがある。それは周りのみんなも自分も一緒である、ということを朱音は、その時既に知っていた。
小学校や中学を通じてできた友人達、そして何より、自分が愛する家族と別れて、遠く離れた場所で一人勉強するということは、朱音にとって耐え難いことだった。そんな、結論が出せないまま迎えたある日の朝、自室で浮かない顔をしている彼に向かって、妹の樹亜が行ったのが先程のセリフだった。突然の妹の大声に朱音が驚いていると、彼女はこう続けた。
『朱音ちゃんはいっつも優しくて、樹亜と実亜ちゃんに勉強教えてくれて、できると頭撫でてくれて、そんな朱音ちゃんが大好きだよ』
さらに、震える声で樹亜は続ける。
『朱音ちゃんと離れるのはイヤだよ!でも、朱音ちゃんがお母さんとかお父さんとか、私達のせいでそういうことできなくなっちゃうのはもっと嫌だよ!』
そこまで言うと樹亜の目からは大粒の涙が溢れ出した。妹が自分のためにそこまで考えてくれていたことを知り、兄として情けなさがこみ上げてきたことを、朱音は今でも覚えている。そしてその後、自分で涙を拭った樹亜が、
『私達は大丈夫。だから遠慮なんてしないでいっぱい勉強してきて』
そう、何度も泣き腫らした真っ赤な目で言ってくれたことを……
結局……朱音は全ての誘いを断った。せめて、大学に行くまでは慣れ親しんだ街と、友達と、そしてなにより家族と一緒にいようと決断し、たまたま(・・・・)家から近かった、市内で一番の進学校を受験しトップ合格を果たしたのだ。実亜や両親は朱音が遠くに行かなかったことをとても喜んでくれたが、樹亜は、「自分が泣いてまで語った悲壮な決意を無視された」と感じたようで、しばらく口をきいてくれなかった。困った朱音は「家から近い方がたくさん勉強できる」「この学校からは東大生が一杯出ているから」などと言って、樹亜を何とか丸め込んだのだった。まあ、恐らく決め手となったのは、
「僕の知らないところで樹亜と実亜に彼氏ができたりしたら、なんて考えると勉強にならない」
というセリフだったのだが……
顔を見上げると、鳥が一羽、空をゆっくりと横切ってゆくのが目に入った。
「それにしても……」
(何で今更こんなことを思い出す(・・・・)のだろう?)
鳥が遥か彼方へと飛び去ってゆく。朱音は空から眼を切ると、また前を向いて歩き出した。
端から崩れ、砂のように零れ落ちていく。
家から学校までの道を歩いてくと、学校に近づくにつれて、朱音と同じ黒の学ランや、胸元に紺のリボンを揺らしたセーラー服姿の藍空西高生が増えていった。学校の校門までの道に広がる、美しい桜並木の横を歩いていると後ろから、「カツカツカツ」というリズミカルな靴音と共に、聞きなれた女子生徒の声が近づいてきた。
「あっかねちゃ〜ん!おっはよ〜!」
そう言いながら、近づいてきた声の主が朱音の横に並ぶ。
「おはよう都子、相変わらず朝から元気だな」
「あったりまえでしょ!元気が一番の取り柄の都子さんなんだから」
都子と呼ばれたショートカットの少女が笑う。
金原都子は朱音の幼馴染で、小学校一年生の時からの付き合いだ。家が近所だったこともあり、小学校から二人はよく一緒に登下校していた。しかし、最近では高校生になったこともあり、こうして会うと一緒に学校に行くくらいになっていた。都子は自分でも言っているように非常に活発な女の子で、明るく人当たりのいい性格と、間違いなく「キレイ」と形容されるルックスを持つ朱音の自慢の幼馴染だった。(運動神経には△が付くが)さらには学業の方も中々のもので、教師からの受けも非常に良く、二年生の中から任命される、次の生徒会長に推されているとか。また、家族以外で、朱音のことを「あかねちゃん」と呼ぶ唯一の人物でもあった。
「そういえば、初めてクラス別になっちゃったね。あかねちゃんのとこには誰いる?」
都子と朱音は、小学校一年のときに同じクラスになってからこの三月まで、毎年クラスメイトだった。
(こういうのを腐れ縁というのだろうか?)
