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はたらく王女さま 《2》

「ティトシェちゃん、もう上がる時間でしょ。急がないと馬車に乗り遅れるわよ」

 エリーシャさんに声をかけられて我に返る。時間の感覚なんて忘れていた。もうそんなに過ぎたのか。

「……あの、それじゃ、お先に失礼します」

「はい、お疲れさま」

「はいよ」

「お疲れー」

 まだみんな忙しく働いている。これから夕食の時間で、後半のピークが訪れるのだ。それなのに先に一人だけ帰ってしまうのが、ひどく申しわけない。

 ……でも、いたところで役には立たないし。

 むしろ足手まといの邪魔になってばかりだ。そんなの、いなくなってくれた方が店側もありがたいだろう。

 私は帰り支度をし、肩を落として外へ出た。

 昼の長い季節だから、まだ空は明るい。油断していると、本当に馬車に乗り遅れそうだ。そうなったら自力で山を登らなければならない。途中で日が暮れて捜索隊を出されるオチしか見えない。

 私は疲れた足を叱咤して、馬車の乗り場へ急いだ。

 本当に疲れた……仕事をするのが大変なことくらいは理解していたつもりだし、過去のバイトだってそこそこしんどい思いをしたものだ。でも、その比でなく疲れ切った。歩くのすら辛い。今すぐこの場に倒れて寝込んでしまいたいくらいだ。

 そんなに疲れるほど、一体何をしたんだろう。昼から上がりの時間まで、ひたすら言われるままに雑用を手伝うばかりだった。物を運んだり野菜を洗ったり、そんな簡単なことしかしていない。そんなことしかできなかった。

 一応ウェイトレスとして雇われたのだが、初心者の私がいきなり入ってきりきりお客さんをさばくのは無理だろうと、今日は裏方の手伝いだった。店のテンポに慣れるという意味もあったらしい。たしかにあれは慣れが必要だ。普段の生活とはあまりにリズムが違いすぎて、散歩に出てきたのにマラソンランナーの群れに巻き込まれた、みたいな状態だった。

 そりゃあ、トロいと言われるわけだよね。あんなテンポが日常の人たちからみれば、私なんて亀でしかないだろう。いや亀はその気になれば素早く走る。してみると私はナマケモノか。あるいはシャクトリムシか。

 はあ、とため息をこぼす。初日から完璧に動けるはずはなく、働きながら慣れるものだとはわかっているけれど……やっていけるのかなあ。

 乗り場へ行けばちょうど馬車が停まっていて、私が乗り込むとほどなく出発した。山道をガタゴト揺られ、城へ戻る。舗装路を走るバスと違って揺れがひどいから居眠りもできない。車酔いしそうな揺れに耐えてどうにか三の宮前に着いた。

「大丈夫かい? 人を呼ぼうか」

 私がフラフラしているからか、馭者さんが気をつかってくれる。それにお礼を言いつつ断り、上へ向かう。一の宮までが遠い。

 元気な時なら気にならないんだけどなあ。ちょっとしたお散歩コースで、リラックスしつつ気分転換できる距離と時間、だったのに。

 向こうに見える一の宮が、エベレストの山頂に思える。

 でも歩くしかない。エスカレーターも動く歩道もないのだから。てかロープウェイがあればいいんだよね。三の宮駅・二の宮駅・一の宮駅って作ってさ。なんでないのよ山なのに!

