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ふたりで街へ 《後編》

 テーブルに行儀悪く肘をついて、イリスがいじけている。私はその向かいで黙ってジュースを飲んでいる。楽しそうな空気はかけらもない、微妙な雰囲気のふたり。これがはじめてのデート中であると、誰が思うだろう。

「変質者に間違われるなんて……そんなふうに見えるんだろうか」

 あやうくしょっぴかれそうになったことを、イリスはいつまでもグチグチと気にしていた。

「うかつに子供を連れ歩くと、あぶない奴と思われるってことかな」

 ……そろそろ、文句を言ってもいいかな。

 たしかに私はよく小学生に間違われるけどね! でも今の台詞はイリス自身も私を子供認識してるってことだよね。へーそうですか、あなたは子供にプロポーズしたんですか、それはやっぱり変質者ですね!

「……なんだよ」

 私の視線に気付いて、イリスが不満げに訊いてきた。

「べつに」

「ものすごく冷たい目でにらんどいて、別にはないだろ。言いたいことがあるなら言えよ」

 不機嫌なイリスとつんとそっぽを向く私。ああ、どんどん雰囲気が悪くなっていくなあ。

 何がいけなかったのだろう。私か? 私が悪いのか?

 だってなにもしてないよ! たまたま痴漢や変質者に出くわしただけじゃないか。狙われて当然な過激な格好をしているわけでもないし、いかにも治安が悪そうな危ない場所に入り込んだわけでもない。ごく普通に行動していただけだ。三度も続いたのは、たまたま運が悪かっただけだ。

 しいて言うなら男が悪い。そうでしょう? 世の性犯罪のほとんどは男によって犯される。男のスケベ心や暴力性が悪いんじゃないか。

 無言で怒りを蓄積する私に、イリスは大きくため息をついた。

「なんだかな……せっかく街へ出てきたのに、こんな気分になってばかりじゃだいなしだ。仕切り直して、もう一度リボンを見に行くか?」

「…………」

 今日の目的はリボンを買うことだ。まだ果たしていないのだから、イリスの提案は当然だし、私もこんな雰囲気のままで終わるのはよくないと思う。彼の提案に乗るべきなのだろうけれど……。

 正直、その気が失せたなあ。

 はじめてのデートだと浮かれていた気分はどこかへ吹っ飛んでしまった。やたらと疲労感をおぼえる。なんかもう一の宮へ帰りたい。もともとリボンそのものはどうでもよくて、ただイリスとのおでかけに浮かれていただけだったから、トラブル続きで嫌気がさしてきた。

 でも、それを口にしてしまったらイリスに対してとても失礼なんだろうな。トラブルの原因は私で(被害者なんだけど!)彼に落ち度はないのに、機嫌を悪くして帰りたがるだなんて愛想を尽かされそうな態度だ。

「……さっきとは別のお店に行きたい」

 考えて私は答えた。疲れたといっても気分的なもので、身体はまだ大丈夫だ。別の店へ行くなら気分転換にもなるだろう。

「ああ、そうだな……うーん、他でリボンを置いてる店というと……」

 小物の店なんていくらでもあるだろうというのは、現代日本人的な考えだろうか。イリスは首をひねって考え込んだ。男の人だから、そういう店に詳しくないだけかもしれない。

「心当たりがないならさっきのお店でもいいけど」

「いや――あそこなら多分……ちょっと歩くことになるけど、いいか?」

「……『ちょっと』の度合いにもよるけど」

 くわしく説明させると、イリスが言う店はここから歩いて三十分ほどの場所らしかった。ちなみに私の歩みで計算してだ。イリスひとりなら、その半分以下の時間で行けるだろう。

「まあ、そのくらいなら……」

 三十分も歩いたら大分疲れそうだが、時間的にちょうど頃合いだからその近くで昼食にすればいいだろう。……レストランか何か、あるよね?