そんなことを考えながら朱音は、頭の中で同じクラスになった全員の顔を浮かべ、その中から、自分と都子が、共通の「友達」と認識している人物をカテゴライズする。
「西川、初本、柳、千本松……あとはユウキと、都子と仲良しの秋川さん、てとこかな?」
朱音が言うと都子は、顔を百ワットの電球のようにパッと輝かせ、
「あっ、ヨシノと一緒のクラスなんだ?やった!これでそっちのクラス行く口実ができた!」
と、手で小さくガッツポーズを作った。
(何がそんなに嬉しいんだろ?都子ってたまに分かんないな)
そんな朱音の怪訝な様子にお構い無しで、都子はドンドン歩いていく。そんな都子に、
「てかさ」
「うん?何〜?」
「ユウキはどうでもいいの?」
朱音が素朴な疑問をぶつける。
「あ〜、いたわねそんなのも……ウン、どうでもいい!」
そう言って都子はまた笑った。
(ユウキもかわいそうに)
この、誰にでも人当たりがいいはずの都子に数秒で話題から切り捨てられた「ユウキ」とは、本名を有坂雄貴といい、朱音と都子の中学以来の友人だった。ユウキは、一言で言えば「軽い」性格をしていた。ルックスは中々で、かわいい子を見つけると誰彼構わず話しかけ、「授業は眠るためにある」と豪語し、いかに毎日を楽しく過ごすか考えている。そんな楽天的で快楽主義者な男だった。そのくせ、成績は優秀で運動神経も良く、校内にファンクラブが出来るほどの人気があった。朱音はそんなユウキのことを気に入っていて、かなり親しくしていた。しかし、根が真面目な都子はユウキの軟派なところが気に入らないらしく、会うといつも口論をしていたのだった。
「でも、うちのクラスに来ればイヤでも会うと思うよ。あいつ、都子のこと見つけると絶対絡みに行くし」
「げっ!そうだった!」
都子らしからぬ汚い言葉に笑う朱音。「ケンカするほど仲がいい」なんていう言葉もあるが、どうやら都子はユウキのことを本当に嫌っているようだった。
そうこうしているうちに二人は学校の校門にたどり着いた。多くの学生と同じように門を超え、グラウンドを横切り、校舎の入り口にある下駄箱までたどり着いた。下駄箱では他の学生達がそれぞれ靴を履き替えながら、挨拶を交わしている。朱音と都子の二人も、それぞれ履いていたローハーを履き替え、下駄箱から校舎内へと入る。
二年生の、A〜Fまで六つあるクラスのうち、朱音はA、都子はDだった。二年生の教室は校舎の二階にあり、階段を上がったすぐ横の教室がA組だ。ちなみに他の教室は、A組から奥に行くにつれB、C、D、E、F、という順に並んでいる。世間話をしながら階段を上がっていく二人。A組の教室の前につき、朱音が教室に入ろうとすると都子は、
「それじゃ、また後でね。あかねちゃん」
「あれ?秋川さんに挨拶していかないの?」
「うん、朝からあいつに会いたくないしね〜」
振り返らずに言って、都子は自分の教室へと歩いていった。あいつというのは当然のことながらユウキのことだろう。数秒、都子の背中を見送ってから、朱音は教室へと入る。中に入ると、数人のクラスメイトと挨拶を交わしながら、机の間を通り抜け、窓際の列の三番目にある自分の机に向かう。途中、一人の女生徒に声を掛けられた。
「か、神谷君、お、おはよう」
挨拶をしてきたのは、先程都子との話題の中にもでた、秋川ヨシノだった。平均より少し低い背と、セミロングの薄い栗色の髪、子猫のような愛嬌のある顔立ちが特徴の彼女は、都子の中学時代からの親友だ。
「おはよう秋川さん」
なぜか、緊張気味のクラスメイトに、笑顔で挨拶を返す朱音。朱音はヨシノと言葉を交わす時、いつも以上に笑顔を作ることを心がけている。というのも、朱音がこの秋川ヨシノと、ちゃんと話すようになったのはつい最近で、それまでは、都子を通じて何度か面識もあったのだが、ヨシノは常に都子を通してしか会話をしなかったので、朱音は「嫌われているのではないか?」などと考えていたためだった。
「神谷君、あのっ!」
突然大きな声を上げるヨシノ。周りにいた何人かの生徒がこちらに顔を向けると、ヨシノは顔を赤らめた。
(他の人とは普通に話してるのに、何で僕だけ?)
