嵐は突然に 《3》
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夕方になる前、早めに仕事を切り上げてきたイリスと交代して、私は一の宮へ帰った。リアちゃんのお世話をしてお風呂で汗を流したら、もうぐったりだ。何をする元気もなく寝台に寝転がった。
今日は大して移動していないから、それほど疲れるはずがないんだけどね。でもとにかく暑くて、何もしていなくても体力が削られていった。いちばん暑い時間に出歩いたから、最後は頭痛がするほどだった。
基本的にローシェンは冷涼な気候で、真夏でもこれほど暑くならないものなのだが、ここしばらくは例外的な猛暑日が続いている。こっちの世界にもラニーニャ現象とかあるんだろうか。早く秋になってほしいと、切実に思う。
暑いといっても日本の夏と変わらないか、多少はましなレベルなのだけれど、なにせこちらには冷房がない。エアコンどころか扇風機もないのだから、辛さは比較にならなかった。
あー……滝のそばの東屋に行きたい。あそこなら涼しいだろうなあ。いやそれより水浴びがしたい。山の水はさぞ冷たくて気持ちいいだろう。でも水着ってこっちでは聞いたことがないな。そういう習慣はないのかな。人目のないところでなら、こっそり水浴びできないかな。
日が落ちれば風も涼しくなってくる。山の中だから夜は気持ちよく眠れる。あとちょっとの辛抱だ。
「ティトシェ様、氷水をお持ちしました。これで冷やせば、少しは楽になると思いますよ」
レイダさんが水桶を持ってきてくれた。冷蔵庫もないのにどうやって氷を用意したのかというと、山に深く掘った氷室があるのだ。もちろん貴重なもので、大量にあるわけでもないから、気軽には使えない。私が体調を崩し気味ということで、わざわざ出してきてくれたらしい。
「ありがとうございます」
冷たいジュースで喉をうるおし、氷水でしぼった布を首筋に当てる。ちょっとお行儀が悪いけれど脇の下にも。動脈やリンパを冷やすと効果があるからね。
最後に額に当てて、私はふたたび横になった。
「お食事は召し上がれそうですか? 厨房にはなるべく食べやすいものをと言ってありますが」
「……冷たいスープや果物なら、なんとか」
食欲はまったくない。昼もほとんど食べられなかった。しかし人間食べなければ生きていけない。夏バテ対策には栄養が不可欠だ。無理やりにでも何かは食べなければ。
「本当は、お肉も召し上がっていただきたいのですが」
レイダさんの言葉はもっともだ。こういう時にこそ肉の栄養素が必要なのだろう。でも無理。ただでさえ胸焼けしやすい肉をこんな時に食べても、絶対に身体が受け付けてくれない。
夏バテに効く食材って何だったかな……レバニラ炒めとかニンニクとかよく聞いたけど、どっちも食べたくないなあ。うちは夏と言えばそうめんが定番だった。薬味に生姜を入れて食べるのが私のお気に入り。あのひんやりつるっとした喉ごしがなつかしい。あと冷や奴に玉子豆腐。うんと冷やしたトマト。ヨーグルトにプリン、アイスクリーム……某店の夏期限定フレーバーが食べたい。クリームとソルベ半々でラムネチップが入ったの。あの店のメニューでいちばん好きだった。
パフェもいいよね。チョコは今ちょっと重いからフルーツパフェで。フルーツといえばゼリーもある。百貨店のびわや白桃がゴロンと入ったゼリーは絶品だったな。
それから……それから……。
