第一話~当惑の青山~
第一話はここからになります。晶とメメの出会いからです。ちなみにお父さんの名前は青山 剛です。
[side:青山 晶]
三月二十二日 十一時四十八分 青山邸
「起きろ晶」
唸るような声の後、固いものが腹の上に落ちてきた。むりやり覚醒させられたぼくは、涙目で苦痛にむせぶ。枕元に首を向けると親父がいた。普段通りの不機嫌面で片足を上げて、ぼくの腹にカカトを乗っけている。
「休日だからって昼まで熟睡なんて暴挙がまかり通ると思うな。すぐ顔洗って着替えてリビング来い」
吐き捨てるなり足早に部屋を出ていってしまう親父。ぼくは言いたい事がたくさんあった。
もちろん手加減はしたはずだけど(したよな多分)、息子を起こす手段がカカト落としってのは、まずあり得ないと思う。幼馴染みの可愛いめの女子がやってくれるならむしろウェルカムなんだが。
ベッドからもたもたと身を起こし、遠慮ないあくびをかましたところで、昨夜の事を思い出す。
「ああ、そっか確か、大事なお客さんだとかって……」
時計を見て、まだギリギリ午前じゃんかとぼやきつつ支度をすまし、急ぎ足でリビングへと向かう。
扉を開けてから、ぼくは衝撃を受けて、立ち尽くす。そこには、同い年くらいの女の子が一人いた。
遠慮がちな様子で壁際のソファに腰掛けて、落ち着きなく室内を見回していたその子と、必然的に目が合う。
「あ……こ、こんにちは、です」
か細い声をかけられ、思考回路がショートした。
肩にかかる長さの髪はふんわりとした質感を持ち、幼さを残す黒目がちの瞳は、不安げな光を秘めている。その外見とそわそわした様子から、森から出たばかりで人に慣れていない小動物、といった勝手な印象を抱く。
一言で表すなら、『可憐』だった。
少なくともぼくが知る同年代の女性の中では、初めて出会うタイプである事は確かだ。
小柄な体を包むのは、良い意味で飾り気のない素朴な色合いのワンピース。ともすれば自己主張が激しすぎ、けばけばしくなりがちな流行のファッションとは違う、穏やかで清涼な雰囲気を感じる姿である。
えと、こういうの、なんて言うんだっけ? マイナスイオン? 森系ってやつなのか?
ぼくは悪い癖が出ている事に気付かない。心理的余裕がなくなると、つい想像の世界に没入してしまうのだ。
「おいバカ、何様だ。挨拶してもらっといて棒立ちか」
いつの間にか背後に立っていた親父が、止まった時の中に入門して、ぼくの脇腹を肘で小突く。
「失礼な奴ですまないな、気を悪くしないでくれ」
スーツの上にエプロンという出で立ちの親父は、悶絶する息子の横を平然と通り抜け、少女に微笑みかけた。盆にのせてきたコーヒーをテーブルに並べると、砂糖とミルクの量を細かく聞いてあげたりしている。
おい、なんだこの扱いの差は。わからんでもないが。
その後、無言の圧力に気圧されて席についたぼくは、信じがたい事を聞かされた。
「この子が前に話した、蒼樹さんとこの娘さん……いやもう違うな、お前の妹になるメメさんだ。今日から一緒に住む事になったから、くれぐれも仲良くするように」
「はえあっ?」
思わず口から飛び出した頓狂な声に、対面のメメは、痩せた肩をびくりと震わす。
「あのっ……なんだか驚かせてしまったみたいでごめんなさい……」
「こいつは気にしないでくれメメさん、意味もなく叫ぶ癖があるんだ。君の兄と呼ぶには頼りないというかそれ以前に人格に難ありだが、これも俺が育て方を間違ったせいでね。この先もし迷惑をかけたら相談するんだぞ」
流れを押し付けられたぼくは、当然ながら不快なものを感じて、苛立ち紛れにソファから立つ。
ちなみに蒼樹さんというのは親父の再婚相手だ。
「そうじゃなくて親父、聞いてないって言ってんの! いやそりゃ、連れ子さんがいるってとこまでは知ってたよ。でもこんな年近いとか、女の子だとか、重大な事はぜんぜん聞いてない!」
「落ち着け。言っとくが俺はゆうべ、ちゃんと説明したぞ。記憶にないんならお前が聞き流してたって事だろ」
うろたえるぼくを見かねてか、呆れ顔を作った親父が急激に身を寄せてきて、耳打ちする。
「これから仕事だからもう行くが、わかってるな。この子はあくまでも妹だ。変な気を起こしたら……殺すぞ」