疑問に思いながらも笑顔のまま、朱音はヨシノに声を掛ける。
「どうしたの?秋川さん?」
「え〜っとす、数学のしゅ、宿題やってきたかな?って思って、その……」
ヨシノの声は後半に行くに連れてフェードアウトして行き、最後の方はほとんど聞き取れないくらい小さかった。顔を赤らめたまま下を向き上目使いでこちらの様子を伺うヨシノ。朱音はそんな彼女の姿を微笑ましく思いながら言う。
「何だ、宿題かぁ〜。てっきり、告白でもされんのかと思ったよ」
朱音がヨシノを笑わせるつもりで言った冗談は、逆にヨシノの動揺を大きくしただけだった。
「こ、こ、こここくひゃくだなんて!そんっ……」
そこまで言うとヨシノは、顔だけでなく耳まで真っ赤にして黙りこくってしまった。これがマンガなら、彼女の頭の上には、湯気の効果が付いていることだろう。朱音は頭を掻き、
(ユウキみたいにはいかないな)
彼女との溝を狭めるつもりが、逆に大きく広がってしまったことを痛感していた……
向き合ったまま、無言で数秒後。
「あの、秋川さ……」
「始めるぞ、全員席つけー」
何か声を掛けないと、と思い搾り出した言葉は、教室に入ってきた担任によって無情にも遮られた。
「じゃあ、また後で」
(後があるのか分からないけど)
朱音はとりあえずそう言って、振り返ると自分の席へと急いだ。その背中を、寂しそうな……そして切ない面持ちで、ヨシノが見つめていることなど気づかないままで。
……世界がゆっくりと捻れる(・・・)音が聞こえて、耳を塞ぐ。
席に着くと朱音は、鞄から筆記用具、机の中から一時限目の授業で使う世界史の教科書をそれぞれ取り出す。机に教科書を置きっぱなしにしているのは、別に家で勉強をしたくないからではなく、特にする必要がないからだった。(宿題がある時だけは持ち帰っているのだが)朱音は授業をきちんと聞いていれば大抵のことは頭に入ってしまう。おかげでユウキから「教科書にカビ生えても知らねえぞ」と皮肉を言われたりもしていた。机の上に出された教科書をパラパラとめくり、今日の授業で習う場所を確認しておく。
「え〜っと、先週やったのが古代オリエントまでだから今日は」
言いながら朱音は、開いた古代ギリシャ史のページの右上に、妙な書き込みがあるのを見つけた。
『数学 24ページの応用まで宿題』
(そういえばさっき秋川さんがそんなことを……でも、こんなのいつ書いたっけ?)