――その日の夕食は、雑穀入りの冷製スープと蒸した肉を細かく裂いて混ぜたサラダに果物だった。どれも頑張って冷やしてくれていた。でも甘味が足りない。いちご練乳フラッペプリーズ。
「明日は外出を控えた方がよいのではないか?」
一緒に食事をしながらハルト様が言った。私としても、できればそうしたいところだが、できないし。
「明日も暑くなるでしょうか」
「……雨は降りそうにないな」
夏とはいえ、このところまったく雨が降らない。そろそろ渇水が心配だ。ウルワットの農地は大丈夫だろうか。
「役人たちの中にも倒れる者が続出している。一人、不幸にもそのまま亡くなったそうだ」
うわあ、それ絶対熱中症。私は熱中症の注意事項と対処法を話して、みんなに広めるようお願いした。水分補給は絶対ですよ。水だけじゃだめですよ。塩分も取らないとね。
「ニノイとルーフィには、宮殿の案内でもしてあげたらどうかしら。侍従に任せればいいわ」
ユユ母様が言う。彼女もやはり食欲がないそうで、私と同じメニューをつついていた。
「どうかしら……それであの二人が満足してくれるか疑問だし、確実に暴走して案内係を困らせそうだわ。宮殿内で馬鹿やられると困るからなあ」
今日のようすを見ていたら、いくら事前に厳重注意をしても、目の前に興味を引かれるものが現れたら一瞬で忘れて突進していくと確信する。イリスくらいしっかりリードを握れる人がいなければ、宮殿内の見学なんてさせられない。
……ああ、緑の宮見学ならいいかな。あそこ涼しいし、もっと奥まで行ったら震えるほどかも。うふふ。
「明日は飛竜隊に行きたいって言ってたし、街へも行きたがっていたから、そっちだろうな」
「あなたの体調は大丈夫? 辛いなら誰か他の者を手配するわ」
心配してくれるユユ母様に、私は笑顔でうなずいた。
「ありがとう。昼間は辛いけど、夜になったら涼しいからリセットできるわ。故郷でもこのくらいの暑さだったから、多分この島の人より慣れてるわよ。ユユ母様こそ顔色悪いけど、どうなの?」
私の食が細いのも顔色が悪いのもいつものことだ。これでそれなりに元気だから気にしなくていい。それよりも、ユユ母様がいつになく具合が悪そうな方が心配だった。
「そうね、ちょっと食欲は落ちているけれど、大丈夫よ」
私たちに心配させないようユユ母様は微笑んで言う。でもどうかなあ? 誰が見ても大丈夫じゃなさそうですよね、お父様。
ハルト様も心配そうな顔をしていた。
「しばらく仕事を控えて、休養していなさい。今は急ぎの用件もなかろう」
「あまり周りに迷惑はかけられませんわ。予定をずらせば、その分後が大変になりますもの」
「だが、そなたが倒れればもっと大変になる。その方が迷惑をかけるのではないか?」
「…………」
うんうんと私もうなずいた。どうしてもユユ母様でなきゃいけない、今でなきゃいけないって用事以外は、この際後回しにしようよ。シャール関係のお仕事は補佐の人もいるんだし、全部一人で頑張らなくてもいいじゃない。
皮肉な話だが、ひ弱な私が倒れてもいつものこととけっこうみんな冷静でいられる。普段元気な人が具合を悪くする方が心配される。どうにか完食した私の横で食べきれずに残していたユユ母様を、誰もが不安そうに見ていた。食後に女官長がハルト様に声をかけて、しばらくふたりで何か話し込んでいたのも、きっとユユ母様の体調についてだろう。
「お医者様には診てもらったの?」
「ええ、暑気あたりだろうということよ。栄養をつけて、ゆっくり休むように言われたわ」
「だったらハルト様の言うとおり、しばらくお仕事はお休みしなきゃ」
「……そうね」