 話が決まって、私たちは席を立った。外へ出て歩き出すと、なにやら背後に妙な気配を感じる。

 私よりイリスの方がしっかり感じているようで、ちらりとうしろを振り返り、困った顔になっていた。

「さっきは聞きそびれたけど、彼女たちとはどういうご関係?」

 いなくなっていたはずの女の子集団が、いつの間にか復活して少し後をつけてくる。本人たちはさり気なく通行人を装っているつもりだろうが、見知った顔が集団でついてきたらバレバレだ。

 イリスは頭をかいてうなった。

「んー、関係って言われると……うーん」

「言いにくい関係?」

「誤解されるような言い回しするなよ。ていうか誤解してるだろ? 何もないぞ。そもそもあの子たちの名前もよく知らないし」

「はあ?」

 困り顔のままイリスは続ける。

「顔はもちろん覚えてるけどな。仕事で街に出ることもよくあるから、街の人には割と顔を知られてるんだよ。あの子たちに限らず、声をかけてくる人は多い。だから一人ひとりの名前までは知らないけど、いちおう知り合い……ってことに、なるのかな」

 ははあ、なるほど。顔なじみのファンってことか。名前を知らないくらいだから、それ以上のお付き合いはないのだろう。まあイリスが寄ってくるのをさいわい女の子を食いまくるとか、そんなことはしないと信じているけれど。

「……予約とか言ってたの、気にしてる?」

 気まずげな顔でこちらを見下ろしてくる。ええ、気にしていますとも。なかなかに聞き捨てならない言葉でしたからね。

 ただそれを言ったのはイリスじゃないし、受け入れたわけでもない。はっきり拒絶してほしかったというのが本音ではあるけれど、彼に文句を言うほどのことではないだろう。

「いいんじゃない、予約すれば? 私と別れた時の話でしょ」

「別れないよ! そんな前提で考える気ないから!」

 本気で焦っているようすなのがおかしくて、つい意地悪を言いたくなる。

「まあ、人生どうなるかわからないからね。私の国じゃ離婚なんてよくある話だし、二度三度とくり返す人も珍しくなかったし」

「……本当か」

 愕然とした顔になったイリスは、つかの間何か考えていたかと思ったら、やにわに私を抱き上げた。

「なに」

 抱いたといってもお姫様抱っこなんかじゃない、脇の下に手を入れて持ち上げるという色気のないものだ。それを抱え直し、至近距離で向かい合う――と思ったら、そのまま顔が近付いた。

「…………」

 人目が気になる。視線が突き刺さる。恥ずかしくてたまらない。

 往来のど真ん中でキスするって、どこのバカップルだよ!

 私はイリスの胸に腕を突っ張った。

「なんなの、いきなり」

 ああくそう、顔が熱い。きっと赤くなってるんだろうな。キスに照れたわけじゃないからね! 人目をはばからないお馬鹿な行動が恥ずかしいんだからね!

 イリスは笑ってまた顔を寄せてきた。ええい、やめんか。

「これで誰の目にもはっきりわかるだろ。予約なんて取れないってことがさ」

 ぬけぬけと言うのに呆れてしまう。つまり見せつけるためにわざとやったというのか。本気でバカップルだよああもう恥ずかしい。

「……忘れているようだけど、私は十代前半の子供に見られがちなのよ。周りの目には、今のあなたは真性の変質者よ」

「うっ……か、覚悟はしてるさ」

 うそつけ、おもいきり顔が引きつっているじゃないか。

 そっと周囲をうかがえば、女の子集団はうっそーと信じられない顔をしているし、その他の通行人のみなさんも何あの男キモチワルイと言いたげだ。冗談でもなんでもなく、本当に変質者扱いされている。

 ……しょうがないなあ。

 恥ずかしいのをこらえて、私の方からもキスをした。これで一方的な痴漢行為とは思われないだろう。ロリコン疑惑は深まるが。

 わかっているのかいないのか、イリスはうれしそうに応えてくる。きっと明日にはとんでもない噂が広まっているだろうに、まったく気にしていないようだった。能天気に笑う顔を見ていると、私までどうとでもなれという気分になってくる。イリスの能天気がうつっているようだ。まったくもってよろしくない。




 たどりついた場所は、最初に入った店とは違って商品がどこにも陳列されていなかった。落ちついた室内にテーブルとソファがあるだけで、どこが店だという雰囲気である。入る場所を間違えたんじゃないかと思うけれども、イリスは平気な顔で奥へ進んだ。