時間割で考えると最後に数学の授業があったのは……「昨日」の三時限目……
「!」
しばらくその教科書を見つめたまま固まる朱音。
「……誰かが間違えて僕の教科書に書き込んだのかも」
言い訳のように朱音は呟く。
「それに、宿題のこともたまたま聞き逃したのかも知れないし」
そう言って納得することにした。いや、納得しなければいけなかった。
……風に吹かれ、心もとなく揺らされる。
一時限目が始まって十分ほど過ぎた頃、突然教室のドアが勢いよく開き、一人の男子生徒が入って来た。その男子生徒は開口一番、
「スイマセン!来る途中で具合の悪そうな美女を介抱していたら遅くなりました!」
と、隣の教室まで響く程の大きな声で、平然と「嘘」を言ってのけた。教室中にドッと笑いが起こる。笑っていないのは自分の授業に水を指された世界史教師と、朱音だけだった。
「……有坂、もういいからとっとと席につけ」
そろそろ齢五十に差し掛かりそうな世界史教師は、最近薄くなり始めた頭を撫で、ため息を一つついて言うと、ペルシア戦争の解説へと戻った。有坂と呼ばれた男子生徒は、他の男子生徒に囃し立てられながらこちらの方へ歩いてくる。朱音の席の前まで来ると彼は、
「ウィッス、アカネ」
と言って朱音の前の席に着いた。
「おはよう、ユウキ」
「人助けをして遅れた」という、有坂雄貴の背中に向かって朱音は言う。すると、その背中の主は突如振り返って、
「ん〜〜〜〜〜〜〜〜?」
と、朱音の顔を覗き込みながら唸る。
「どうしたんだよ?何か僕の顔に付いてる?」
「お前、何かあった?」
真剣な面持ちでユウキが尋ねる。
「え?」
「いや〜何か、声に元気ないような気がしたからよ」
ズキンっと胸に痛みが走った、が気づかないフリ(・・)をして笑顔を作り、
「別に、いつも通りだけど?何?心理カウンセラーでも目指しているの?」
と、努めていつも通りの声で軽口を返す。ユウキは数秒、朱音の顔を見つめた後、
「……考えすぎか」
と呟いてまた前を向く。朱音は少しホッとしていた。
「ちなみに」
前を向いたままのユウキが言う。
「俺が目指してんのは、これだ」
そういうと一枚の紙を、後ろ手に朱音の机の上に置いた。その紙を、手にとって見てみると、
『精留石の不思議なパワーであなたもモテモテに!』
とデカデカと書いてあった。どうやらよく雑誌などに載っているインチキ商品の広告のようだ。あまりカッコいいとは言えない容姿の男性が、数人の美女に囲まれて幸せそうにしている写真のところに赤い二重丸が付いている。朱音が紙から目を離し、顔を上げると、ユウキが肩越しにピースサインを作っていた。朱音はユウキに紙を返すと、
「……くっくっくっく」
と声を殺して笑いだした。それに釣られて、ユウキも笑う。体を小刻みに震わせて笑う二人に、隣に座るクラスメイトが不思議そうな顔を向けてきたが、二人はまったく気にしなかった。
その後、授業は四時限目まで滞りなく進み、程なくして昼休みとなった。今日は母親がいなかったため、弁当の無い朱音は、ユウキと一緒に一階にある購買部へ行くことにした。A組の教室を出て、すぐ横の階段を下りようとすると、
「アカネちゃん!」
と、聞きなれた声がする。振り返るとそこには、都子と見知らぬ女生徒が立っていた。都子の手には弁当らしき包みが二つ握られている。
「朝言うの忘れてたんだけど、昨日おばさんから「旅行に行くからお弁当作ってあげて」って頼まれたのよね〜」
そう言って、「ハイ」と弁当の包みの一つを渡してくる。朱音と都子は幼馴染ということもあり、当然お互いの親とも顔見知りだった。
(それにしても、都子も知っているのか……)
朱音が、それを受け取るのと同時くらいに、
「おいおいアカネ、都子の作ったもんなんて食って大丈夫か〜?」
後ろにいたユウキがいつもの様に開幕のゴングを鳴らした。
(やれやれ、また始まった……)
先制パンチを受けた都子は、少しだけ眉をひそめると、
「あ〜ら、有坂君……いらしたの?あたしの脳内フィルターが、大っ…………嫌いな人を勝手に視界から排除しちゃったみたいでぜ〜んぜん気づかなかったわ〜」
と、見事なカウンターを食らわせた。
「何だとこの仮面優等生!」
「何よ!この万年色ボケナンパ野郎!」
いつものようにギャアギャア罵りあいを始める二人。朱音がそんな二人を、こちらもいつものように眺めていると、小さな笑い声が聞こえてきた。声の方に目をやると、朱音の思考は一瞬フリーズした。
そこには……先程都子の横に立っていた女生徒が、口に手を当てて控えめに笑っていた。
背中の真ん中辺りまで伸びた黒檀の様に黒いストレートヘアー。女子にしては長身でバランスのいいスタイル、雪の様に白い肌、細く長い指。そして何より……アンティークドールを思わせる翡翠の様な瞳と、整ったその美しい顔立ちに、朱音は目を奪われた……
(……こんなキレイな娘、うちの学校にいたっけ(・・・・)?)