 八つ当たり気分で無茶なことを考える。視線を足元に落としとぼとぼ歩いていると、誰かにぶつかった。

「すみません」

 あわてて顔をあげれば、目の前に立っていたのはイリスだった。

「あ、イリス。帰ってたの」

 うれしさにちょっとだけ疲れが遠のいた。イリスは仕事で、ここしばらく不在にしていたのだ。何も知らせがなかったから、今日帰ってくるとは思わなかった。

「おかえりなさい。先に知らせてくれればよかったのに」

「おかえりって、こっちが言うべきかな。ひどい顔色だな」

 イリスは呆れた顔で私の頬をなでた。

「トトーから聞いたけど、街へ働きに出たんだって? 初日から倒れそうだな。明日起きられるのか」

「……大丈夫よ」

 明日かあ。そうだよね、明日もまた出勤だ。しかも朝から。今日は特別で、明日以降は朝から夕方まで出かけることになる。

 考えてげんなりした。一晩眠れば、この疲れは取れるだろうか。

「ハルト様へのお祝いなら、別の方法を考えたらいいんじゃないかな。チトセに街で働くなんて無理だよ」

 あっさり無理と決めつけられて、少しむっとした。たしかに疲れている。目が回りそうだ。でも無理って言って投げ出すのはいやだ。慣れればもっと早く動けるようになるし、要領がよくなれば疲れることも少なくなるだろう。

「ちゃんと働いてきたわ。そりゃ、最初だから簡単なお手伝いしかできなかったし、教えられてばかりでかえってお店の手間を増やしていたと思うけど、今日習ったことは明日には聞かない。毎日きちんと覚えていけば、できることが増えていくわ」

 そうだ。最初はできない、知らないでもしかたがない。でも教えられたことはちゃんと覚えていかなければ。その努力を見せれば、多少手際が悪くても大目に見てもらえるだろう。

「そっちの話じゃないよ。覚えるって点に関しては、チトセは大丈夫だってわかってる。心配なのは体力だよ。今だって死にそうな顔してるじゃないか」

「ちょっと疲れただけよ。お風呂に入って一晩眠れば回復するわ」

 私はイリスの横をすりぬけ、奥へ向かった。軽くため息をついて、イリスが追ってくる。

「外へ出て身体を動かして体力をつけるってことには大賛成だよ。でも少しずつでないと身体がついていかない。いきなり無理をしたら倒れるだけだ」

「お店の手伝いをするのが、そんなに無理な重労働じゃないでしょ。ごく普通のお仕事じゃない」

「普通の人間にとってはな。自分が普通よりはるかに弱いって自覚を持ってないのか」

 普通の人間じゃないって言われようは傷つくな。なんだよ、妖怪人間とでも言いたいのか。

 ああ、妖怪人間は強いんだっけ。私も鞭でびしばし戦えたらなあ。

 あとはアレか、ニュータイプとか美少女戦士とか巨人化能力があるとか。いちばん強そうなのは巨人だけど、駆逐されそうだし見た目が可愛くないから美少女戦士がいいな。

「チトセ? おーい、聞いてるか」

 なにかうるさいのは無視だ。私は疲れた。もう早く帰ってお風呂に入って寝たいのだ。恋人がどうした、それより休息だ。

「期間は月末までだから。その間デートできないし多分ほとんど会うこともできないと思うけど、また来月ね」

「月末までもつかね……」

 聞こえよがしなイリスのつぶやきは無視して、私は萎えかけた気力を再燃させていた。

 どいつもこいつも、そろって私には無理だって決めつけて。たしかにトロくさかったけどね! 酸素求めてハクハクしてる金魚みたいだったけどね! 今日の私は本当に情けなかったよ、認めるよ。

 でも、絶対に克服してやる。進撃してやる。なにごとも慣れと学習だ。てきぱき働いていたみんなだって、きっといちばん最初はまごついていたはずだ。パイロット候補生が初日からジェット機飛ばすか? F1ドライバーを夢見る少年が、ハンドル握るなりサーキットぶっ飛ばせるか? コミケ初参加で目当てのジャンル制覇し欲しい本ゲットしつつ新規開拓までできるか? はじめは誰もが初心者、そこでうまくいかないからとあきらめてしまったら、他のどんなこともできはしない。

 私はやる。やってやる。意地でもやりとげて、みんなに認めさせてやる!