なんとも不吉な宣言の後、メメに軽い挨拶を残して、親父はリビングを出た。
二人っきりの空間に、いたたまれない沈黙が落ちる。
ぼくの唇は溶接されたみたいに結ばれ、意思とは関係なしに小刻みに振動を始めた。目の前にいるのは、家という神聖なる孤独の宮殿に踏みいってきた他人だ。
怖い。ましてそれが、同年代の女子ともなればなおの事。何を話せばいいか、検討もつかなかった。
ベターな選択に自己紹介があるが、これはハードルが高い。
ぼくは幼稚園、小学、中学、高校に至るまで、衆目の中で自分の名前を満足に言えた試しがない。大抵、そういう場の立ち回り方次第で、周囲の印象は綺麗にまとまるものだ。ぼくの場合、『この人、下手に触れない方がよくね?』という腫れ物扱いか、『暇潰しの弄られ役』の二通りに分かれるのがお決まりのパターンだった。
失敗は許されぬ。かといってこのまま無言が続くのも一つの失敗。どうするべきかと迷っていると、
「あの、わたし、先程ご紹介に預かりましたメメです。今日からお世話になります。最初はご迷惑をおかけすると思いますが、どうぞよろしくおねがいします。えと、その……」
向こうから接触があった。コーヒーカップを受け皿に戻し、膝頭をもじもじ擦り合わせながら見つめてくる。
「ごっ、ごめんなさい。正直申し上げますと、まだ何とお呼びすればいいのか、わからなくって……」
くう、こっちが渋った段階を軽々と越えてくるとは。まずい流れだ、アドバンテージを握られてしまう。
ぼくが背筋に冷や汗を滲ませていると、きゅるきゅるという可愛い音が目の前で鳴る。ひゃあ、と声を上げたメメは、薄いお腹を両手で庇う。
今だと思った。この機を逃す手はない。
「あーもしかしてご飯まだ? なんか作るよ俺!」
早口で言って、すぐさま台所に向かう。すると、高級そうな一口タイプの和菓子を大量につんだ網かごを発見した。『お前が出せ。父より』と記されたメモの切れ端がはっついている。親父よ、気づかいのつもりなのか?
「とりあえずできるまでつまんでて。遠慮せず!」
お菓子のかごを持っていき、足早に調理台へと戻ったぼくは、素早く作業に移る。塩コショウと生クリームを加えた溶き卵を、しっかり熱したフライパンの上に一気に流し込む。あえて粗めにかき混ぜてから、タイミングを見計らって火をとめる。後は余熱だけで、ふっくらとしたスクランブルエッグができあがる。これにベーコンソテーとサラダ、バタートーストを添えて軽食完成だ。我ながら素晴らしい手際、最速タイムを出してやった。
伊達に毎日親父にメシを作っていない。
「はいどうぞ~、お待たせ~」
差し出されたメシを見て、少女は目をしばたたかせた後、わなわなと震え出す。あれ? リクエストも聞かずメニューを即決したのはやばかったか? 苦手な物でもあったのか? と、恐る恐る様子をうかがっていると、
「あ、ありがとうございます。いただきますっ!」
彼女はふいに頬を緩め、遠慮がちな動作で箸を取り、スクランブルエッグを口に運ぶ。完全に咀嚼し、嚥下してから、
「あぁ、あぁ……おいしいです、すごく……っ!」
大きな瞳を潤ませて微笑みかけてきた。
控え目に言って、かなり可愛い。ぼくはその眩しさを直視できず、顔を伏せてしまう。
リアルの存在に純粋な笑顔を向けられたのは何年ぶりだろうか。唯一の家族である親父でさえ、息子の事嫌いなのかと思うくらい、仏頂面しか見せないというのに。
頭を振って、浮き上がりかけた心を引き留める。
ともあれ、この家においての地位を見せつける事には成功した訳だ。これで相手に脅かされる危険はひとまず去った。まだまだ本性は知れないが、どんな奴も胃袋を掴んでしまえば可愛いもの。もう勝ったも同然だろう。
「本当においしいです。お料理、お上手なんですね! わたし、なぜか包丁を握っただけで母に止められるので経験自体が少なくて……尊敬してもいいですか?」
興奮ぎみに息を荒げる、無邪気な表情のメメ。反応に困り、曖昧な笑いでごまかしながらぼくは察した。
あ、つまり、そういう子なんだな。お嬢なんだ。
気付けば皿の上のものは綺麗になくなっていた。さてここからまたどうしたものかと悩み、何気なく、さっきかごから剥がして持っていた親父のメモに目を落とす。『部屋にも案内しとけ』という裏側の文字が目に入る。
へやぁっ?
