ふたりで街へ 《前編》
イリスが差し出す手を借りて、馬車から降りる。久しぶりに下りた街は、天気がいいこともあり活気に満ちていた。
「疲れてないか?」
「うん」
のぞき込んでくるイリスにうなずく。車酔いしないようゆうべは早めに寝ておいたし、朝食もちゃんと食べたから大丈夫。ちょっと頭がくらくらするけれど、歩いているうちにおさまるだろう。
今日はイシュちゃんはお留守番。竜で来ると目立つし帰りは荷物もできるからと、馬車を使うことにしたのだ。名前は馬車でも引いているのは騎士団を引退した地竜で、馭者も元騎士のおじさまだ。彼らは宮殿の職員で、日に三度街と城を往復している。いわば福祉バス。山の中腹にある城まで登ってくるのは大変なので、自前の馬車や馬を用意できない人でも来られるよう、無料で乗せてくれる。地竜は力持ちなので大勢乗れる大型馬車でも楽々だ。
「こんなのがあるって知ってたら、もっと早くに出かけてたのに」
ぼやいた私にイリスは肩をすくめた。
「出無精のくせに何言ってる。知ってたって出ないだろうが」
そんなことはない。私だって外に出たくなることもある。月に一度くらいは。
私たちは馭者と竜にお礼を言って歩きだした。
「ええと、たしかこっちの通りに小物の店があったはずだ」
イリスの案内で道を進む。下町の方はせせこましく雑然とした雰囲気だけれど、この辺りは道幅も広く小洒落た雰囲気だ。屋台はなく、立派な店が軒を連ねていた。
「この辺は高級店なの?」
「いや、普通だよ」
イリスは軽く答えるが、明らかに下町とは雰囲気が違う。道行く人の服装もずっと上等だ。貴族街ほどではないけれど、庶民の中でも比較的裕福な人たちが集まる区域なのだろう。
「あんまり高いのじゃなくていいんだけど」
「この辺で買えるものなんて、全然高くないよ。本物の高級品ってのは店で買うものじゃない」
貴族のお買い物は屋敷に商人を呼んで行われるらしい。服は当然オーダーメイドだし、小物も他に同じ物がない一品ものが求められるのだとか。店に置かれた既製品なんて庶民御用達だとイリスは笑う。名門貴族の若様らしい言葉を、私はコメントを控えて聞き流した。
すみませんね、こちとら百均愛用の庶民ですよ。大量生産品ばかり使ってましたよ。
「……やっぱり、そういうのがよかったかな。あれは、多分特注品だろうし」
辺りの店を見回しつつ、イリスは気後れしたように言う。まだ気にしていたのか。
「だから、高いのじゃなくていいって言ってるじゃない。あれと同等のものが欲しいなんて言ってないわよ」
「そうだけどさ。なんか、申しわけなくて」
「見て、気に入ればいいの。結果お高いものになるかもしれないけどね?」
「いいよ。好きなのを選びな」
笑顔を返しながら、イリスは目当ての店の扉を開く。ドアベルの音に迎えられ、私は店内に踏み込んだ。
そこは若い女性が好みそうな、小物や装飾品を扱う店だった。可愛らしい品が揃っている。私はこういう雰囲気が大好きだ。さっそく手近の棚に寄る。
「リボンはこっちにあるぞ」
「うん……」
イリスが教えてくれるけれど、目の前の小物が気になってしかたない。花や動物の形をあしらった陶器の菓子皿だとか、一輪挿しだとか、とりたてて必要はないけれど見ていたらつい欲しくなってしまう。
「気に入ったのがあったら一緒に買うよ」
「ううん、見てるだけ」
いちいち買っていたらきりがない。可愛いものに目が行くのは単なる女の子の習性だ。
名残惜しい気分を振り切り、私はリボンの棚に向かった。小物はあとで見よう。まずは本日メインの目的を果たさねば。
切り売りのリボンがたくさん並んでいる。ここも可愛いものばかりで、どれかひとつを選ぶのが難しかった。
「いくつでもいいよ。好きなだけ選びな」
「そんなこと言ってたらここにあるの全部になっちゃうわ」
「じゃあ全部買うか?」