 ……お祝いを買うためというそもそもの目的が、いつの間にか違う目的にすり変わっていると気がつくのは、もう少し後になる。




 お風呂でしっかり身体を癒し、ぐっすりたっぷり寝たおかげで翌朝は元気が回復していた。どうだ、熱なんか出していないぞ。ドヤ顔で朝食の席に着き、いつもより大目に食べた。ゆうべは疲れすぎて食欲が失せていたからね。あまり食べられなかっただけに、今朝はおなかがペコペコだ。お粥の他にハムや野菜も食べてハルト様たちを驚かせたよ。ふふん。

 今日もきっちりと身繕いをしていざ出勤。まず施療院のようすを見てきたあと、朝の仕込みを始めている職場へ入った。

「おはようございます」

「おや、早いね」

 昨日最初に会ったテルマおばさんが、私を見て目を丸くした。

「今日もよろしくお願いいたします」

「はいはい。じゃ、店の方掃除してきてくれるかい」

 忙しい厨房をうろつくと邪魔ってことだろう。私は言われたとおり、まだ客の入っていない店内を掃除しはじめた。エプロンをつけ、まずテーブルを拭くところから始める。

 そうしながらテーブルの位置と番号を頭に叩き込んだ。飲食店は清潔感が第一だから、汚れはもちろん埃も見逃さないよう、テーブルも床もぴかぴかに磨く。うん、昨日よりは役に立っている気がする。私が掃除を引き受けていれば、他の人は仕込みに集中できるものね。

「まだやってんのかい? 早いとこ片付けてこっち手伝っとくれ!」

 ……ひとつだけ頑張っていればいいってわけじゃないんだね。手早く切り上げることも必要か。

 また雑用を手伝っているうちに開店時間が近づき、エリーシャさんたちが出勤してくる。今日は私も店に出ることになった。簡単な説明を受け、今日のメニューを教えてもらって必死に記憶する。そこが覚えられないと注文も受けられない。ずっと働いている人には日替わりランチ以外同じメニューだから簡単だろうけれど、私は全部まとめて覚えなければならないから大変だ。

「そんなにいきなり頑張らなくていいわよ。わからない時は聞いてくれればいいから」

 エリーシャさんが言ってくれたけれど、忙しい時に何度も聞くわけにはいかない。できるかぎりの努力はしておかなければ。

 開店すると、次々客が入ってくる。商売繁盛でけっこうだ。エリーシャさんたちウェイトレスチームがくるくる動き回り、片っ端から注文を取ってくる。私はというと動けなくて、お盆を持ったまま待機しっぱなしだ。

 それじゃだめだと思うのだけれど、新しい客が入ってくるとすかさず誰かがそちらへ向かうので私が行く隙がない。トロいのか? 私がトロいだけなのか?

「ほいこれ! 三番に持ってっとくれ!」

 焦りながら立ち尽くしていると、厨房からドンドンと大きな丼が二つ出てきた。私はあわててそれをお盆に乗せる――が、大きすぎてちょっとはみ出してるよ。しかも重い。大丈夫かな、落とさないよう気をつけないと。

 あわてて落とすよりはトロい方がましかと、ゆっくり三番テーブルへ向かう。

「お待たせいたしました。魚介とソラヤの煮込みにございます」

 女官や侍従たちの給仕風景を思い出し、真似してできるだけ丁寧に丼を客の前に置く。熱いけど我慢だ。ここでおっことしたら目も当てられない。

「ごゆっくりお召し上がりくださいませ」

 一礼してテーブルを離れる。運ぶ時は亀だったから、せめて帰りはウサギだ。大急ぎで戻ればすでに次の料理が待っていた。またそれを運んで戻って運んで戻ってのくり返し。うん、注文を取るのはエリーシャさんたちに任せよう。今日は運搬役に徹するよ。

 とかやっているうちに、食事を終えて帰る客が出始めた。片づけだ! ここは出遅れるまいと急いで向かう。下げた食器をお盆に積み上げ、テーブルをきれいに拭く。よいしょとお盆を持ち上げたとたん、バランスを崩してしまった。