……揺らされたモノが、崩壊への速度を増していく。
朱音が、ボーっと自分の方を見ていることに気付いた女生徒は、その美しい顔を朱音の方へと向けると、
「初めまして、神谷君」
と言い軽く会釈をした。
「……えっ?」
驚く朱音。すると女生徒は視線を朱音から、今もユウキとのバトルを繰り広げている都子の方へと向けた。
(何だ、都子から聞いていたのか)
朱音は少し落胆し、なぜかホッ(・・)と(・)した。そんな朱音の様子を見た女生徒は、「ふふふ」と可愛らしく笑った後、
「改めて初めまして、桜井季流葉と申します」
と、丁寧な自己紹介をする。その笑顔は、まるで百合の花を思わせるような可憐さで、思わず朱音は見惚れてしまった。
「金原さんとは今年、同じクラスになってから仲良くさせていただいています」
と、自分を桜井季流葉と名乗る女生徒は続けた。
「はぁ、それで今日はどういったご用件で?」
朱音は、季流葉につられたのか、微妙な丁寧さで返す。
「金原さんがいつも神谷君の話ばかりするものですから、私も神谷君にお会いしてみたいと思いまして、今日は連れてきていただきましたの」
そう言うと、季流葉は満面の笑みを朱音に向けてきた。その表情は、そこらの芸能人であれば、およそ相手にならないほどの不思議な魅力を持っていた。目の前の美少女に、どことない違和感を覚えながら朱音は彼女をボーっと見つめている。
「あの……神谷君?」
顔を自分の方に向けたまま、神妙な面持ちで黙り込んだ朱音に、季流葉が話しかける。
「んん?な、何?」
急に現実に呼び戻された朱音が、平静を装いつつ答える。
「お二人、止めなくていいのでしょうか?」
そう言って、季流葉が指差したのは、まだバトルの続くユウキと都子だった。
「あ〜……そうだな〜、どうしよう?」
放っておくと、この二人はこのまま、五時限目のチャイムがなるまで続ける可能性がある。仕方なく、朱音は仲裁に入ることにした。二人の間に割って入ると、
「ユウキ、購買行くんだろ?早く行かないと、お前の好きなから揚げパン無くなるぞ。都子、弁当ありがとう。せっかくだからうちのクラスで一緒に食べない?」
と、両手で二人を引き離しながら言う。都子は「ハァ」、と大きくため息をつき、
「そうね、こんな『バカ!』の相手してても仕方無いしね!」
引き際にまたパンチを繰り出す。「バカ」という部分が強調されていたのは言うまでも無い。
「はん!そいつはこっちのセリフだぜ!」
ユウキも負けずに返す。
「あ〜、もう!早く購買行きなよ!」
口の減らない二人に辟易としながら、朱音は階段の方へユウキを押しやる。
(ハァー、こうなるから仲立ちしたくないんだよ)
A組の教室に、四つの机が四角型に並ぶ。それぞれの机には朱音、都子、ゲストの季流葉、そして四つ目には、ユウキではなくヨシノが座っていた。ユウキは結局購買ではなく学食に行くと言って朱音達と別れ、都子はユウキがいなくなって大喜びのようだった。四人で弁当を食べながら様々な話をしていると、話題は季流葉のことへと向かった。
「桜井さんは、都子とはいつからの付き合いなの?」
初対面のヨシノが季流葉に尋ねる。
「二年生に上がってからですわ。私、春休みに転校してきたものですから、まだお友達がいなくて」
初対面のヨシノにも笑顔で話す季流葉。
「それで、一人で昼食を取っていたところを金原さんに話しかけていただいたのです」
都子の方に顔を向けながら嬉しそうに季流葉が言う。
「ふ〜ん、都子もいいとこあるんだな」