平然と言うイリスをちょっと呆れて見てしまう。見栄を張っているというようすでもなく、いたって自然な態度だ。普段騎士としての姿しか見ていないからあまり意識しないけれど、やっぱり貴族の若様なんだなと思う。
「無駄なお買い物はしない主義なの。必要なものだけでいいわ」
「別に無駄じゃないだろ。毎日違うリボンに取り替えてるんだから、数は多い方がいいんじゃないのか」
そうだけどね。でもそうじゃなくてね。
――ああ、そうか。貴族的というより、性格のせいだ。選べないなら全部買ってしまえという、いつもの大雑把で手抜き思考なだけだ。
ここで手抜きは許さない。というわけで、私はイリスに質問した。
「どれがいちばん似合うと思う?」
「ええ?」
イリスは眉を上げ、リボンを見てうーんとうなった。
「どれって言われても……」
「これがいいなっていうのを、選んでよ。適当じゃなく、ちゃんと考えて」
「えー……」
ものすごく困った顔になってイリスは頭をかく。リボン見、私見て、息を吐いた。
「どれでも似合うと思うけど」
「ブー。不合格。向こう見てくるから、ちゃんと選んでてね」
「え? おい、チトセ!」
つんとそっぽを向いて、その場にイリスを残して離れる。まったく、少しくらいは考えろってのよ。
別にスタイリストばりのオススメをしてほしいわけじゃない。男性にしてみれば、リボンなんてどれでもいいという感想だろう。それはしかたがないけれど、せっかくのプレゼントなんだからちょっとくらいは考えてほしい。
ちらりと振り返ると、イリスはリボンを前に肩を落として考え込んでいた。女性向けの店内で品物選びに悩む騎士の姿は、なんとも場違いで浮いていた。
……ちょっと、わがままだったかな。
気の毒な姿に自分の態度を少しだけ反省する。イリスの大雑把加減に腹を立てるなんて今さらだし、私がほしがるなら全部買ってもいいというのは彼なりの優しさなのだろう。いちいち文句を言うのは間違いだったかな。
でもね。私としては、イリスが選んでくれたものがほしいのだ。
出征する彼に請われ、お守りにと渡したリボンは、その後いろいろあったせいでもう使えないほど傷んでしまった。一応貸したことになっていたものだから、イリスは申しわけないと気にして代わりのリボンを買ってくれることになった。私としては、もう本来の使い方をするつもりはなかったので弁償とか考えてなかったのだけれど。でもイリスが一緒に買いに行こうと誘ってくれたのがうれしくて、申し出を受けることにした。彼の休日を待って、ふたりで街へ下りてきて。
好きな人と一緒にお買い物。もしかして初めてのデート。そんなことを考えてひとりドキドキしていた分期待も高まっていたようだ。甘い雰囲気でリボンを選んでくれる彼の姿を想像とかしていたね、うん。冷静に考えると恥ずかしい。
でも私にだって乙女心っていうものがあるんだよ。
せめて候補くらい選んでくれたら、その中からほしいものを決める。そう思って小物を見るふりをしながらイリスのようすを観察していると、扉が開いて新たな客が入ってきた。
たちまち店内がにぎやかになる。私とあまり変わらない年頃の、若い女の子のグループだった。
友達同士で買い物に来たといった雰囲気だ。うらやましく思うのと同時に、少し苦手意識も感じた。どうしても、ああいう集団を見ると故郷での日々を思い出してしまう。私をいじめていたグループと彼女たちが重なって見えた。
……私がいつも一人だったのは、完全に自分のせいだったんだけどね。もっと積極的に友達を作っていれば、いじめられることもなかったのだろう。
隅の物陰からはしゃぐ女の子たちを眺める。彼女たちはすぐに異質な男の姿に気づき、注目した次の瞬間、黄色い声を張り上げた。
「まあっ、イリス様!」
「イリス様じゃないですか! どうなさったんですか、おひとりで」
……んん?