体調不良と責任感のはざまでユユ母様は悩んでいるようだ。まったく、この姿勢を双子にも見習ってほしい。
一晩しっかり休んでどうにか元気回復した私は、翌日また双子のもとへ向かった。
「今日は飛竜隊だったわね」
「うん! 大兄にも昨日頼んでおいたから」
「早く行こう!」
昨日トトー君にいじめられたことはきれいに忘れて、今日も二人は元気いっぱいだ。その元気、半分ユユ母様に分けてあげて。あんたたちは半分減るくらいでちょうどいいでしょう。
「ああ、来たな。これから訓練だからお前たちも参加しないか。みんなにはもう頼んであるから。チトセは隊舎に入って休んでろよ」
飛竜隊に着くと庭に出ていたイリスが私たちを出迎えてくれた。訓練?と弟ズは首をかしげる。
「竜騎士が普段どんな訓練しているか、興味ないか? お前たちなら一緒にやりたがると思ったんだけどな。竜にも乗れるぞ」
「本当!?」
「乗れるの!?」
俄然食いつく弟たちに、イリスは笑顔でうなずいた。
「ああ、雄なら男が二人乗っても飛べるよ。聞いてみたら、かまわないって言ってくれる奴がいたから、同乗させてもらって飛行訓練も経験してみるといい」
二人は歓声を上げて喜んだ。
「やるやる! 参加させて!」
「大兄ありがとー!」
無邪気にはしゃぐ弟たちには優しい笑顔を見せ、イリスはさりげなく私にウィンクしてきた。……あ、はーん。そういうことですか。
私はお言葉に甘えて、隊舎で休ませてもらうことにした。イリスの執務室に行くと、窓から訓練場がよく見渡せる。冷たい飲み物をもらい、扇で風を作りながら、窓辺に座ってのんびり訓練風景を眺めた。
まずはランニングからか。イリスを先頭にみんなで訓練場を走っている。運動部のランニング風景を思い出すが、放課後の思い出とちがって騎士たちの走りはずいぶんなスピードだった。よくあのペースで何周も走れるなと感心していたら、次第に双子が遅れ出した。田舎育ちの元気ワンコでも、騎士たちについていくのは大変らしい。
「遅いぞ、全力で走れ!」
すでに千メートル以上走っているのにさらに全力疾走とは、私ならそのまま死ぬな。頑張れよ。
「座り込むな、休憩には早いぞ!」
どうにか走り終えてへたり込む二人に、たちまち雷が落ちた。イリスが怒鳴ると同時に騎士たちが二人を引き起こす。次は筋トレですか。いろんなメニューがあるんだね。ああやってあの筋肉を作り出していくわけか。私にはとてもできそうにないメニューをひょいひょいこなしている騎士達は、みんな超人にしか見えない。あそこは異次元空間だ。
私よりはよほど鍛えて元気な二人でも、ハードなトレーニングを騎士たちに遅れずこなすのは厳しそうだった。ひーひー言っているのがここからでもわかる。彼らが脱落しそうになると、すかさずイリスの叱責が飛んだ。そして周りの騎士が無理やり追い立てる。何か言ってるな。多分文句か泣き言だろうけれど、誰も聞いてやる気はなさそうだ。容赦なくしごかれている。
飛竜騎士たちも昨日の地竜騎士同様、面白がっているようだ。兄のイリスが先頭に立ってしごいているので、遠慮はいらないとばかりに二人の尻を叩く。ずんぶん長い時間をかけて筋トレをした後、しばし休憩になった。
騎士たちが水分補給しながら平然と立ったまま休憩している中、二人は地面に伸びてぜいぜいとあえいでいた。
「いつまで寝てる。本番始めるぞ」
時間にして十分くらいだろうか。短い休憩の後、大きな桶の水が二人の上にぶちまけられた。無理やり引き起こされたルーフィが悲鳴のように叫んだ。
「本番って、じゃあ今までのは何!?」