「何よ、アカネちゃん、今更気づいたの?」
都子が言いながら笑った。誰にでも気軽にこういうやり取りのできる都子を、幼馴染として朱音は尊敬していた。
「でも、都子、有坂君とだけは仲悪いよね?」
ヨシノが思い出したように言う。
「確かに、なんでそんなに会うとケンカばっかりなの?」
都子に渡されたお弁当の卵焼きを口に運びながら、朱音が続く。口の中で崩された卵焼きから、ほんのり甘さが広がる。
「あいつがいつも先につっかかってくるのよ!あっちから話しかけてこなけりゃ、こっちは別に話すことなんかないわ」
(僕が覚えている限りだとフィフティフィフティ(お互い様)な気がするけどな)
新たな火種になりかねない言葉を、思うだけに留めて朱音は食事を続ける。
「そういえば、都子ちゃんと神谷君は幼馴染だけど、有坂君は、私と一緒で中学からの友達なんでしょ?」
と、小さなおにぎりを手に持ったヨシノが都子の方を向いて(・・・・・・・・)言う。
(都子とは普通に話すんだよな)
朱音はヨシノとの朝の出来事を思い出しながら、やはり嫌われているのではないかと不安になった。
「あんな奴、友達になった覚えないわ!」
都子がマヨネーズのついたブロッコリーを、フォークで口に放り込みながら言う。
「金原さんがそんなに嫌う人なんて珍しいですね。どんな出会い方をしたのか気になりますわ(・・・・・・・)」
興味深そうにそう発言したのは、コンビニなどで売られている出来合いのサンドイッチを食べていた季流葉だった。朱音は、サンドイッチを上品に頬張る季流葉のセリフに、再び違和感を覚える……しかし、それでも気にせず(・・・)に質問の答えを返す。
「僕と都子がユウキと初めて話したのは……確か中三の運動会の時だったかな?」
中学三年時の運動会、都子は赤組の団長、ユウキは白組の団長として参加していた。運動会の終盤、白組が30点の大量リード。赤組が逆転するには最終競技のリレーで一位を取るしかなかった。しかしリレーの最終走者は各組の団長と決められていた……つまり、必然的に運動神経抜群で校内一の俊足のユウキと、運動のあまり得意ではない都子の争いとなるわけだった。その時、朱音は赤組でアンカーのひとつ前の走者を任されていたため責任重大だった。
リレーが始まる前、走者の待機場所で一生懸命ストレッチをする都子にユウキは、
『デートしてくれるなら負けてあげてもいいよ』
なんて事を言った。真面目な都子は当然のように怒ったわけでユウキの頬を思いっきり平手ではたいた後、勢い余って、
『そっちこそ、私に勝てたらデートでも何でもしてあげるわ!』
なんて、無謀な取引を持ちかけたのだった。トラックを一周して選手が入場し、いよいよリレーが始まる。スタート地点についた第一走者が、スターターの合図と共に勢いよく走り出す。両組の第一走者のスピードはほぼ互角。ほとんど同時に、第二走者へとバトンが渡ったあたりで、都子が朱音の体操服をつかんだ。朱音が、「どうしたの?」と聞くと都子は。
『アカネちゃ〜ん……あんな奴とデートなんてしたくないよ〜……』
と今にも泣き出しそうな声で言った。いつも明るい都子がこんな弱気な姿を朱音に見せるのは、小学生以来だった。朱音は少しだけ迷った後、
『まぁいいか』
そう言うと朱音は眼を閉じて黙る……数秒がたった後、耳元に運ばれた右手から、
「パチンっ!」
と乾いた音が発せられる。朱音は眼を開けて、都子に振り返ると、「ニッ」と笑いかけて見せる。後ろで不思議そうな顔で朱音を見ていた都子を少しばかり楽しげに見ながら朱音は、