駆け寄る女の子たちに、イリスが振り向く。彼女たちはイリスの知り合いなのか。
「こんなところでお会いするなんて、びっくりしたぁ」
「今日はお休みなんですか?」
「やあ」
笑顔を返したイリスの目が店内をさまよう。私の姿をさがしているとすぐにわかる。でも私は素早く棚の陰に隠れた。
……いや、だって、あの雰囲気の中イリスのそばに出ていくのは怖すぎるよ。
見ていればわかる。彼女たちの目が輝いている。そりゃあ、イリスはもてもてのイケメンだものね。こういう状況は不思議でもなんでもない。貴族の令嬢だけでなく街にも知り合いの女の子がたくさんいるっていうのは、後でじっくり聞かせてほしいところではあるけれど、それはそれとして今あそこに出ていく勇気はない。
くわばら、くわばら。ここは他人のふり。私は空気!
「……リボンを、選んでらっしゃるんですか?」
誰かがさぐるような声を出した。
「どなたかに贈り物を?」
「うん、まあ」
「妹さんとか?」
うわー、ますます怖くなってきた。そりゃあ、こんな店で明らかに女の子向けな品を選んでいたら、誰にあげるものかと気になるよね。そこで相手は恋人じゃなく妹とか恋愛対象外な人物にしたくなる気持ちもわかる。他人ごとならよくある光景と流せるけれど、自分に関わってくるのでびくびくだ。
イリスのやつ、よもやここで私を呼ぶとかしないだろうな。呼ばれても絶対出ていかないぞ。
「いや、妹はいないよ。うちは弟ばっかりだよ」
イリスは能天気に女の子たちの希望を打ち砕いている。そうなると次に出てくる質問は決まっていて、
「えー、じゃあ……恋人、とか?」
――こうなるよね。
私はそーっと向こうをのぞいてみた。イリスは照れくさそうな顔で、でもはっきりとうなずいた。
「ああ」
…………。
なんか別な意味出ていきづらくなった。
こっちまで妙に照れてしまう。今さらこのくらいで何を照れるのかとツッコミが入りそうだけれど。
物陰に身をひそめて向こうのようすをうかがう私は、もしかして不審人物だろうか。近くにいる人がこちらを見ている気がする。男性だから店員さんかな。万引きと間違えられては困るので、私は商品から身を離す。でもイリスたちに見つからないよう隠れなきゃいけないし、なかなか難しい。
「今付き合ってる人いるんですかぁ。この間別れたって聞いたのに」
「やだぁ、今度はわたしがお願いしようと思ってたのにぃ」
「ちょっと、なにあつかましいこと言ってんのよ」
「なによ、いいじゃない。ねえイリス様、次の予約してもいいですかぁ?」
……ますます妙な流れになってきたぞ。
予約ってなんだ。今つきあってる相手がいるのに、次の予約って。じきに別れること前提か! たしかに今までそんな付き合い方だったらしいけどね! というかイリスが別れたとかそういう情報が街に出回ってるわけ? もしや元カノ情報か。そもそもどういう知り合いなんだあの子たちは。
なんだかもやもやしてきた。返答次第では、イリスのやつただではすまさない。
身をひそめつつ状況を見守る。なにやら足元がこしょこしょくすぐったい。品物に当たっているのかな。うっかり引っかけないように気をつけないと。
「予約って……あはは」
イリスは笑ってごまかすことにしたようだ。そこははっきり断ってほしいぞ。点数をつけるなら六十点といったところか。
「選ぶの、お手伝いしましょうか。これなんてどうです?」
別の子が勝手にリボンを選び出す。それにもまたもやっとした。私はイリスに選んでもらいたいんだよ。他の人には頼んでない。よけいなことをしないでほしい。
「えー、それはちょっと子供っぽすぎない? このくらい落ちついた色のがいいんじゃないかしら」
他の子まで乗ってくる。だから余計なお世話だってば。
ここでイリスが任せてしまうようなら、もう置いて帰る。絶対そうする。当分口を利くもんか。
だってあれ、明らかに地味なのばっか選んでるよ。落ちついた色合いのも嫌いじゃないけれど、この場合彼女たちの意図が透けて見えて腹が立つ。
イリス、断れ! 断らなかったら泣くほど高いもの買わせるからな!