「申しわけありません!」

 お皿を割ったことよりなにより、そばの客に残り汁や破片が飛ばなかったかが重要だ。私はそっちへ飛びついて謝りつつ辺りを確認した。

「大変失礼いたしました」

「大丈夫かい?」

「ああ、かかってないから。かまわないよ」

 幸いにして優しいお客さんたちで、文句を言われることもなく逆に気づかわれてしまった。ありがとうございます、申しわけありません。

 割れた食器を片付けるため、箒と塵取りを持ってエリーシャさんが突進してきた。

「ごめんなさい」

「いいわよ、あたしたちだって時々やるから。怪我してない?」

「はい」

「ここは片付けとくから、向こうの注文取ってくれる?」

 示されたテーブルには新しい客が座っていた。まだ誰も向かっていないらしい。自分が散らかしたのに人に片付けさせるなんてと思ったが、こういうのは手早くやらないといけないのだろう。トロい私ではだめなんだ。

 私はもう一度謝って注文に向かった。内心動揺しまくりだが落ち込んでいる暇はない。とりあえず、調子に乗ってたくさん持とうとするのはやめよう。初心者がそれは無茶だった。反省。あとで店長にも謝らなければ。

「お待たせいたしました。ご注文はお決まりでしょうか」

 新しい客は若い男性だった。

「あれ? 新しい子? 今日初めてだよね?」

 どうやら常連客らしい。私を見るなり注文より先に聞いてくる。私は営業スマイルでうなずいた。

「はい」

「へー、名前なんての?」

「……ティトと申します」

 私の名前は、それほど知られてはいないと思うけれど、念のため客には本名を伏せておこう。もしも誰か聞き覚えのある人がいたら、ややこしい事態になりそうだ。

「ティトちゃんか! 可愛いね、いくつ?」

 ナンパか。いいからさっさと注文しろ。

「ご注文は何になさいます?」

 営業スマイルを保ったまま、話をぶった切る。しかし相手も引かない。

「ねーねー、今日ヒマ? 仕事終わったらさ、飲みに行かない? おごるよ」

「申しわけありません、乗合馬車に間に合わないと帰宅できなくなりますので」

「いいじゃん、それなら泊めてあげるから」

 会ったばかりの男の家に泊まる女がどこにいる! いや、いるとこにはいるだろうけど、私は断固お断りだ。

「父が心配してさがしに来てしまいますから」

 騎士団を動員してね。バイトに出てそんな事態を引き起こしたくない。

「お父さん厳しいの? まあこんな可愛い娘じゃ無理ないよね。んー、じゃあ休みの日教えてよ。一緒に遊びに行こう」

 しつこいなこいつは。もういい、この忙しい時にいつまでも付き合っていられるか。

「休日は約束がありますので。ご注文はまだお決まりではありませんか? では、お決まりになりましたらお呼びくださいませ。失礼いたします」

 口を挟ませる隙のないよう一気に言いきり、一礼してさっと背を向けた。ナンパ男を振り切るコツは、相手の話を馬鹿丁寧に聞いてやらないことだ。何か言いかけていても無視していい。セールス電話を断る時と一緒。断りきれずにいつまでも話を聞いてやるから、相手は調子に乗ってたたみかけてくるのだ。

 私はもう何も聞こえませんという顔で奥へ戻った。

「うまいわね」

 見ていたらしい先輩ウェイトレスが私に言った。この人はコリーさんだっけ。フサフサわんこを思い出す名前だ。

「トロい子あいつに向かわせてどうすんのって思ったけど、男あしらいは手際いいじゃない」

 ……これはほめ言葉だろうか。男あしらいって、なんかすごい言われようなんだけど。

「口説かれて困ってあわてるかと思ったのに。意外と性格きっぱりしてんのね」

「……はあ」

 断れずにどうしていいかわからずパニくると思われたのか。それを助けにも入らず見物していたのなら、けっこういい性格じゃないですか?