『おまじない』
と言ってまた笑いかけた。レースも気づけば中盤、第三走者にバトンが渡る。いよいよ、朱音の出番が近づいたところで、朱音は意外な行動に出た。アンカーの都子を立たせると、手を引いてそのままトラックの中に連れて行く。中学一の天才の、意味不明な行動にギャラリーや両組の応援団がざわつく。次走者の待機場所まで連れて行くと、顔に戸惑いを浮かべたままの都子に、
『都子、アンカー交代ね』
それだけ言って朱音は元の場所に戻っていった。わけも分からないまま第三走者からバトンを受け取り走り出す都子。懸命に走るが、ドンドン離されてしまい、戻ってくる頃には既に走り出しているユウキとは十メートル近い差がついていた。赤組の誰もが諦めかけたその時、バトンを受け取った朱音が……放たれた弾丸のように走り出した。校内一のユウキを遥かに上回るスピードを発揮した朱音の足は、百メートルトラックの半分でユウキに追いつき、残りの半分で、逆にユウキに差をつけてゴールテープを切ったのだった……
「もう、その時のアカネちゃんたら、すっ……ごいカッコよかったんだから!」
都子が興奮を抑えきれないといった表情で熱弁する。それを聞いていた季流葉とヨシノの二人は、素直に感心した表情を朱音に向け、
「へぇ〜、神谷君て勉強だけじゃなく運動神経もいいんだ?いいなぁ〜私なんか運動音痴だからさぁ〜」
ヨシノは(あくまで都子の方を向きながら)羨み、
「幼馴染のために、なんて素敵ですわね」
季流葉が素直に褒める。
「その後ユウキが、僕のところに来て、『俺より速い奴に始めて会った』なんて言って握手を求めてきたんだ。それからかな、クラスは別だったけど良く話すようになったのは?」
記憶を確かめながら朱音が言う。
ちなみに、さらにその後都子は、
『勝ったのはアカネちゃんで私じゃないから、デートでも何でもしてあげるわよ!』
とユウキに言ったところ、
『あ〜……もういいわアレ、忘れて』
と、かる〜くあしらわれてしまったのだそうだ。からかわれた、と勘違い(・・・)した都子はその後、ユウキへの風当たりを強めていく……
勘違いというのは、実はユウキは入学当初から都子に惚れていて、リレーの前に軽口を聞いたのも、都子の申し出を断ったのも照れ隠しと精一杯の強がりからだった。未だにそれを引きずる都子と、意外と純情だが、素直じゃないユウキの争いはそれ以来、続いている。
「そういえばアカネちゃん」
「なに?」
「あの時のおまじない(・・・・・)って何だったの?」
朱音は運動会の時と同じように、少し迷ってから、
「秘密」
と言いい、そして笑った。そんな二人のやりとりを、二つ目のサンドイッチを手に取りながら季流葉が見つめている。その口はわずかに口角をあげつつも、瞳は朱音を見定める(・・・・)ような空気を醸し出していた。
四人での昼食を済ませ、昼休みが残り十分ほどになった頃、朱音は季流葉と二人向かいあって話しをしていた。都子は、「授業前に先生に呼ばれている」と残して職員室へ行き、ヨシノは自分の席に戻って五時限目の予習を始めた。学食へ行ったユウキは、まだ教室に戻って来ていなかった。もしかしたら午後の授業はサボる気なのかもしれない。
都子と同じクラスだという季流葉はD組に戻るのかと思いきや、突然朱音と話しがしてみたいと言ってA組に留まっていたのだった。(ちなみにその時、都子とヨシノがキルハに不安そうな視線を送っていたのだが、当然の事ながら朱音は気づいていない)