「何って、準備運動に決まってんだろうが。いきなり動くと怪我の元だからな。本番前にしっかりほぐしとかねえと」
「お待ちかねの剣術訓練だぜ、うれしいだろ? そら立った立った」
全身から水をしたたらせながら、二人は立たされた。あれむしろ気持ちよさそうだな。やっぱり水浴びしたいなあ。
その後の剣術訓練は、見ていて退屈だった。私基本的に武術とかスポーツとか興味ないからね。野太い声が響く汗くさそうな訓練風景を見ていても、何も楽しめない。双子がさらにしごかれて悲鳴を上げっぱなしとか、もう飽きたし。
しまいにうたた寝して、目が覚めた時には訓練は終了していた。
「退屈なら先に帰ってるか? こいつらは後で僕が送っていくよ。午後からもいろいろやるからな」
外へ出ると、瀕死の弟たちを足元に転がして、イリスが私に言ってきた。信じられないという悲痛なまなざしが彼を見上げる。
「大兄の嘘つき……竜に乗せてくれるって言ったくせに」
「午後とかもういいよ……これ以上何もできない……」
声もずいぶん弱ってるな。私はちょっと首をかしげた。
「これ以上しごいたら危なくない? この炎天下だもの、無理のしすぎは危険だわ」
しっかり水分と塩分補給させて、休ませときなさいよ。冗談じゃなく死にかねないよ。
「まあ、これで終わりにしてもいいけど。午後から飛ぶのになあ。もうへばるようなことはしないのになあ」
「う……」
「……ほ、本当に……?」
期待半分疑い半分の視線にイリスはうなずく。水場で上半身裸になっている部下たちを、親指で示した。
「ああ、お前たちも汗を流してこい。暑いから訓練は午前だけだ。昼食を済ませたら各班ごとに別れて、見回りや座学をやるんだよ。どれでも好きなのに参加すればいい。なんなら、昼寝してもいいぞ」
それまでとは反対の優しい言葉に、双子の顔が輝いた。生気を取り戻した彼らは立ち上がり、ふらつきながら水場へ向かった。
「たっぷり疲れさせとけば、勝手に走り回ることもなくなるさ。今日は大人しくしてるだろうから大丈夫だよ、先に帰っていい。暑いのに出歩かせて悪かったな」
いたずらっぽく言うイリスに、私は笑ってしまった。
「さすがお兄ちゃんね、対処法は心得てるってわけ」
「あいつらの後を追いかけて叱って回るのは、疲れるからな」
苦笑したあと、イリスは身をかがめて私の顔をのぞき込んだ。
「やっぱり、君に世話役を頼んだのはまずかったな。明日からも何か方法考えるから、君はもういいよ。無理させて本当にすまなかった」
はて、なんだろう。私はまた首をかしげた。
「別に、明日もかまわないけど。今日イリスが引き受けてくれたから、おかげでのんびりできるわ」
「いつにも増して顔が白いぞ。具合が悪いんじゃないのか」
そんなにひどい顔色かな。鏡がないのでわからない。私は自分の頬をなでた。
「今のところは、別に……」
「暑気あたりであんまり食べてないんだろ? 辛いのはわかるが、身体がもたないぞ。頑張って食べないと」
「食べてるわよ」
言われなくても、食べなきゃだめだというのはわかっている。できるだけ頑張っているのに。
昨日や今朝の食事内容を聞かれて答えたら、イリスは渋い顔になった。
「暑いからって冷たいものばかり食べていたんじゃ、身体が冷えてよけいに調子を崩すぞ。熱いもの食べて汗をかくくらいがいいんだ」
「そんなの、喉を通らない」
「頑張れって。……昼飯、ここで食べてくか?」
嫌だ。私はぶんぶんと首を振った。
「汗くさい男どもと一緒じゃなけなしの食欲も吹っ飛ぶわ。吐き気がしそう。いえ吐く。絶対吐く」