「さっさと注文しろって言ってんでしょ! 食べる気ないなら出てってちょうだい、邪魔よ!」

 エリーシャさんの声が響いてぎょっとなる。なんと手にしたお盆でさっきの客の頭をはたいているではないか。

「……あれは」

「うん、手が空くまでのつなぎにあんたを行かせたのね。なるほど、エリーシャにはあんたがちゃんとあしらえるってわかってたのね」

 いや、そういうことを聞いているわけではなく。

「お客様にいいんでしょうか」

「気にすることないわ。毎日やってることだから」

 毎日か。毎日懲りずにナンパする客と、それを乱暴にはたくウェイトレスと、どっちにつっこめばいいんだろう。

「見物してる暇ないわよ。これ五番に持ってってちょうだい」

 また新しい料理を渡されたので、私はヨロヨロと運搬係を再開した。早くも腕がだるくなってきている。うう、頑張らねば。

 もう落とさないよう運ぶことに必死になっているうち、ようやく客の波が引いた。落ちついてくると、交代で休憩に入る。私も声をかけられて厨房へ引っ込んだ。まず店長の方へ向かい、皿を割ったことを謝る。注意されるかと思ったのに、あっさり許されて拍子抜けだ。

「そっちの取って食べていいいから」

 店員用に用意された食事を示された。まかないというものだな。私はお礼を言ってそちらへ向かったが……うーん、味の濃そうなものばかりだなあ。

 パンと、なるべく食べやすそうな野菜炒めを取る。肉料理はどうしようかと考えてやめておいた。もし今胸焼けしたら仕事にさしつかえる。けっして口実にして好き嫌いしているわけではないからね。朝ちゃんとハムを食べたもん。

 すみっこの椅子に座ってもそもそ食べていると、通りがかった料理人が私の皿をのぞき込んだ。

「そんなに遠慮しないで、たくさん取ればいいのに。好きなだけ食べていいんだよ」

 ええ、これで好きな状態です。

「はい、ありがとうございます。ちょっと疲れて重たいものは辛いので」

「はは、最初はきついよな。でもよく頑張ってるよ。手際はともかく覚えがいいってテルマがほめてた」

 マジか。私を見るたびトロいトロいと言って、要領の悪さを叱ってきたのに。

 おっかないテルマおばさんは、一旦仕事を抜けて自宅へ戻っている。すぐ近所に住んでいるらしい。休憩のためというより、この時間に家の用事をしているのだろう。働きながら主婦をしてあの元気さとは頭が下がる。うちの母も正社員で働いていたが、こうして仕事を経験して、どれだけ大変なことかがよくわかった。祖母と姉の協力があったとはいえ、母も偉かった。

 ……キャリアウーマンになりたいと思っているけれど、結婚後も仕事を続けられるだろうか。私に家事と仕事の両立ができる? 結婚はあと十年くらい待ってと言ったらイリス怒るかな。

「特別にごほうびだ。他のやつらには内緒だぞ」

 冗談っぽく言いながら、料理人のお兄さんはデザート用のお菓子を皿に置いてくれた。ありがとう! 後光が見えるよ!

「ねえケイ」

 奥へ入ってきた先輩ウェイトレスが、お兄さんを呼んだ。店いちばんの美人だ。たしかミモティさんだっけ。艶やかな栗色の髪が見事なストレートでうらやましい。

 お兄さんはじゃあ、と私に片手を上げて、彼女の方へ行った。仲良く話しながら向こうへ立ち去る。私はゆっくりとスイーツを堪能させてもらった。おお、疲れた身体に甘味が効く。

 その後はまた裏方の雑用を手伝った。雑用といっても材料を目の前にするから、野菜や魚の名前を覚えるのにちょうどいい。こっちの食材について、味や見た目にはある程度なじんだけれど、名前はまだ知らないものばかりだ。客に料理を出す時や何か聞かれた時のために、ちゃんとみんな覚えておかないと。