♡ ♡ ♡
「あ……ここ、俺の部屋なんだけど……」
「まあ素敵。露出の多い女の子のお人形さんや、アニメのポスターでいっぱいです! 本棚見ていいですか? 可愛いイラストの薄いご本ですねぇ。ぱらぱら……あ」
「うわぁ、それダメ!」
「……この女の子、何をなさってるのでしょう? 一部を除いて外見の不明瞭な殿方と、こんなに密着して……あぁ! そんな、こんなコトまで……っ」
「うおお、終わった。なんかもう、色々と終わった音がするよう。始まってもいない何かが……」
「わたしにも、なさる気でいらしたんですか? えっとその、このご本みたいなコトを……」
「はい?」
「上手く言えませんけどわたし、いいですよ? あの、お兄様みたいな方とでしたら……。おあつらえ向きに血も繋がっていませんし、今ここで何が起きたとしても、知っているのは二人だけ……さあ来てくださいお兄様」
「は? 嘘、だよね……? メメちゃん……え、え? ちょっとちょっとうわあああああメメちゃあーんっ!」
♡ ♡ ♡
突発的な妄想であった。つんつんと肩をつつかれ、現実に立ち戻る。心配そうなメメの顔が手を伸ばせば届く距離にあり、意識しまくりのぼくは動揺を禁じ得ない。
「いやあの! 何でもないですごめんなさあああい!」
カマドウマばりに飛び退き、改めて手元のメモを凝視する。よく見ると、『母さんの部屋にも案内しとけ』と記してあるのだった。おまけに『ちょっとでもやましい事を考えればお前は死ぬ。心臓麻痺で死ぬ』ともある。
親父の奴、死神と契約とかはしてないよな確か。
「ふう、ごちそうさまでした。あ、そうだ、せめてお皿だけでも洗わせていただきますね?」
「いや、いい。俺やるんで」
相手が抱え込んでいた食器類をすぐさま取り上げる。何となくだが、長く触らせていてはいけない気がした。
それから、母の個室へとメメを連れていった。ずっと空き部屋だが清潔感は申し分ないはず。何せ、ぼくが父に命じられ、日々のまめな掃除を欠かさなかったから。
「えーっと、今日からここ使っていいから、荷物置いてくつろいでるといいよ。じゃあ俺は、これで」
「はい、では、またあとで……」
パンパンのバッグを両脇に抱えた彼女の背中が、扉の向こうに消えるのを見送ると、ぼくは全身の力が抜けるほど安堵して、肺が空になるくらいの呼気を吐き出す。短時間に溜め込んだ疲労感が、甦るように襲ってくる。
「これからずっとこんな感じか……もつのか、心臓?」
かつての母の部屋を他人に明け渡す事に抵抗はない。ぼくの出産後すぐ亡くなっている人なので、思い出などないし、作る間もなかったというだけだ。母には悪いが今の心理状況は、はっきり言ってそれどころではない。
さて、と気を取り直し、そそくさと自室に入る。
目撃されたが最後、妹との関係に確実な亀裂を生むであろうアイテムを隠す必要があった。
が、作業を始めてすぐ、ぼくは気付いてしまう。
ある意味においてエロ同人誌よりも凶悪な、真っ先にしまいこんでおくべきブツが、どこにも見当たらない。
「しまった! やらかしたぁ!」
突き上げる焦燥感に全身の汗腺が活発化し、矢も盾も堪らず廊下に飛び出す。今さら思い出したのだ。親父も滅多に立ち寄らぬ母の部屋は、ぼくにとって自室よりも都合のいい、『危険物』の隠し場所となっていた事を。
ぼくは隣室の扉をためらいなく開ける。
ノックなしの訪問にメメは悲鳴を漏らすが、この時のぼくは常識的な判断ができる状況になかった。
一瞬前まで彼女が見下ろしていた小さな丸テーブルの上には、ぼくにとって馴染み深い一冊のノートがあり、あろう事か、そのページは開きっぱなしになっている。
「うわぁ! それダメ! 見ちゃらめぇー!」
室内に押し入ると、テーブルと少女の間に割り込み、ノートを掴んで抱え込む。顔面の紅潮を抑えられない。
それは、ぼくが中学二年の時に書きためたもの。
ぼくの考えた『最強の前世』帳だった。
我が名は漆黒。
誕生は遥か昔、宇宙創成までさかのぼる。世界に輪郭さえもなかった頃、我は混沌であり、闇であった。
混沌とは、万物が分化して特色を身につける以前の、始まりのカタチである。
闇とは、万物が道を歩んだ果てに集束して帰結する、終わりのカタチである。
創造神などいない。この世界は唯一にして絶対の個、すなわち我から生まれた。我は全ての色を内包する者。故に、自らを漆黒と呼ぶ。無数に枝分かれする平行宇宙においての、可能性の出発点であり、終着点でもある。
(以下略)
ぼくは無性に叫びたかった。恥ずかしい恥ずかしい。どこまで見られたのだろう。いや問題はそこじゃなく、見られたという事実そのもの。どうする? 消すか? もしくはぼくが死ぬか? 死んだ方がいいですかねぇ?