私の怒りの電波を受信したか、イリスはやんわりと辞退した。
「ありがとう。でもせっかくだけど、人に選んでもらったんじゃだめだから」
よし! そこはちゃんとわかっていたな。今の答は百点あげよう。
それにしても足元くすぐったいな。何が当たってるんだろう。
数歩動いて脚にふれるものから離れる。視線はイリスたちに向けたままだ。気分は浮気調査の探偵である。
断られても女の子たちはめげない。なんだかんだとイリスに話しかけている。イリスが相手をしているのは、同じ店内に私がいるからだろう。戻ってくるまであの場を離れられないからで、そうでなければ適当に切り上げて別れる――と、思いたい。
でなきゃ許さん。女の子に囲まれるのがうれしいとかじゃないよね?
どうしよう、やっぱり出て行くべきなのかな。でもなあ。
悩んでいるとまた脚にこしょこしょふれる感触がした。ここでようやく違和感を覚えた。いったい何が、と視線を足元に向けて、一瞬凍りつく。
いつの間にかすぐそばに、男がしゃがみ込んでいた。さっき見かけた人だ。私の足元にしゃがみ込み、商品を見るふりしながら手がスカートの裾へ侵入しようとしている。
「――いやっ!」
ぞっとして飛びずさった。脚を振り上げて、力一杯蹴りつける。
「がっ」
もろに男の頭にヒットした。勢いよく男が倒れ、蹴ったこちらが驚いてしまう。
「あら……」
これはまた、きれいに決まったものだ。こんなに見事に蹴りが入ったのは初めてじゃないかな。
私ごときの蹴りでもそれなりに痛かったのか、男は床に倒れたまま頭を抱えていた。場所が場所だし、まずかった? いや、脳にダメージ受けるほどの衝撃じゃなかったよね? ……たぶん。
どうしよう、病院に連れていくべき? でもこれ痴漢だよ。むしろ警邏隊の詰め所行きじゃないの。
「チトセ?」
気付いたイリスがこちらへ駆けてきた。倒れた男を見て、私にけげんそうな顔を向ける。
「どうしたんだ」
「……痴漢」
「なんで倒れてる?」
「蹴った」
「…………」
なんとも言えない表情だ。すみませんね、足癖悪くて。だって痴漢されておとなしく泣き寝入りしなきゃいけない決まりはないでしょう。人目のない場所だと逆上されるおそれがあるけれど、ここならイリスもいるし大丈夫だもの。
「こいつはここの店員か?」
逃げようとする痴漢の首根っこをつかまえて、イリスがたずねる。さあと首をかしげる私の後ろから声があがった。
「あーっ! そいつ、痴漢の常習犯です!」
「イリス様、逃がさないで! あたしたちそいつの被害に遇ってたんです!」
「こういう店で客のふりしながら女の子物色してるんですよ! それに逃げ足が速くって! 今度こそ警邏隊に突き出してやる!」
……どうやら、彼女たちもお仲間らしい。さっきまでの不快感が薄れ、勝手に連帯感を抱いてしまった。
店の人に無関係な人間であることを確認し、イリスは痴漢を引きずって外へ出た。警邏隊の詰め所はここから少し離れたところにあるそうで、私に店で待っているように言う。
「一緒に行くけど」
「あんまり歩くと疲れるだろ。それにこんなのと一緒に歩きたくもないだろうが」
そうだけど、でもここに残されるのも気づまりだ。
女の子たちの視線が痛い。さっきはどさくさでごまかされていたけれど、あの子だれ?とささやき合っているのが聞こえて怖い。
「……じゃあ、あそこでお茶飲んでる」
私は通りの反対側にあるカフェを指さした。どうせ待つなら座れる場所がいい。
「わかった。なるべく早く戻ってくるから、動くなよ」
「うん」
通行人の視線を集めながら、イリスは痴漢を連行していった。私はカフェへと向かう。女の子たちはイリスの後を追っていった。こちらへ来なくてひと安心だ。
お茶とケーキを注文してひと息つく。ぼんやり風景を眺めながら、イリスはどのくらいで帰ってくるだろうかと考えた。三十分くらいで済むだろうか。
それにしても、こっちにも痴漢っているんだな。同じ人間が暮らす街なんだから、いて当然かもしれないけど。でも出くわしたのが初めてだったので、ちょっと驚いた。これが故郷でのことなら、腹は立つけどいつものことと思えたのに。