 そろそろ終わりという頃、ふらりとデイルがやってきた。客としてではなく、裏口から勝手知ったる顔で現れる。

「よう。まだ倒れてねえか」

 のっけから失礼な挨拶だ。私はしゃんと背筋を伸ばして答えた。

「ご覧のとおり、元気よ」

 そろそろ倒れそうだとか絶対に言わないから。意地でも見栄でも、元気なふりをしてやるぞ。

「ふん、まあせいぜい頑張れ。けどマジに倒れそうな時は意地張らねえで周りに言えよ。倒れるまで無理されたら、迷惑なだけだ」

 言われた瞬間はむかついたが、冷静に考えればデイルの言うことはもっともだった。無理してたくさん運ぼうとして皿を割ったのと同じだ。自分の限界をわきまえておかないと、かえって迷惑になる。これは素直に聞いておかなければならない助言だろう。

「あと服をどうにかしろ」

「……どこかまずい?」

 指摘されて、私は自分を見下ろした。今日もシンプルで動きやすいワンピースだ。水色の上に白いエプロンをつければ、いかにもウェイトレスという感じでこっそり悦に入っていたのだが。

 誰にも何も言われなかったぞ。特に問題があるようには思えない。

「あのな、ここは街の食堂なんだよ。んなとこで働いてるやつが、そんな上等の服着てるなんぞおかしいだろうが。普通の服着てこい」

「…………」

 普通って――お姫様ドレスなんかじゃないよ。飾り気のない膝丈ワンピだ。上等って言われるような装飾も何もついていない。十分普通じゃないか。

「周りとの違いに気付いてねえのかよ。いいから、帰りに古着屋にでも寄って安い服買ってこい」

「そんなに違う? どこが?」

 周りの人がどんな服を着ていたかなんて、いちいちチェックする余裕はなかった。特に気がつくほど大きな違いはなかったはずだけれど。

「ちっ……おい、エリーシャ!」

 デイルはエリーシャさんを呼びに行った。私を指さしながらなにやら話すと、エリーシャさんは苦笑していた。そのようすから、彼女も何か気付いていたらしいと知る。

 何がいけなかったのだろう。フレアが広くて、仕事着として不適切? たしかに他の人のスカートはもっとすとんとしている。でも私の持っている服って、みんなこんなだよ。ギャザーの入っているものはさすがに避けたが、このくらいなら周りに引っかけることもなく動けると思ったのに。

 どうしよう。服を買えと言われても、お金がないのに。

 ……結局、エリーシャさんがもう着なくなった昔の服をもらうことになった。色あせた綿のワンピースを受け取った瞬間、デイルの言った意味がわかった。

 素材が違うんだ……同じ綿でも、私の服はもっと柔らかくて肌ざわりがいい。仕立てられたばかりだから、どれもほとんど新品だし。ひと目で違いがわかる。

「見るからにお金持ちのお嬢様っぽいから、みんな最初は変に思ってたわね。でも一生懸命働いて言われたことに素直に従ってるから、何か事情があるんだろうって流されたわよ。気にしなくていいから」

 エリーシャさんのなぐさめに、かえって落ち込む。こんな簡単なことにも気付いていなかったなんて……いくら初めての仕事に必死だったからって、あまりに初歩的ミスすぎて穴があったら入りたい。

「お父さんに贈り物をしようとしてるのよって言ったら逆に感心されてたわよ。お嬢様がそのために働くなんてってね。それもこれも、ティトシェちゃんが真面目に頑張ってるからよ。いい加減な仕事ぶりだったらとっくにクビになってるわ」

「そ、そうですか……」

 思いの外、私の首は危機にさらされていたらしい。

「あと、かえって面白いってお客にうけてるし。ものすごく丁寧に接客されて、店間違えたかと思ったってみんな笑ってたわ」

「…………」

 私の接客はネタにされていたのか。丁寧にして笑われるなんて想定外だよ! なんで? 女官や侍従をお手本にしたんだから、悪い態度ではなかったはずなのに。丁寧がだめなら横柄にすればいいの? そんな店員のいる店いやだよ。