まさに混乱の極みだった。
「あぁ……ご、ごめんなさい。そんな大事なものだとは知らなくて。ここに置いてあったから、つい目に入ってしまって……。あの、わたし何とお詫びをしたら……」
メメはというと、ぼく以上にうろたえて涙目になっている。理由はわからずとも本気の罪悪感を感じてくれているらしい様子が、とにかく痛ましくて胸を刺す。
刹那、ぼくは思った。もう耐えられない、急いでこの重苦しい空気を変えなければと。
何でもいいから何か言うんだ。場を和ませる言葉を!
「ふふ、フッ……くはははっ……そうか、知られたからには仕方がないな……」
「えっと……ど、どうされました?」
両腕を顔の前で交差した意味深なポーズを取るぼくを見て、メメはきょとんと首を傾げる。
「そうとも、我が真名は漆黒。あらゆる平行世界の特異点たる者……。青山 晶は、現世における仮初めの呼称だ。もっとも今は力の大半を奪われ、とある機関の工作員の一人に身をやつしてはいるがなぁ……」
ぼくはもうヤケクソだった。めいっぱい声を低くし、口元を引き締める。中学生の時分はこれだけでも結構な笑いを取れたものだが、一方のメメはぴんと来ていない表情で、瞳の中に疑問符を浮かべている。頑張れぼく。
「気楽に構えていられるのも今のうちだぞ。俺の秘密の一端に触れた時点で、貴様の命は既に半分になっているのだからな! この事を他言してみろ、組織が動き出す前に、俺自らが貴様の残り半分を食らってやるわっ!」
「……ええっ? そ、そんなっ! わたしまだ死にたくありません! どうしたら許してくださるのですか?」
メメは吹き出すどころか、先程よりも余計に青ざめて怯え始めてしまう。
おいおい笑ってくれよ。なんだ? もう一押しが足りないのか? じゃあ渾身のネタいくぞ!
「ならば我が奴隷となれ!」
「はい、なります。わたしで満足していただけるなら」
固い決意の眼差しで一歩踏み出すメメに対して、ぼくは思わず頬をひきつらせ、壁際まで後ずさってしまう。
「ちょいちょいちょーい! ダメだってダメだって!」
あれぇ? 流れがおかしいぞ? なにこれ?
どうやったら真面目に受け取れちゃうの? この子、今までどういう生活してきたんだよ?
「いやいやごめん、嘘だよ! 奴隷にはならなくていいから! できれば誰にも言わないでほしいってだけ!」
「え? そう……なんですか? それだけでよろしいのですか? わたし、たいへんな失礼を働いたのに」
まだうっすらと涙を溜めていた瞼を指先でこすって、彼女はやっと少しだけ、頬をほころばせてみせる。
「ありがとうございます、おにいさん……!」
親に撫でられて安心した幼児みたいな笑みだ。ぼくの意図していたのとは方向性が全く違う、予想外の反応。
「ていうか、今、なんて?」
「お兄……さん?」
花弁のような薄い唇が、甘い響きの言葉をささやく。家族に向けるにしてはどこか曖昧な距離感の、だが丸っきり他人行儀な訳でもない曖昧な言い方に、ぼくはなぜだか魅了された。体の奥底で、心がぐらつく音がした。
「あっ……もしかして、変でした? 他の呼び方の方がよろしいでしょうか?」
「いや、なんていうか」
この瞬間が、ぼくと彼女の始まりだった。世界の命運がどうとか、大袈裟な話ではないんだけれど。
少なくともぼく個人のミニマムな世界において、これは立派な一大事の先触れだったんだ。
「その方向でお願いします」
頭を掻きながらそう絞り出したぼくに、
「よかったぁ」
妹はまたも、ふんわりと笑うのだった。
いかがでしたでしょうか。更新はできる限り早く行いたいと思います。最後まで読んでくださった方には、最大級の感謝を捧げたいと思います。もしよかったらご意見ご感想をいただけると、励みになります。