「……そこまで言ってくれるなよ」
イリスはがくりと肩を落とした。
「じゃあ別室に用意するから」
「いらない。どうせ味の濃い煮込みや肉料理なんでしょう? そんなの今食べられるわけないじゃない」
無理やり騎士団飯を食べさせられてはかなわない。私はくるりと背中を向けた。
「待て待て、馬車は帰したんだろう? 送ってやるから」
「汗くさいから結構です。イリスこそ、さっさと身体洗ってきなさいよ」
「ああわかった、急いで着替えてくるから。とにかく待ってろって」
私を引き止めてイリスは水場へ走って行く。私はため息をついて、少しでも涼しそうな日陰へ向かった。
たしかに全身がだるい。頭もちょっと痛いな。本当に、いつまでこの暑さが続くんだろう。ユユ母様と一緒にどこか涼しい建物にしばらく移住しようかな。滝のそばで寝起きできそうな建物あったっけ。
汗を拭きながら歩いていると、くらりときた。やばい。足を止めてその場で呼吸を整える。
あー、気持ち悪い。貧血起こしそう。
そろそろと歩いて日陰までたどりつき、しゃがみ込んだ。真剣にエアコンがほしい。冬の寒さは重ね着や暖炉の火でしのげるけど、夏の暑さはどうにもできない。本当に日本での暮らしは恵まれていたなあ。
「チトセ!」
うずくまったまま休んでいると、新しいシャツをひっかけながらイリスが走ってきた。後ろにニノイとルーフィもくっついていた。騎士たちもこちらを見ていて、何人か近寄ってくる人もいる。
「大丈夫か」
私のそばで膝をついて、イリスが抱き起こそうとした。髪から水滴がしたたっている。前を開いたままのシャツの下も濡れていた。
「……ちゃんと、拭いてきなさいよ」
「君が倒れてるからあわてて来たんだよ」
私はゆっくり立ち上がった。
「倒れそうだから休んでいただけ。大丈夫よ」
貧血には慣れているから、危ないなっていうのがすぐわかるんだよ。倒れる前に休むようにしている。今ので気分は落ち着いた。もう心配ない。
「全然大丈夫そうに見えないけどな。死人みたいな顔してるよ」
「ティトシェって本当に身体弱いよね。大兄と結婚しても子供産めないんじゃない?」
多分彼らなりに心配してくれているのだろうが、双子の言葉はけっこう失礼だった。特にニノイ、よけいなお世話だ。不妊で悩む人が聞いたら傷つく言葉だぞ、それは。
私を支える腕は離さないまま、イリスが彼らをじろりとにらんだ。
「お前たちのわがままのせいで無理させてるんだ。どの口が言う」
「ご、ごめん」
「えー無理って……いや、ごめんなさい」
長兄を怒らせるのは怖いようで、たちまち二人は小さくなった。
「隊長、そんなとこでもめてないで、姫さん中へ入れてやれよ。そのまま帰らせるより休んでった方がいいだろ」
ジェイドさんが声をかけてくる。そうだなとうなずいたイリスは、私をふたたび隊舎へ入らせた。
応接間の長椅子で寝させてもらっていると、しばらくしてイリスがお盆を持ってやってきた。
「昼食だ。精がつくぞ」
「いらないって言ったのに」
テーブルに置かれたお盆を見れば、予想どおりの煮込み料理や肉料理、熱いスープまで乗っていた。ああもう、やっぱりこうなるか。断ってさっさと帰ればよかった。
「無理だって」
拒否する私に、イリスはにっこりと微笑んだ。きれいな笑顔がやけに迫力に満ちている。
「無理でも食べろ。食べないなら口をこじ開けてでも突っ込むぞ。無駄に苦しい思いをしたくなければ、自分で食べるんだ」
そんなあ。