「いいの、いいの。うけてるから、ティトシェちゃんはそのままでいいわ」

 笑いながら言われたけれど、今日も私は落ち込みながら帰ることになった。

 うう……何をやっても裏目に出ている気がする。

「チトセ」

 疲れた足を引きずっていると、呼び止められた。イリスがいる。なんで? と思いかけて理解した。

「……わざわざ迎えに来てくれなくても」

「用事のついでだ。今日も死にそうな顔してるけど、まだ続けるか? それとも辞めてきたところか?」

 ……むっかー! なんでそう馬鹿にしたこと言うかな!

「真面目に頑張っていると評価をいただいてます。クビにはなってないわよ」

 あやうくなりかけるところだったみたいだけどね。

「辞める気はなさそうだな……まあいい、おいで」

 言っても無駄だという顔で、イリスは私を引き寄せた。ついていけば広場でイシュちゃんが待機していた。

 複雑な気分だけれど、正直馬車に揺られるのも辛い。今日は甘えておこう。

 空へ舞い上がり、山の中の宮殿へ向かう。イリスの腕の中でふと思い出して、私は訊ねてみた。

「ねえイリス、結婚の時期って考えてる?」

「ん? そりゃあ……」

 青い瞳が私を見下ろす。

「十年くらい待ってって言ったら怒る?」

「……怒るというより、泣くな。なにがあった?」

 昼に考えたことを私は話した。とてもではないが、仕事と家事を両立できる自信はない。でも一度くらいは社会人として働きたい。専業主婦になるしかないなら、結婚の時期を遅らせたい――と。

 聞き終わったイリスは、手綱を持ちながら脱力しそうな顔をしていた。

「わがままだとはわかっているわ。でも、キャリアウーマンに憧れてたの。十年が無理でも、せめて五年とか……」

「いや、あのな……」

 ため息をついて、イリスの顎が私の頭に乗っかる。

「僕も騎士をやめる気はないよ。家の跡継ぎは弟に任せるつもりだ」

「うん……?」

「だから、当分はこっちで暮らすことになる。多分三の宮のどこかを賜ることになるだろうな。ハルト様からそういう話が出てるし」

「そうなの」

 もうそんな具体的な話が出ていたのか。できれば先のばしにしたい結婚が間近に迫っているようで、私の気が重くなる。

「君にとっても都合のいい話のはずだぞ。働くって、城で文官か参謀官になるつもりだろう? 職場に近くていいだろうが」

「……そうだけど」

「家事は使用人に任せればいい。ていうか、貴族や王族の奥方が自ら掃除や洗濯をするわけないだろう。働かなくたってそこは使用人にまかせるよ」

「でも使用人っていっても、私とイリスのお給料で雇える? イリスはともかく、私なんてどれだけ収入得られるかわかんないのに」

「……いろいろ、説明が必要だな。これも世界の壁か」

 イリスは深々と息を吐く。どうも、私が考えていたこととじっさいの状況は、少し違うようだ。それならキャリアウーマンをあきらめなくていいのだろうか。

 うん、そうだよね。三の宮の館に住まわせてもらえるなら、家計がうんと楽になる。家賃ナシだよね? できれば家具つきの家だとありがたいな。掃除の手間が大変だから、小さい館でいい。お手伝いさんを一人か二人、頑張れば雇えるだろうか。

 少し安心して元気を取り戻した私は、まずは目の前の仕事を全力で頑張ろうと明日の努力も決意した。

 馬車と違って揺れの少ないイシュちゃんの背中は、心地よくて眠くなってくる。ふれあうイリスの体温も眠気を呼び寄せる。

「自分が王女になったってこと、どう解釈してるんだか……」

 イリスのつぶやきが聞こえた気がしたけれど、まぶたが重くてもう開けない。私は彼にもたれて夢の世界へ旅立った。


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