朱音の前のユウキの席のイスを、向かい合わせるようにして座っている季流葉。すぐ目の前に存在する(る)美少女に少し緊張しながらも、朱音は他愛の無い世間話を繰り出す。先週の水曜にあった英語の小テストで、ユウキとジュースをかけて勝負したら、同点だったのにユウキが名前を書いてなくて朱音が勝った話。同じ週の金曜日に、体育のバレーボールの試合で、たまたま(・・・・)見事なバックアタックを決めてしまい、バレー部の顧問から熱心な勧誘を受けたこと。一昨日の日曜に妹達を連れて桜を見に行ったら、実亜が桜に見とれて川に落ちそうになったこと……時々笑いを交え、興味深げな表情を浮かべつつ、朱音の話しに聞き入る季流葉。
『……で、急いで実亜の腕を掴んだんだ」
会話がひと段落し顔を上げると、三十センチほどの距離にあった季流葉の、人形の様な瞳と視線が合った。目を見開き一瞬見つめあった後、朱音は妙な既視感に襲われた……
「キーン」と……頭の中を掻き回すような不快な音が響く。
(僕は……)
視界がぼやけ、目の前にいるはずの「もの」が世界に存在しな(な)い「モノ」の様に思える。
(いつ?どこで?)
唇に、自分とは別の何かが触れる感触。
(だけど確かに)
脳の中のリピート機能の壊れたスクリーンが何度も……何度も同じシーンを映し出す。
(彼女に会ったことがある?)
断片を必死に集めるが、拾った先から砕けてゆく……
「……谷君?どうしたのですか?神谷君?」
その声で、現実に呼び戻される朱音。目の前には人形の様にキレイな顔で、百合の花のように微笑む少女。
「いや、なんでも無いよ……ボーっとしちゃってゴメンね、桜井さん」
「いいえ、気にしていませんわ……そろそろ、お昼休みも終わってしまいますのでこれで失礼いたします。神谷君のお話、どれもおもしろかったですわ」
そう言って席を立つキルハ。朱音は心の中で、今日何度目か分からない安堵の表情を浮かべる。あくまで表面では平静を装いながら、
「うん、都子によろしく」
精一杯明るい声で季流葉に向かって言う。季流葉は軽くうなずき朱音に背を向ける。そのまま数歩歩いたところで、突然セーラー服のスカートを翻して振り返ると、
「神谷君、今度は昨日の(・)お(・)話を聞かせてくださいね」
そう言って彼女は、微笑みと風を残し、空を流れる雲の様に、音もなく立ち去った……振り返った瞬間の彼女の姿がキレイで……キレイ過ぎて……朱音はなぜか、自分自身をすぐにでも消してしまいたくなる様な衝動に駆られた……
粉々に砕けた……砕け舞い散るそれは、春の風に吹かれて居場所を失った……
幕間
「……何時間経過しましたか?」
穏やかな、風の様な声で少女が問う。
「二十時間ほどです」
どこからともなく、深海のように深い声が答える。
「そう……『ディレイ』をかけているとはいえ、遅いですわね……なにか因子でも持っているのでしょうか?」
長い髪に風を纏った少女が、軽やかな足取りで歩きながら問う。
「分かりません……が、今までに無い例ではあります」
深い声が疑念を表に出しながら答える。
「いずれにしても……「堕ちる」前には結論を出さなくてはなりませんわね」
伸ばした指先に風を集めながら少女が言う。
「……では、予定通りに」
少女に敬意を表した深い声が、春の一陣の風と共に掻き消えた。
「さて……今夜のディナーは何にいたしましょう?」
呟いて立ち止まると、少女―桜井季流葉は遥か彼方まで広がる、澄み切った春の空を見上げていた……