「いらっしゃいませ、どのような品をご希望で?」

 上品なおじさんが応対してくれる。イリスは私を示して言った。

「この子に似合うリボンがほしいんだけど、あるかな?」

「かしこまりました、少々お待ちくださいませ」

 私たちにソファを勧めておいて、おじさんは奥の部屋へ入っていく。入れ代わりに若い男の子がお茶の乗った盆を運んできて、私たちにふるまった。

「ここ、お店なの?」

 イリスの耳元にこそっとたずねる。お茶を飲みながら、彼はうなずいた。

「れっきとした店だよ」

「どこにもそれらしい商品がないんだけど」

「客の要望を聞いてから出してくるんだよ」

 うーん……なんか、とんでもなくお高い店なのではという気がする。

 イリスのお財布事情を心配する必要はないだろうけどね。これでも大貴族の若様だし。でも庶民には落ちつかない雰囲気だなあ。

「お待たせしました」

 しばらくしておじさんが戻ってきた。ビロードが張られた大きな盆を持っている。

「お嬢様の雰囲気を考えまして、この辺りを選んでみましたが」

 目の前のテーブルに置かれた盆を私たちはのぞき込む。光沢のあるサテン生地や色とりどりの模様を織り込んだもの、繊細なレースなど、素材や製法もさまざまなリボンが並んでいる。最初に入った店とは違い、切り売りではない。きれいに端を整えられたものや、最初からその長さに織られたものばかりだった。

 きっとリボン専門の職人さんがどこかにいるんだろうな。こっちでは機械織なんてないから、どれもが職人によるハンドメイドだ。一度見学してみたいかも。ユユ姫にお願いしたら、工房に連れて行ってもらえるかな。

 私はリボンを一つひとつ手にとって眺めていった。どれもきれいだ。手ざわりもいい。多分リボンにあるまじきお値段がついているのだろうけれど、さわるのも怖い、ということはない。普段使っているものと同じだ。

 わかっていたけれど、私って高級品に囲まれて生活していたんだな。

「こちらはシャールの老舗工房で作られた品でして、この複雑で繊細な織り模様はなかなか他にはないものでございます。こちらの方はジーナで買いつけてきたものでして、今までにない珍しいお色です。これから上流のご婦人たちの間で流行るでしょう」

 おじさんがいちいち丁寧に解説してくれる。それぞれきれいな品ばかりだったけれど、自然と私の目はその中のひとつに引きつけられた。手にとれば、イリスも「いいな、それ」と言う。

 淡い桜色のリボンだった。五センチくらいの幅広で、透かし織りの地模様が入っている。ポイントに金と濃い目のピンクが使われているのが可愛らしい。縁はごく細い糸で編まれた泡のようなレースで飾られていた。

 これをハンドメイドで作るなんて、職人さんすごいなあ。

「うん、似合ってると思うぞ」

 リボンを私の髪に当ててみて、イリスが言う。すかさずおじさんが鏡を出してくれた。

 この幅のリボンを使うには、今の私の髪は短すぎるんだよね。使えなくはないけれど、ロングヘアに結んだ方がずっと見栄えする。やっぱりまた伸ばそうかな。リボンを使うのは、髪が伸びるまでのお楽しみに取っておこうか。

「それが気に入った?」

「うん」

 一目惚れの即決だ。私たちは桜色のリボンを買うことにした。

 さすが高級品店はそのまま渡すようなことはせず、小箱に丁寧に納めて渡してくれる。気になるお値段はいざお勘定という段ではじめて聞いた。庶民には心臓に悪いシステムだ。まあこの店に来るような客は、そんなところにびくびくすることもないのだろう。

 店を出たところで、私はイリスに頭を下げた。

「ありがとう」

「どういたしまして。気に入るのがあってよかったよ」

 最初からこっちへ来ればよかったな、と彼は笑う。たしかにいい品にめぐり会えたと思う。でももうひとつ、気になるものもあった。

「その内ポケットにあるのも、ほしいんだけど」

 私はイリスの胴衣を指さす。え、と青い瞳が丸くなった。

「私のだと思ったけど、違う? 他の人へのお土産だったかしら」

「いや! ……その、えっと」

 さっきお会計の時にちらりと見えたんだよね、リボンの端っこが。どうやらイリスは、最初の店でも一本購入していたらしい。だったらここへ来る前に出せばいいのに。なんでわざわざふたつ買うんだか。

「……安物だぞ」

 イリスは出し渋る。

「そんなの関係ないわ。ああいうお店に行きたいって言ったのは私なんだし、じっさい可愛いのがたくさんあったし。もちろんこのリボンもとても気に入ったけど、そっちもほしい……って言ったら、わがまま?」