泣きそうな顔で見上げてもイリスはびくともしない。こういう時って、絶対に許してくれないんだよね。わかってたよ。
私はため息をついて、ちびちびと食べ始めた。口当たりがいいとはとても言えない。肉は固いし煮込みはこってりしてるし。熱いものばかりで汗が吹き出してくる。せめて冷たいお茶がほしいよう。
「お茶をがぶ飲みしてたら腹がふくれるだろ。今はこっちだ」
そう言って出されたのは熱いお茶だった。もー、そこまで徹底しなくても。
イリスがずっと横でにらみを利かせているので、食べるしかない。本気で泣きそうになりながら、私はどうにか用意されたものを食べ終えた。重いお腹をさすってぐったりしていると、ようやく冷たいお茶をグラスに半分だけもらえた。
「チトセは身体を冷やしすぎなんだよ。よけいに調子を崩すって言っただろ。冷たいものは口を落ち着ける程度にしておけ」
「汗だくで気持ち悪い……」
「いいことだ。汗をかけば身体の中の悪いものが出ていく。蒸し風呂に入るともっといいんだけどな」
「さすがにそれは、目を回しそうだわ」
普通のお風呂なら大好きだから。一の宮に帰ったらさっそく入るので、サウナは勘弁してほしい。
最悪な気分で済ませた昼食だったが、意外としつこく胃もたれしなかった。むしろ少し身体がしゃんとした気がする。イリスの言うとおり、熱いものを食べた方がいいのかも。
……でも、食べにくいんだよねえ。
悩ましい気分でイリスに送られて、私は帰宅した。二の宮でイシュちゃんから降りて、あとは歩いて一の宮へ上がる。玄関に踏み込むと、どこか落ち着かない雰囲気に気付いた。
「何かあったんですか?」
通りがかった女官をつかまえて尋ねる。
「まあ、もうお帰りですか。まさか、ティトシェ様もお加減が?」
そばにイリスが付き添っているのを見て、彼女は顔を曇らせた。
「ああ、少し貧血を起こしてな。休ませたし食事もさせたから大丈夫だと思うが、念のためにようすを見てやってほしい」
「承知いたしました」
「私はもう大丈夫よ。それより、今私『も』って言いましたよね? 他に誰か具合の悪い人が? まさか……」
イリスを押し退けて私は質問を重ねた。嫌なことを想像してしまう。女官はためらいがちにうなずいて、ユユ母様が倒れたと教えてくれた。
私は急ぎ公王夫妻の寝室へ走った。
「お帰りなさいませ。公妃様はお休みになったところですので、どうかお静かに。お見舞いはのちほどになさってくださいませ」
中へ入る前に、いつもどおりの厳しい顔をした女官長に止められた。
「ユユ母様の具合は? 大丈夫なんですか」
「ご心配には及びません。すでに医師の診察も済みました」
「どこが悪いんですか? ただの暑気あたりじゃなかったの?」
不安になって詰め寄る私を、追いかけてきたイリスが引き止めた。
「チトセ、騒ぐんじゃない。ご病気なのか?」
うろたえる私をなだめて、女官長にも問いかける。珍しく少し迷うようすで、女官長は言葉をにごした。
「……お話しておいた方がよいですね。こちらへ」
私たちをうながして、彼女は廊下を歩き出す。ユユ母様のことも気になってその場で迷っていたらイリスに背中を押され、私は女官長についていった。ひとまず別室へ入り、女官長は口を開いた。
「まだ公表するには早いので、この話は内密にお願いいたします。実は、公妃様にご懐妊の兆候が見られるのです」
――ゴカイニン?
なじみのない言葉に、とっさに頭がついていかなかった。数秒かけて、言葉の意味を思い出す。
「……えっ」
ゴカイニン。ご懐妊。……妊。
――赤ちゃんができた!?