容姿もスタイルも関係ないんだよね。やつらにとって必要なのは、若い女であるという、その一点だけだ。あとひとりでいるのも狙われやすいと姉が言っていた。この世界でもその辺の事情は同じらしい。
そうすると、もしかしてキモいナンパ男もいたりするのだろうか。
――そう思ったのは、なんとなくこちらを気にしているっぽい男の姿に気付いたからだ。二十歳くらいの若者で、この界隈の雰囲気にはちょっとそぐわない、だらしなく崩れた服装だ。中途半端に長い髪もぼさぼさで、清潔感がまったく感じられなかった。
山男みたいなリュック背負って、そのくせなぜか足元はゴムサンダルといういでたちの男にナンパされた時のことを思い出すなあ。電車の駅でのことだった。いったいアレは何を考えていたのだろうと、今でも不思議に思う。あんな場所、あんな格好で声をかけて、相手をしてくれる女の子がいるとでも思っていたのだろうか。
ほかにも色々、変なのに声をかけられたっけ。どいつもこいつも、本気で女の子を誘うつもりなのかと問い詰めたくなるような連中ばかりで。
世の中にはナンパがきっかけで付き合いだしたカップルもいるわけで、そういう男はきっとごく普通の格好をしていたはずだ。ドラマや漫画に出てくるナンパ男だって見た目におかしなところはない。なのになぜ、私に寄ってくるのはありえないキモ男ばかりなのか。そんなのにしか声をかけられなかった私に問題があったのか。
イケメンになら声をかけられてもいいとか、そういうわけじゃないんだけれど。違うけれど、複雑な気分だ。
とかなんとか、連鎖的に過去の経験を思い出していた私は、さっきの男がこちらへ近寄ってきたことに気付くのが遅れてしまった。気付いた時には、男はもう勝手に椅子を引いて私の前に座ろうとしていた。
「そこ、連れがきますので」
私は冷たい声を出して座ろうとする男をさえぎった。
「他の席へ行ってもらえますか」
男は一瞬動きを止めて私を見たが、そのまま椅子に腰を落とした。にやにやしながらテーブルに腕をついて身を乗り出してくる。
「ずっと一人だったじゃないか。さっきから見てたよ」
「他へ行ってください。そこに座らないで」
「可愛いね、いくつ? 十二か十三くらいかな」
――こいつ、ナンパの上にロリコンか。
小学生に見られることにはもう慣れたが、ガチロリコンは気持ち悪い。実は十七歳ですと言ったら離れてくれるだろうか。いやたぶん、嘘を言っていると聞き流されるだろうな。
私は通りに目をやったが、イリスが戻ってくるようすはない。どうしたものか。動くなと言われたが、こんなキモ男に付き合っていたくはない。
離れろと言って離れないなら、こっちから離れるしかないのだが、こいつがおとなしく見送ってくれるかどうかが問題だ。しつこくつきまとわれる可能性も高い。
対策を考える私を見ていた男は、何を思ったか突然私の前の皿に手を伸ばした。まだ半分くらい残っていた食べかけのケーキを、無造作につかんで口に放り込む。呆気にとられる私ににたぁと笑い、次にはカップも取り上げた。わざわざ、私が口をつけたところに自分も口をつけて残りのお茶を飲み干す。
……キモい。キモすぎる。鳥肌が立ったよマジで!
なに勝手に人のもの食べてんだ弁償しろと言いたくなるのをこらえ、私は立ち上がった。店を出るのではなく、逆に奥へ向かう。店員のお姉さんをつかまえて頼み込んだ。
「すみません、連れを待っていたら変な人が来て。私の注文したもの勝手に食べたりしてすごく気持ち悪いんです。連れが戻ってくるまで、奥で待たせてください」
中腰になってこちらをうかがっている男を指さす。お姉さんは店長さんに相談してくれた。
ハルト様と同年代くらいの渋い店長さんが、男の方へ行って追い出そうとしてくれる。しばらく何か言い合いをしていて、困惑した顔で店長さんが戻ってきた。
「きみの連れだと言ってるけど?」
どこまであつかましいんだ、あのキモ男は!