「いや、そんなことはないけど」

 イリスは隠しに手を入れ、リボンを取り出す。細い紺色のリボンだった。特に模様も刺繍もなく、水色の縁取りがアクセントになっている。

「華やかなのは、どれがいいのかわからなくて……君は紺色の服を持っていたし、おとなしくて真面目だからこういうのも似合うかなと思って……でもちょっと地味すぎたよな」

 気まずそうに頭をかいている。私はイリスの手からリボンを取り上げた。

 こうして見ると、明らかな品質の違いを感じる。端だって切ったままだから、縫うかどうかして始末しないと糸が出てくる。言うとおり地味でもあるけれど。

「イリスが選んでくれたのよね? あの女の子たちに勧められたんじゃなく」

「ああ」

 私はにっこり笑い、うんと背伸びしてイリスの頬に口づけた。

「ありがとう」

 驚いていた顔が照れくさそうな表情になり、そして優しく微笑んでくれる。私は買ったばかりのリボンの箱に、紺色のリボンも入れた。桜色と紺色が並んで、とてもきれいだ。

 イリスが私のことを考えて、選んでくれたリボン。私にとってはどんな高級品よりも価値がある。もちろん桜色の方もすごく気に入った品だから、うれしさは二倍三倍だ。箱の中をいつまでもうっとり眺めていると、イリスに笑われた。

「こんなとこでずっと見てなくても」

 うながされて歩き出す。一時の微妙な気分はどこへやら、すっかり幸せ気分に満たされた。イリスの腕に甘えれば、守るように応えてくれる。多少年が離れていても、今の私たちはちゃんと恋人同士に見えただろう。

 その後も楽しく時間を過ごし、私は存分にデートを満喫したのだった。




 ――そこで終われば、きれいな思い出のひとつになってめでたしめでたしだったんだけどね。

 まあ予想どおり、オマケがついていた。

「イリス、ちょっと顔を貸せ」

 数日後アルタが怖い顔をしてイリスを呼びにきた。

「なんだよ」

「報告が上がってきとる。お前が街で年端もいかない少女(こども)を襲っていたと。まったく嘆かわしい。栄えある竜騎士団の一員がそのような下劣な犯罪をおかすとは」

「って、わかっててわざと言ってるだろう!?」

 噂を聞きつけたアルタがイリスをからかいに来たのは明らかで、周りの人はみんな呆れた顔で笑っていた。

「イリス・ファーレン・フェルナリスは大人の女に興味がない、小児性愛者だったともっぱらの噂だぞ。困るなあ、そういうやつがいると竜騎士団全体の評判にかかわるんだが」

「とか言いながら面白がってるだろう! あああもう、言われるだろうとは思ったけどさ!」

 イリスは頭を抱え込む。見ている人々は同情半分、嘲笑半分だ。こちらにもちらりと視線が向けられるけれども、私と目が合うとみんなあわてて知らん顔をした。

 私はつんとあごをそびやかす。言いたいことがあるなら言ってもいいですよ? 受けて立とうじゃないか。

 こういう展開になることはわかっていたので、反撃の言葉はちゃんと用意していた。でもなぜか、私にからんでくる人はいなかった。みんなイリスばかりをいじめている。その後すっかり彼が落ち込んでしまうほどだった。

「ちゃんと発表してないからいけないんだよな。婚約者だってことがわかれば、多少歳が離れてたって問題ないんだよ。きみの年齢も同時に発表すれば、おかしな誤解をされることもなくなるし」

 ひとしきりいじけてふてくされていたイリスが、しまいにはそんなことを言い出す。実年齢を知らせたところで私の見た目が子供っぽいことには変わりないのだから、問題の解決にはならないと思うのだけど。大人っぽい色っぽい女性じゃなく、子供みたいな女が好みかと思われるだけだ。なんでそんな簡単なことがわからないのだろうね。自虐ネタになるだけだから言わないけどさ。

「ハルト様にお願いして、お披露目の機会を設けてもらわないか? おかしなことじゃないぞ。今の君は王女なんだから、婚約したなら正式に発表するのは当たり前だ。むしろ発表しなきゃいけないと思うんだけど」