「ええっ!?」
「本当に? それはおめでたい!」
驚く私と喜ぶイリスに、女官長はすぐさま釘を刺した。
「おそらく間違いないとは思われますが、まだ確定ではございません。それに、場合によっては残念な結果になることもありえます。ですから、どうかご内密に」
こみあげかけた喜びが、一気に不安に塗り替えられた。
「流産の危険があるんですか?」
女官長は私に落ち着くよう言った。
「そういう可能性もあるという話です。注意は必要ですが、今現在危険な状態というわけではございません。あわてなくて大丈夫です」
「でも倒れたって……」
「それはよくあることですよ」
あまりに私が動揺しているからだろうか。珍しく女官長は苦笑した。
「今は気候が厳しいですしね。暑さも重なってご気分を悪くされたのです。静かにお休みいただけば、心配ございません」
「お医者様もそう言ってらっしゃるんですか?」
「ええ。ですから、あまり騒がれませんように。くり返しますが、確定ではないことですし、はっきりしても公表するのはもっと後です。今はご内密にお願いいたします」
私はうなずいた。イリスも横でわかったと答えた。
「ティトシェ様は、まずご自身のご体調を整える方が先です。このような時に陛下や公妃様にご心配をおかけしないよう、もっとしっかりお食事をなさってくださいませ」
おう。やっぱり言われたか。
イリスが少し笑った。
「そうだな、女官長の言うとおりだ。さっきあれだけ食べられたんだから、頑張れるだろ? わがまま言ってないで、しっかり食べて体力取り戻せ」
頭に置かれた手がくしゃくしゃと髪をかき回す。そうしながらイリスは女官長に、騎士団で食べさせたものについて話していた。食べやすいからと冷たいものばかり出さないで、どんどん熱いものを食べさせろと言う。女官長はうなずき、さっそく料理長に伝えると約束していた。……うう、毎食汗まみれか。
げんなりしたが、たしかに今私が倒れたりしていられない。ユユ母様はきっと自分の体調そっちのけで心配してくるだろうし、ハルト様は二人分心配しなければならない。そんなことになってはいけないので、頑張ろうと自分をはげました。
その夜、私とハルト様とユユ母様の三人だけで、こっそりお祝いした。特別なごちそうも贈り物も何もなく、ただこの幸せを喜び合う。
「まだ確定ではないということですが……」
もし間違いだったらとユユ母様は気にしていた。
「大丈夫、女官長だってあやふやな状況ならあそこまではっきり言わないわ。あれは内心確信してるわよ」
「そうかしら」
「どちらでもよい。もし違ったとしても、いつかは現実になる話だ。少し早くに祝ったと思えばよいではないか」
ハルト様がいちばん落ち着いていた。ちょっと意外。赤ちゃんができたと聞いても、舞い上がったりしないのかな。ハルト様なら大喜びして浮かれそうだと思っていたのに。
「そなたたちが元気でいてくれれば十分だ。もう食欲は戻ったのか?」
「少し……イリスが注意していったそうですわ。冷たいものばかりではいけないと」
「さっそく熱いものばっか出たよね」
私たちは顔を見合わせて苦笑し合う。騎士たちが元気なのは食事に秘密ありと、料理長は取材を始めたそうだ。量と栄養最優先、次点が味といういたって大雑把なごった煮を、プライドの高い宮廷料理人が受け入れられるのかな。アレンジ頑張るんだろうか。
「よいことだ。しっかり食べて精をつけなさい。何事も健康があってこそだからな」
ハルト様はまったくいつもどおりに私たちを諭し、あとは泰然としていた。さすがの貫祿だと思っておこう。食事中にカトラリーを間違えて使っていたり、パンになぜかソースをかけていたりしたのも、浮かれたせいではないんですよね。そういうことにしておきましょう。ユユ母様にプレッシャーかけたくないんだよね。了解です。
「もし、本当に子ができていたなら、ティトの弟か妹ね。可愛がってあげてね」
はにかみながらユユ母様は言った。弟か妹……そうか、そうなるのか。うれしいような照れくさいような、ちょっと気後れするような、複雑な気分だ。本物の王子様や王女様相手に姉さん面してもいいのかな。でも赤ちゃんは楽しみだ。弟が生まれた時私もまだ赤ちゃんだったから、記憶もないしお世話をしたこともない。今度は抱っことかできるかな。早く会いたいな。
ハルト様には聞かれないよう、もうひとつユユ母様はこっそり耳打ちしてきた。
「体調が落ち着いたら、一緒にお墓参りしない? ソーニャ妃様とリオン殿下に、ご報告をしてきたいの。あなたも一緒に行ってくれるとうれしいわ」
亡くなられた前のお妃様と王子様のお墓に、ユユ母様は時折一人でお参りしているらしい。私も一度はご挨拶に行こう。新しく生まれる命をお守りくださいって、お願いしてこよう。
はた迷惑な嵐が来た後には、うれしい嵐が飛び込んできた。穏やかな日々と言いながら、毎日いろいろ起きて退屈しない。
そして翌日、待望の雨が降った。久々の恵みに、山の緑も喜んでいるようだった。