「大嘘です。でも連れだって主張してるなら、代金請求してやってください。半分以上あの男が食べちゃったんだから、払ってもらわないと私も気がすまないし」
ケチとでもなんとでも言え。見ず知らずの男にケーキを横取りされて、笑って許せるほど心が広くはない。
「お願いします、かくまってください。私の本当の連れは、銀髪の騎士です。もう少ししたら戻ってくるはずなんです」
「うーん、じゃあ、そっちの席にいるといいよ」
厨房にいちばん近いカウンター席を示される。店長さんがすぐそばにいるし、店員のお姉さんたちもしょっちゅう通る場所だ。ここなら大丈夫かと、私はカウンター席に座った。
キモ男は素直にお金を払うかな。たぶん払わないだろうな。くそう、腹が立つ。私が騎士たちみたいに強ければ、自力で叩きのめして代金没収してやるのに。
「あ……」
カウンターの中で仕事をしていた店長さんが声を上げた。なんだろうと彼の視線を追いかけた私は、げっと身をすくめた。さっきのキモ男がこっちへ来ていた。またニタニタ笑いながら私の隣に座ろうとする。もうやだ、勘弁して!
「なあ、名前なんての」
キモ男は私にくっつかんばかりに迫ってくる。もしや本気でナンパするつもりじゃなく、いやがる姿を見て喜んでいるだけだろうか。変質者の一種かも。腹立たしさ倍増だが、私には逃げることしかできない。だまって椅子から立ち上がる。距離を取ろうとすると、腕をつかまれた。
「いやっ」
本気で気持ち悪くて鳥肌が立つ。ぞっとなって振り払おうとするが、男はにやにや笑いながら私の抵抗を見ている。ああくそう、やっぱり面白がっている。蹴る? 蹴っちゃう? でもさっきみたいにうまくいくとは思えない。
「ちょっと、お客さん」
見かねた店長さんが止めに入ってくれた。
「他のお客さんに迷惑かけるのはやめてくれませんかね」
「うるさいな、連れだって言っただろ」
「こっちのお嬢さんは違うって言ってますよ。とにかく、いやがってるんだからその手を放しなさいって」
「なんだよ、それが客に対する態度か!」
キモ男は声を荒らげて店長さんを脅しつけた。お前なんか客じゃないと誰もが思っただろう。せめて何か注文して代金払ってから言え。でもこういうやつに正論を言ったところで通用するわけがない。
店内にいた人たちが、なにごとかとこちらに注目していた。店員のお姉さんたちも、おろおろしているばかりだ。彼女たちに助けに入ってほしいとは言わないが、警邏兵を呼びに行くとかしてくれないかな。これって営業妨害でもあると思うんだよね。
私の腕をつかんだまま、もう片方の手で男はカウンターを叩く。
「横からごちゃごちゃ言ってんじゃねーよ。関係ないやつはすっこんでろ」
「店の中で騒がれると迷惑なんですよ。その子もいやがってるし、やめてくれませんかね」
「てめーが邪魔すんのが悪いんだろうが! 騒いでんのはそっちだろ」
「誰が悪いかと言ったらあなたが悪いに決まってるでしょうが。見ず知らずの人間にいきなりからんで気持ち悪い粘着して止めようとしてくれる善意の人を脅しつける、迷惑どころかほとんど犯罪でしょうがいい加減にして」
我慢しきれず口を開いた私に、男が目を戻す。苛立った目つきに焦る。もしかして、精神状態がちょっとやばい? 薬でもやってる? うかつに刺激しない方がよかっただろうか。
「なんだぁ? その生意気な口の利き方は」
つかまれた腕が持ち上げられる。身体が吊り上げられ、私は爪先立ちになってしまう。腕が痛い。これ絶対あざになる。あざだけですまなくなるかもしれない。この男本気でやばいよ。
「もう一度、ちゃんと言いなおしてみろよ――ごっ」
ご?