 よっぽど危機感を覚えたのか、イリスは熱心に提案してくる。でも私はすんなりうなずけなかった。

 お披露目ってねえ……そりゃあ、私が本当の王女様なら、たしかに当然なのだろうけども。

 平民生まれの孤児だとみんな知ってるんだし、そういうことはしなくてもいいんじゃないのかな。

「ついでにさ、式の日取りも決めてしまわないか?」

 ちょうどいい口実だと思ったのか、イリスはそこまで話を進めてしまう。私はため息をついて彼を見返した。

「世間に発表する前に、まず家族に報告するべきじゃないの? イリスが勝手に結婚したら、ご両親や弟さんたちが怒るわよ」

「報告ならとっくにしてるぞ。手紙でだけど」

「そういう大事なことは、直接会って話すべきでしょう。もしかしたらご両親は反対してるかもしれないじゃない。大丈夫なの? 一度休暇取って里帰りしてきなさいよ」

 普段はすっかり忘れているけれど、イリスは国内屈指の大貴族の若様なのだ。しかも長男。もしかしなくても家を継がなくちゃいけない立場なんじゃないのか。そんな人が、自分の気持ちだけで結婚を決めてしまっていいのだろうか。きっとご両親にはいろいろ思うところがあるはずだ。怒鳴り込まれる前に、ちゃんと話をつけてきてほしい。

 そう言うと、なぜかイリスは目を輝かせた。

「チトセからそんな言葉が出てくるとは……よし! 休暇を取るよ! ふたりで里帰りしよう」

 ……はい?

 思いがけない反応に呆気にとられているうちに、イリスはうきうきと出て行ってしまった。止めそこねた。我に返ってあわてて後を追ったけれども、呆れるほど素早く彼は消えてしまっていた。

 なんで一緒に里帰りすることになるのよ……。

 自分のうかつさを呪う。どうやら、みすみすイリスに機会と口実を与えてしまったようだ。できるだけ先のばしにしたかった面倒事が、にわかに近付いてきたのを感じた。

 そりゃあね、彼と結婚するつもりなら、いずれは向こうの親族に挨拶しなきゃいけないんだけども。ずっと会わないままというわけにはいかない。そのくらいはわかっていたけども。

 でも、ちゃんと話が決まってからにしたかった。イリスは貴族の嫡男だ。結婚に関しては、さぞかしいろいろめんどくさい事情がつきまとうのだろう。私みたいな馬の骨なんぞ認めんと、猛反対されることも予想できる。そこをきちんと彼が説得してくれて、ある程度認められてからご対面という流れにさせてほしかったのに。

 あのようすだと、きっと近日中にイリスの故郷へ向かうことになる。下手すると明日出発とか言ってくるかも。イリスだからやりかねない。

 気が重いなあ……。

 部屋に戻ってげんなりと崩れ落ちる。ふと目を向けた鏡に映った顔は、我ながらひどく情けない表情をしていた。

 立ち上がり、鏡の前へ行く。短い髪に結んだ紺色のリボンを、そっとなでた。

 ……逃げてたって、しかたないんだよね。

 イリスとずっと一緒にいると決めたんだもの。そのために、この世界へ戻ってきたんだもの。どんな問題があったって、尻込みするのは今さらだ。頑張ってぶつかっていくしかない。

 息を吐き、鏡の中の自分に向かって笑ってみる。反対されようがどうしようが、それがなに? 戦場に立つことにくらべたら、まるでどうってことない。どんな大喧嘩をしたって、今回は血が流れたり人が死んだりしないんだから。

 それに私には、心強い味方がいる。イリスは当然のこと、他にも力を貸してくれる人たちがいるじゃないか。

 ――うん、だいじょうぶ。

 鏡に背を向け、私は扉へ向かった。やるからには、できるかぎりの準備で挑まねば。

 まずは情報収拾からだよね。戦いの鉄則だ。それから戦略を練らないと。こういう事例には、若い独身者より既婚者に意見を求めた方がいいかな。私の知っている既婚者というと、新婚の王様は省いてスーリヤ先生と宰相とオリグさんか。宰相には仕事の邪魔するなと怒られそうだな。でも結婚する側と親の側、両方を知っている貴重な人材だから、ぜひご教授ねがいたい。

 どこから当たろうかな。

 いろいろ考えながら外へ出れば、さわやかな風にリボンが揺らされた。空を見れば、大きな雲がわきあがっている。

 夏が近い――。




                    ***** ふたりで街へ・終 *****


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