突然男がよろめいて、私から手を放した。助かったけれど私も尻餅をつきそうになり、あわてて支えてくれた店長さんのおかげで難を逃れる。原因はすぐにわかった。いつ来たのか、青筋立ちそうな顔のイリスがいた。
「ちょっと目を離した隙に……」
怒っている。私のせいじゃない。私が悪いんじゃないからね。
イリスの後から、息を切らせた店員のお姉さんが戻ってきた。どうやら彼女がイリスに知らせてくれたらしい。私が銀髪の騎士と言っていたから、それらしい人が来ないか見に行ってくれたのだろう。ありがとう、お姉さん。
「なんだよてめえは!」
「うるさい」
頭を押さえて振り向いた男に、もう一度拳骨が落とされる。耳障りな音を立てて男が足元に倒れた。私と店長さんは飛び上がるようにその場からあとずさる。
「イリス、それも警邏隊に突き出して」
「さっき行ってきたばかりなのに。なんでこんな短時間で立て続けに引っかけるんだよ」
「私に聞かれても」
知らないよ。呼んだわけじゃないんだから。勝手に寄ってくるんだから。
ため息をつきながらイリスは男を立たせる。あ、と思い出して私は言い添えた。
「連れて行く前に、お茶とケーキの代金プラス迷惑料徴収して」
「金を巻き上げろって言うのか? それはどうかと思うぞ」
非難の目を向けるイリスに、理由を説明してやる。私の食べ残しを口にしたと聞いて、イリスも腹を立てつつ気持ち悪そうにしていた。
店にお礼とお詫びを言って精算をすませ、結局もう一度詰め所へ向かう。今度は私も同行した。また来たのかと驚く警邏兵たちにキモ男を託し、外へ出たイリスは大きく息を吐いた。
「最初の痴漢はまだしも、人目のある場所でまでからまれるなんて……そんなに目立つかな?」
あらためて私を眺める。私は肩をすくめた。
「続いたのは単なる偶然だと思うけど、からまれること自体はいつもの話よ。世の中おかしな男が多すぎるわ」
「そんなはずはない、と言いたいところだけど……」
呆れたように首を振って、イリスは私の手を取った。
「まあ君から目を離しちゃいけないってのはよくわかったよ。次は誘拐されかねないから、絶対に離れるんじゃないぞ」
「さすがにそこまでは。小さい子じゃないんだから」
言い合いながら歩き出し、ともかくもデートに戻ろうとした私たちだったが。
――結局、その後すぐまた戻ってくることになる。
飲み物の屋台を見つけてイリスが買いに行ってくれた、そのわずかな間を突いて、本当に誘拐されかけたためだった。
今度は連続誘拐犯だった。何人もの女児が被害に遇っていたらしい。追っていた犯人をめでたく逮捕して警邏兵たちはよろこび、ついでに四度目があるかどうかで賭をしていた。盛り上がる詰め所を私たちは微妙な気分であとにする。
「…………」
「…………」
今日って、なにしに出てきたんだっけ。
私は空を見上げる。まだ昼にもなっていないのに、この疲労感はなんだろう。
「……エナ=オラーナの治安が悪すぎるわ」
「そうでもないはず……いや、アルタに報告しておく。見直しが必要かもな」
頭をかいたイリスは、私に腕を伸ばしたかと思うと抱き上げた。アルタがよくするように、片腕一本で抱いて歩く。
「ちょっと、イリス」
細身とはいえ並外れて力持ちなのは知っている。この服の下には鎧みたいな筋肉が隠れているのだ。このくらい、イリスには大した負担ではないとわかっているけれど、私はおろしてくれるよう頼んだ。
「こうしとけば大丈夫だろ。さすがにこの状態からさらわれることはないだろうから」
「偶然も三回続けば終わるわよ。目立ちすぎて恥ずかしいからおろして」
「どうだかな。四度目があるような気がしてならないよ。しかも段々悪質化していってるし。次は何が来るかと思うと怖いから、このまま行こう。大丈夫、傍目には子供が抱っこされてるようにしか見えないよ。誰も気にしないさ」
――仮にも恋人の台詞かそれは!
私はイリスの髪をつかんでおもいきり引っ張ってやった。痛がってさわぐイリスと、おろせと抵抗する私。パトロール中の警邏兵が見とがめてやってきて、イリスが誘拐未遂の変質者に間違われるというオチで四度目になったのだった。